いい言葉は遠くまで届く 天野祐吉
いい言葉は遠くまで届く。当時、クラシック音楽には無縁だったぼくにも、吉田さんの言葉はちゃんと届いた。
あれは、60年代のはじめだったと思う。ある晩、友人の家で、カザルスの弾くバッハのLPを聴いて、急にぼくもクラシック音楽を聴く気になった。で、そのとき、神田の書店で買った本が、吉田さんの『私の音楽室』(名曲三〇〇選)である。
LPレコードは高いから、慎重に選ばなければならない。「名曲三〇〇選」はそのためのガイドブックとして買ったのだが、どっこい、中身はとてもそんなものではなかった。なにしろ、選び抜かれた300曲の第1曲目は、人類が生まれる前から虚空に鳴っていたと思われる「宇宙の音楽」である。で、「レコードなし」である。
吉田さんのことを知らなかったぼくは、びっくりした。が、伊達や酔狂でそんなことをしているんじゃないことは、少し読み進むうちにわかってきた。著者がこの本で書こうとしているのは、名曲の紹介や解説ではない。名曲案内という形式を借りて、著者の考えている音楽の歴史を、さらには“音楽”という宇宙を書こうとしているのだ……。
エピローグで、吉田さんは言う。
「……私は、三〇〇曲の音楽をえらんだけれど、そのほかに、鳥の声や風や波の音は、絶対に欠けてはならないものだ。また、大都市の夜や明け方のさまざまのものの響きも、もしなくなってしまったら、私は、ひどくものたりなく思うだろう。音楽は、やはり、そうしたものの中に、つつまれながら、しかし、それ自体で完結した建物として、あるべきものだ」
あのとき、こういう言葉に出会っていて、ぼくはほんとうにしあわせだったと思う。この本だけではない。吉田さんの著作には、音楽という建物を突き抜けてぼくらに届いている言葉が、いつもぜいたくにあふれている。
第1巻 モーツァルト・ベートーヴェン
(モーツァルト──出現・成就・創造/モーツァルト──その生涯・その音楽/手紙を通してみるモーツァルト/モーツァルトのコンチェルト/モーツァルトの演奏をめぐって/ベートーヴェンに関する十二章/ベートーヴェンの表現/《月光夫人》と《エロイカ坊や》)
第2巻 主題と変奏
(『主題と変奏』〔ローベルト・シューマン/古典の複雑と精妙について/セザール・フランクの勝利/ベーラ・バルトーク/ショーペンハウアーのフリュート〕/四人の作曲家〔シューベルト/シューマン/ブラームス/マーラー〕/シューベルトのピアノ・ソナタ/ブラームスの『第二ピアノ協奏曲』/ブラームスの室内楽について/ブルックナーのシンフォニー)
第3巻 二十世紀の音楽
(現代音楽についての十章/現代音楽についての考察/サイバネティックとチャンス・オペレーション/近代的管理の欠如と現代日本の芸術について/科学・技術時代と音楽/能と現代音楽/武満徹の静謐の美学について/『二十世紀の音楽』)
第4巻 現代の演奏
(『現代の演奏』/現代演奏論/創作と演奏のあいだで/レコードと実演のあいだで/演奏の《質》について)
第5巻 指揮者について
(『世界の指揮者』/ブレーズについて一言/カール・リヒター/フルトヴェングラーのケース/ヴァーグナー「ニーベルングの指環」/モーツァルト「魔笛」/ヤナーチェク「利口な女狐」)
第6巻 ピアニストについて
(ホフマンとソロモン/ルービンスタイン/ミケランジェリ/バックハウス/ホロヴィッツ/グルダ/アシュケナージ/マルタ・アルゲリッチ/エッシェンバッハ/グレン・グールド/ポリーニ/『一枚のレコード』)
第7巻 名曲三〇〇選
(『音楽家の世界』/『名曲三〇〇選──わたしの音楽室』/「平均律クラヴィーア曲集」(第二巻)/マーラー「第八交響曲」)
第8巻 音楽と旅
(『街、雲、それから音楽』/ヨーロッパの休日/交友の《形》──ヨーロッパで考えたこと/ベルリンできいた音楽家たち/ザルツブルクの復活祭音楽祭/一批評家の死/プラーハの春/夏のザルツブルク音楽祭/失われし時をめぐって/チェーホフと現実)
第9巻 音楽展望
