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連載・エッセイ

切通理作「僕にもサンタさん来てほしい」 ―2005.11.11

 1970年代に子どもだった僕は、「特ダネ登場」という日本テレビの押坂忍が司会をやった夜7時台の番組を毎週見ていた。ある日、ちあきなおみがゲストで出てきて、「押坂さん、私ね、この番組に出て……」と自分語りを始めたら、押坂忍がまったく無視して台本どおりの進行。テレビの前の僕がドキリとしていると、ちあきなおみは「あ、ダメですか……」と一歩下がった。それに対しても押坂忍は反応しないで番組を進める。

 ふだん親しみをもって見ているテレビの世界が作り物だということを、改めて知らされたハプニングだった。

 そういえば当時ある歌謡番組で、ステージの上の今陽子が客席に向かって「××市にお住まいの○○さん、すぐにご家族に連絡してください。ご自宅が火事になっています」と満面笑みで言ったのにも虚をつかれた。80年代以降のテレビ番組だったらそうしたハプニングもネタにするかもしれないが、あくまで進行は崩さず、でも時折垣間見える「この世界は作り物なんだ」という感覚はいま思えばなかなかオツなものがあった。

 話は「特ダネ登場」に戻るが、これは毎週奇人変人を紹介するという番組だった。小学生のヌードカメラマンが紹介されたことがあった。僕と同じような年齢の子どもが、二十代の美女を海岸とかに連
れて行って、岩肌の上でポーズを取らせ三脚立てて一眼レフで裸を撮りまくってる。

 うらやましいというか、自分とは別次元というか、少年の父親も非常に理解があるということだった。

 実に「解放的」な家庭である。当時はテレビでよく、そうした解放的な一家が紹介されていた。子どもに帝王切開の手術のフィルムを見せたという性教育の専門家や、家族全員でヌードになって記念写
真を数年に一回ずつ撮っていると言ってその写真をテレビで公開している一家もいた。子どものうちからポルノ雑誌を見せているという親もいた。

 やっぱ当時「ヌード」というのは解放の記号だった。スウェーデンとかヌーディスト村とかは毎週のように紹介されていた。

 僕が大きくなったら、とてつもなく解放的な世の中になっているのだろうと思った。

 しかし、そんな世の中は来なかった。

 幼い頃からセックスを見せるのは「トラウマ」になるし幼児虐待だという常識が生まれ、また絵画などの芸術表現で女性の裸が描かれるのも、たとえ美の対象にしているにせよ女性への一方的なまなざ
しだとフェミニズム運動家から批判されるようになった。

 いまや、誰も無邪気に「ヌード」の解放を言う人はいない。残念だ。

 僕がここで言っているのは「性の解放」とは似て異なる。性の解放はもうとっくになされていると言う読者も多いであろう。やりまくっている男女は少なくない。畜生!

 オノ・ヨーコが妊婦姿のヌードを世間に晒したように、「ハプニング」としてのヌードの復権をのぞみたいところだ。

 そんな僕がここ数年少女のように胸をときめかせていることがある。

 それは「サンタ服」を着る女の子、である。

 サンタ服というものを、いつから女の子が着るようになったのだろうか。いまやドン・キホーテでも当たり前に売っている。

 サンタさんというのは普通おじいさんだろう。貧しい子どもとかにプレゼントを分けてやる老人だろう。

 女の子がそれを着る。つまりそれは、プレゼントを分けてあげる存在ではなく、女の子が贈り物になっているということだろう。

 サンタ服を着る女の子は、エロい。太ももに目が行ってしまう。もう女の子の存在自体がハプニングである。聖なる夜の冒瀆である。

 しかしなにもそんな女の子を「お持ち帰り」したいのではない。いや、お持ち帰りできるんならそれに越したことはないが、あえて真面目に言えば、そこに私は「ハプニングとしてのヌード」と同質の
ものを見るのである。

 そんなもの見ないって言う読者も多いかもしれないが、押坂忍のように無視して話を進めたい。キャバ嬢とかではなく、普通の女の子がサンタ服を着て、クリスマスには彼氏の前ばかりじゃなく、街を
闊歩して欲しいのである。そういうハプニングを、道行く人々にも味合わせて欲しいのである。

 そう思っていたら、知り合いのおしゃれエロな女の子が、露出度の高いサンタ服を自前で作って友だちにプレゼントしているという話を聞いた。

 鼻血ブーである。もっとこのような運動を、世に広めるべきではないだろうか。型紙とか付けて、サンタ服普及の書を作りたいものである。

 女の子がサンタの服を着るというのは、言ってみれば「コスプレ」だろうか。

 たとえばナース服やセーラー服のコスプレは、本来それを着ている病院や学校といった空間ではあくまで日常的な、むしろ身を律するための服装が外からは禁欲的なエロスをかきたてる。そうしたHな視点が存在することもわかった上で面白がって着ており、だからといって露骨に性を売り物にしているわけではないというところには、通じるものがあるような気がする。メイド服のそれに至っては、もはや時代も場所も遠い世界のコスチュームとして、三次元でありながらアニメ的な二次元と境界がなくなってしまう戯れの意味合いが強いかもしれない。

 サンタ服は、制服系とメイド服系の中間あたりに存在しているものとも言えるだろう。日常的に着ることはあり得ないし、しかし一年に一度は我々の世界にサンタさんはやってくる。それがたまたま女の子の姿をしているのだ。

 ただコスプレ文化そのものとは微妙に違うような気もする。コスプレはファッションではなく、それを身にまとう側の内面的な「なりきり感」を表出しているものであり、メイド服に見られるように、あくまでアイデンティティは二次元にあるようだ。それに対し、サンタ服は、それを見る側の視点に立って着ているのだと思う。

 コスプレよりもうちょっとナマの性欲や切実感に訴え、かつ直接的なものからはそらし続けるポップなエロ、つまり「おしゃれエロ」なのだ。

 もちろん「クリスマス」という、キリスト教信者でなくても、子ども時代に靴下の中のプレゼントを楽しみにしていた記憶がベースとなっている、非日常でありながら原風景的なあたたかさを背景にしていることも欠かすことの出来ない要素だろう。靴下ならぬ女の子のサンタ服の下にはなにがあるのだろうか……とか言ったりして!

 そんなことを考えて、クリスマスの本なんかを読んでいたら、サンタさんってもともとおじいさんだったわけではなくて、少女の姿でも絵が描かれていたということがわかった。

 そしてクリスマスっていうのはキリスト教の王道の儀式というよりは、貧しい子ども向けにオトナたちが用意したものだということも。だったら解放されない貧しい僕のような中年にとっては、女の子サンタは一年に一度のハプニング。もっともっと広まってほしいものである。ダメですか?

(筆者=評論家)

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