| 第1回 ちょっとイントロってみたんスけど | 第6回 みゆき1978 |
| 第2回 東京思い出がたり 千代田区、御茶ノ水界隈篇 | 第7回 バカが全裸でやって来る |
| 第3回 知る人ぞ汁の製作について、その他 | 第8回 ケン・ヤマーダ師の託宣 |
| 第4回 ホーリー・ナイトはひとりで酎を | 第9回 ロックンロール・キャミソール |
| 第5回 だって美味しいん「駄」もの | 第10回 無常の雨ふる四十路しのばず |
第1回 ちょっとイントロってみたんスけど
何事においても、出遅れるヤツがいる。
自販機で並ぶとき。改札を通るとき。ラーメン屋で注文するとき。
いつも、「あっ」と思うと、一瞬のスキをついて、他の人に先を越される。
先日もだ。行列で有名な、武蔵小金井のカレー屋「プーさん」にて。折り悪しくも雨、というか、「こんな雨の中、並んでまでカレー食うヤツもおるまい」とタカをくくりつつ店の前に急いだんだ。案の上、誰も並んでない。シメシメだぜ……。
でも「あっ」、やられた。二人のオヤジと、若いがブサイクなカップルに、店に到達する直前、並ばれてしまったよ。
ということで、順番がめぐってくるまで、5人目。まあよい。この人数なら。それほど待たんでも。
しかし、このあと、20数分、食い終わって店から出てくる客、ひとりもおらなんだのさ。
傘さしたまま、手ぇダリいし、腹は減るし、いいやもう帰ろうと思ってると、店の女の子が伝票片手に現れ、「お先にご注文お伺いしま~す」と来てしまうんだなあ。で、空腹のあまり野菜カレー辛口大盛りを頼んでしまうんだなあ。
で、待ちこがれた末に、やっと、やっと順番来て、座って、カレー運ばれて、食べはじめた途端、店内みるみるガラガラと空いていく。
オイラは、そういうオトコだ。
いろいろと出遅れてばかり。来年でとうとう40になる。
一人暮らし歴14年。
まわりの同年代の方々、もうすでに立派に離婚したり出産したりされている。
みんな、どこ行ってしまったの?
それなのに、オイラの生活、25のときと変わってねえ。
包丁だって、使い続けて赤錆だらけ。
そのとき買ったTシャツ、いまだに現役。さすがにヨレたけど。
ほんと、スグだね、14~5年なんて。
つい、このあいだ、生涯で初めて、鍋・皿・お布団そろえて銭湯通い始めたぜって思ってたのに。
考えてみりゃ、もう14~5年くらいたちゃあ、闘病が始まるでしょ。
そいで、もう10年くらいすると、死去でしょ。
これじゃ短けぇよ、あまりにも、人生。やばくな~い? ねえ、やばくな~い?
オイラ、そういう、折り返し地点のオトコだ。
今日の朝飯は、「にぼしラーメンたけちゃん」だった。
やはり、朝飯はインスタントに限る。早いし、ドンブリを洗わなくていい。
たとえば、サッポロラーメン「あっぱれ亭」を、朝飯にしたときのことだ。
「乾燥具材」と「調理済み具材」をカップに入れたのはいいものの、「特製すりゴマパウダー」を入れ忘れた。食べ終わって、その薬味がキッチンに手つかずで残っているのを知り、呆然とした。
この、「特製すりゴマ」を、もし投入していたら、相当、風味に変化が見られただろうと思う。
ただちに、次の日、ふたたび「あっぱれ亭」を購入した。今度こそ、「すりゴマ」入れるぜ、の気概とともに。
でも、まったく同じラーメンを、2日続けて食べるのは、さすがにイヤだったねえ。
今日の朝食を「にぼしラーメンたけちゃん」にしたのは、このラーメンが、「あっぱれ亭」の味からかけ離れていそうだったからだ。
なので、「あっぱれ亭」を食うのは、来週まで待とう。それまで、「あっぱれ亭」に手出しはしない。戸棚にしまっておくよ。
「特製すりゴマ」は、後日、オクラや納豆といっしょに撹拌され、無事消費されました。
オイラは、そういうオトコだ。よろしくな。
このあいだ、24時間スーパーをあてどなく回遊していて、冷凍乾燥の小松菜を発見したのね。
フリーズドライじゃなくて、もうすこしナマナマしてる。色具合もそこそこ新鮮グリーン。
でも、アサツキとかの乾燥モノならまだわかるんだけど、小松菜とかほうれん草とか春菊とかのは、やっぱりちょっと抵抗あるね。でも買っちゃった。食べちゃった。オイラ、基本的に料理は「加熱」どまりなら自分でできるんで、モノホンの小松菜おひたし製造してもいいんだけど。あれ、かさばって鍋からあふれかえっちゃうんだよね。まな板で切らなきゃなんないし。泥ついてるし。いちいち絞るのも面倒だし。しかし冷凍乾燥のこの小松菜なら、お湯にパラリとたらすだけ。気合い入らない感じでうしろめたいんだけど、若干チョーホーしちゃったな。
まあ、そういうわけで、これから何回か、オイラのどえらく情けないシングルライフから、このようにドラマティックな名場面の数々を厳選して、書いていこうと思ってる。なにせ14年分のネタがあるからねー、どれからいこうか迷ってる。とりあえず第1回目の今回は、オイラの軽い自己紹介にとどめてみた、というワケ。
「40代独身オヤジのボヤキ節につきあわされるほど、悪趣味じゃねえぜ。薄汚ぇったらありゃしねえ」
いや~、ま、そう言わないでよ。たしかにかなり薄汚いんだけどね。
第2回 東京思い出がたり 千代田区、御茶ノ水界隈篇
土曜日。朝、7時。目が覚めて、レモン風味のチューハイを飲むオイラ。
うめえ。目覚めの一杯は、こたえられねえ。
腹が減ってるな。ポテチを食べよう。
チューハイが終わったな。今度は「博多子女郎」を水割りで飲もう。
こいつぁ、うめえ。おお、酔いが回ってきたな。
音楽を聴こう。ピンクフロイド『あなたがここにいてほしい』。
酔っぱらったときには、やっぱ、コレよ。
初めて聴いたガキの頃にゃ、わかんなかったけど。
なんか、オヤジになってみると、やたら沁みるんだよねえ、このアルバムが。
ギルモアのチョー長いギターソロに合わせて、身をよじらせ、腹の肉を波立たせる。
オイラの休日の始まりだ。
「リメンバー、ホエン、ユー、ワー、ヤング……」
曲が始まって10分くらい経つと、ロジャー・ウォーターズが歌い出す。
「You shone like the sun...」
ああ、回顧的な気分になってくるなあ。
オイラの若い頃のこと? 聞きたいかい? ちょっと、思い出してみましょうか……。
1975、6年。このアルバムが出たとき、オイラ、まだ中坊だったよなあ。
学校イヤだったなあ。まあいいや。
御茶ノ水のディスクユニオン。当時は画材屋「LEMON」と同居していた。丸善のビルで。
今、吉牛がある建物の隣だわな。
画材屋を、ケント紙やインクの匂いをかぎながら通り抜けると、LPレコードが暗がりの中にどっさり。
ガキの心はおののく。「おおっ、こんなレコード、ウチの近所じゃ見つかんねえよ!」
キング・クリムゾン? なんか怖ぇよ。
おそるおそる、棚から引っぱり出してみる。おお、「輸入盤」? 1980円? なんでこんな半端な値段なんだ? でも、安いじゃん。
エマーソン・レイク・アンド・パーマー? 名前長ぇよ。
おもしれえのかなあ、いいのかなあ。なにから聴いたらいいか、さっぱりわかんねえなあ。
さて、当時、ディスクユニオンでは、値札に、値段以外に「推薦盤」というハンコをおしていた。
どうしたらいいのか分からないオイラは、その「推薦盤」の印を頼りに、レコードコレクションをすることに決定した。
フロイドだったら、『狂気』、クリムゾンなら『太陽と戦慄』、イエスなら『危機』。
いま思えば、「推薦盤」とは、すなわち「ロック・ファン必携アイテム」のことであったのだ。
しかし、なんでプログレばっかりなのかな?
