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連載・エッセイ

枡野浩一「つ た え ら れ る」 ―2005.07.11

 ウズベキスタンにて(撮影=穂井田卓志)

 伝わる! と本気で信じて書いた言葉も実際には伝わらないケースのほうが多い。……いや、伝わらないのが基本かもしれない。

 かといって「きっと伝わらない」と先まわりしてあきらめることは絶対ゆるされない。

 本気で伝わると信じて全体重をかけないと、奇跡的に伝わるという瞬間など永遠に訪れない。

 私が今あなたに心から伝えたいと思って書き始めたのは、そんな「かんたん」な話だ。

 拙著の中でいちばん売れている『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)という入門書の題名は、糸井重里さんの考案によるものである。糸井さんは帯に推薦文も書いてくださった。

 キャッチコピー

〈短歌にすれば、その思いは言える。〉

 リードコピー

〈言いにくいことを、なかなか言えない思いを、わかってるけど言葉になりにくいイメージを、マスノ短歌にしたら、見えるようにできる。

つ た え ら れ る。(糸井重里)〉

 最後の「つたえられる」は、たしか糸井さんから届いた原文でもこのような表記になっていたと思う。もしかしたら文字のサイズを変えるなどして適度に強調してほしいということだったのかもしれないが、デザイナーの意向で、原文のとおりにレイアウトされた。

 全部ひらがなの「つ た え ら れ る」は、どこか呪文のようにも見える。本当はそう簡単には伝えられないから、言葉それ自体が祈りのかたちになっているみたいな。

 書名に寄り添うようにして、私は自らの短歌を「かんたん短歌」と呼ぶようになった。

 簡単に詠める短歌、という意味ではない。簡単な言葉しかつかわずに感嘆してしまうような短歌を、という願いがこめられている。それも糸井さんがおっしゃっていたことだ。

 同書を書きながら私はNHKの昼番組「スタジオパークからこんにちは」にレギュラー出演し、短歌講座をやっていた。完全口語であえて散文的に仕上げる枡野浩一的短歌に名前をつけてくださいと言われ、固有名詞をいれた「マスノ短歌」とかだとNHK的にアレだということで「かんたん短歌」が採用された。よく考えると今は一般名詞になっている「川柳」だって、もとは柄井川柳という人名から来ているのだから、「枡野」という呼び名にならなかったのは残念だった気もする。

 上から読んでもカンタンタンカ、下から読んでもカンタンタンカ。そんなキャッチフレーズと共に「かんたん短歌塾」は一年続き、『かんたん短歌の作り方』はロングセラーになり、ウェブで短歌を公募する『かんたん短歌blog』も始まり、「かんたん短歌」は短歌の世界でも(やや蔑称っぽく)定着した。中身を読まずに書名だけを見た歌人に「短歌は簡単につくれる、などと言う馬鹿がいる」みたいなことを短歌誌に書かれたこともある。

 誤解をはらみやすい呼称であることは糸井さんも最初からわかっていて、私もそれを面白がって確信犯的に広めてきたつもりだが、しかし誤解をはらみすぎてしまっただろうかと時々ちょっと煩雑さを感じることもある。

 かんたん短歌VS本物の短歌、みたいな構図で枡野浩一的短歌が軽んじられるのを見たときなどだ。それは枡野浩一VS穂村弘、という構図に置き換わる場合もある。そんなにシンプルに二項対立する問題ではないのに。

 詩は伝わらないと思って書くものだと、ある詩人が言ったらしい。伝聞なので正確なニュアンスはわからない。その発言が生まれた文脈も知らないから、私はここで詩人の発言自体をうんぬんしたいのではない。ただ、その詩人の発言をひいて「かんたん短歌的なるもの」を否定しようとする歌人たちの心の動きを感じてしまって、それは半分以上私の被害妄想だと思っていただいてよいのだが、でも「かんたん短歌」を嫌いな歌人たちが「詩は伝わらないと思って書くものだ」という言葉に救われるのはよくわかるから腹立たしい。

 最初から「伝わらない」と思って書く言葉は、最初から「伝わる」と思って書く言葉と同じくらい思考停止していて、おめでたい。

 そうではないでしょう、私たちの言葉は。心から伝えたい、どうにか伝えたい、もしかしたら伝わるかもしれない、いや伝わらない可能性のほうが高い、どうせ伝わるもんか、……さまざまな段階で揺れ動きながら書き、その結果伝わってない、たまに伝わったようで誤解だらけ、そういうのが言葉でしょう?

 簡単な言葉で伝えようとすることは、もちろん難しい。物事の本質を捉え、余計なものを削ぎ落とす必要があるからだ。削ぎ落としてしまったものの中にも大切な何かがある。だからまた書く。別の角度から書いてみる。

 元配偶者が裁判所での約束を守らず、五歳になる息子に離婚後ずっと会えずにいる。こんなふうに子供に会えていない父親が大勢いることは離婚して初めて知った。もう会わない、と決めることで新しい生活を始めた男たちとも知り合った。けれど私は「決める」ことができない。会えない、会いたい、きっと会える、会えないかも……狂おしい宙ぶらりんな希望を本気で抱き続けること、それは何かを伝えようとする苦しみにとてもよく似ている。

(筆者=歌人)

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