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クラブ白水社 バックナンバー
ワインのおはなし

第1話 「わや」なワイン 第2話 酸化 第3話 「美味しい」ワイン
第4話 ブドウ品種 第5話 「甘い」ワイン 第6話 ボジョレ・ヌーボー


第1話 「わや」なワイン

 レストランでのホストテストのとき、ワインに「けち」をつけたことはありますか? ちょっとスノッビッシュではありますが、一度は憧れたこと、ありません? 実は、ついこの間、ラス・カーズの78年がひどくて... なんて語ってもみたいのですが、残念ながら(?)、そういう経験は一度もありません(ラス・カーズも見栄です)。確かに、「けち」をつけたところで、「お客様、何も問題はございません。それとも、もう一本お持ちいたしましょうか?」(もちろん、OKしたら二本分の金額が請求されます、念のため)などと慇懃無礼に言われるのが落ちです。そんな冒険わざわざしたくはありません。しかしながら、そのような過剰気味の自意識はさておき、より根元的な問題は、「わや」なワインの何たるかがわからないということなのです。

 ご承知のように、ワインの味は多種多様(と言われています)。明らかに酢になってしまったものは論外として(と言っておいてなんですが、そのようなワインに出会ったことはありません)、奇妙な味に出くわしたとき、多様な個性のひとつなのか、それとも、いかれちゃってるのか。某ソムリエによると、扱うワインの100本に1本ぐらいの割合で異常なワインに当たるとのこと。これは思ったより高い確率ではないか? とすると、やっぱり100分の1なわけ? そんな思いがよぎることもありましょう。果たして、このワインは大丈夫なのか?

 こうした問題に巷に溢れるワイン本は、いとも簡単に答えてくれます。曰く、不快な臭いや味がするものは劣化したワイン、飲むべからず。なるほど。でも、すぐに気付くように、不快は程度の問題です。どの程度の不快なのでしょうか? 飲めない程度? それは明らかにトートロジーです。問題の解決になっていません。要するに、「ただ単にまずい」ワインと「わや」なワインとの境界線はどこにあるのか? この問題にけりをつけなければ、劣化ワインの幻影に一生付き纏われることになるわけです。

 このアポリア(?)は、実のところ、見かけよりは難しくはないのです、ある立場をとるならば。すなわち、そうしたワインは飲まない!という断固たる態度です。レストランでは二本分払うことも辞さない。間違って飲んでも、忘れる。実に明快です。純粋理性のアンチノミーのために形而上学の可能性をスパッと捨て去ったカント哲学に比すべき方法と言えましょう(?)。とはいえ、その切り捨てたワインによって新しい経験の地平を広げることが出来たのではないか、と疑ってみる必要がありそうです。事実、個人的な体験ですが、初めてクロ・ド・タールを飲んだとき(と言っても、後にも先にも一度だけ、ほんの紙コップ(!)一杯ですが)の臭さといったら! けれども、そのためにグラン・クリュを易々と見捨てるなんて、もったいないと思いません?

 カント的(?)態度が採れないならば、問題を解決する方法はひとつしかありません。それは、すべてのワインを受け入れることです。あるいは、劣化ワインの幻影と戯れることと言ってもいいかもしれません。まずいワインを経験しなくとも、おいしいワインはおいしい。が、それがどうして、どうように、どれだけおいしいのかを理解できません。「わや」なワイン、大いに結構じゃありませんか。えっ? だから、どういうワインが「わや」なのかがわからないって? いや、だからこそ、それ故に、飲み続けるのです。戯れるのです。

 そのうえで、ワイン業界の方々へ提案なのですが、劣化したワインを、劣化したワインと明示して売ったらどうでしょう? もちろん安く。そうすれば、小市民の悩みと不安は相当解消されるのですが。「シャトー酸化」とか「コルク臭仕立て」とか。結構いけると思うんですけど...