ガキのオイラは、実をいうと、シンセサイザーのノイズに脳髄をやられていたのである。
そして、クラフトワークより、タンジェリン・ドリームの方が好きだった。
『アナザー・グリーン・ワールド』を発表したばかりのブライアン・イーノは神であった。
まあ、そういうガキだったワケよ。
三省堂、御茶ノ水本店の隣、いまは「呂古書房」とかいう古書店になってるけど、あそこに「CISCO」っていう輸入レコードの専門店があってねえ。
そこでもクリムゾンを買ったんだ。たしか、アメリカでのライヴ・アルバムだったと思う。
カネ払って、店を出ようとすると、店内にいた、そうねえ20代後半ぐらいのお兄ちゃんたちが、
「おい、あんな子供に、クリムゾン分かるのかよ」
「ローラーズとかキッスとか、聴いてりゃいいんだよ」
そういうコトバを、オイラの背中に、聞こえよがしに投げつける。
オイラは階段を降りながら泣いたね。ものすごく悔しくて。
「バッキャロー、ロックに、分かるも分からねえもねえよ。ガキだと思って、コケにしやがって」
しかし実際、オイラはまだ立派な、13歳のガキだった……。
全然関係ないハナシをひとつ。
1976年のその日、書泉ブックマートで立ち読みし、涙を乾かしたオイラは、帰宅するため靖国通りを千代田線・新御茶の水駅をめざして歩いた。
とある額縁屋の前を通りかかると、店の前に置かれた箱の中でイヌが眠っている。
白く塗られたその箱には「さわるのきらい」と大書されていた。
その10年後、この界隈でオイラはシューショクすることになった。
靖国通りを、まったく同じルートでオイラは通勤した。
そのイヌはやっぱり眠っていた。「さわるのきらい」の箱の中で。
それからもう、15年が経った。あのイヌは、いつ死んだんだろう。
この街に巨大なスポーツ用品屋が増え、全館カラオケのビルが次々にできあがるほど、額縁屋は矮小に見え、そのイヌの衰弱はすすんでいっていた。
レコード屋「CISCO」なんて、とっくに消えてしまっている。
いわゆる、「神田村」の面影はもうない。
喫茶酒房「ラドリオ」の優しいおばちゃんたちは、みんな若いお姉ちゃんに交代してしまった。
あと10年して、この街はどうなるんだろう。
そのころもオイラは、ひとり朝酒をくらい、『あなたがここにいてほしい』を聴くのだろうか。
第3回 知る人ぞ汁の製作について、その他
深更。
オイラは昆布(日高)を熱湯にぶちこむ。
ぶちこめぶちこめ、わはははは。惜しげもなく3枚!
そしてみりんをたらす。
タラッー。
しょう油だ。そしてカツオだし。
う~む塩味がたりん。
アラ塩は赤穂の逸品だ(と思ったら、「瀬戸のほんじお」だった)。
ラストだ。コレが隠し味。
二階堂焼酎の一升瓶をかたむけ、わずかに数滴。
沸騰させぬよう、右手に二階堂、左手にガス調節のツマミ。
ヂリヂリとしてきました。
完成だ。
オイラの夜の空腹を癒すスープ。
名付けて「わりかしうめえ汁」。
こいつぁ、うめえ。
日曜日。午後3時。定食屋「ロンドン」でメシを食っている。
オイラは炊飯器を持っていない。電子レンジもない。だから定食屋でメシを食う。
ココのお客さんは、たいてい近所の職工さんである。
今日もグリーンの作業着を着たおっちゃんが二人いる。
両者とも、目玉焼きを注文している。
目玉焼きが来るまえに、ビールで一杯。
おお、まだ昼なのに、いいのかい? オイラは、することがないから、呑んでるけども。
「うぇあ~っ、今日はやく終わってよかったぁぁ~」なるほど、もう仕事はあがったらしい。
安心して、呑んでくれたまい。
そのうち、おっちゃんの一人が、競馬のハナシを始めた。
カウンターの向こうで調理をしているおばあさんが、水を向ける。
「また最近、競馬やってんの?」
「ええ~? やんないよう、おれ、ギャンブル全然しねえもの」
ビールがまわってきたらしい、もう一人のおっちゃんが語る。
「あいつぁよお、こないだ宝くじで700万あたったんだよぅ、そいでカブキチョーで使いまくったらしいんだあ。こないだばったり会ったんだよ駅ンとこで、朝っぱらから呑んでやがってよ、「でぇへへー、朝帰り」なんかぬかしやがって、オンナに金ばらまいてきてよ、そんでモテてると思ってっからオカシイよ」
実にうらやましい、とオイラは思った。
お、キリンももうオツモリだ。飲み干して、帰ろう。
アジの塩焼き、でかかったー。
思えば、いろんな定食屋のお世話になった。
たとえば、京王線、明大前「相州屋」のサバ塩/ニラ玉は、たぶん80食分ぐらいずつ食った。
1990年から、1993年ぐらいの、3年間の間に。
ここは夫婦でいまでもやっている。ふたりきりで切り盛り。
いつも亭主が、調理場から女房を怒鳴りつけている。女房は怒鳴り続けられているために、無感覚になっているのか、べつに卑屈にもならずにモクモクと、メシを運んでいる。
客は悲しくなったり、「もっと言い方があるだろうに」と思ったりしながら、しんみりメシを食う。
それでも、最近、店を改装したぐらいだから、繁昌してはいるんだろう。
土地柄、明大のセーガクがほとんどだ。
オイラみたいなオヤジは、ちょっと周囲から浮いてしまう。
でも、ひさしぶりに訪れて、かつてお世話になったニラ玉を食ってみた。
炒めたニラ玉ではない。薄めの出し汁で、煮てあるのである。あぶらげも、入っている。
オイラの20代は、この店で終わったんだったなあ。
あのころは、自分に未来があるなんて、意識もしなかった。
つまり、40の自分なんて、存在しないと思ってた。
デイトリッパーであったなあ。
ただ、毎週ここの夫婦を見ていて、「結婚て、イヤーなものなんだなあ」と痛感したりしたことよのう。
めっきり、冷え込みがきつくなってきた、ある日の朝。
前述の「わりかしうめえ汁」を新たに改訂した。
カップラーメンの残り汁を加え、一味唐辛子を投入したのだ。
