「サッカーは、重要でないものの中で一番重要だ」と言ったのはご存知「バルサのアイドル」ぺップ・グアルディオラである。嗚呼、すでに遠きバルサ栄光の90年代。
ではサッカーよりも重要なこととは何か?
それは日本ではきっと家族の問題であり、金の問題であり、仕事の問題であり、生活の問題であり、時には恋愛の問題だったりもするだろう。つまり、いっぱしの大人ならサッカーより重要なことばっかりで、そういうことを当たり前にクリアした人間だけがサッカーを楽しめる。
どこかの国みたいに、民族やら国家やらがこの問題に取って代わる心配は今のところの日本では無さそうに見える。きっと子供が総理大臣の名前を知らないような時代というのは事のほか幸せなことなんだろうと思ったりもする。
で、そのぺップだ。
フランコ時代の圧政によって弾劾されたバルサと、体制派の象徴であったレアルの対立の歴史は、もう日本の多くのサッカー好きにも知られるところとなった。仮にそれがほんの表層的な部分だけであったとしても、この両チームの試合(エル・クラシコと呼ばれている)が語られる際には必ずと言っていいほどほとんど枕詞のように説明されるからだ。
その迫害を受けた方、つまりカタルーニャで生まれ、カタルーニャで育ち、カタルーニャのサッカークラブ、FCバルセロナで名を成したのがジョゼップ・グアルディオラ・サラ、通称ペップだ。
スペイン語で言うところのピボーテ、今の日本ではいつのまにかポルトガル語のボランチと言う言葉が採用されるようになったが、いわゆる守備的ミッドフィールダーの達人としてラウドルップやらストイチコフやらクーマンやらのいる“ドリームチーム”を中盤の底から牽引していた(過去形なのは06年の11月にメキシコのドラドスというチームを最後に引退してしまったから)。
ではどのように達人だったのか?
簡単に言おう。
川崎フロンターレの中村憲剛のように、だ。
とにかく視野が広い。
フィジカルは強くないのになかなかボールを奪えない。
ノールックどころか「おまえそんなとこ見えてるんかいっ!」ってなところに簡単に(見える)パスを出す。
中村憲剛(ケンゴと読む)が日本人の他のパッサーと一番違うところは、走りながら(ほとんど視野には入っていないように見える)スペースにスルーパスを出せるところだ。
中田英寿がまだ日本のどこかの海沿いのチームでプレーしていた頃、とても窮屈そうにプレーしてるように感じたのを覚えてるが、今の中村憲剛にも稀にそういう窮屈さを感じることがある。
ただ中田ヒデとケンゴの違うところは、フロンターレには幸いにもスピードと足元のテクニックに長けたジュニ‐ニョがいることだ。
加えて関塚隆という指導者を得て、川崎フロンターレというそれまではあまり幸福とは言えなかったチームも06年はいよいよ驥尾に付す一歩手前まで漕ぎつけた。
やせっぽちのぺップを見出してトップチームで使ったのはご存知“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフ。
クライフナンバーと言えばもちろん「14」。
ケンゴも同じ番号を背負ってはいるが、別にクライフに対しての思い入れはない。
そりゃそうだ、時代が違い過ぎる。
クライフ信者なのは、元々トップ下だったケンゴをまさかのボランチに起用した関塚監督の方。事実本人の口からそう聞いた。
関塚監督も初めはケンゴをトップ下で使っていた。しかしながらトップ下でタイトなマークにあうとチーム全体のリズムが止まってしまうことを危惧してなかなか先発起用に踏み切れないでいた。
あれは2004年のコンサドーレ札幌との試合だったろうか。
ケンゴが後半トップ下に投入されるとあきらかにそれまでの悪いリズムが変わった。
その変化はまさに「劇的」と呼ぶに相応しいものだった。
その二日後、関塚監督にそのことを聞いてみると「うん、確かに変わったね。あれははっきりと変わった……」と、その後の言葉は忘れてしまったが、その試合こそがケンゴの今に至るターニング・ゲームだった気がしてしょうがない。
リスクヘッジを考えなければならない監督としては、ゲームのリズムを作れるケンゴを一番いい状況で使いたいと考えていたのだろう。
ちなみにその関塚隆を監督に起用したのは取締役職に就く強化本部長(GM)の福家三男である。
03年の最終節に、勝ち点1差でJ1に昇格させられなかった“悲運の名将”石崎信弘監督(現J1柏レイソル監督)との契約を更新せず、監督未経験の関塚隆を監督に起用した。
この時、もちろん決定するまでにすんなり事が運んだわけではない。
いくら鹿島アントラーズでコーチ経験が長かろうとも、結局はコーチまでしかやってなかったのだからそれも当然である。
名前は出さないが社長の武田信平は、別の監督を擁立したい希望を持っていたはずだ。
それを福家が押し切ってまで据えた監督が関塚隆。成績如何では福家の進退問題にまで発展したかも知れない。
ではなぜ福家がそこまで監督未経験の関塚に固執したのか?
そこには日本にプロリーグが出来る以前の物語りがあり、現在も日本サッカーを動かしている潮流が脈々と流れていることを知ることができるのだが、それはまた別の話。
今はケンゴ、だ。
06年、イビツァ・オシム監督によってフロンターレの選手としては三人目となるA代表選手に選出され、10月4日のガーナ戦で初キャップを得ている(ちなみにフロンターレの初代表選手はジーコ時代の箕輪義信、我那覇和樹はケンゴの2ヵ月ほど前にオシムに召集されている)。その後は代表の常連となり、ご存知の経緯により監督がオシムから岡田武史に代わっても召集されている。
04年の時点で「二、三年後にはアイツのチームになるよ」と、練習場から上がって来たケンゴをアゴで指し、予言していたのは先述の福家GMである。
ケンゴ本人も「一年目はチームの様子を見ます」と話していた通り、傍目にも目立って活躍しだしたのは翌05年からと言えようか。
確かにそうなった。確かにそうなったけれど、ケンゴにはそのポジションについた選手にありがちな驕りはない。聡明な選手である。フロンターレでそれをやったら居場所がなくなる。実際に居場所をなくしてチームを去らざるを得なかった選手もいるのだ。良くも悪くもそんなチームカラーを持っているのが川崎フロンターレというチームなのだから。
川崎フロンターレは未だ無冠である。
いくらJ1で準優勝しようとも、ACLに日本のチームとして初めて決勝トーナメントに進もうとも、ナビスコカップで準優勝しようとも、そんなものに意味はない。
07年の締めくくり、天皇杯の決勝はもうすぐ行なわれる。
フロンターレは果たして階段を昇り切ることが出来るのだろうか?
そのためには金がかかるというなら、二億円の範囲内で考えてやってもいい。
そして、すぐにやってくる08年のシーズン。
この年こそ紛れもなく、すべての川崎フロンターレファンにとって生涯忘れ得ぬ一年となることだろう。
そこにはケンゴがいる。
ペップがすべてのバルサファンにとって忘れ得ぬ“バルサ・レジェンド”の一員であったように、ケンゴもまた“フロンターレ・レジェンド”の一員としてこのシーズン、永遠にその名前をクラブの歴史に刻むのだ。
【川崎市/蹴球幻想】