第2話 酸化

 飲み残したワインはいつまでワインでいつづけるのでしょうか? もちろん、ワインのタイプによっても違うでしょうし、どのような状態に置かれていたのかも大きな要因です。しかし、いずれにしても、この問題が劣化ワインの観念と密接に関わっていることは明白です。が、その「わや」さの確定となると、前回お話した通り、難しい。とはいえ、これがどのような劣化に関係しているのかということについては、はっきりしているように思われています。酸化です。

 ワインは飲み切らなければいけない、とか、飲み残したワインは小瓶に詰め替えてコルクを逆さに差し込めばよい、といった言説の理由を尋ねれば、酸化するからということになっています。とすると、逆に、酸化したワインの味を知るにはそれを飲めばいいということになります。これは「わや」フリークには見逃せません。実際に、前夜へべれけになって(まぁ、そうでなくてもこの際はいいのですが)グラスの中に飲み残してしまったワインを、翌朝飲んだことはありませんか? 捨てるか、せいぜい料理に使うしかないと思っていた方は一度ならず何度かお試しあれ。何事も実験です。意外といけたりして面白いんですが、しかし、大抵は酸っぱい筈です。そうです、これこそが「酸化した」ワインの味なのです、と断言したいところですが、どうもそうは問屋が卸してくれないようなのです。

 一般に「酸化した」と言われている味は、やはり古酒で体験し易いわけですが、その点、スペインのリオハのワインなんか比較的手頃でしょう。ただし、十年ものぐらいのグラン・レセルバを狙うこと。まぁ、全部が全部というわけではないようですが。ハンガリーの極甘口ワイン、トカイにもよく感じます。が、そもそも酸化させてつくるシェリーや、なんと言っても、酸化の代名詞、マデイラならもっと好都合でしょう(「マデイラ化した」は主に白について「酸化した」と同義です)。「酸化した」は、ワインにおいては大罪のように言われがちですが、これらは割と美味しくいただくことも出来ます。というより、むしろそれが持ち味なのです。このあたりに「わや」と「個性」の微妙な関係があるわけです。

 しかし、これらのワインは美味し過ぎて「酸化した」を見過ごしてしまう可能性があります。そこでお薦めなのが、酸化防止剤無添加ワインです。昨今の健康志向を反映してか、この手のワインを時折見かけるようになりました。和紙風のラベルに毛筆体で高らかに謳ってたりします。防止剤の正体は二酸化硫黄だそうですが、そのおどろおどろしい名とは裏腹に無害とのこと。けれども、何が体を蝕むかわかりません、入れずに済むならば、ということなのでしょう。有害無害はともかく、確実に言えるのは、酸化しやすいということ。実際、大概、きてます。で、大概、まずい(生産者の方々、ごめんなさい)。しかし、まじぃ~、と思ってこそ、「酸化した」がくっきりとその輪郭を現わすのです。これは試す価値があります。今度は一度で十分だと思いますが。上述のワインと併せれば、鬼に金棒、「酸化した」はあなたのものです。思うに、「カベルネ・ソービニョン」よりも、見(味?)分けるのは容易でしょう(一体、カベルネ・ソービニョンの味とは何でしょう)。

 さて、一晩おいたワインの「酸化した」ですが、あなたが把握した「酸化した」とは程遠いと思いませんか? あれは、ただ単に「酸っぱくなった」と言うべきでないでしょうか。確かに、酸素と結び付きさえすれば酸化でしょう(ただし、広義には酸化とは電子を与えること)。錆びるのも酸化なら、燃焼も酸化です。何が酸化でも、もう(?)驚きません。しかし、化け学的な説明がどうであれ、事をワインの賞味に限れば、あるいは、素直に経験に立ち返えるならば、明らかに二種類の酸化が混在しています。飲み残したワインの酸化を防ぐには、などと軽々しく言ってもらっては困るのです。でないと、劣化ワインの幻影に怯える善意の小心者は、最低3年間は頭を抱えることになるのです。