さらに、新座市野火止にあるらしい、「ぜんや」というラーメン屋の汁をコピーしたものも投入した。
ますます、濃厚にうまくなった。
今夜はこれに「とろろこんぶ」を浸し、ツマミとしよう。
しあわせだなあ。
第4回 ホーリー・ナイトはひとりで酎を
クリスマスだ。
酒を呑もう。
どこで呑むか。まず頭に浮かんだのは、吉野家だ。
牛皿で、日本酒を呑むのだ。
クリスマス・イヴ、40にならんとするオトコが、たった独り、吉牛で酒をやる。
こりゃあ、いけるね。
オイラは、とある街角で、その辺に吉牛はないかと視線を泳がせた。
しかし、どうしたことだろう。こういう時に限って、あの「オレンジ色の肉い奴」が見当たらない。
しょうがないなー。
何百メートルも歩いただろうか。いっこうに吉牛に行き当たらない。
気勢が削がれてきた。これはいかん。
せっかくのイヴが、台無しになってしまう。
そこでオイラは、考えた。
こういうときは、「南千住」だ。「南千住」へ行こう。
オイラは日比谷線に乗り込んだ。
南千住、この駅はいつでも、なんか臭い。
それがまた、いい。
オイラが入り込んだのは、「大坪屋」。
ここの酎ハイがいいんだ。
おお、引き戸を開ければ、そこはもう、酒焼けしたオヤジたちの世界。
ここは泪橋が近いのだ。赤茶けた顔をほころばせてみんな呑んでいる。
当然、20代なんていません。
おでんはどれでも3品200円。しかし、オイラがまずここで頼むのは、ニンニクのしょうゆ漬けだ。
ここのウリはどぜうの丸を煮込んだものである。「柳川」もある。
ただちに、どぜうをいこう。マスターを呼び、「丸ね」。
マスターが厨房にオイラの注文を伝える。しかしどうだ。
無情にも、「ごめんねえ、まだ今日、どじょう潰してないんだってさ」。
えええーそおなのおー。
今年のイヴはついていない。牛にも、どじょうにも見放された。
どうしよう。ここは千住・・・そうだ! どうせならハシゴだ。
南から、北の千住に移動しよう。どうせたった、ひと駅の距離だ。
景気付けにもう一杯。今度は焼酎の「中身」150円にレモン(50円)を添えて(この店では、レモンを絞って、汁を小さなグラスに入れて出してくれる。「ただいま絞りたて」の証拠に、レモンの殻もついでに置いていく。)。たこぶつの酢〆を追加し、お勘定は、しめて970円であった。
「ありゃあとあんした~」
南千住には、銭湯「草津湯」もあるんだなー。でも、今宵はやめておく。
オイラが「大坪屋」を後にして、JR常磐線の客となり、北千住に到着したのは20時30分であった。
これから目指す「大はし」は、この頃合だといつも最盛況となり、時には座れないこともある。
ひょっとしてダメかな、と内心では再三見放されるのではないかと、怖れていた。
大通り商店街のアーケードを抜け、さらに別の商店街へと道をまがる。
西新井大師行きのバス、竹の塚行きのバスなどが走っている。足立区だなあ。
ケーキ屋の店先で、一般大衆が列を作っている。オイラには無縁の光景だ。
オイラは高校3年の頃、進学塾「城北スクール」の北千住校に通っていた。1981年のことだ。
そのときは、駅舎はまだ「ルミネ」になっていなかったし、まして「TSUTAYA」はなかった。
この街の風景は変った。そして、いままた、再開発の渦中にある。一度は入ろうと思っていた駅前の悲しみ甘味屋や悲しみ中華屋はその面影もない。
また、「昭和」の残像が消えていくのだなあ、と感慨にふけりつつ、オイラは「大はし」の引き戸を開けた。
空いている。
そうか……さしもの「大はし」も、イヴの夜はこうなのか……。
安心したような、拍子抜けしたような。それでもオイラは、店のおやじさんに「梅割り焼酎」を頼む。
電光石火の早ワザにて、オイラの眼前に受け皿が置かれ、酎のグラスがのせられ、酎が注がれ、梅エキスが流し込まれる。
この間、わずか5秒たらず。いつもながら見事な手さばきだ。
実はオイラ、このおやじさんに心酔している。いまは詳しく述べるのはさけるが、このひとの注文の聞き方、配膳の仕方、お勘定の際のソロバンさばき、どれをとっても「見事だ」としかいいようがない。以前、オイラは勤め先のHPに、おやじさんの一連の動きをまるで「舞い」のようだ、と書いたことがある。すべては「ういやっ、ういやっ」のかけ声と、きびきびした四肢の動き、そして苦みばしった笑顔とともに行われる。
続いて「煮込み豆腐」を注文。梅割りとコレ。この2アイテムが目の前にならべば、もう無敵だ。
矢でもテッポーでも、ディズニー・シーでも、かかってこい、という高揚感だ。
ここは旬のツマミがうめえんだよなあ、よ~し、「富山産の白海老の刺身」もいっちゃおう。こないだは「白子ポン酢」に魂をとろかしたっけなあ。
さらに酎を2杯。都合3杯で、あー良い塩梅だ。やっぱりイヴはこうでなくちゃ。
それにしても、北千住。日光街道にぶつかるまでの、大通りアーケードには、高校時代以来、いろいろと想ひ出ぽろぽろである。
その中でも最大の記憶、忘れがたさNo.1は、同じ城北スクールに通っていた「早川さん」である。
「早川さん」は、荒川区三ノ輪のお医者さんのひとり娘で、オイラと同い年だった。
ちょっとニキビ顔で、愛嬌のあるクリンとした目をしていて、おかっぱ頭で品の良い制服に身をつつんでいた。
ちょっとウサギ入ってたな、口元の当たりが。
華奢な体格だったが、たしか陸上部だったか。
「早川さん」の通ってた学校の学祭にも、行ったっけなあ。薬剤師になりたいって語っておった。
そう、よく、この道を二人で歩いて、駅まで帰ったんだよ。
彼女は日比谷線に、オイラは千代田線に乗るのだったよ。
オイラは男子校だったから、この地球上で唯一、言葉をかわし、笑いあえる女の子だった。
そんなことを思い出しながら日光街道を歩いていたら、不覚にも「城北スクール」の真ん前に着いてしまった。
オイラ、なんか泣けてきちまった。
