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加賀野井秀一「わが青春の“現代思想”」 ―2005.01.11
私たちの青春時代は「実存主義」に彩られていた。言うまでもなく、そこでもてはやされていたのはサルトルとボーヴォワール。彼らは「自由」を前面に打ち出し、結婚という制度を認めず、二人そろって世界をめぐりながらラディカルな思想を説いているという噂であった。わが国では、『存在と無』の訳者である松浪信三郎さんたちが彼らのスポークスマンとなって、あたりには、「実存は本質に先立つ」だとか「自己欺瞞を告発すべし」だとか、難解ではあるが威勢のいい掛け声が飛び交っていたものだ。 まさしくその難解な方面はさておきながら、私はすぐさま、彼らの威勢のよさにイカレてしまった。当時(1960年代後半)、四国の高知で高校生活を送っていた私は、黒の詰襟姿で、サルトルの『実存主義とは何か』を小脇にかかえ、それも表紙が人から見えるように心をくばりながら、街中を闊歩していたのである。まあ、今どきの女子学生たちが、ブランド品のネーム部分をひけらかしながら身につけているようなものだろうか。思い出すだに、恥ずかしくも、なつかしい。 だが、こんな背伸びの空々しさには、本人が一番よく気づいているものだ。私の知ったかぶりは、ほどなく冷水を浴びることになる。ある日、出会った一年上の先輩Yは、私の座右の書を見て、こともなげにこう言った。 「なんだ、まだそんなの読んでいるのか。仕方ないなあ。」 青天の霹靂であった。動揺をかくしきれぬまま、 「じゃあ、先輩はどんなものを読んでいるんですか」と、あわてて訊きかえす私に、Yは、また静かな調子でこう付け加えた。 「たとえばメルロ=ポンティ。『行動の構造』というのが翻訳されているけれど、これなんか、おそろしく厳密なものだ。サルトルなんて目じゃないよ。まあ、きちんと読むためには、ゲシュタルト心理学だとか現象学だとかいうものをいろいろ勉強しなくちゃならないようだがね。」 彼の大人びた物言いは、私の頭上に振り下ろされた鉄槌の一撃であったと言うべきか。その時から私は、この『行動の構造』を読みはじめる。だが、読解は難渋をきわめた。冒頭からして、こんな調子なのだ。「われわれの目的は、〈意識〉と〈自然〉─有機的、心理的、さらには社会的な自然─との関係を理解することである。ここで自然とは、たがいに外的で、因果の諸関係によって結ばれた多様な出来事を意味する」……どう読んでみてもさっぱり分からない。高校二年生の頭にはいささか荷の重い読書ではあった。 それでも、私は意地になっていたのか、やがて邦訳されたメルロ=ポンティの主著『知覚の現象学』上下巻をも読み継ぎ、少しずつ彼の思索に沈み込んでいった。これがやがて私の一生の研究方向を決めることになろうなどとは、ゆめゆめ思わぬままに……。そう、本当に不思議なものである。私たちは、何をきっかけにしてライフワークを持つようになるのだろうか。やがて私は大学に進み、仏文科に籍を置いて、丸山圭三郎・木田元両先生の教示をあおぎ、さらにはメルロ=ポンティの国フランスに渡って、彼をはじめとするフランス現代思想を飯の種にすることとなるのである。 1980年、初めてあこがれのパリに着いたとき、私はまっ先に二つのことをした。それはまず、メルロ=ポンティの墓を探して花をたむけること、そしてもう一つは、映画『シベールの日曜日』のロケ地ヴィル・ダヴレーをうろつくことであった。今ではペール・ラシェーズ墓地の有名人リストにも載っているメルロの墓だが、当時はだれも所在を知らず、これを見つけるためには彼の従弟ジャック・メルロ=ポンティの手さえわずらわせることになってしまった。 当初、私は、メルロの親しい友人ポール・リクールに師事しようとして、彼に手紙を出していたのだが、やがてカナダから返事が届き、しばらくはフランスを留守にするので、エマニュエル・レヴィナスかミシェル・アンリにつくといい、といったアドバイスが添えられていた。だが、残念ながら、レヴィナスはすでにソルボンヌを退官していたし、アンリはパリにいない。困っていた私の師となってくれたのは、結局、ポストモダンの思想家として有名なジャン=フランソワ・リオタールであった。 こうして、私が所属するのは、おのずとパリ第八大学となり、ヴァンセンヌの森からサン・ドニの労働者街に移転したばかりの校舎に通うこととなる。フランスでできた知人の多くは、あんな「ならず者」たちのいる左翼的な大学はやめろと忠告してくれたが、どうしてなかなか、この「ならず者」の中には、ジル・ドゥルーズ、アンリ・メショニック、ルネ・シェレールなど錚々たるメンバーが肩を並べており、新時代の息吹は、ソルボンヌなど比較にもならぬほど漲っていたように思われる。 私を自宅に呼び、論文への適切な注意を与えた後、奥さんをも交えて一緒にクロワッサンをほおばりながら、茶目っ気たっぷりの話を聞かせてくれたリオタール。右手の人差し指をくるくると回転させながらプラトンのように上方を指し、何時間もぶっ通しで授業を続けたドゥルーズ。いつもよれよれのコーデュロイの上下に身を包みながら、しゃれたリズムについて語ったメショニック。だれもかれもが、なつかしいわが青春の師たちである。 その後、リオタールは、日本にもやってきて嬉しい再会を果たせたが、やがて放射線治療ですっかり頭髪を失い、往年のアルトーのような異貌をも失って他界した。最後に見かけたのは、テレビのなかでマルローについて語っている彼の姿である。ドゥルーズは、呼吸器の疾患が耐えがたくなり、ニール街のアパルトマンの窓から飛び降り自殺をした。いずれも、私の中では、時々うずく傷となっている。 「現代思想」、それは私にとって常に更新されていく新しい冒険だが、一方では、これら数々のなつかしい固有名詞をともなった、一期一会の青春時代にほかならない。師は老いて去っていった。大人の孤独を知らされた弟子は、さて、これからどうしたものだろう。 こうした問いを考え続けていくためにも、いよいよ白水社からの刊行がはじまるシリーズ「哲学の現代を読む」を、私はわくわくしながら待っている。 (筆者=中央大学教授) |
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リオタール夫妻と加賀野井青年