第3話 「美味しい」ワイン

 美味しいワインはどれか? 言わずと知れた、ワイン好きの三大命題のひとつです。この問題に立ち向かうのは古代ギリシア数学の三大作図問題を解くようなもので、何をすべきかは明白なのです。ただ、作図できないだけなのです(因みに、古代ギリシア数学における作図は、コンパスと定規だけで行ないます)。美味しいワインも、答えの察しはついています。ロマネ・コンティやラトゥール、白ならモンラシェあたりはどうでしょう。作図題と違って、絶対に不可能というわけではありませんが、少なくともため息の出る話ではないでしょうか。作図だって、旋回軸を備えた器具を用いれば可能だそうですが、普通のひとの誰がそんなもの持っているというのですか。と言っても、普通のひとはそんな作図をしようとも思わないでしょうが。

 とにかく、それでも、ワイン好きは美味しいワインの探求に余念がありません。ワイン好きの性です。三大命題のひとつたる所以です。とはいえ、ため息ばかりついていられないので、勢い、命題は世俗化して「安くて美味しいワインはどれか」となります。チリのワインが脚光を浴びるのはそのためですし、「ソムリエによる1000円台ワイン、80本テイスティング」というような雑誌企画も出て来たりするわけですね。まぁ、どのワインが美味しいのか論ずることは、それ自体、面白いことではあります。けれども、そうした議論のなかで、スッコーンと抜け落ちていることがあるような気がしてなりません。それは、美味しいと感じるのはいつか?という点です。これは、三大命題の別のひとつである、いつ飲み頃になるのか?とは違います。あれは、開ける前の問題です。今話題にしようとしているのは、どのぐらい飲んだ頃に美味しいと思うのか、ということです。

 飲んだ瞬間に、美味しい~、と思うワインがあります。大柄で、味のはっきりしたタイプが多いようです。反対に、酸味が強く、線の細いワインは、どうしても目立ちません。美味しいのは前者と結論づけられてしまいます。比較試飲で起こりがちで、少量しか口にしないので、わかりやすいワインが有利なわけです。まして80本もだったら、なおさらです。しかし、ワインは飲み進むうちに表情を変える、なんていうご高説はワインにおける浪漫主義者(?)たちに任せるにしても、一本のボトルの味は不変だと考えるのは、やはり危険です。何も、瓶内の場所によって違うと主張しているのではありません。「どんなワインも瓶の口の部分のグラス一杯分は美味しくありませんので、ハネて料理酒にでも使うようにしてください」と勧めている酒屋に出会ったことがありますが、空気に触れて酸化しているとでも言いたいのでしょうか。ちょっとマユツバものです。現実問題として、「同じ味である」と考えて差し支えないでしょう。が、「同じ味がする」とは限りません。なぜか。飲み続けるからです。飲み手の方が変化するのです。簡単に言うと、飽きるわけです。

 ひと口めから「美味しい」ワインには気をつけましょう。実は、この手合いが怪しい。あまりにも強烈な味のために、ボトル半分も飲まないうちに舌が疲れてしまうことが間々あります、すべてとは言いませんが。逆に、初め貧相に見えたものが終いになってみると、程よく感じることもなくはない。要するに、勝負は飲み終えた時なのです。飲んだ後に「美味しかった」と思えるものこそ「美味しい」と形容するに値するワインなのではないでしょうか。ワインは開けてみなければわからない、とよく言われますが、本当は、空けてみるまでわからないのです。だから、ボトル一本空け切ったテイスティングもやって頂きたい、もちろん、80本ね。

 付記 一本空けるほど大酒飲みではない、という方は今回の話は忘れてください。

第4話 ブドウ品種

 カベルネ・ソーヴィニョンの味を把握したい、そんな大志を抱いたことはありませんか? あるいは、メルロとどう違うのか?と、同じメーカーのブドウ品種シリーズを勉強と称して飲み比べたご経験、あるかと思います。ないとは言わせません。もし本当に試したことがないのなら、どうしてこんな絶好の機会を見逃すのですか、お試しあれ。もちろん、シュナン・ブランとソーヴィニョン・ブランでも構いません。ほら、違うでしょ? しかし、果たして本当に、その差異は品種の違いを反映しているのでしょうか?