やばい、合計5杯の酎で、けっこう酔っぱらったみたいだ。
もう20年前のハナシだよ……。いまさらナニよ。
オヤジになると、変に涙もろくなっていや~ん。
その頃よく聴いた、ケイト・ブッシュのサードアルバムを頭の中で鳴らしながら、オイラは中央線に乗り換え、一人の部屋へ戻っていった。最高のイヴであった。
「早川さん」は、いまごろ、どうしているのかのう……。
第5回 だって美味しいん「駄」もの
オイラは夜は中央線あたりにいることが多いが、昼間のあいだは、この16~7年ほどというもの、なんとなく神保町あたりで過ごしている。
神保町あたりには、蕎麦屋がある。まあ当たり前よね。
まず、もっとも目につく(ということはたくさんある)のが「満る賀(まるか)」であろう。
オイラの知ってる限りでも、まあ4軒はあるな。
それぞれに特徴があります。
「釜めし」がウリの「満る賀」、カレー丼のうまい「満る賀」、なぜだかウナギ茶漬けが名物の「満る賀」、ただの蕎麦屋で別に特徴のない「満る賀」など。
あと、よく蕎麦焼酎を呑みに使うのが「小松庵」である。ここのおすすめは、ツマヨウジや七味やショーユとかと一緒においてある、「ゴマ」である。ちょっと味付けがしてあるので、これをアテにして酒がいける。しかも、タダである。ほかの食い物は、まあ、フツー。とくにおすすめ、ということはない。
さて。これらの蕎麦屋はいわば「駄蕎麦」屋である。といったらあまりにも失礼かもしれないが、まあ許して。たとえば「駄菓子」がおいしいように、「駄蕎麦」の存在価値だってどこかにあるはずでしょ。オイラなんて、駄菓子で育ったようなもんだしね。ガキの頃は、サッカリン入りアンズのジャムとか、ヒモのついたメロン味の飴とか、酢漬けイカとか、麩菓子とか、スモモ(真っ赤なやつ)ばっかり食ってたもんな。うわっ、唾液が大量発生してきた。久しぶりに食いたいな。そういう食い物をコカコーラで流し込むんだよ。いやー。不健康なチクロこどもだったもんよ。でも、今どきは規制があるのか、あれほど赤く着色したのはなかなかお目にかかれないんだよね、縁日の夜店とかでもね。
まあ、それはいいとして、これからお話しするのは「駄蕎麦」じゃなくて、れっきとした「蕎麦」を供する店についてです。菓子との比較を続ければ、「菓子」は「岡埜栄泉」とか「虎屋」とかで売ってるものであり、「蕎麦」はしかるべきお店に行かないと食えないのである。
ありますよー、そりゃあ、神保町にも。なんたって神田ですから。
今日のオイラは猿楽町の「松翁(まつおう)」で「蕎麦」をやりました。同行者はカメラマンの和田くん。
ここの蕎麦はもちろん最高に旨いんだけど、うどんも凄い。和田くんとオイラは二人ともこの両者が一度に味わえる「2色もり」を注文。なぜだか、この「2色もり」はでてくるまで20分かかる。蕎麦を茹でるのなんざ数十秒だろうから、たぶんうどんが茹であがるのに要する時間だと思うね。20分茹でてもこれだけの凄いコシ。最近、チマタでは讃岐うどんの本場仕様、通称「セルフ」を食わせる店が評判みたいだけど、「松翁」のうどんも、かなりのシロモノなので、みなさん食べてみてください(市ヶ谷払方町に、このお店で修行した長谷川くんという人がやってる「蕎楽亭」っていう店がある。ここのうどんやヒヤムギは、モロ「松翁」ゆずりで、こりゃまた言うことナシなので、みなさん食べてみてください)。
ふと気づくと、和田くんが目をつぶって天井を仰いでいる。「どしたの?」「う、うまいね~。やあー嬉しいなあ。今年になって一番嬉しいね、今日は」そう言ってもらえると、オイラもここに連れてきた甲斐があったというもんにゃー。
和田くんはオイラの小学校の同級生である。千束育ち。無類の蕎麦好き・ブライアンイーノ好きで、撮影したフィルムを自宅で現像するときはアンビエント・テクノをかけている。そういえば、「千住竹やぶ」という蕎麦屋があって和田くんお気に入りだが、「あそこはアンビエント蕎麦屋だね」とか言ってはふふっと微笑んだりする人である。オイラといっしょで、今年40になる独身者だ。
神保町界隈の蕎麦屋、他には、鴨関係の美味な「九段一茶庵」、新参者だが種ものがイケる「乃むら」、そしてゼッタイ忘れちゃならねえ「神田まつや」などがございます。
さて、猿楽町から、ハナシは一挙に江東区の亀戸に移る。
やはり神保町仲間で江戸川区の住人である、ひでとっちゃん。
オイラが蕎麦屋狂いであるように、ひでとっちゃんは、無類の立ち飲み屋狂いである。
そのひでとっちゃんから、招集がかかった。
彼が昨年の暮れに総武線沿線を徘徊していたおり、ふと亀戸の陋巷で行きあたった、小さな酒舗(仮に「あやこの店」としておこう)。雰囲気も彼を十分に満足させるものであり、のみならず、そこを切り盛りする女将がまた、「K原亜矢子似のいいオンナ」ということなのであった。
思えば、前世紀の終わりあたりから、ひでとっちゃんとは西に東に、さまざまな立ち飲み屋に行ったものだ。
神奈川県子安の「日の出酒蔵」など、うらぶれていて、よかったなあ。
なんで立ち飲み屋っていうのは、あんなにいいんだろう。オヤジ臭いし、汚いし、狭いし、寒いのに。
さっきのたとえじゃないけど、蕎麦屋で呑む吟醸酒なんかは「酒」で、立ち飲み屋の酒は「駄酒」ですよね。
でもその、「駄」加減が、やっぱり必要なんだなあ、世の中には。
世間にはびこる「駄物」の数々。中華料理屋の「駄カレー」しかり、コンビニの「駄肉まん」しかり。甘味屋なんかで出すたぐいの「駄ラーメン」しかり。
白水社カレー部がおすすめする極上のカレーもいいさ。銀座アスターの肉饅頭もいいさ。ラーメン専門店で40分並んだってかまわんよ。
なのに、「駄」を忘れられないオイラたち。
次回は、さらに「駄」の空間について考えてみたい。
はたして「川原A子似のいいオンナ」はそこに居たのだろうか……?
