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連載・エッセイ

その8 ―2009.04.28

スペイン超短期語学留学記



 「ロルカへの旅」とかっこよく銘打ってみたものの、結局あまりロルカとは縁がなかったグラナダ滞在が終わりに近づくと、時折ふと私の心に一瞬の暗雲が射すようになった。次の行き先は大好きなセビリアだが、そこでは久々の学生生活が待っている。大学で教える立場になって7年。その間にテレビの語学講座の講師までやってしまった。間違いが許されない仕事の緊張感を離れて、「間違って直してもらうのが仕事」である生徒役にまわるのはワクワクするほど楽しみだったが、教えられ評価されるという受身の立場に戻ることには不安も当然あった。申し込みの時点では、いきなり中級レベルを希望するのはおこがましいと思い、七つあるレベルの下から二番目、”Pre-intermediate”を選択したが、具体的な評価基準を見るとなかなか難しそうだ。初日にまずレベル決定の試験があるという。「あなたはもっと下ですよ」なんて言われたら寂しいな。先生たちに呆れられながらクラスのお荷物になっても辛いし。そんなことを考えているうちに、柄にもなく心細くなっていくのだった。そのうえ東京出発前にこの連載を約束してしまったから、いよいよ行きたくなくなったときの最後の手段、「サボる」という選択肢が私にはない。とたんにグラナダのほうが居心地よく感じられてくる。セビリアは私を歓迎しないかもしれない。そうだ、きっと今度のセビリアも私の片想いで終わるのだ・・・。


グラナダ中央駅から望むシエラ・ネバダ

 セビリア駅に着いたのは、土曜日の昼過ぎだった。目指すは街の中心にある昨年と同じホテル。学校が用意してくれるホームステイや他の生徒との共同アパートにも抗しがたい魅力を感じたが、他人と暮らすという試練に掃除魔の私が耐えられるとは思えず、しかも「その5」に出てきたプチ・ホテルの支配人が宿泊費を25パーセントも割り引いてくれるというので、たったの7泊だし、とそちらを選んだのだ。ちなみに、後に知り合ったスクールメイトのドイツ人女性によると、学校が提供している個人使用のアパートも、広すぎて暖房が行き渡らないほかはなかなか居心地が良いらしいので、「ちょっと高くても一人の方が気楽」という人はそちらを試してみるといいだろう。



セビリアでは馬も洒落者 たてがみに注目

 離れているほど故郷が人間にとって魅力的であるように、私のセビリアびいきもまた離れているうちに過大にふくらみ、一年ぶりに戻ったときにがっかりするのではないかと不安がよぎった瞬間も幾度となくあったが、戻ってみると「やっぱりセビリアは素晴らしい!」というのがこの日家族に送った携帯メールの文面だった。懐かしい道も初めての道も、この街を歩くとなぜか私の顔はほころぶ。とうとう月曜の朝が明けて入学の日がやってきても、到着前の不安はどこへやら、私は意気揚々とプラサ・ヌエバ広場から程近い学校へと向かった。


学校の外装

 早めに着いたつもりだったが、他の新入生とお互いに滅茶苦茶なスペイン語で話しているうちに定刻を過ぎ(ここでは、たとえ英語のほうが容易に意思疎通ができる者同士でもスペイン語で話しているから感心だ)、指示を仰いで小さな教室に入ったときにはレベル決定試験はすでに始まっていた。
 試験はごく短くて、あまり難しいものではない。基本的な自己紹介に加え、前置詞や定冠詞の問題、そして「昨日は何をしましたか」「なぜスペイン語を勉強するのですか」といった質問が並ぶ。そして後半は、接続法動詞が使えるかどうかを試す問題が数問出てくる。接続法は学習者にはすこぶる面倒だし、これについて言いたいことはいくらでもあるがそれはまた機会を改めるとして、教本やポップスの歌詞で接続法を使った言い回しはいくらか覚えていたので、試験のときは「ちょろいもんよ」と得意になって答えてしまった。うかつだった。
 次は口答試験。筆記試験の答案を持って指示された場所に行く。順番を待つ生徒の年齢は様々だったが、ドイツ人の中高齢者が目立った。彼女たちがちゃっかり筆記試験の答え合わせをしているのでこちらは余計に緊張したが、私の番が来て「はい、次の人」と呼んだ先生の顔を一目見るとそんな緊張も和らいだ。「こんにちは。アントニオです」と言って手を差し延べたのは、温かい笑顔ときさくな物腰が印象的な人で、彼は私を教員室に招き入れると、テーブルを挟んで自分の向かいに座らせた。そして筆記試験の答案を受け取り、私の目の前で採点を始めた。不正解の問いに関してはひとつひとつ間違いを説明してくれた。それが一通り終わると、「あなたが住んでいる地域について話してください」と言って口答試験を始めた。試験というよりはお喋りである。生徒をリラックスさせ自分でも納得できる結果を引き出す先生の力は、同じ教師である私にとって感動的ですらあった。さらに彼は、「スペイン語を学ぶのは、ロルカを原語で読むため」と私が答案に書いていることにコメントし、「ロルカは決して難しくないからすぐ読めるようになるよ。詩が好きなら、他にもアンダルシアを代表する詩人として、マンチャードを読んでごらん」と言いながら数人の詩人の名前を書いてくれた。そして最後に言った。「君は上級だよ」。「はあ?!」


語学学校のパティオ

 あり得ない。「だって君はもう接続法も接続法過去も知っているじゃないか。それが上級の条件だよ」
「そんな。接続法を知っているのと使いこなせるのとはまた別の話ですよ。上級なんかに投げ込まれちゃ困ります!」なんてことをとっさにスペイン語で言えるわけでもなく、レベル名を書いたメモと「幸運を祈るよ」という激励の笑顔に送られて、私は狐につままれたような思いで、オリエンテーションが行なわれる屋上へと向かった。上級クラスなんて無茶だと思ったが、それでも明るい雰囲気のこの学校がすっかり気に入り、今は不安よりも期待のほうが大きかった。「あの人が私の先生ならいいな」などと思いながら階段を駆け上がったとき、私は「楽しさ」ということの意味を全身で実感していた。(続く)


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