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荒川さん、電話をください・バックナンバー

奈落亭凡百ファン待望の新連載! 荒川区町屋と神田小川町の荒川さんを結ぶ一本の電話──そこから新たな物語が始まります。

| 第七回「イラン革命前夜」 | 第六回「回顧譚:ある出会いについて」 | 第五回「食材談義」 |
| 第四回「血まみれのこと」 | 第三回「マミコとオレ(チャプター2)」 | 第二回「マミコとオレ(チャプター1)」 |
| 第一回 「1978年の文系女子」 |


第七回「イラン革命前夜」 [2008.12.24]

 おお 首よ 立つホコリ 寒さに ふるえ
 茂る ブーリャン

マミコがクラッカーにレバ刺しをのせて、ウォッカを呑みながら唄っている。
ここは荒川、東尾久三丁目。
「おいマミコ、それ〈おお道よ〉じゃなかったか」
「そだっけ」
「オレはそう習ったけどな」
「いいのよ、〈おお首よ〉で」
「そうかな」

ところで、今年の冬は、白子ポンズの質がとりわけ高いようだ。

最近、「蟹工船」が若い人のあいだで流行っているらしく、45歳のオレは「全世界のプロレタリアート、団結せよ!」というのをドイツ語で探してきて、書いて、部屋のドアに貼っている。コレを、若者の前で発音してみる。
「いっすねドイツ語」
「いやーオレ的にはマルクスはイエスかブッダみたいなもんだしよ」
「そーいや、中村光の『聖(セイント)おにいさん』サイコーっすよね」
「アレで笑えないヤツは現在の日本にいるイミないよ」
「同感っス」
「オマエもさ、マルクス主人公にしてマンガ描けよな、うひょひょ」
「エエッムリッすよ、オレ、『罰と罪』(ママ)しか読んでないし」

話題を変えよう。
先ほど言及した漫画家の中村光さんだが、『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』という作品をすでに8巻まで上梓されている。
いうまでもなく、荒川区が舞台だ(しかも河川敷。登場人物みんなホームナシのひとたち)。
この作品に登場する〈恋人〉たちである「リクルート」と「ニノ」という男女が、まるでマミコとオレのようなのだ。実に泣ける。
つまり、一方的にオンナの「勝ち」からハナシが始まっているのである(オトコは大金持ちなのだが)。
なにしろ「ニノ」ちゃんは登場する早々「私は金星人だ」と自己紹介する(カワイイ女の子なのだが)。
そして、「溺れてるお前を川から助けたお礼に、私と恋をしろ」と命ずるのだ。
すごいであろう、コレが荒川っちゅうもんだ。
マミコが「おお首よ」と唄えば、それでキマリなように。

さてマミコだが。
10歳オレより年上の彼女だから、もちろん過去には恋の経験があった。
時は1975年。オレが12歳で、童貞ソーシツまであと11年かかるという年に符合する(笑わんでくれ)。
マミコは22歳。オレとつきあってた頃よりは、肌にはるかに水っ気があったであろう。
マミコが当時カンケーしていたオトコは、「オレはカッパドキアから流れてきたばかりの文無しだ」と自称する天性のヒッピーさまであった。
カッパドキアは遠い。そんなトコロからフラリと現れたヤツに、マミコはイッパツでコロリときてしまった。アドヴェンチャーにヨワいのだ。

ちょうどその頃、世間では「ゴキブリホイホイ」が発売され、ゴキの宿敵である主婦たちのあいだで大人気を博していたが、そのカッパドキア野郎は「そんなもんは、イラン!」と当時は「ペルシャ」と呼ばれていたある国の名を叫ぶと、マミコのアパートに住みついていたゴッキーたちを片っ端から手づかみで窓の外に放りだしはじめた(さっすがヒッピーちゃん、殺生はしない)。
主婦ギライのマミコ(バックナンバー読んでね)が、このような勇姿にホレないワケがない。

オトコは1947年生。大分県中津出身。マミコは1953年生。
ゴキゲン(死語)で、カップヌードルの当時のCMソングが似合いそうなカップルだ(ちなみにマミコは台東区今戸出身)。♪おおハッピーじゃないかあ~。

しかし悲しいかな、放浪とワイルドネスをこよなく愛するオトコと、レイドバックしたアメリカンロック(レイナード・スキナードとか? オレよく知らんが)をソヨ風に髪をなびかせながらターンテーブルにのせ、裸足でネコを抱き、キャロルキングのマネをしたがるマミコとの恋は長くはつづかなかった。