では。
第6回 みゆき1978
必要があって、中島みゆきの1978年の作品を聴いた。
聴ける。フシギだ。
オイラ、こう見えても、オリジナル・パンクスだ。
1978年のときは中3だった。
エックス・レイ・スペックスやバズコックスは知っていたが、中島みゆきは知らなかった。
たとえ知っていたとしても、うち捨てていたであろう。
ナマギターのアルペジオで弾き語りなんて、当時のオイラにとっては、「やめて、やめてくれ、おねがい、やめて」というシロモノであった。気恥ずかしくって全身よじれそうだった。
中学生くらいの女子がギターを覚えたての頃は、そういった奏法をたのしげにするものだ。彼女らはおぼつかない指使いで「22歳の別れ」などをつま弾いてみせるのだ。
そういうとき、オイラはあまりにもいたたまれなくなってホウキをギターに見立ててそれをぶち壊すアクションにて彼女らの演奏をジャマし続けた。「やめてよー」と抗議されても「いいのよー(オイラはその頃おねえ口調だった)、軟弱フォークはキライなのよー」とグラム・ロックのスターのようにテカテカの学ランで腰をくねらせていた。
「ギター部」というものが存在し、顧問の教師は日教組に入っており共産主義を奉じておったが、ロックンロールを憎むあまり、学校内でのドラムス演奏を禁ずるにいたった。14歳のオイラは、コミュニズムとロックンロールは共存し得ないことをこの教師から学んだ(この認識は、1989年の天安門事件で再確認された)。実はその禁令が公布される前年、体育館でパンクロック演奏が全校生徒を前にして行われたのだが、そのときのドラムスがオイラであった。
さて、中島みゆきだが、いまでこそ彼女は地を這うオヤジたちの女神となっているが、1978年当時はどうだったのだろうか。どうも「愛に不器用な三十路女たちの預言者」だったのではないかと思われる。オイラの聴いた作品『愛してくれといってくれ』は、32歳という年齢になるまでフラれつづけた女をテーマとしたトータル・コンセプチュアル・アルバムである。
「何回テイクを取り直しても、歌の途中でみゆきはどうしても涙をこらえきれないのだった」という伝説で有名らしい『化粧』が圧巻である。たいていのオトコはコレを聴いて、やはり「やめてくれ、おねがい、やめて」といたたまれなくなるのではないだろうか。「畜生。あたしを捨てるんなら、今夜はぜったいに、後悔させてやるからな」の気迫に満ちている。ほとばしる肉汁のような怨恨の念。そう、この作品全体に「あたしってしつこくてヤな女」という自虐があふれている。実に痛快といわざるをえない。
オイラは思う。アルペジオ弾き語りがイヤなばっかりに、ボブ・ディランすら聴けなかった中学生の頃、たとえば女子達にホウキを奪い取られ、両手両足を後ろ手に縛り上げられ蓄音機の前に有無を言わさず引き据えられて『愛してくれといってくれ』を聴かされたとしたら、どうだったであろうか。
たぶん、身もだえして苦しみながらも、この『化粧』にだけはサレンダーし、耳傾けたのではなかろうか。当時を知るある人によると、みんなで集まってはこの曲を聴き、「わっ、中島みゆきがホントに泣いてるっ!」と身を縮こまらせたそうである。
もし当時オイラがみゆきを聴ける中学生だったら、オイラの人生はまるっきり異質なものになっていただろう。それは、もしひょっとしてオイラが高校生時代にRCサクセションを聴ける人間だったら、と想像するのと同じくらい、ゾクゾクする妄想だ。あるいは大学時代にライオネル・リッチーを……。
ところで前回、オイラは川原A矢子似の女将を求めて、江東区亀戸の立ち呑み屋におもむいたわけだが、最初は半信半疑で総武線を降り立ったオイラも、その酒舗の引き戸をひらいて実感。「ううむ、その評言、むべなるかな。むしろK原亜矢子より、こちらの方が……」。
ある同行の者などは、「昔のオンナにそっくりだ」とかつぶやいて遠いまなざしにキラリとするものさえ湛えておった。「そうだろう、そうだろう……」としたり顔にうなずく「ひでとっちゃん」(この店を発見した功労者)。亜矢子の周囲といえば、見よ、カウンターの端から端まで、オヤジたちがスズナリである。一日の仕事を終えた亀戸のオヤジたちは、亜矢子の笑顔を見ることなしに帰宅することがもはやできなくなっているのであろう。「○○ちゃん、おかえんなさい、空いてるわよ」亜矢子はたった一人で忙しく店を切り盛りしながらも、常連のオヤジにくまなく声をかけ、労をねぎらう。ヨレヨレのコートの裾をかき抱くように寒風のなかをたどり着いた客たちは、心底ホッと安堵して亜矢子の差し出す酒を干す。オイラがもし「みつを」だったら「オレたちはこのひとときのために生きている」と揮毫して店の壁にかかげてもらうであろう。しかしオイラは無名だし、まだ常連じゃないし、ここで酒を大きなツラして呑むにはちょっぴり若すぎるし髪も金色なので、笑いさんざめくオヤジたちの中心でこの空間のすべてをコントロールする亜矢子を時折盗み見るように眺めていよう。そのふところはあたかも大地母神のごとく、と形容するにはあまりにスレンダーな彼女。やはり美しい。しかし、そんな亜矢子に癒しを求めるには、まだまだ人生で受けた傷が浅すぎるオイラ。今夜もひでとっちゃん達とバカ話で十分なのである。
このオヤジ達も、やはりみんな、「地上の星」なのだろうか……。
第7回 バカが全裸でやって来る
高田馬場にいます。
「俺の空」というラーメン屋に行って来ました。
店の前に、すごい行列ができてます。
陽気がにわかに春めいてきた3月26日。
みんな、暖かいのをいいことに、平然と落ち着いて並んでいます。
オイラ、並んでメシを食うのはものすごく嫌い。
「給食」を思い出させるからです。あっ、思い出しちゃった。
やだなー。給食。あんなマズイもの、食いたくもないのに並ばされて。給食当番はマスクしてて帽子かぶってて。
「ねー豚の脂身、入れないでよ」「ダメ。好き嫌いしちゃダメって、先生言ってるでしょ」
「うるせーなー、お前が豚のくせに」「(無視)」教師の手先みたいな女子、イヤだったなー。
「俺の空」で並んでるみなさんは、「給食」のことなんか、想像もしてないんだろうなー。
