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円城塔「小説の青写真」 ―2008.07.25

 小説家ということになって一年が過ぎた。人によって違うのだろうが、自分としては新人賞をくれるという電話をもらった時点から小説家ということになったのだろうと考えている。だから余程外的な要因からそうなっている。世の中には生まれながらの小説家とか、死んでからの小説家とかおそらく様々いるのだろうと思われる。
 小説家になって何か変わりましたかと誰もきいてくれないので、自分できいてみることにした。別に何も変わっていない。そういえば先には生まれて初めて確定申告に行くことになったのだが、経費というのが全くなかった。小説を書くのに何の経費が必要なのか、今でもよくわからない。取材旅行に行くとかがあれば話はまた別なのだろうが、ただの勤め人をしているために何処へも行かない。せいぜいが会社までの交通費。会社から支給されてしまっている。
 別に何もないのですけれども。何もないということはないでしょう。特には。資料代とかかかるのじゃあないのですか。本は買いますけど。じゃあそれで。領収書とかとっていないですよ。このあたりで税務署員さんが絶句していた。
 別に常日頃から本は読むので、小説家になったから本を読むとかいうことはないのである。生まれついての小説家なら、ようやく経費を計上できるようになったと意気込むのかも知れないのだが、なんとなく誰かに向けて謝りながら書いている身としては度胸がでない。ただそれまでの生活の延長である。
 結果、追加で税金を納めて帰ってきたが、毎度本を買うたびに領収書をもらうというのは、あれはほとんど労働と呼んでしまって良いのではないか。あれを免除されるのなら、多少は追加で払わされても構わないと思う。
 お宛名は。円城塔で。日本円の円に建物の城で建物の塔です。はい。はい。何ですかその名前は。御免なさい。
 考えるだけで物憂いが、本名でいけば良いだけの気もしなくもない。余計に税金を納めたはずなのに、色んな人から怒られたので、来年は差し引き零というくらいのところにはもちこみたいと思う。そのくらいなら石を投げられることもないだろう。
 本は読む。読んでいたのだが、これがとんと読まなくなった。これが唯一の変化であり、ついでにいえば読み方もやっぱり変わってしまって面白いものだなと思う。同じ本をもう一度違う読み方で読めるのだから経済的にはお徳である。時間的には損をしているようにも思う。何故読書量が減ったのかと、単に時間がないからである。
 一体、人は本をどのくらい読めるものなのだろうか。年間二、三百冊という人はありふれており、千という人は何を読んでいるのか少し怪しい。月に二、三冊を淡々と何十年間読み進めていますという人には得体の知れない恐怖を感じる。日頃、読んでくれた人が怒り出すような文章を書いているので、そういう人が間違って自分の本を手に取ってくれた時のことを考えると身が震える。貴重な読書時間を浪費させてしまうこと覿面なので、大変に申し訳ない。
 ところで自分が何故小説を書き出したのかを思い出すと、書籍代に事欠いたので、仕方がないので自分で書いてみたのである。本を買うのに本を書いて、本を読む時間がなくなっているのだから世話がなく、本末がどう転倒しているのかもうわからない。難儀なことだと困じている。読めない分は勝手に内容を推測して切り抜けている。
 そういう泥縄ではじめた仕事なせいで、作法というのを皆目知らない。お陰でプロットというのが立てられず、事前の打ち合わせというのが全くできない。ノートに丸だの三角だのを重ねて描いて、あっちこっちに矢印を引く。形の見当をつけるためにそうしてみる。自分としては納得のいったところで、編集の方に見てもらうのだが、どうも応答が芳しくない。尾崎翠も『第七官界彷徨』を書くときに謎の設計図を描いたのですよと言ってみるのだが、謎なものはあまり伝達向きではないことは承知している。
 今、目の前に、『小説の設計図』前田塁(青土社)があって、これは本当に設計図が載っているのではないかと睨んでいる。少年向け雑誌の付録のように、とことこ歩く小説とか、伸び縮みする小説とか、輪ゴムの飛び出る小説とかの設計図が載っているのだろう。展開図にヤマオリ、タニオリ、のりしろ、とか書いてあるのである。そういえば、タニオリの線が決まって二重破線になっている理由については、ここ三〇年ほど悩んでいる。
 それとも、出来上がるのが小説であるからには、中にはもっと精妙な仕組みのものが記されていても不思議はない。家に半田鏝はあったろうかと考えてみる。三年前には見かけたのだが、引越しの時にどこへやったか思い出せない。まさか電気工作の知識を要請されたりはしないだろうが、紙面と眼球を繋ぐものは光であって、電磁波である。大概のものは電磁気力か重力で動いていて、脳みそだってそうしている。マックスウェル方程式がとても苦手だったことを思い出して不安になる。誘電率とかもう忘れた。
 設計図だからといって、機械をつくると決まったものではないのであり、そういえば小説は機械機械した機械ではない。いつまでもループする小説とか、裏返しになる小説とか、人間の出てこない小説とか、人間しか出てこない小説とかの設計図が掲載されている可能性だってある。喜怒哀楽の誘引法とか、読み手をその場で椅子から立ち上がらせたり、一度読み始めるとどうにも止めることのできない機構の説明が書いてあるかも知れないのである。かなり読みたい。
 それはもう全ページ青写真に埋め尽くされているに違いない本を目の前にして、ページを開かない理由は単純である。期待に反して内容がレシピ本だったらどうするのか。何でも食べるが料理は苦手だ。そこまではまだ良いとして、材料として龍の鱗とか蓬莱の木の枝とか火鼠の皮とかが小説には不可欠と宣言されていたらどうするのか。小説家とか名乗る以上、すみません知りませんでしたでは済まないだろう。
 世の小説家の人々が計上しているのは、その種の品々を手に入れるための冒険にかかる経費ではないのかと、現在かなり疑っている。

(筆者=小説家)

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