時は1977年。
オトコはふたたび、中東方面へと旅立った。
パーレビ国王暗殺をもくろんでいたらしい。
…マミコが変貌をとげたのは、そのときからだ。

マイケル・フランクスの甘やかなボッサのささやきに酔い、スティーヴィ・ニックスのようなヨーエンな男たらしになりたいと思っていたマミコ(ああ、もうこのヘンは若い人たちは流してくれていいからね)は、オトコの去った六畳一間のアパートで、
「私はパンクをやる!! もうソフト&メロウとはおさらばよ!」
と絶叫し、アメリカンロックのレコードを全て売り払い、そのカネで革ジャンと安全ピンを購入する。
髪の毛を狂ったように切り刻み、逆立て、寒風の吹きすさぶ中、メンバー募集のために高円寺をめざし、中央線にとびのったのだった。
もうソヨ風は捨てた。
いま、マミコに必要なのはハリケーンなのだ。

ああマミコ。お前は戦後ロック史そのものだ。
そのときオレも、ツェッペリンのポスターを部屋のカベから剥がしていたんだよ。
童貞ソーシツまで、あと9年と迫っていたんだよ(つーか、なげーっつーの!)

【編集部/奈落亭凡百】


第六回「回顧譚:ある出会いについて」 [2008.10.03]

時は1991年。
オレは28歳だった。
なんかチマタではグランジとかいうロック・スタイルが流行っていたが、オレは「アメリカで流行ると嫌う」悪い癖があって、わざとズタボロのジーンズや汚れたTシャツ、780円くらいでジーンズメイトで売ってるようなチェックのシャツをデロリンと着ているワカイ奴らのファッションには反感をいだき、DMCの根岸クンの片っぽの人格のような〈オッシャレ~〉なサイドを歩いていた。ストイックにワイルド・サイドを歩くのはどうも性にあわなかった。
10以上も年下のロッカーが轟音ギターでニルヴァーナやスマパンやソニック・ユースまがいのノイズロックをがなっているのに耐えられず、いつもフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴとかオリジナル・ラヴなんかばかり聴いていた(笑)。

「オレはグランジよりレイヴかな」なんてうそぶいたりして。
そう、その頃ようやくブレイクしたプライマル・スクリームが大のお気に入りだった。

ただ、トシがトシだけに、そのとき誘われたバンドの、音大を卒業したばかりというベースのメンバーの前では、「もう28だからさ、ジジイだろ。いいのこんなジジイで」とか下手に出ていた。
「いいのよ。ドラムはちょっと年寄りのほうが安定感があって」「あ、そーすか(トホホ)」
…というぐあいだった。

よーするに、30になる前のユルイ時期を、のぺーっと、過ごしていたのだ。
UKロックシーンも、80年代後半以来の「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」の余韻を、まだ残しており、ユルユルの快楽主義を堪能していた。
そしてあの頃のマンチェスターは熱かった。
独特の16ビートがエンエンとつづく、ダンサブルな快感…当時オレはその怠惰な一本調子にあわせて、ドラムのスティックをまさに「緩めに」さばいていた。

世間はまあ、バブル景気だったんだろうね。
でも、オレはそんなことお構いナシに、ようやく飲めるようになった酒をとにかく飲みまくり、バンドの打ち上げで騒ぎまくることのみに、気力を注いでいた。
ロクにシゴトもしなかった。
24アワー・パーティー・ピープル(Happy Mondays)だったのだ。まさに。

(このへんの事情は、雑誌『ふらんす』の96年1月号31ページに掲載された「ユーロ・インディーの80年代」に詳しい)

さて、そんな頃の、ある日、西荻窪のライヴハウスで。
オレのバンドが出演する日。
リハーサルは4時からだったが、もうオレはアメリカ嫌いのクセにジム・ビームをラッパ飲みして酔っ払っていた。
「もー。本番はちゃんと演奏するようにね! 頼むわよ!」とベーシストに怒られながら。

ボーっと出番を待つ間、次のバンドのリハをモーローと見ていた。
お、ヴォーカルは、オンナだ。
しかもケッコウな年齢のようだ。
しかもギタリストは、上半身裸体だ。ドラマーはガリガリに痩せており、そしてベースレスだ。
「なんかスゴイね。大丈夫かね」「パンク系でしょ。なんかシド&ナンシーてカンジね」「あなたベースで加入すれば」「イヤよ。よくあんなトシであんなリストバンドして、しかもチェーンに黒のミニスカで、あんなドギツイメイクのいる女がヴォーカルのバンドなんて」「オレより、まあ10は年上だな、オリジナル・パンクスの生き残りだな」「戸川純ちゃんより上ってことね」
…とかなんとか、値踏みしているオレたちの前で、そのバンドは音を出し始めた。