きょうびのニッポン、行列もできない人間にはラーメンも食わせてもらえない。
仕方がない。忌まわしい「給食」の記憶は封じ込めて、ここはおとなしく並んでみるか。
30人ぐらいいるなー。うわー。当然だけど、最後尾についてみる。
店員が整理券を配っている。なにしろ、一度に一杯だけしか作らないという、こだわりの店である。時間がかかる。この整理券は、客を逃がさないための策ででもあろうか。
「午後5時以後は、つけソバのみの営業となります」なんていう立て札が出ている。
さて、店員がオイラの前まで来た。整理券をもらおうとして手を出すと「すみません、本日ここまでになります」
があーんがあーん。並び損のくたびれもうけに御座候。
このような扱いを受けると、「ラーメン屋ふぜいが、な~に横柄な」と憤慨されるむきと、「あら~、ますます食べてみたくなっちゃうわ、今度はもっと早く来なきゃ」と精進しちゃう人がいると思うんですが、オイラは後者である。おあずけされると、燃えちゃうんである。
後者のような人が、現代ニッポンのラーメン・シーンを支えている=踊らされている。
「一杯入魂」「整理券」「スープ終了次第閉店」などなど、そんなものは、ラーメン屋の営業戦略だと、分かっていても並んでしまう。
バカだなーバカだなー騙されちゃああああってー(藤圭子『新宿の女』)
さて。
給食のハナシが出て、「バカ」も出てきたので、小学校時代のオイラのことを語ろう。
オイラはものすごいバカだった。
教師に叱られない日はなかった。
運動神経がにぶく、トロかった。
偏食がとてもとても激しかった。
ごめんなさ~い、ごめんなさ~い。ざんげでもしている気分だ。
はっきり言って、ひとつも取り柄のないコドモだったと、言えよう。
オイラがコドモを作りたくないのも、ほかでもない、自分のように悲しみに満ちたコドモ時代を、自分以外の誰かに送ってほしくないからである。
バカの一症例を披瀝しよう。
たとえば、お誕生会というのを催すとする。
最初のうちは、ケーキのローソクを吹いたり、お誕生日ソングなどを歌ったりして、ごくフツーに進行するのだが、式次第がすべて消化され、ゲームなどにも飽き、やることがなくなると、みんながつまらなそうにし始め、「ぼくちゃん、そろそろ帰る」とか言い出す者が現れる。
こいつぁマズイ、と思ったオイラは、満座の前で衣服を脱ぎ始め、わけのわからん遠吠えのような唄をわめきだし、すっぽんぽんになって踊ってみた。
これが一気に場の雰囲気を変えた。
酒も呑んでいないのに、みんな大はしゃぎである。腹を抱えて笑い転げるコドモ、頬を紅潮させてオイラと一緒にわめくコドモ、オイラの裸体にコカコーラをかけ、ケーキのクリームを塗って喜ぶコドモ。
けれども、ともに全裸になってくれる者はいなかった。
バカだなーバカだなー(藤圭子『新宿の女』)
それ以来、「スーさんのお誕生会ハダカ踊り」は定番となってしまい、オイラは一年に一回、学友たちの面前で全裸になってホスト役を全うすることになってしまった。
たぶん、「せまる~ショッカー 地獄のぐんだんー」とか「あれは誰だ誰だ誰だ」などと歌いながら踊っていたのだろう。
のんびりとした時代であった。
このようなバカげた出し物は、オイラがビートルズを聴き始め、学友の「長谷川優子」とのあらぬ色恋の嫌疑をかけられる頃になると、自然に消滅していった。小学校6年生であった。
自我の目覚めである。そして悲惨な青春の幕開けであった。
(つづく)
*注記:だが、この追いつめられたウケねらい行為も、当時の社会現象との対比でかんがえれば、70年代にストリートを駆け抜けた、反体制の若者達による「ストリーキング」ムーヴメントへの、同時代のコドモの側からの一解答と言えなくもなかろうと思われる。ポンポン。
第8回 ケン・ヤマーダ師の託宣
生粋の京都人で、京都文化関連の研究におけるオイラの師匠である、ケン・ヤマーダ師が今年も東京にあらわれた。
今年は阿佐ヶ谷に宿を取っているという。
それは好都合だ。しばしばケン・ヤマーダ師には京都の夜をご案内していただいている。お返しに、今回の師の滞在中には、オイラの活動圏域である中央線をご案内することにしよう。
ところで、大変恐縮なのだが、またまたソバの話である。
ヤマーダ師は関西文化圏の人なので、そばがきなどは食した経験がない。
しかし、コドモの頃は「ザルソバ」を好んで食べていた、という。
前回、オイラが小学校時代いかにバカだったか、ということについて書いたが、同時に、ものすごい偏食児童だった、とも述べた。
そして、唯一、心おきなく食うことができた食い物、それがやはり「ザルソバ」だったのである。
奇遇ではないか。
京都下鴨、糺(ただす)の森近くのたぐいまれなる風雅な生活環境でお育ちになった貴人のようなヤマーダ師と、東京上野の闇市跡や肥溜めのように混濁したスミダ川のほとりをはいずり回るようにして育った野人のようなオイラ。どう考えても、子供時代に好物を同じくしていたとは誰に想像することができようか。
ま、ソレはともかく。
ザルソバがこの世に存在していなければオイラは確実に飢餓により夭折していただろう。
しかし、なぜ、まったきウドン文化圏であろうはずの京の都で、ヤマーダ師はザルソバを愛したのだろうか。
ただ、小麦粉全盛の京都において、いうまでもなく例外的な名物として、「にしんそば」がある。オイラも、京都デビューしたばかりの20代前半の頃は、京都参りの折り折りには必ず食ったものだ。南座のそばにある歴史あるニシンソバ屋「松葉」などで。
(いま、ヤフーで「ニシンソバ」を検索したら、「鰊蕎麦御殿」というサイトがあった。「西日本食いまくり」のページを開いてみると、このサイトの作成者は東の人間らしく、京都のニシンソバについてはかなり評価がカライ……やはりあのダシの薄さが気にいらんのだろう。)
しかし、ヤマーダ師はあの京都の誇る滋味、「ニシンソバ」を、なんとお好みにならないと言うである。
なんでだろーなんでだろー。
しかし、繰り返すようだが生粋の京都人である師がそう仰るのであれば、かならずしも「ニシンソバ」が京都におけるマスト・フードではないのだろう。
次回、京都に行くときには、師にどのような食い物を伝授してもらおうか?
