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連載・エッセイ

最終回 ―2009.05.27

スペイン超短期語学留学記



 カイロにいる勉強嫌いの私の甥が、無事に大学への進学試験で合格した褒美として、パリ旅行をプレゼントされた(まったく、最近の親は太っ腹である)。その旅行から帰ってきた甥が、パリのカフェでとても悲しい光景を見たと言う。飼い主に連れてこられた犬が、少しばかりうるさくしたために、「大人しくしなきゃダメでしょ。お座り!」と叱られて、しょんぼりと座り込んでしまったというのだ。この出来事の何が悲しいかというと、「こっちは何年も学校で散々苦労して勉強しているっていうのにさ、あっちでは犬だってフランス語が分かるんだぜ。腹が立つよ!」。エジプトでは、高校一年からフランス語などの第二外国語が必須科目なのだ。甥が通ったような私学では、小学校や中学校から第二外国語を学ぶことも多い。
 セビリアの語学学校で一週間を過ごした後、休暇の最後の数日を過ごすために訪れたロンダという小さな町の広場のベンチに腰掛けて、私は甥の言葉を思い出しながら苦笑していた。というのも、すぐそばでサッカーをしている小学校低学年ぐらいの少年たちの口から、スペイン語学習の最大の難関の一つである接続法の動詞が、当たり前のようにスラスラと出て来るのを目の当たりにしたからだ。まったく、甚だしく憎たらしい光景である。


セビリアを後にしてロンダへ向かう

 接続法とは、仮定や条件、希望などを表わすときに使われる動詞の形で、たとえば「来る」と言うときと、「来る可能性がある」と言うときでは「来る」という動詞の形が違うのである。こういった接続法の類の動詞は、何語を学ぶにしても面倒なものだが、私の経験で言うとスペイン語は特に接続法には厳しいようだ。たとえこちらが初学者でも、接続法を使うべき文章で直説法を使ったりすると、スペイン語ネイティブは情け容赦なく訂正を求めてくる。「条件法なんて覚えなくても大丈夫だよ」と言ってくれるフランス人や、「接続法は面倒だから将来イタリア語からなくなるだろうと言われているのよ」と説くイタリア人とはえらい違いだ。英語で考える癖が付いている私は、ちょっと気を抜くと先に学んだ直説法が出てしまう。「直説法であるべきところで接続法を使っちゃうよりは逆の方がまだ許されるだろう」と私には思えたのだが、そうは問屋が卸さないらしい。「接続法を持たない英語はともかく、アラビア語にも接続法があるだろう」と言われれば確かにそうなのだが、アラブ人はこれを「接続法」という習い方はしない。また接続法の用途がスペイン語と重なる部分が大きいのも事実だし、アラビア語の場合、さらに「短形」という動詞のパターンまで加わるのだが、アラビア語の接続法では、ある行為が事実であるか仮定であるかというような主観的な判断の入る余地がまったくなく、必ず接続詞を伴うから、より明確で論理的にも分かりやすいし、そもそも文語だけの規則で日常会話では使わない(私のひとりよがりかもしれないが、他の言語を知れば知るほど、アラビア語の完璧な構造性が好きになるというのが、最近の私の結論である)。しかもアラビア語と異なり、スペイン語の場合はさらに接続法の過去形まであって本当に面倒なのだ。こんなものを日常的に使いこなしているのだから、スペイン語話者というのはよっぽど知能が高いに違いない。


1485年までイスラーム支配が続いたロンダに残るアラブの公衆浴場跡

 語学学校で私がもっとも悩まされたのが、この接続法だった。文法の練習で、いかにも「さあ、接続法を使ってごらん」といわんばかりの見え透いた問題を出されれば、私だってあまり苦もなく解けるのだが、会話の授業で何かを語ろうとすると、熱がこもればこもるほど、英語の感覚で直説法をうっかり使ってしまう。スペイン語の先生というのはこういうとき、絶対に見逃してくれない。だから何度も何度も直されて、挙句の果てには「カリーマ、接続法をちゃんとさらっておいてね」と授業の最後に注意されてしまったことすらあった。
 そうは言っても、しょせんは同じ人間が考え出したものだから、時間をかけていろいろ読んだり聞いたりしているうちに、なるほど、こういうときが接続法なんだなというのが感覚的につかめてくる。もとい、いつかつかめるに違いないと確信して辛抱するのが大事なのである。また活用もほぼ規則的だし、不規則なものに限って、はみ出しものの息子みたいに余計に可愛かったりして、むしろ使う機会が楽しみになったりもする。恐る恐る接続法を使いながら、一度、また一度とささやかな成功を重ねるうちに、私も大分慣れてきた。さも嬉しそうに、そこだけ強調せんばかりの注意深さで接続法を使う最近の私の姿は、スペイン人や中南米人の友達の目にはたいそう滑稽に映っていることだろう。




ロンダのランドマーク、闘牛場と渓谷をまたぐプエンテ・ヌエボ(新橋)

 東京に戻って数週間が経ったころ、セビリアでお世話になった先生のホセとスィンタに、電子メールで写真を送った。うれしいことに、ホセは数日後、スィンタはしばらくして復活祭の休暇中に、それぞれ返事をくれたのだが、今でも時々読み返すたびに苦笑いしている。二人とも、「3、4行の短い文章によくこれほどたくさん詰め込んだな」と感心するほど、努めて接続法を多用したメールだったからだ。生徒冥利につきるというものである。来年、再びセビリアの同じ語学学校でホセやスィンタとお喋りするときには、顔色ひとつ変えずに接続法を駆使したいものだ。(おわり)


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