おそるべきヘタクソな演奏。アンサンブルはガタガタ。リズムは走りっぱなし。ベースがいないから、響きはスカスカだ。
そして、ヴォーカルのオンナ。
ハスキーヴォイスといえば聞こえはいいが、ほとんど「死にかけのネコ」が必死にふりしぼっているような、かすれた呻き声だ。
でも、よく聴いていると、まるで歌詞は演歌のようだった。

〈バカなオトコと酒を呑み
 さんざん笑ったそのあとで
 辛気クサイとアタシがなじる
 あんたのもとに 帰るのよ
 ダサイ ネルシャツ 着たままで
 「行ってくるね」と仕事に向かう
 そんな背中に投げつけたいの
 アンタの履いてるチビた靴
 見るたび腹がたってくる〉

「おいおい、ロックの歌詞かよ、コレ」
「しかたないんじゃん、いいトシの人なんだからさ」
オレは酔眼モーローとしたままで、そのオンナの声を聴き続けた。

〈そうよアタシは今日もまた
 バカなオトコと酒酌み交わし
 フロにもつからず わらってる
 朝になったら ハラをこわして
 便座にしがみつく アタシ
 「呑み過ぎだぞ」としづかな声で
 アンタは仕事に行くんだね
 なにさ どうして 今日にかぎって
 安物スーツを身にまとい
 「面接だよ」と云ひのこし
 ことさら ゆっくり ドアを閉めたわ〉

「所帯じみてんなぁ」「あーもー、ああはなりたくないわ(私まだ22よ)。ねえ、もうどっか他のトコで、出番待とうよ」
しかし、いや…とオレはふと思った。コレはコレでおもしろいかも…。

〈アンタの顔など 見られない
 ダサイ ジャージで ナイターを
 見てるアンタを 見たくない
 スーパードライ一缶で 酔ってるアンタを 見たくない
 お笑い番組見てフロへいく
 10時過ぎには寝ちゃってる
 あんたのそばには いられない〉

なるほど、そういうことか。
オレは妙にナットクした。
そう、このオンナの唄ってる「アンタ」のように、オレはなりたい。
そのときオレはそう思ったのだ。
そりゃあ、いまのオレはジム・ビームを愛し、オシャレポップとマンチェスター・シーンに目がない、サラサラなボブ・ヘアーの、(オレとしちゃあ、永井荷風みたいな生き方が理想だなやっぱ)とか思ってるナマイキな野郎だけど…
「ダサイジャージ」「安物スーツ」「チビた靴」そういうコトバが、フシギにジンジンきたのだ。
そして、こんなボロカスのような歌を唄う、ボロ雑巾のようにやせこけ、マスカラで隈だらけになった顔をした40前とおぼしきオンナから、目が離せなくなった。

そのオンナこそ、ほかならぬ、マミコだったのだ。

【編集部/奈落亭凡百】


第五回「食材談義」 [2008.08.26]

もう10年以上前のある日、マミコはトイレットペーパーを近所で買ってきた。
4ロールのやつである。
「ねえ、どうせなら12ロールのほうが安くて、お得だし、ヒンパンに買わなくて済むから経済的なんじゃ…」
オレがここまでコトバを発したところで、マミコは制するように言った。
「12入ってるやつ、キライ」
「なんでさ」
「持ってると主婦みたいだから」
「じゃ、5箱連ちゃんのティッシュとかの買いだめもイヤでしょ」
「キライ。主婦みたいだから」

さて、今回のテーマは「お料理」である。
荒川区は、食材はかなり充実してるほうだと思う。
また、物価も安い。たぶん、人々の〈自家製料理・自宅食〉率は高いと思われる。
しかし、オレは料理をしない。
しかし、「加工」は好きだ。
いまハマっているのは、「ソーメンにヴィシソワーズをかける」加工だ。
両方とも、コンビニで買える。
かけるだけでできる。
ツマミにもいい。意外に、ショーチューにもあう。

ところでマミコは、まったく料理をしない女だった。
しかし、やはり「加工」は好んでいた。
マミコはオレより10歳年上の女なので、食は細い、というか、メンマの「やわらぎ」だけでメシを食うことができる女だった。
というか、メシを炊かないので、「やわらぎ」と「マカロニサラダ」をひとつの丼にぶちこみ、グルグルと混ぜて、その上にパルメザンチーズをかけ、食う。
コレがフシギにうまい。米のメシは要らない。
あとは、以前書いたように、ボンベイサファイアをロックで(酒だけは良いものを呑む)5~6杯。
そうして、テキトーに眠ってしまう。
当時オレたちの部屋にはフロがなかったので、眠ったマミコをほって置いて、オレは一人で銭湯に行った。
当時オレたちはどういうわけか、まあ、なんというか男女の営みみたいなのは殆んどしなかったので、それほど栄養も必要なかったのだな。
だから、「加工」食だけで十分だったのだろう。