阿佐ヶ谷の酒亭「あるぽらん」に師をお導きしたオイラは、さっそくその件について教えを請うてみた。
「フナ寿司になさい」と師はオイラに託宣を述べた。
「しかし、師よ、「フナ寿司」はすさまじい臭気を放つというではありませんか」
「臭いの臭くないのという次元のハナシではない。かなりの水準の料亭・割烹であっても、アレにありつくのは至難のことなのだぞ」
「しかし、そのように申されましても……」
「これだから江戸のイナカモノはいつまで経っても食の粋というものが分からぬのじゃ。わしが納豆をクサイという理由で食わぬと思うか? わしは納豆をこよなく愛する男。食の道を探求する者にとって、西も東もあるものか」
「ソレでは師よ、京都であえて蕎麦を食す、なかんずく石臼手挽きアンド手打ち10割つなぎナシの本格的な蕎麦屋にて、酒をやりつつ京都ならではの珍肴を味わう、というのはいかがでしょう。その折、師もまだ召し上がったことがないという、「そばがき」をお試しになっては?」
「おお、それもまた一興よのう。してそなた、京の都のいずこかに、そのような「石臼手挽きアンド手打ち10割つなぎナシの本格的な蕎麦屋」があると申すのか?」
「ございます。西陣に」
そうなのである。京都・西陣に、伝統的な古い町家の建物をそのまま使って蕎麦屋として営業している店があると、雑誌「ダンチュー」で読んだことがあった。誌面には石臼を手ずから回す作務衣姿の主人の写真が出ておった。
「なぜ、本格的蕎麦屋は、作務衣を好んで着るのかのう」
「こだわりでございますよ、わが師よ」
「まったく、江戸のイナカモノの考えることは不可解じゃ」
「御意。この中央線沿線にも、そのようなこだわりのイナカモノが大量に暮らしているとのことでございます」
「そなたもその内の一匹というわけじゃな」
ま、そんなこんなで、阿佐ヶ谷の夜は更けていった。折しも統一地方選挙投票前夜。この酒亭「あるぽらん」には選挙戦を終えた幾人ものコミュニストたちが、打ち上げで盛り上がっていた。
さんざん呑んだあげく、オイラたちは「ミヤンマー・カレー」をシメに食し、終電間際の頃合いをもって、オイラは師を宿泊先の青梅街道沿いのホテルへとお送りしたという次第であった。
最後になったが、わが師ケン・ヤマーダも40代、オイラと同じ独身者である。
注記:オイラは関西弁をあやつることができない。ヤマーダ師は、言うまでもなく京都方言およびアクセントでお話になっていたのだが、本稿を書くにあたり、それを再現することは不可能であったことをお断りしておく。
第9回 ロックンロール・キャミソール
その日、オイラは高円寺でタイコを叩くことになっていた。
ステージに上がるに当たり、何か衣装を購入しようと思い、アーケードをさまよった。
その前日、「東京ブックフェア」という催しがお台場であった。オイラはその会場に出かけ、本の売り子さんをやった。そのとき、エプロンをしてお客様に応対していたのだが、その自分のエプロン姿が妙に気に入ってしまった。着心地も、すごくラクで、リラックスできる。
「こりゃあいい。明日のステージでも、コレを着ることにしよう」
現在、オイラは腰をちょっと「いわして」しまっており、座ってロックンロールなドラムを叩くことができない。しかたなく、立ったままでプレイする、いわゆる「立ちドラム」の状態を続けている。所属しているバンドの皆様にはたいへんご迷惑をかけてしまっている。
そこで、何かヘンテコな格好をして、この不完全な状態の埋め合わせをしようと思ったのだ。座って叩くときよりも、客席からよく見えるということもあり、ちょうどいい機会だから目立ってみよう、というモクロミもあった。
しかし、デパートやスーパーならいざ知らず、ふつうの商店街でエプロンなど買ったことのないオイラは、どのような店でソレを入手することができるのか、皆目わからん。
こういうときは100円ショップであろう、と考え、探してみたのだが、意外にないものである。
こういうときは荒物屋だな、と思い直し、手近なそのテのお店に入り、「あのー、エプロンはどこでしょうか」と尋ね、700円にてようやく手に入れることができた。
ムラサキ色でペイズリー柄の、なかなか派手メな一品である。
さて、ただエプロンを身につけるだけではロックな雰囲気は出ない。ここはイッパツ、上半身は裸体にてエプロンを装着し、ワイルドな演出をこころみてみよう。
おお、身動きもとりやすい。イケそうだ。
この演出に味をしめたオイラは、その2週間後、こんどはインドネシア製のキャミソールを1980円にて購入し、ムリヤリ肉体をその中に押し込んだ。
身動きはとりにくくなったが、圧迫感はある種の緊張をよぶものである。ドラミングをよりタイトにすることができた。
しかし困ったことに、演奏が終わってキャミを脱ごうとすると、パッツンパッツンなうえ、汗みずくになっているので、どう身をよじってみても脱ぐことができない。
「あ~、脱ぐ前に、写真撮らせてくださーい」と近づいてくる婦女子がいたので、2枚ほど写メールしたあと、この婦女子に手伝ってもらい、引きはがすようにしてキャミを体から取り除いた。ありがとうございました。
南国の花々の花弁が、大胆にちりばめられた柄のキャミであった。
こんどはどこかのリゾートで着てみたい、そんな気持ちにさせる一品。
「キャミソールは男性が着ると腋毛がかくれるので、遠目には一見オンナかと思わせることができる」という説もある。
後日、送信されてきた写メールの画像を見ながら、「ううむ、たしかに」とうなずくオイラであった。
つぎは何を着ようかのう……。
ボンデージ系がよいかも知れない。
さて、この連載の前回で、「ケン・ヤマーダ師の託宣」をお送りしたが、その直後、京都は銀閣寺近く、北白川に住まうインドカルチャー研究者、T・ナーカー・ジィマ博士を通じて、糺の森にお暮らしのヤマーダ師が憤られているとの報告がなされた。
オイラは前回「次の京都訪問の折にはどんな京都らしい料理を食べるべきか」というオイラの質問に、
「フナ寿司になさい」とヤマーダ師が託宣を述べられた、と書いたのだった。
T・ナーカー・ジィマ博士は、「ヤマーダ師はそのように貴殿に述べられたのではなかろう。「フナ寿司は滋賀県の名産であって、京都ならではの食物というわけではない。」師はそう仰って、貴殿の軽率さを難じていらっしゃった。わたくしも西方の人間として、貴殿には厳粛な訂正をお願いしたい」
コレはタイヘンだっ。そう、フナ寿司は滋賀の食い物なのだ。
ちょうど、ヤマーダ師は下鴨の清浄な土地をしばし離れ、東京に姿を見せておられた。折りもおり、良く晴れた、4月も終わろうとするその日、オイラは国分寺方面で某執筆者との打ち合わせを終え、高円寺のライヴハウスに赴こうとしていた。オイラのケータイが鳴る。師からの電話だ!