(日本の演奏家/音楽展望〔1971~75〕/音楽会評〔1969~75〕/音楽批評について/批評の精神)
第10巻 エセー
(『ソロモンの歌』/荷風を読んで/中原中也のこと/吉田一穂のこと/マネ頌/クレーの跡/クレーとベートーヴェン/宗達展をみて/『一本の木』/わが相撲記)
第11巻 私の好きな曲
(『私の好きな曲』〔バッハ「ロ短調ミサ曲」/モーツァルト「クラリネット協奏曲」/ベートーヴェン「弦楽四重奏ハ短調」/ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」/ヴァーグナー「ジークフリート牧歌」/ブルックナー「第九交響曲」/ドビュッシー「前奏曲集」/ストラヴィンスキー「春の祭典」/R・シュトラウス「ばらの騎士」 他〕/「トリスタンとイゾルデ」序説/「フィガロの結婚」の劇形式)
第12巻 カイエ・ド・クリティク1
(時事的発言〔1964~69年〕/音楽会批評〔1975~78年〕/カイエ・ド・クリティク〔音楽批評とは……/バロック音楽をめぐって/ベートーヴェンの手紙/民主主義とピカソ/報道の自由について 他〕/書評)
第13巻 音楽家のこと
(私が音楽できいているもの──モーツァルトの場合/チャイコフスキー/ショパンに関する覚え書/カラヤン/ショルティ/ベルマン/ブレンデル/アシュケナージ/ズーカーマンとバレンボイム/シェリングとヴァルヒャ/カザルス/シュライヤー 他)
第14巻 ディスクの楽しみ
(『今月きいたレコード』/『レコード、わが友、わが……』)
第15巻 カイエ・ド・クリティク2
(自伝抄/『響きと鏡』/『音楽の光と翳』/LPとカセット/CDの楽しみ/ヴィデオ・ディスク体験記/オペラの映像化 他/講演)
第16巻 芸術随想
(『音楽の旅・絵の旅』/ベラスケス──あらゆる画家のなかの画家/セザンヌ/カンディンスキーの絵/光琳とレンブラント/遠近法考/音楽のきこえる絵十選/芸術のもとにあるもの〔音楽とは/ルソーの絵/マネの《オランピア》/マネの絵/マネとドゥガ〕/私の推薦盤〔1975~85年〕他)
第17巻 調和の幻想
(『調和の幻想』/『トゥールーズ=ロートレック』)
第18巻 セザンヌ
(『セザンヌ物語』/『セザンヌは何を描いたか』/『マネの肖像』/アウグスト・マッケの絵)
第19巻 音楽の時間1
(今月の一枚/音楽展望〔1975~81〕/音楽会評〔1979~81〕)
第20巻 音楽の時間2
(今月の一枚/音楽展望〔1982~87〕/音楽会評〔1982~86〕)
第21巻 音楽の時間3
(今月の一枚/音楽展望〔1988~93〕/音楽会評〔1987~92〕)
第22巻 音楽の時間4
(今月の一枚/音楽展望〔1994~97〕/音楽会評〔1993~97〕)
第23巻 音楽の時間5
(今月の一枚/音楽展望〔1998~2003〕/音楽会評〔1998~2001〕)
第24巻 ディスク再説
(ディスク33篇/「絵と音楽のマチエール」ほか美術小論9篇/水戸芸術館について/芸術と政治〔丸山真男氏との対話〕ほか)
『吉田秀和全集』 完結にあたって
1975年に小社が刊行した『吉田秀和全集』は音楽愛好家のみならず幅広い読者の支持を受け、同年の大佛次郎賞を授賞しました。当初、この全集は1974年までの著者の著作活動を鳥瞰すべく全10巻の計画で進めてまいりましたが、全集完成後、氏の著作の続巻を望む声が多数よせられ、小社はそれらのご要望に応えるべく、1979年に3冊、1986年に3冊、さらに2001年より6冊を加えて今日に至りました。
すでに広く知られるように、氏は音楽批評のより高い境地を目指して現在も日夜精進なさっておられます。もとより小社は、氏の著作の全貌を文字どおり集大成することに大きな意味のあることを確信しております。つきましてはここに2003年までの氏の著作2冊を加え、全24巻の全集として完結するはこびになりました。今回の『吉田秀和全集』全24巻の刊行にさいし、読者各位のいっそうのご支援を願ってやまない次第です。