マミコはその当時43歳くらいで、テキトーにしけたスナックかなんかで働いていたし、オレは駅前でティッシュペーパーかなんか配ったり、古道具屋の店番とかしていた。
「加工」食で日々を過ごしていくならマネー的にも食うには困らなかった。
で、相変わらず、いま、一人暮らしになっても、オレは「加工」ばかりしている。
で、トイレットペーパーも、4ロールのばかり買っている。
なぜだろう。う~んたぶんもう、クセだな。
「主婦みたいだから」というマミコの声が記憶から消えないからかもしれない。

ある日のこと。
「ねえ、マミコ、さすがに“やわらぎ"も飽きたから、今夜はなんか食いにいかないか」
マミコは応える。
「えー。めんどい。それにカネかかるから、やだよ」
「そうか。じゃあ、“やわらぎ"はやめて、“都こんぶ"にしてみようか」
「それ、スッパすぎないかな」
「いや、こんぶのダシが出て、意外に旨いかもしれん」
オレは“中野の都こんぶ"を細かくちぎり、パルメザンチーズを混ぜ、そこに飯代わりの塩せんべいをクラッシュさせたのを散りばめてみた。
「あ、けっこうイケる」
「おお。十分だ。これで今夜はいいな。じゃ、酒いくか」
「うん、あんたはキンミヤのソーダ割りね」

マミコとオレ、あの頃がいちばん無難に暮らしていたときだったかもしれない。
「あのさー、今日お客さんにあんたが作った都こんぶクラッシュ作って出したのよ」
「ああ、赤羽の店で?」
「うん、そしたらさあ、『こいつぁ珍味だっ!』とか言ってすげえ喜んでんの」
「そりゃそうさ。都こんぶさえありゃ、万事なんとかなるもんさ」
そのとき、オレたちの住まいは東尾久3丁目だった。

1996年。
言うまでもなく、ふたりとも若さのカケラもすでになかった。

【編集部/奈落亭凡百】


第四回「血まみれのこと」 [2008.07.14]

「いつもいつも、マミコちゃんの話ですけど、よっぽどご執心というわけですか」

そういうご質問はなさらないでください。
今回もしつこく続けます。

マミコとオレ、最後に住んだのは、千住S木町だった。
……といっても、わかるまい。
隅田川と荒川にはさまれた、まさに「置き去り」みたいな三角地帯。
駐車場にもなれない、雑草だらけの荒れ果てた空き地に、ポツンとあってねえ、アパートが。いいんだよ、その吹きっさらしの野ざらしぶりが。
けどさあ、思うんだけど、あのへん、あれだけ二つの川が近接して流れてて、よく一本にまとまっちゃったり、しないもんだよね。
まあそりゃいいんだけど。
町屋から歩いて20分、東武線の梅島(足立区)から歩いても20分以上かかったなあ。
家賃2万5千円。共同下駄箱、それと共同郵便受け、アレ、いいよね。

そのころマミコは、オレがウーパールーパーを見ると恐怖にふるえることに気づき、よく近所でウーパールーパーを買ってきては金魚鉢で飼育していた。

「おい、これ、ワニとかイグアナのエサにするヤツだろ。飼うかよフツー」
「だって売ってたんだもん。かわいいじゃん。いかにも使い物にならなそーな顔してて。あたしみたい」
「しょっぱなから飼い主に似ててどーすんだよ、とにかくオレ、それ見てっと鳥肌出まくりでどーにもなんねーのよ」
「ンなこと言って、ひどいじゃない。じゃあなんでアタシと暮らしてんのよ」
「お前はいちおうニンゲンだからな、愛してるよ、マミコ、な、だからウーパーは荒川に放水してくれ。ちゃんとしたサカナのエサになるのが、ソレ本来の運命なんだよ」

さて、さいきんのオレだが、2週間ほど入院したり、手術で血まみれになったりしていた。
そのうえオレの入院中に秋葉原の路上で血まみれにされてしまった方々が、オレの病院のすぐそばで息を引き取られたりしていた。

6月は残酷な季節だ。
小学生の頃、母親が鼻から出血が止まらなくなるやはり「血まみれ病」になったことがあって、それも6月だった。
そのころ、よく聴いたのは『ヘイ・ジュード』だった。
いまでも、あのしつっこい5分くらい続く「らー、らー、ら、ららららー」というコーラスを耳に留めたりすると、洗面器一杯に鼻血をためてゲホゲホ苦しんでいる母親の姿が浮かんでくる。
その後彼女は聖路加病院に入院する。お見舞いに行った帰りに父親は自分でメシが作れないのでオレを有楽町の「ニュー・トーキョー」へ連れて行き、そこで血のしたたるような〈骨付きラムステーキ〉をなぜか食わせていた。

