
フィンランドという国に関わるようになって、まもなく20年になる。「フィンランドについて分からないことはなにもないでしょう」と人は言うが、そのようなことはない。知れば知るほど分からなくなるというのが、むしろ現在の実感である。
いま振り返れば「分からないことはなにもない」という時期もあったように思う。ヘルシンキ大学に留学して2年目あたり、私は「フィンランド通」であった。分からないことはなにもなかった。ところが、フィンランドで働くようになり、フィンランド人と、フィンランド社会と深く関わるにつれて、だんだんと分からなくなっていったのである。
なぜ分からなくなっていったのか。それは日本とフィンランドの大きな違いによるものではない。大きな違いは、慣れてしまえば気にならなくなる。それとは逆に、慣れるにしたがって気になっていくのが、ごく小さな違いや、目には見えないような違いだ。なにげない日常生活の、ちょっとした行動の違い、その行動の背景にある発想の違いが、知れば知るほど「分からない」という感を強めていくのである。
たとえば「謝る」という行動がある。「謝る」ことについて、日本と外国の大きな違いについては、これまでにもよく言われてきた。欧米で「謝る」のは自分の非を全面的に認めることであるから、自動車事故を起こした場合などは軽々に謝ってはならない―などなど。ただし、こういう大きな違いを日常生活にあてはめると、かえってトラブルの原因になることがある。というのは、「悪いことをしたら謝る」のは、だいたいの国に共通する道徳だからだ。
フィンランドにおいても「謝る」という行動は、それこそ自動車事故でも起こさないかぎり、特に日本と違うところはない。日本人であっても、フィンランド人であっても、「悪いことをしたら謝る」のである。しかし、この行動を支える発想に違いがある。目には見えないところに根本的な違いがあるのだ。日本には悪いことをしたら謝るのは当然の義務だという発想があるが、フィンランドには必ずしもこの発想は存在しないのである。
この発想の正体を知ったのは、フィンランドで教材作法を学んでいたときのことであった。フィンランドの倫理教材の指導法解説には、「謝ることは自分に与えられたチャンスであるということを徹底して指導する」と書かれている。謝ることがチャンスとは、どういう意味なのか。これについて指導教官は次のように説明してくれた。
人間とは不完全なものであるから、無意識のうちに悪いことをしてしまうこともあるし、意識的に悪いことをすることもある。たとえば、だれかに迷惑をかけたと分かっていても、不完全なものである人間にとって、相手に謝ることは難しい。また、迷惑をかけられたほうも、やはり不完全なものであるから、相手を許すことは難しい。こういった「謝ること」と「許すこと」の難しさを確認したうえで、「謝ること」と「許すこと」は人間に与えられた最後のチャンスなのだと教える。人間とは不完全なものであって、どうしても悪いことをしてしまうから、相手に謝り、相手を許すことによって共生していくことができるというのである。
ここで重要なのは、謝ることにせよ、許すことにせよ、あくまでもチャンスであって義務ではないとされている点だ。つまり、相手に謝るかどうかは、他人が強制すべきものではなく、最終的には本人の自己決定に委ねるべきであるというのである。
このような指導が行われる背景について、かつてはキリスト教の教義に結びつけるのが一般的であったという。つまり、不完全な存在である人間がおかした過ちに対して、それを本当の意味で許すことができるのは、完全な存在である神様だけだという発想である。だが、最近では、表現教育と結びつけて説明するのが一般的である。つまり、「謝る」という行動にせよ、「許す」という行動にせよ、一種の表現行為だというのだ。だから、謝ることを自己決定したのであれば、状況を正確に把握し、謝る目的と対象を明確にしたうえで、効果的に謝罪の意を「表現」する方法を教えるのである。ただし、たとえ相手が子どもであっても、たとえ悪いことをしたのが事実であっても、その内心に踏みこんで表現を強制することは許されない。内心の自由は絶対に守るべきだというのである。だから、あくまでも謝るチャンスを与えるだけで、最終的な決定は本人に委ねるのだ。
この内心の自由を尊重する発想は徹底していて、たとえばフィンランドの学校では先生が子どもに質問したからといって、子どもに答える義務はないとされている。先生の質問は子どもに与えられたチャンスだというのである。だから、そのチャンスを利用するかどうかは子どもが自己決定すべき問題であって、子どもに課せられた義務ではない。つまり、先生に質問されても、子どもは断ることができるのである。これでは先生がいくら質問しても、だれも答えてくれなくて困ってしまいそうであるが、同時に「主張しない『個』は社会において存在しないのと同じことである」という発想もあるため、いつまでもだんまりをきめこむことも許されない。先生の質問が難しくて答えられないのなら、あるいは何か答えたくない事情があるのなら、それをどこかで主張しなければならない。主張することによって、先生と子どもの間に対話が生まれ、教室という社会における「個」として認知されるのである。これは謝ることについても同様であり、謝るかどうかは自己決定に委ねられているとしても、その原因となった事件についての対話をいつまでも拒否していたら、それは自分を社会から抹消するような行為だというのである。
こういった発想は、くわしく説明されれば、頭で理解することはできる。だが、頭で表面的に理解することしかできない。これからもフィンランドという国との関わりは続くだろうし、それによってさらに多くのことを知ることにもなるだろう。だが、知れば知るほど、さらに分からなくなっていくことだろう。
(筆者=日本教育大学院大学客員教授)