 それぞれの品種の特徴を理解することがワイン上達の鍵であるとか、ワインの味を決定する第一の要因はブドウ品種、などと言われると、知りたくなるのが人情というものです。ところで、ここにはひとつの前提があります。個々のブドウ品種の味、例えば、「ピノ・ノワールの味」が何らかの形で存在するという考えです。中世哲学風に言うならば、実念論といったところでしょうか。つまり、ピノ・ノワールからできた個々のワインは「ピノ・ノワールの味」のイデアに与っていると暗黙のうちに認めています。ここが問題です。

 ある種の品種が明確な特徴を持っているのは事実です。ミュスカ(マスカット)は恐らく誰でもわかるでしょう。ワイン用品種に限っても、良いリースリングのフレーバーは他を以って代え難く思われますし、良質のゲヴルツトラミネールに至っては、試してみてください、二度と忘れないでしょう。しかしながら、だからといって、すべての品種がお互いに自らの味を区別しているとは限りません。むしろ、それらの境界はぼやけているのが実情です。特に汎世界的な品種は、味を一般化するのが難しいように思われます。例えば、シャルドネ。オーストラリアのハンター・ヴァレー産と南仏のオック産とでは、辛うじて「シャルドネ」という名前だけを共有しているに過ぎないとしか思えない程、全然違う味がします。ほとんど唯名論の世界です。さらに言えば、前者は同地区のセミヨンとの方がよっぽど似ています。さて、それでも、まだ品種に固執しますか?

 思うに、ブドウ品種の思想は、どちらかと言うと、もともと生産者側のものです。品種を植え間違えたら、死活問題ですから。飲み手側もかつてはそれ程気を遣っていなかったようです。新興国のヴァラエタル(単一品種)・ワインが漸く出現し始めた15年前の雑誌を紐解いてみると、ブドウ品種の説明が載ってはいるものの、熟成は早いとか、量産できるとか、果皮の厚さは中くらいで濃黒色、などと栽培や醸造に関することが中心で、出来上がるワインについての記述は、酒質は重厚といった程度です。今ではお馴染みの、ブラック・カラントだの、プラムだの、青草だの、火打石だのは出てきません。

 いや、何も、品種はワインの味に全く影響しない、と言うつもりはありません。ネッビオーロのワインとサンジョヴェーゼのワインとは明らかに違います。しかし、「フュメ・ブランの味」とか、「シラーの味」とかを持ち出すならば、それは偽の問題です。存在するのはただ、「この」フュメ・ブランの味であり、「あの」シラーの味です。ですから、この際、品種のことはすべて生産者に任せて、目前にあるワインそのものを楽しむことに徹しましょう。それでも、もし、本当にブドウ品種の味を究めたいならば、ブドウ品種シリーズは避けましょう。あれは、品種のイメージに合わして仕立て上げられていて、妙に人工的です。それを知るという意味では有意義ですが。やるなら、同じ品種で、いいワインで、各地域の間に現れる差異を見るべきです。その方が、輪郭程度は掴むことができるでしょう。

 って、書くと、やっぱり気になっちゃいますか? だけど、ここに出てきた品種名を覚えるだけでも、厭になりません? しかも、このうちふたつは異名同種だ(どれでしょう?)、なんて聞いた日には,面倒臭くてやってられないでしょ? そう、その調子で行きましょう。