7分13秒続くポール・マッカートニーのあの歌声からは、オレは血反吐のにおいのテイストを拭うことがいまだにできない。
ヤツが学園紛争うずまく1968年にこの曲を書いたときも、学生や警官や兵隊たちが世界中で(まあとくにベトナムあたりでアメリカ人が)血をバンバン流していたんだろうしな。
だからオレはマッカートニーくんの歌声が、どうしてもブラッディーに響いてきて、どうもダメなんだ。(それはホントは、すごいシンプルなピュアなラヴソングなんだけどね)。
そういえば彼はウーパールーパーによく似ていると思わないか。
あの「ふにょろ~ん」とした二重まぶたがとくにウーパーなイメージをよびさます。
あの鼻にかかった歌唱もそうだ。

ある日、マミコに「ビートルズはナニがすき?」と訊くと、
「う~んそーねー、『イン・マイ・ライフ』かな」なんぞという。
あれはリード・ヴォーカルはポールじゃないから、ウーパー好きのマミコのワリには、まあ許せるほうだろう。
「じゃあ、同じ、『ラバー・ソウル』に入ってる曲だと、他に何がすき?」と訊くと、
「う~んそーねー『ドライヴ・マイ・カー』かな」
ホラホラ、ダメだろマミコ! あれはウーパー・ヴォイスの独壇場じゃないか! 

ところで毎回書いているように、マミコはオレより10歳年上だった。
そのころウーパールーパーはまだ現在ほど知られていなかったにちがいないが、1968年というとマミコはまだ15歳で、世界中が血みどろの紛争に明け暮れていたことなど知らず、近所の川でザリガニなど捕らえては喰らっていたのだろう。野性の女だ。
そのときオレは5歳だった。
東大の安田講堂から煙みたいなのが出ているのを眺めながら、オヤジに尋ねたのだ。

「ねえパパ、アレはなに」
「ああ、ありゃ火事だな、気にするな」

オレは上野精養軒のポタージュ・スープをすすりながら、千歳飴の袋を撫ぜたりしていた。
その年に発表された、ビートルズの『ホワイト・アルバム』をオレが聴くのは、その7年後だ。
1975年、12歳のオレは、そのアルバムを聴いてジョン・レノンというミュージシャンは心底からの自殺志願者に違いない、と思った。そして、ウーパー・マッカートニーの声が、あんなに柔らかでやさしげなのにブラッディーに響き、なぜソリッドなカミソリのようで流血の元凶のようなはずのレノンのヴォイスが、あんなに「くるみやか」に、包み込まれるように響くのだろう、とフシギだった。
ある日、顔面を洗面器に突っ伏して鼻血をたらしている母親を呆けたように思い起こしながら、レノンが「淋しい、死にたい」と絶叫しているのを聴いていた。
そうか。
Yes I’m lonely, wanna die.
もしかして、ひとこと「死にたい」と叫ぶとき、人は瞬間でココロを解き放ち、安らげるからなのだろうか。

同じアルバムの次の曲で、ウーパーくんは「ぼくはつましいカントリー・ボーイ、太陽に育てられたコドモだよ」と歌っている。
オレはそっちの唄がかかると、いつもレコードの針を上げて、次の曲にとばしていた。
ウーパーくんの歌声には、やはりナマあたたかい緩慢な流血の気配ばかりがあった。
ひとことで済むのだ、Wanna die と。
流血は、もうたくさんだ、と。

マミコはそれでもウーパールーパーを飼育しつづけた。

「カワイイじゃん。どうせ喰われちゃうんだもんね、ちゃんとしたサカナに」

金魚蜂の中のウーパーたちは、6月の大気のようにどんよりとしていた。
マミコはそのとき53歳だった、と思う。

【編集部/奈落亭凡百】


第三回「マミコとオレ(チャプター2)」 [2008.05.12]

春である、もう5月。

春は眠いものだ。

またまたマミコとのテンマツで恐縮なのだが、マミコは「ゆらゆら帝國」が大好きなオンナだった。彼女によると、「ゆらゆら帝國」は春うららかな、木の芽時に聴くのがサイコーなのだそうだ。
しかしもうそれも、1997年くらいのハナシで、「ゆらゆら帝國」もいまのような大きな存在にはなっていなくて、下北の小さなライヴハウスなんかで聴けたものだった。
で、5月ぐらいになり、そろそろハエとかミミズとか出てくるようになるころ、マミコは「グレープフルーツ、ちょうだああい」とか、「ゆらゆら帝國」の曲のタイトルをうめき始める。

