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田中裕介「エフェメラルな永遠─英国執事文化の過去と現在」 ―2007.03.12

 かつて夏目漱石の小説を「依頼、代行、報告」という切り口から分析してみせたのは蓮實重彥であったが、考えてみれば、ほとんどのイギリス小説は「依頼、代行、報告」という主題によって織りなされているともいえそうである。漱石が敬意を払っていたジェイン・オースティンの小説がまさにその典型である。『高慢と偏見』では、一家の長ベネット氏が書斎での孤独を至上の喜びとする生活態度であるために、娘たちの恋愛・結婚をめぐりもちあがる大小の事件では、妻や他の姉妹、さらには妻の弟が家長の意思を「代行」して行動する。しかし「依頼、代行、報告」が円滑な過程であるならば、小説は成り立たないであろう。ベネット家の末娘の不始末に際しては正式な「依頼」を受けたわけではないダーシー氏がもっともよくベネット家の意思を「代行」して解決をつけえたように、根拠なき「代行」がもっとも正しい「代行」と最終的に判明するといったような「代行」をめぐる逸脱と交差、軋み合いと折れ合いこそが、多くのイギリス小説の骨格を成している。そうであるならば、使用人のなかでも上流階級の家政を主人に代わって執り行っていた人々がその職務に忠実であるかぎり、小説内で不在に等しいのは当然と思われる。いわゆる「執事」が、『高慢と偏見』のベネット家の水準であれば存在したにちがいないという前提で小説を精読するとしても、それゆえただ一箇所、娘たちに父親の居場所を伝える役割で「バトラー」が登場するのみである。

 十九世紀初頭のこの「バトラー」は、しかしながら、カントリー・ハウスの伝統を一身に体現するカズオ・イシグロ『日の名残り』のスティーヴンズ(時代設定は一九五六年)のような「バトラー」=「執事」とはかなり異なるようだ。J・ジャン・ヘクトの『十八世紀イングランドの使用人階級』によれば、十八世紀では使用人の階層の最上位にあったのは、「ランド・スチュアード」「ハウス・スチュアード」であり、それぞれ所有地、邸宅の管理を担っていた。次いで、「馬屋番」「台所番」、さらに「料理人」「土地管理人」とつづき、その次の「従者」(valet)の下に位置するのが「バトラー」なのである。職分としては、家政の監督とはまったく関係なく、ワインと食器の管理を主に担当していた。そもそも「バトラー」の語源は、ワインセラーの管理者を意味するフランス語bouteillierである。

 十九世紀に「バトラー」の地位はどのように変化したのだろうか。当時のベストセラー、イザベラ・ビートン『家事読本』(一八六一年)をめくると、「使用人」に一章が割かれている。「男性使用人の数は、チェンバレンやハウス・スチュアードを頭に戴く召使の一団を抱える広壮な邸宅の持主から、ひとりのフットマンが唯一の男性使用人であるつつましい家庭の主人まで、財産と地位によって大きく異なる」。そして使用人の筆頭として「バトラー」が挙げられているのだが、明らかにこれは「バトラー」の地位が向上したというよりも、「つつましい家庭の主人」ほどではないにせよ管理すべき土地も大邸宅ももたない「ジェントルマン」が家政維持に必要とした比較的少数の使用人に「バトラー」が含まれていたという事情がまず存在するだろう。

 ヴィクトリア時代に結果的に召使の序列の上位に昇った「バトラー」が、家政の統括を担うようになり、加えてある種の象徴的意味さえ帯びるようになったのは、一八五○年代から七○年代にかけて、地価高騰のために所領購入を通じて「ジェントルマン」になる通路が狭められた結果、その資格として、土地所有が不可欠の前提ではなくなったという歴史的経緯が大きく関わっている。「ジェントルマンをジェントルマンたらしめるものは、広く有閑階級(=消費階級)の生活態度とジェントルマンの教養なのである」(村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』)という事態が生じていた。洗練された消費生活においてこそ、主人が来客と囲む食卓に気を配り、賛嘆を集めるワインと食器を提供する「バトラー」が、「ジェントルマン」であることを示す記号と化したのである。

 主人が「ジェントルマン」であることは、召使にして「ジェントルマン」である「バトラー」が仕えていることによって証明される。「ジェントルマン」理念に拘束されたこの主従関係は、それ自体で、ヴィクトリア時代以前の貴族の「ハウス・スチュアード」が担った家政の「代行」としての関係とは質を異にしている。ヴィクトリア時代後期以降に、主人よりも優越した知性を示す召使として「バトラー」が描かれるようになった─シャーロック・ホームズ物語の「マスグレーヴ家の儀式」が印象的である─のは、この関係の発生を受けてのことであった。こうして成立した、優劣が逆転した主従関係を特徴とする「バトラーのステレオタイプ」(新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ』)は、二十世紀に入ると、その「代行」の逸脱という性質のために物語の豊かな源泉となり、そこからP・G・ウッドハウスの「ジーヴズ」ものをはじめとする小説が汲み出された。この物語装置を通じて、イギリスはその伝統のイメージを流布してきたといえよう。

 『日の名残り』のスティーヴンズという「バトラー」は、「代行」に執着することで「代行」の逸脱を表してしまう逆説的な物語装置である。元ハウスキーパーとの再会を求めての旅の途上、村の食堂で彼は心ならずも主人であった貴族になりすます。その当座しのぎの「代行」を結局見破られた彼は、しかし「圧倒的な解放感」を得る。『日の名残り』は数々の「代行」の失調によって、「代行」者の悲喜劇的な様相がさらけ出される小説であるとはいえる。だがここでイシグロは、イギリスの伝統という神話を解体するために刃をふるっているのではない。「バトラー」の「代行」するものは、そもそもその主人や家庭という実体よりもむしろ、「ジェントルマン」という絶えず揺れ動くまた別の記号だったのであり、その記号の連鎖にこそイギリスの伝統という何かしら永続的なものは縒り合わされているのである。モンタージュされた「バトラー」像を呈示する『日の名残り』は、永続を装うものの揺らぎを見定める視点を内在させている一方で、伝統という偶像の破壊に至りつくのではなく、はかない記号の交換を積み重ねるそのあわいに永遠の伝統がひそんでいるのではないかという認識を呼び起こす。イギリスの伝統とはつねにそのようなものであったのだろう。

 現在ではもはや「バトラー」は希少な存在であるが、そのイメージが生きつづけているかぎり、実体を欠いた記号を通して永続する伝統を感受する行為それ自体は変わらない。東京の「執事喫茶」で「バトラー」の束の間の給仕を受けて、スコーンとクローテッド・クリームの舌触りに何か日常を越えた時間の流れを感じる女性たちも、それとさほど違った行為をしていることにはならないかもしれない。「バトラーズ・イン・ザ・バフ」というサービスを利用して、パーティーで半裸の男たちの給仕を受ける現代イギリスの女性たちも、また?

(筆者=イギリス文学・文化研究)

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