オイラのライヴを見に来てくれるという。よし、お詫び申し上げる絶好のチャンスだ。
演奏後、オイラは、エプロン姿をさらしたまま、師の御前にまかり出でた。ナーカー・ジィマ博士も、頃合いよく、その場に居合わせておられた。
「師よ、博士よ、お許しください」
「江戸のイナカモノよ、いまこそ目覚めよ」
「ははーっ」
「もうよい。面をあげい」
こうして、オイラの春の日曜日は終わっていった。
そういえば、25歳で初めて一人ぐらしを始めた1988年当時、エプロンはどんなのを使ってたっけ。
たしか無印良品で買った、デニム地のジミなやつだったかな。
そのころ、やはり無印で買った黒いジージャンは今も現役だが、エプロンはとっくに捨ててしまっている。
自炊の頻度は、年をとるごとに減ってきているのだった。
いま、オイラにとってエプロンは、ステージ・コスチュームのひとつなのである。
第10回 無常の雨ふる四十路しのばず
梅雨であった。その日、オイラはT東区民として健康診断を受けるべく、そぼ降る雨に濡れながら、池之端のS医院に出かけた。
5年ぶりの健康診断だ(5年間さぼったのだ)。
T東区では、満40になる人間には無料で検診を受けさせてくれる。
オイラ、5月の31日で満40になったのである。
ついに。連載10回目にして、堂々の大台である。
「お前はよくぞココまで生き延びた。たぶん、いろいろとカラダにガタがきてるんだろうから、ちょっと診てやろう」行政機関のイキなはからいである。
ありがたいのう。税金は払っておくもんである。
オイラはいま、S並区に住んでいる。T東区にはこんなことでもない限り、足をむけることはない。
……ハラが減っている。朝も昼も食事を摂っていない。検診が終了するまで、メシを食ってはいかんのである。
さ、これが終わったら、ナニを食ってやろうか。
たとえば千代田線・根津駅近くの中華料理屋「オトメ」。ここには中坊の頃からハタチくらいまで、よく行った。
「カタヤキソバ」がうまいんである。「中華丼」もうまかった記憶がある。
しかし、満40のいま、とりあえずは青島ビールであろう。小皿で「かに玉」か「ニンニクの茎いため」がよろしかろう。しょっぱい「ザーサイ」もかたわらに配したい。
「S山さ~ん」看護婦のおねいさんが呼んでいる。オイラの番だ。
医務室に入る。医師がいる。どこかで見たような風貌をしている医師である。
(あっ。これは息子だな。)
ガキの頃、風邪をひくと必ずこの医院に来た。そのときオイラを診察してくれた医師と容貌がそっくりなのだ。しかし、年齢はまだ30半ばくらいであろう。
フシギだ~。「ガキの頃世話ンなった、あの先生」とウリふたつのオトコが、オイラよりも若く、しかも医師で、これからオイラの肉体の診察をするというのだから。
「あの先生」は自分の息子に医院を継がせた。「あの先生」に診てもらっていたオイラはその息子に血圧を測ってもらい、採血してもらい、レントゲンを撮ってもらい、心電図をみてもらっている。
四半世紀が、過ぎたのである。
さて、検診を終えたオイラは、「オトメ」に向かったのだが、あいにくとその日は定休日であった。仕方ない。そうだちょっとバスに乗ってみよう。
先日、不忍通り沿いを歩んでいて、サッポロラーメン店「えぞ菊」を発見してあったのである。本店は早稲田にある老舗「えぞ菊」。実はバンクーバーにも、ホノルルにも進出してるんである。でも今日めざすのは、動坂店。
根津一丁目からバスにのり、千駄木・団子坂下を経て、道灌山下~動坂下へとバスは走る。
「えぞ菊」が見えた。バスを降り、オイラはその年季の入った店内に入る。
もちろん、ここなら「味噌ラーメン」を選ぶしかない。ライスも頼んじゃう。煮たまごもトッピングしちゃう。一味トウガラシ、バンバン入れちゃう。おろしニンニクはやめとこう。
飢えたオオカミのように、オイラはメシをくらう。
すべてを忘れ、ひとり、40オトコがひたすらメシを食う。
カウンターの向こうでも、似たような年齢の巨漢がショーユラーメンを食っている。焼き上がったギョーザを、えぞ菊店主がそのオトコに手渡す。「すいません、ご飯もください」「あいよー」そのオトコは、アサヒスーパードライすら呑んでいる。
ここは文京区・本駒込四丁目。午後5時30分。ラーメン食って満ち足りたオイラはふたたび不忍通りを根津方面へ戻り始めた。
アジサイが咲いている。雨がそぼ降っている。
ふとオイラは、無常の想いにとらわれる。
人生折り返し点。いったい、いつまで、生きるんだろう?
ガキんちょ時代を過ごしたこの土地で、40になってラーメンをむさぼり食い、霧雨に煙る場末の街路を、シゴトもせずにそぞろ歩むことになろうとは、誰に想像できただろうか。
数日後伝えられた、検診の結果は「アルコール性肝疾患(要指導)・高脂血症(要医療)」であった……。