第5話 「甘い」ワイン

 「スピーク・ドライ、ドリンク・スウィート」という言葉をご存知でしょうか? 口では辛口がいいと言っておきながら、その実飲んでいるのは甘いワイン、というようなひとを、大抵は蔑むフレーズです。生半可なグラマリアンとしては、文法的に少々納得しかねるところもありますが、それは置いておくとして、甘口は「おんなこども」の飲むものだと暗に考えられているわけです。しかし、ちょっと待って!というのが、今回のお話。

 ワイン好きは辛口を好む、というのは一般的には当たっているでしょう。ご承知の通り、酒類における辛口とは甘くないという意味ですが、ワインにおいては酸味と、(特に赤ワインで)渋味が強いという側面があります。どちらにしても、口当たりは悪い。けれども、渋くて酸っぱいからこそワインは美味しいのだ、というのがワイン通の主張です。これは理に適っていて、そんな飲みにくそうなものを飲んで喜んでいるのは、ワインが好きだからに違いありません。しかし、ワイン好きが辛口を好むということから、甘いワインは「大の大人」が飲むべきものでない、という結論を導くのは、論理の飛躍以前の、単なる偏見、あるいはイデオロギーに過ぎません。

 もし、あるワインの質がその複雑性に拠るとするならば、類としてのワインの価値はその多様性にあると言えましょう。つまり、一本のワインでも、ワイン全体として見ても、いろいろな味があるから面白いわけです。とすれば、自ずと甘口たちの重要性が理解されます。ものによっては1リットル中に750グラム以上もの糖分が含まれていることもあるという甘口たちが、類としてのワインの幅を広げているのは明白です。

 実際、辛口よりも甘口ワインの方がより大きい驚きを与えてくれる気がします。良い甘口ワインには単なる甘さ以上のものがあるのです。ヴヴレのモワルーやアイスヴァインのような偉大な甘口たちの輝きは実に美しいものです。「エキスの凝縮」という観念も実感し易いはずです。ワイン評論家マット・クレイマーは、小社刊『ワインがわかる』の中で、これらについて、甘いというよりはふくよかなのだ、との旨を書いています。軽快なモスカート・ダスティだって負けてはいません。アルコール度数5%程度のこの微発泡酒は、ワインの繊細さに触れさせてくれるでしょう。もちろん、すべての甘口が美味しいわけではありません。ほんの5、6年前まで国産の白と言えば、大抵甘かったものです。いや、赤さえも甘いものがありました。それらの中にはどうにも飲むに耐えないものがあったのも事実です。しかし、どちらにしても、甘口たちによってワインの質に関する考察を促されます。甘口ワインは単に味蕾だけでなく、知性をも刺激するのです。

 食べ物との関係においても、甘口ワインは挑発的です。「ロックフォールチーズとソーテルヌ」という、一見胡散臭い、伝説的な組み合わせは、「生牡蠣とシャブリ」より印象深いものとなるでしょう。「レバー・ペイストとヴァン・ドゥー・ナチュレル」なんていうのも意外と合います。いっそ前世紀の宮廷晩餐に倣って、「生牡蠣とソーテルヌ」をやってみたらいかがでしょう、保証はしませんが。とにかく、料理とは合わせにくそうな分、かえって、まさか、まさかの連続があなたを待っています(多分)。味覚の知的ゲームです。

 このように刺激に満ちた甘口ワインは、しかしながら、残念なことに、世界的な辛口指向のせいで衰退の一途を辿っているそうです。甘口の代表、ドイツワインも自らの本分を忘れて、妙に酸っぱいだけの辛口を産するほどです。そこで、お願い。カベルネ・ソーヴィニョンやシャルドネばかり飲んでいるあなた、ワインの多様性を守るためにも、ぜひ甘口たちを賞味してください。そして、大いに知性を刺激してください。それが「大の大人」が本当にすべきことというものです。

