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連載・エッセイ

第22回 気球とゾウのステーキ ―2009.03.24

ドルドーニュ便り《番外編》


気球製造工場(オルレアン駅)La Posteより

高校の世界史の教科書で、普仏戦争(1870-71)という言葉に出会ったのは、もう半世紀も前のことだ。それきり忘れていたのだが、こちらで暮らすようになって、フランス人にとってこの戦争は、20世紀の二つの大戦に次ぐ、苦い体験であることを知った。

1870年は、パリに日本領事館が開設され、初代総領事に、お雇い外国人のシャルル・ド・モンブランが任命された年だ。その3年前には、日本がはじめてパリ万国博に参加し、磁器、漆器、浮世絵などを展示、ジャポニズムの流行に火をつけている。

ジャポニズム運動の旗手であったエドモン・ド・ゴンクール(ゴンクール賞の創設者)は、1870年9月3日、皇帝ナポレオン3世が、セダンの戦いで捕虜になるという衝撃的なニュースが、パリに届いた日の日記に、「誰もが仰天し・・やがて街に群集の怒号がこだました」と書き残している。

それから間もなく、パリはプロシア軍に完全包囲される。政府を中部の都市トゥールに移し、プロシアとの戦いを続けるのだが、パリは兵糧攻めに合いしだいに追い詰められていく。

庶民もブルジョアも、ウマ、ネズミ、ネコの肉まで口にするようになる(ネズミの肉を美味しく食べるためのソースが開発された)。動物園で飼われていたトラ、ヒョー、カバ、サル以外の動物は、すべて食卓に上ったようだ。サルが助かったのは、ダーウィンの進化論のお陰らしい。食糧難のなかで、ワインだけはたっぷりあったという。


ネズミ捕りの戯画 Cham作

こちらで暮らしはじめた年、サン・ジャン・ドコール村の城内の小さな博物館を訪れたが、そこに意外なものが展示されていた。ド・ボモン伯爵家のご先祖が残した1871年の高級ホテル・リッツのメニューがある。それを見た妻は「あの話は本当だったわ!」と目を輝かせた。理由を聞いてみると、彼女の少女時代の記憶につながるものだった。

スウェーデン南部の港町で育った彼女は、本が好きで図書館で借りた面白そうな本を片っぱしから読んでいた。ある日、ホテル王リッツの伝記を読んでいると、パリがプロシア軍に完全包囲されていたさなか、リッツが常連客のために、動物園からゾウやダチョウの肉を調達して新年晩餐会を催した、と書かれてあった。

それを読んだ彼女は、大人の荒唐無稽なつくり話であると思ったらしい。しかし、40年後、論より証拠、自分が暮らす村で、ゾウのステーキと書かれた晩餐会メニューに出会ったという訳だ。


勇敢な気球パイロット La Posteより

パリは完全包囲され孤立していたが、形勢逆転の機会を狙っていた。しかし、電信線が切断されモールス信号も使えず、伝令もだせない。そこで、パリとトゥールなどの主要拠点間の、連絡手段として考えだされたのが気球だった。

急きょ、パリ市内にあった古い気球を修繕し、作戦が開始された。先陣をきったのは“ネプチューン号”だった。

プロシア軍の上空を飛び、3時間かけて125キロ離れたエヴレーに無事着陸。その後、4台の気球が次ぎつぎと、離陸し目的地に到着した。

これをきっかけに、放置されていたオルレアン駅に気球製造工場が作られた。気球の袋にはニスを塗った綿が使われ、熱源は石炭ガスだった。一台の気球に7トンの石炭が使われたという。ゴンドラは一人乗りと二人乗りがあった。

モンマルトルや北駅付近などを基点に、パリから飛び立った気球は、公文書だけでなくパリ市民の手紙も運んでいる。気球ミッションは67回(2台が行方不明、3台が敵地に不時着)におよび、公文書11トンと250万通の手紙(1通4グラム以下)を届けている。

問題は、帰還飛行がすべて失敗し、片道飛行であったことだ。残された手段は伝書鳩だった。本一冊分の情報(ミクロ写真でメセッジを縮小)を携えて、伝書鳩はトゥールを飛び立ちパリを目指したのである。プロシア軍は、タカを飛ばしてハトを襲撃したという。302羽のうちパリに到達したのは59羽だったから、成功率は低かった。

パリは包囲網を突破するための軍事作戦を計画する。トゥールの臨時政府と連携して、パリの内と外から一挙に攻勢をかける作戦だった。その作戦要綱を伝えるために、“オルレアン号”が、闇のなか出発した。しかし、風むきが悪く到着したのは、なんと1250キロ離れたノルウェーだった。その結果、情報は伝わらず作戦は失敗した。


パリを砲撃するプロシア軍 La Capitulationより

パリ包囲は136日続いたが、プロシア軍は情け容赦がなかった。パリを陥落するために、クルップ製の最新砲で、連日300-400発の砲弾を市内に撃ち込んでいる。無差別攻撃だから、非戦闘員の市民の死傷者もでた。これは後のドイツ軍の悪名高き無差別攻撃のさきがけであった。

1871年1月28日、フランス政府は降伏し、休戦協定を結ぶ。戦勝国プロシアが要求した和平条件は厳しかった。フランスの最も豊かな地域・アルザス・ロレーヌの割譲、賠償金は20年にわたるナポレオン戦争の後始末(1815年のウィーン会議)で、フランスが連合国に払った額の7倍という膨大なものであった。

パリ市民のプライドを決定的に傷つけたのは、プロシア宰相ビスマルクが強硬に主張して実現した、統一ドイツ軍兵士3万のシェンゼリゼ大通りの凱旋行進であった。その日、パリは屈辱に耐え、静まりかえっていたという。ドイツ軍は、一日だけの占領で、翌朝パリから去った。

参考資料
“Seven Ages of Paris “ Alistair Horne著Macmillan 2002年刊
“La legende de La Post “ Edition Atlas,2008年刊

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