「なんか、やりきれないのよお、春って、ムリヤリ生きなきゃいけない、って言われてるようでさあ。ねえー、ゆら帝、かけてよー、んで、ボンベイサファイア呑ましてよー。忘れたいのよー、生きてることをさぁー」
マミコは濃厚なジンを、ライムもいれず、ボトルからタプタプと注いで、枯れ枝のようにやせ細ったカサカサの手でグラスをつかみ、「はぷっ、はぷっ」という音をたてながら飢えた猫がミルクをなめまわすように、やけっぱちで、それでいてじつに旨そうに、飲み干していくのだった。

ぜんたい、春というものはユーウツな季節だと思う。
マミコの言うとおり、季節そのものが、「さあっ! 元気で活きましょうっ!」と無理強いしてくるようではないだろうか。

マミコは当時、吉祥寺のキャバクラに勤めていた。前回も書いたように、オレより10歳年上のマミコは、もう40代の半ばになっていたはずだ…よくぞ雇い手がいたもんだと思う。
そのころオレは練馬区に住んでいて、勤めのおわったマミコは週に2回くらいタクシーでオレの部屋まで乗り付けてきた。タクシー代は、もちろんオレが立て替えた。

当時よく聴いた曲というと、なんだろう。
ああ。UAの『ミルクティー』という曲だったかな。
どうしようもなく気だるいメロディーとテンポ。
石神井川沿いにマミコと散歩しながら、ぐったりと弛んだ16ビートのそのナンバーを口ずさんで。
「丸正」でいいかげんなイカフライとか、ポテトサラダとかを買って、石神井公園の小汚いベンチに座って、缶ビールを呑む。
夕方4時くらいにならないと目をさまさないオレたちにとって、なんだかいつでもヨダレを垂らして歌っているようなUA の声が、なんだかピッタリだったのだ。

さて、いま、オレは荒川区に住んでいるが、その前は杉並区に住んでいた。
40代を杉並で迎えたとき、とうぜん、マミコは50になっていたわけだが、彼女の友人がオレのアパートのそばで呑み屋をひらいていた。その友人はオレと同い年だった。
週に2・3回は、その店で呑んだ。オレの好きな派手めのロックンロールのCDがいつもかかっていて、リクエストすればなんでもかけてくれた。
マーク・ボランのお宝ヴィデオとかも上映されていた。
オレは、そこでよくお尻まるだしダンスとかをよく披露した。
マミコは例によってドライなジンばかり呑んでいた。
さすがにキャバクラ勤めはもうやめていたから、マミコにほとんど収入は無かったと思う。
勘定を払うのは、いつもオレだった。

杉並を引き払って、荒川に越すことになり、オレはその店にお別れの挨拶に行った。
店のマダムが「どうすんの、あんな東の端っこで」と聞く。
「いやなに、何も変わりゃしませんよ。ただ、臓物が旨い店が多いもんで」
「ああ、あなた、センマイとかガツとか、好きだもんねえ」
「赤羽あたりで食うミノ刺しは絶品ですよ」
「マミコちゃん、どうするの」
「さあ、なんか蕨だか川口あたりの店で雇ってもらうようなこと、言ってましたけれど」

春だ。
最近、よく聴く曲は、坂本冬美の『夜桜お七』と山口百恵の『曼珠沙華』だ。
からだ全体がマイナー・コードであふれている。
疲れているのだ。

春は残酷な季節だ、とつくづく思う。

風のたよりに、杉並の店もとうとうカンバンを降ろした、ということを知った。
マミコとはもうずいぶん会っていない。

【編集部/奈落亭凡百】


第二回「マミコとオレ(チャプター1)」 [2008.03.28]

あれはそうだ…西荻窪に住んでいた頃だから、2年前の…夏、か。

マミコは、とても美しい美しい女だった。

スージー・スーのようにピンピンに逆立てた髪の毛は漆黒で、炎天下のカゲロウのようにざわめいていた。オレのとなりで歩く背丈も見上げるには丁度よく、革ジャンのソデからのぞくリストバンドのメタルな突起も、襟ぐりの深い豹柄のTシャツに浮き出るガリガリの鎖骨とドクロのチョーカーも、猛々しいまでに威嚇の光沢を放っていた。声はかすれていて、低く小さく、彼女のうなじに耳をくっつけるようにしてオレはそのコトバを聴いた。唇はカサカサに乾き、潤いなど微塵もない皮膚は、愛撫のつもりですこし引っ掻いただけで、ボロボロと零れ落ちる。そのすべてが、オレを刺激してやまなかった。

10コ年上のマミコがオレのものだと思うと、オレは、静脈の血がいっきに蒸発するような快感に武者震いした。

今、荒川で目を閉じてみても、

あの陽炎が、あの突起が、マミコが、いる。

(ハイ、ここまでは、魚喃キリコ『キャンディーの色は赤。』イントロのパクリ)