第6話 ボジョレ・ヌーボー

 11月の第三木曜日は何の日でしょう? もちろん(?)、ボジョレ・ヌーボーの解禁日ですね。バブル期の成田の乱痴気騒ぎで有名になりました。大騒ぎはしないにしても、半月ぐらい前からわくわくしている方もいらっしゃることと思います。その一方で、ご存知ない、あるいは、忘れてた方も多いのではないでしょうか。これを機に、今年は飲んでみてはいかがでしょう。空輸ものの価格は尋常じゃありませんが、少し遅れて入荷される船便のものは比較的安く手に入ります。飽くまでも「比較的」ですが。こちらを待つのが常識、というか、良識、あるいは理性的ですが、最近の赤ワイン・ブームのため、油断していると入手が困難になるのが玉にきずです。

 最近はイタリアのとか、5月頃に南半球産のヌーボーも売られますが、なんと言っても、新酒といえば、ボジョレです。ワイン好きならば、誰でも一度は通る道でしょう。が、多くのひとが二度と戻って来ない道でもあります。曰く、プリムール(通はヌーボーをこう呼ぶ)なんて、あんなジュースみたいなもの、飲めるか。ここにも「甘いワイン」と同様の構造が見えます。素人臭くていけないというわけです。確かに、ワインに序列をつけるとするならば、ヌーボーは下から数えた方が早いかもしれません。しかし、たとえば、ラフィットにヌーボーの味は出せません。出す必然性がまったくありませんが。ともあれ、ヌーボーもラフィットと同じぐらい独自なのは確かです。いや、バナナ香とも薬品香とも評されるそのフレーヴァーは他のどのワインよりも個性的。飲まない手はないじゃないですか。

 それにしても、不思議なのは、毎年、「今年のヌーボーは出来が良い」こと。とくに近年、その傾向が強いようです。非常に疑わしい。そもそも過去のものと比較して、どうしろと言うのですか。出来の云々は熟成するワインの飲み頃を探るために論じられるのであって、早飲みタイプにはあまり意味がありません。ましてやすぐに飲み切ってしまうヌーボー。滑稽ですらあります。あれは宣伝文句以外の何物でもないので、ご注意を。それよりも、ヌーボーに限ったことではありませんが、メーカーのクセを把握しておくほうが有効です。たとえば、ボジョレの帝王、ジョルジュ・デュブッフのものは少し甘めのリッチな感じ(ゆえに、個人的にはあまりヌーボーらしくないと思うのですが)とか、同じヌーボーでもメーカーごとに微妙に味が違うものです。

 と言っておいて何ですが、最も考察に値するのは、本当にヌーボーは早く飲み切らなければならないのか、という点です。ボジョレ・ヌーボーの「寿命」については、年内説(その年しか認めない。キビシイィ!)、翌年3月末説(根拠不明。年度末だから?)、1年説(次が出るまでは、腐っても最新ってこと?)などいろいろと言われていますが、どの意見も、長持ちしないというのが共通の認識のようです。けれども、1、2年経ったヌーボー(形容矛盾気味ではありますが)も、結構いけるんですよ、本当は。日光や異常な高温に晒されていなければ、バナナ香は保証します。ぜひ試していただきたいのですが、最近はなかなかお目にかかれないのが残念です。少し前なら、街のうらびれがかった酒屋に行けば、2年ぐらい前の大年増ヌーボーが大抵あったものですけどねぇ。

 こうした楽しみもある特異なワインですが、その楽しみを真に理解するためには、やはり、解禁日に飲むことをお薦めします。ヌーボーの本当の寿命は、ひょっとしたらこの一日だけかもしれません。そのワインの高い航空機代の一部を払うことにはなります。とても理性的とは言えません。しかし、新酒を愛でるのに理性的である必要がどこにあるのでしょう。酒神バッカスは享楽の神でもありました。そう考えると、あの成田のばか騒ぎも、ある意味では、正統的なヌーボーの楽しみ方だったのかもしれません。

(白水社総務部、東京都葛飾区在住)

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