
生きてるものはいないのか? いるのか? そう問いかけるものは生きているはずだから、生きてるものはいるのだ。しかし、生きてるという状態は、死につづけている状態であるのだと思う。
人は、いや生物は生まれながらに死につづけている。行き着く先は死である。
僕たちは生まれながら何かを──寿命といっても良いしもっと簡潔に命といっても良いかもしれない──を、少しずつ消費していっているはずだ。だけど、僕たちにその実感はなく、どちらかというと何かを、積み上げていっているような実感を持っている。だから生きられるのだ、と思う。その錯覚といおうか、思い込みといおうかがあるからこそ、僕は生きていける気がする。
その力、即ち、そう錯覚させる何か、に生きるということの神秘の答があるように思う。
いや本当は、生きるってことに神秘など無い。
僕らの生は本当はのっぺりしていて、陰影も無く、絶望的に平坦であるのだと思う。僕らは生きるためにそこに陰影を見ようとする。それは神であったり、愛であったり、聖であったり、邪であったりする。それが無ければ、生が絶望的に平坦であることを認めてしまえば僕らは今すぐ死にたくなる。それを認めない力がきっと生命力の根幹の部分にもとからセットされていて、僕はその力を卑怯とも思わない、その力を賞賛する。
僕らは死を、性を、目の届かない所に隠そうとする。それはそれらが本質的に、汚らわしかったり、美しかったり、聖なるものであるからではないような気がする。それらを隠すことで僕らはそれらを聖なるものにしたいのだ、きっと。
何かは隠されることで聖性を帯びる。僕らは隠されたものを露にしたいと思い、また、隠したままにしておきたいとも思うのだ。隠されたものは聖性と同時に、価値を帯びる。お金が重要な世の中にあっては、価値の方に意味がある。昔は聖性の方に意味があったのかも知れないけど。
だから例えばエロ産業は大きな富を得てきたけど、それは今後も磐石ではないと思う。性は露になりすぎている。もう、価値は薄れていくだろう。いやでも個人的な、つまり物象化された性ではなくて、もっとプライベートな性はやっぱり隠されてるから、今後そっちの方にマーケットが拡大侵食していく可能性はあるが、まあ、今はそれについては良い。
価値にあんまり左右されないのは死だ。死は売り物になりにくい。それでもまあ、戦争映画が未だに人気なことや、恋人が死んでいくような話が未だに人気であることを考えると、全くお金にならないと言うわけはないが、そういうメディアが扱う死は装飾が施されていて全く実在感を持っていない。それは、単に作り手にスキルが無いのか、それとも死は隠されてないといけないという禁止の念がそうさせているのか僕にはわからないけど。
そう、これはまだ、僕にはなんでそうなのかわからないのだけど、僕の住む日本では死はとにかく隠される。隠され遠ざけられた死が、変な聖性を帯びて行き、それを間近に見たいと思う欲求が近頃の不可解な殺人事件の一因になっている、なんて言えば喜ぶ人も居そうだが、僕はその考えを、自分の考えであるけどそんなに支持していない。殺人はどうも、ずっと前からあり、ずっと前から不可解であったように思うからだ。
「人はなぜ人を殺すのか?」この問が思えば僕のスタートであった。10代の終わり、僕は人が人を殺すことを小説に書きたいと思った。芝居を続けるか、小説を書くか、それとも家業を継ぐか、サラリーマンにでもなるか、どうしよう? 生きていけるのか? まあなんとかなるだろう。そんな風に色々考えていた、思えば、これまでの短い人生で一番モヤモヤした時期のことだった。
別に人が殺したかったわけではない。だからどうして人が人を殺すのか、その欲望はきっと抑圧されているか、たまたままだ薄い土の下に埋もれて姿を見せていないだけで、僕の中にあるんじゃないか、とぼんやり思っていたから、「人はなぜ人を殺すのか?」その問について考えてみたくなった。
何かを考えようと思った時、僕が取った行動は書くことだった。
今も考えている。ここ数年の思考の暫定的な断面が以上にずっと述べたようなことである。思考は流動的で、断面を見ようとしても、切る場所やタイミングによって全然違う形を見せる。考えるのに、言葉では大雑把過ぎる。だから芸術があるのじゃないか? 僕は考える道具として芸術を使う。だから書いてるんだと、最近わかった。はっきり言ってなんで書いてるのか最近まで良くわからなかった。書いてお金がもらえるようになると、生活のために書いてるのだ俺は、などと思うことも出来たけど、それより前の、お金などもらえない、ただ自分の時間を消費してまで書くような意味のわからない力は説明できない。誰に頼まれたわけでもなく、書いても誰も喜ばないし、お金ももらえないようなものをずっと書いて来たけど、その理由として納得がいく答は最近見つかったわけだ。
ということは、僕は褒められたくて何かを書いてるわけじゃないことになる。だけど褒められると嬉しいから、岸田賞も嬉しいのだけど、それで何かが変わるようじゃ駄目だ。思考の自由が奪われるようじゃ意味が無い。なのであんまり喜ばない。僕は芸術を使って考える、そこで得られるものは思想だけだ。でもお金はくださいね。それと名声もくださいね。ああ、バランスがむずかしい。
この文章で結局何が言いたかったのかというと、別に何も言いたくはないのだ。だから、この文章もどこに流れ着きたかったのかわからないでしょ? 最初から行き着く先を知っている思想の旅なんて面白くも無い。どこに行っちゃうかわからないものが僕は好きだ。だから、『生きてるものはいないのか』も、どこに行っちゃうつもりかわからない。読んだ人がなんとなく考えてくれれば良いと思う。そして、思考するときの道具にしてください。2100円は安いと思うのでたくさん買って、部屋に飾ったり、友達やご両親などにあげると良いと思います。
(筆者=劇作家・作家)
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生きてるものはいないのか
前田司郎著
あやしい都市伝説がささやかれる大学病院で、ケータイ片手に次々と、若者たちが逝く——。とぼけた「死に方」が追究されまくる、傑作不条理劇。第52回岸田國士戯曲賞受賞作品。
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