あああ。

今日もウーロンハイ片手にラーメン屋のカウンターにすわってる。
荒川区、町屋「桃太郎ラーメン」にすわってる。
部屋に帰る直前、ココによってウーロンハイのグラス握ってると、おちつくんだ。
なんかすべてが、どうでもよくなる。
いいんだ、どーってことないウーロンハイで。
ココの冷奴がまた、どうってことなくて、どうでもよくさせてくれるんだ。
ホント、なんてことない、フツーの、カウンターしかないラーメン屋なんだけど。
ここで一日の最後、ボーッとしてると、どんどん、どうでもよくなる。
となりではお兄ちゃんが狂ったようにつけめんに喰らいついてる。
タイ語みたいな、フィリピン語みたいな、得体の知れないコトバでわめいている、酔っぱらいの姐さんたちがいる。

ああ。

そうなんだ、ココは荒川区、町屋。
豚の臓物のうまいトコロさ。
オレは「センマイ刺し」がとりわけ好きでね。
「レバ刺し」はゴマ油で食うのに限るね。
「ガツ刺し」も好きだ。池之端の悲しみ酒場「赤提灯」のガツ刺しはうまいよ。
臓物の煮込みと、「刺し」がありゃあ、もう、それだけで、生まれてきてよかった、と思うわけよ。
あとはキンキンにドライでシャープなチューハイがクッと呑めれば、それでもう、ホントにもう、いよいよすべてがどうでもよくなる。

荒川区、町屋。

人をどうでもいい気分にさせる町。極楽。
ここに住んでもう一年。
いつか住むことになるだろうと思いつつ、40も半ばをすぎたころ、ついに住んでしまった町。
都電荒川線沿いに、終点の三ノ輪あたりまでレール沿いに散歩していると「どうでもいい感」はクライマックスに達する。
または、尾竹橋通り沿いを東に歩み、夕日にむかって、隅田川を越え、荒川を越え、千住の町に達するごとに、「人生の終着点に、まただいぶ近づけた、な」という思いにひたれる町。
そんな町に住み続けることで、オレは着実に、あのときのマミコの年齢に近づいていく。

マミコ…どうしているんだろう。

ニシオギのライヴハウスで、マルボロを咥え、にじんだマスカラがベッタリとついた目蓋をうつろに開いて、「ボンベイサファイア、ロック、ダブルで」。
そう呟いていたカスレ声が、いまもオレの穴倉のような部屋によみがえる。

(ここはちょっとだけ、石川雅之『もやしもん』の引用)

今、荒川で、目を閉じてみる。
もう一度だけ、オレは彼女に、会いたい。

そして荒川さん、電話をください。
そして荒川区民のみなさま、こんなオレをどうかお許しください。
愛してる、荒川。
抱きしめてくれ、町屋。

【編集部/奈落亭凡百】


第一回 「1978年の文系女子」 [2008.02.25]

日めくりカレンダーは好きですか。
あまり使ったことはない?
あの、日が経つにつれて薄くなっていく感じが、いい、というヒトがいて、「なんで?」って訊くと「ムダがだんだん無くなっていく感じでしょ」
そうだろうか。
むしろ、次の年になって、せっかく薄くなったカレンダーをまた分厚いのと取りかえる、その瞬間が想起されまして、「また一年、生きていかねばならんのか…」なんて嘆息しちゃう、そっちのほうがケネンされますが。

まあいいや。
とにかく、今年も2ヶ月目が終わっちまうぜ。
今月読んだ本。『失われた愛を求めて』。プルーストじゃないよ。
これはホント、マジ泣ける。
イエモンの吉井和哉さんの自伝。
とくに、よそにオンナつくってるのがバレて奥さんが半狂乱状態になって、ロックンローラーとしてのヴォルテージがさがってて、それでも「パンチドランカーツアー」のステージをボロボロになりながら百何十だかこなしていくあたりなんざ、開いた口がふさがらないほど、泣けるね。
コレ読んで泣かないヤツぁオトコじゃねえ、ってくらいで。
なに言ってんだか。ごめんね。

さて、タイトルの「荒川さん」なんだけど、カノジョは小川町あたりのカレー屋さんに勤めてる。
スピリチュアルなテーマが好きなヒトのようだ。
「いまフリーメーソンにハマってます」とかお会計のときにスラッと言ったりする。
去年、しばらく店に行くのをごぶさたしてたオレ。
で、ある日久しぶりにカレー食いにいったんだけど。
「あら、やっぱり来てくれたのね、実は、こないだココロの電話をかけてみたんですよ、やっぱり伝わったんですね」
そうかい。
そんなこともあるんだねえ。

