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坪内祐三「白水社の本を集め揃えた学生時代」 ―2005.09.11 白水社が創業90周年を迎えるという。 私が白水社の本を意識して買うようになったのは、今から30年ほど前、私が高校生の頃であるが、あの時すでに白水社は60年の伝統を誇る出版社だったわけか。 それからさらに30年。らしさを失わずにたいしたものである。 私が意識して買った白水社の最初の本とはもちろん野崎孝訳のサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』である。 この『ライ麦畑でつかまえて』で、私は、白水社の「新しい世界の文学」というシリーズを知った。 透明の、ビニールではなく、何と呼ぶのだろうか、あの独特の手ざわりを持った(その手ざわりが好きだった)カバーでつつまれたハンディーな装丁(造本)。 それはまさに新しい「世界の文学」だった。 そのシリーズによって、私は、それまで私が知らなかった本当の文学、同時代性を持った文学を体験(勉強でなく体験)できた。 そのシリーズには欧米の様々な作家の作品が収められていた。 クロード・シモンやマルグリット・デュラス、マンディアルグらのフランス文学。カルヴィーノやパヴェーゼらのイタリア文学。ボルヘスやマヌエル・プイグらのラテン・アメリカ文学。 しかし『ライ麦畑でつかまえて』でそのシリーズに出会った私は、英米文学、特にアメリカ文学を中心に読んでいった(集めていった、と書いた方がより正確である)。 カート・ヴォネガット・ジュニアの『母なる夜』(翻訳はまだ無名時代の池澤夏樹だ)、ウィリアム・スタイロンの『闇の中に横たわりて』、ジョン・バースの『旅路の果て』、それからジョン・アップダイクの『走れウサギ』に『ケンタウロス』に『鳩の羽根』などをである。 ロバート・ペン・ウォーレンの『すべて王の臣』やジェイムズ・パーディの『マルコムの遍歴』などは既に品切れで、古本屋をまわって探した。なかなか見つからなかったのはマルカム・ラウリーの『活火山の下』で、だから中野サンプラザの古本祭りで安く入手出来た時は嬉しかった。さらにレアだったのがナボコフの『賜物』と『絶望』で、これは、手に入れるまで8年ぐらいかかった。 そうやって集めた「新しい世界の文学」20数冊を本棚の1カ所に並べ揃えたら壮観だった。美しかった。 だから1979年頃、装丁が、ハードカバーのありふれたものに変わってしまった時は悲しかった。もはや「新しい世界の文学」ではなくなってしまった気がした(と思いながらも、バーセルミの『雪白姫』やマラマッドの『ドゥービン氏の冬』やマヌエル・プイグの『ブエノスアイレス事件』や、『大英博物館が倒れる』をはじめとするデイヴィッド・ロッジの作品はしっかりと購入した)。 白水社の箱入り本も好きだった。愛読した。例えばヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』や『ヤン・コット演劇の未来を語る』やマーティン・エスリンの『現代演劇論』やR・P・ブラックマーの『ヨーロッパ小説論』などの。そうそう白水社の箱入り本といえば、私は大学院でジョージ・スタイナーを修論に選んだのだが、白水社から出ていたスタイナーの『トルストイかドストエフスキーか』は、東京中の古本屋や古本祭りを探しまわっても全然見つからなかった。ようやく入手出来たのは大学院を出た年の夏の船橋西武の古本祭りの時だった(おかげで原書で通読せざるを得なかったから、少しは英語読解力がアップしたかもしれない)。 『ヨーロッパ小説論』と『トルストイかドストエフスキーか』は数年前に復刊されたが装丁が今イチだったのが残念だ。箱なしは仕方ないけど、もう少し気のきいた装丁で復刊してもらいたかった。 白水社の箱入り本といえば、全集物も忘れ難い。 特に哲学者の全集。 ベルグソン、ジンメル、オルテガといった渋いライナップだった。学生時代、既に品切れだったこれらの全集の端本を、早稲田の古本街で1冊1冊、捜し集めて行くのは楽しみだった。 白水社の伝統の一つに演劇書がある(先に名前をあげたヤン・コットやマーティン・エスリンの本もそういう伝統の中で刊行されたわけだ)。 その時代時代の中で白水社から様々な演劇書(戯曲)のシリーズが出されたが、私が印象に強いのは1970年代初めに出た「現代演劇」というシリーズだ。たしか30巻近く刊行され、カラフルな色違いのこの全集を、やはり古本屋で、少しずつ集めていった(ミラン・クンデラという劇作家を私はこの全集で初めて知った)。 この全集も、「新しい世界の文学」同様、本棚の1カ所にまとめて並べると美しかった。 そう、白水社の本は、ある程度冊数を揃えて本棚に並べると、とても棚映えするのだ。それほど自己主張はなく上品な装丁であるのに、きちんと個性的なのだ。 それは例えば、みすず書房や晶文社などの本にも共通していた。 しかしみすず書房や晶文社の装丁はワン・パターンだった(もちろん、そのワン・パターンを私はとても愛していたのだが)。それに対して白水社の本は、シリーズや刊行物ごとに、微妙に(時に大胆に)装丁が違っていた。 それでもやはり、その本ごとに、白水社らしさが表情ににじみ出ていた。数を並べてみると、その表情がさらに豊かに伝わってくるのだ。クセジュ文庫の表情も私は好きだ。 ところで白水社といえば、一番の伝統はフランス物である。 私は大学の第二外国語でフランス語を選択した。クラスの大半の連中は、当時出たばかりの三省堂のクラウン仏和辞典か伝統ある大修館のスタンダード仏和辞典を使っていた。しかし私はシブく白水社の新仏和中辞典を愛用していた。ちょっと小ぶりなそのサイズが私の小さな手によくなじんだ。 私のフランス語の成績は最悪で、結局私のフランス語は物にならなかったけれど、それはこの辞書のせいではない。 (つぼうち ゆうぞう 1958年、東京生まれ。『東京人』編集者を経て文筆業に。2001年、『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』で講談社エッセイ賞受賞。)
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