まあいいや。
先週読んだ本。『くすぶれ! モテない系』能町みね子さん著。
これにゃもうオレさまヤラれたね。
「モテない系」ていうカテゴリーがまずすごい。
彼氏やダンナがいる/いないに関わらず、「モテない」あるいは「モテようとすることを極力避けようとする」女子たちのことだ。
すごく「自分」な人。「そりゃモテるほうがいいんだろうけど、あたしにはカンケイない。ヘンテコな趣味に走りがちだけど、だってなんかイロイロとこだわっちゃうんだから、仕方ないじゃない」
いるよな。好きだぜ、そういうオンナ。
で、著者はそういうオンナを励ますではなく、応援するでもなく「こねくりまわして」いるだけなんだけど、その「こねくり」がたまらなく小気味イイんだな。
「愛され、告られ」キャラ(志向)のオンナにも読んでほしいよ。自分を見つめなおすためにも。
能町みね子はゼッタイそのうち大ブレイクするな。

まあ、ちょっと見カワイイ女子より、すこーしヘンタイなクセや言動のあるオンナのほうが面白い、っていうのはあるでしょ。
荒川さんも、そっちの部類かな。
だってイイでしょ、「ココロの電話」かけてくるのよ。
うれしいじゃねえか。

さっき思い出したんだけど、もう30年以上前だから中学生のころ、某女子大付属中の学祭にあそびに行ったことがあったな。仲良かったヤツのおねえさんが通ってたんで。
そのおねえさん、ミニコミを作るサークルに入っていて。
ロック専門のミニコミで。でオレはそのミニコミに執筆を依頼されちゃったりしてて。
で、部室みたいのに入ったんだけど、もう、いるわいるわ。
いまで言う、「文系女子」みたいな面々が。
まあ、能町さんの言う、「モテない系」の先祖のような方々よね(前髪パッツン、メガネ率高し)。
オレもロック好きで、団体行動ダメなほうで、スポーツきらいで、なんかクネクネしてる「ハグレもん」だったから、そーゆー連中とはハナシが合った。

(「ジャパン」(コレも知らんよね? やっぱり日本だけではやってたバンドね)のメンバーがすべて登場する「やおい」マンガも載ってたな、ミニコミには。メンバー同士が愛し合ってしまう、妄想全開の作品だった。「ああ…リチャード」「ねえ、いいだろミック…」「好きだぜデヴィッド…」「ガマンできないよスティーヴ!」みたいなフキダシがちりばめられた…)

一方、軽音楽部は、インチキくさいグラムロック・バンドで、ミカバンドの『タイムマシンにお願い』を学校の中庭でヘタクソに演奏していた。

ところで、チープ・トリックってバンド、いまのワカイ人たちには無縁だろうか。
まあ、1978年にさかのぼるからねえ。
で、たしか、「チープ・トリック」は『ロッキング・オン』を読んだりする「文系女子の先祖」たちの絶大な人気をほしいがままにしていた…気がする。

先週買ったCD。
その「チープ・トリック」の、武道館ライヴ。
すごいんだ、女の子の嬌声が。
で、またソレが泣けるんだ。泣いてばかりだな、今月。
当時、このバンドは日本でしかウケておらず、本国アメリカでは鳴かず飛ばずであった。
それだけに、武道館ほどの大ホールで、ものすごい歓声(ほぼ全部女子)に迎えられたメンバーの当惑と驚愕はとてつもないものであったらしい。
メンバー御用達のクルマを、女の子たちが乗り込んだ10台ほどのタクシーが追いかけ、原宿にてカーチェイスがおこなわれた、というような伝説がある。
疾走するタクシーから身を乗り出して、メンバーの名を絶叫する女子たち。
どうなんだろう。2008年のいま、どんな外タレが来日しても、そんな事態にはならんのじゃなかろうか。

で、思うのだ。
このCDに記録されたオンナたちの叫びは、おそらく1978年型「文系女子」の情念のバクハツなのではないだろうか。
どう考えてもそうとしか聞こえてこない。
だって、チープ・トリック、だよ?
14~5の女子たちが聴くにはちょっとアブノーマルな、マニアックな変化球ロックだ。
ミニコミサークルの部室で「くすぶって」いたであろうオンナたちが、そんなドマイナーなバンドをひと目見るため、ブドーカンに大量集結し、狂ったように叫び続ける。
そりゃ泣ける、泣けるでしょ。

そのチープ・トリックが、30年ぶりに武道館公演をするらしい。
行かねば。
そして、30年前の「文系女子」たちとの再会を、ぜひその会場で果たしたい。
彼女たちはそのとき、「ロビンー!」とか「トムー!」とか、メンバーの名を絶叫してくれるのだろうか。

日めくりカレンダーが薄くなっていく。もうのこり6分の5だ。
そろそろ、荒川さんのカレー屋に、また足を運ばなきゃ。

それじゃあ荒川さん、電話をください。

【編集部/奈落亭凡百】



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