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連載・エッセイ

第2回 朝鮮の干拓地に記された日本の県名 ―2009.07.03

地図から見た戦争


 韓国南西部に位置する全羅道は4〜7世紀の百済にあたり、ここを出て日本へ渡った多くの帰化人(渡来人)が日本にさまざまな技術や文化をもたらしたことはよく知られている。全羅道は1896年(明治29)には南北に分けられて全羅北道・全羅南道として今に至っているが、全羅北道の北西端、黄海に注ぐ錦江河口に位置する港湾都市が群山(クンサン)である。潮位の差が大きく、大潮での干満の差は7メートル以上にも及ぶというから、日本最大の有明海の5メートル内外と比べても圧倒的だ。


5万分の1「群山」昭和6年修正

 このため遠浅の黄海沿岸には広大な干潟が発達した。地図にもはっきり表われているが、薄青く着色された河口部分の中で砂洲状に表現されているものが砂地、また「-」印が並んでいるのが泥の干潟である。日本の有明海で近世から盛んに干拓が行なわれてきたように、ここでも戦前から干拓が進んでおり、1991年からは群山市の南側で韓国最大の干拓プロジェクトである新万金(セマングム)干拓事業が進められている。干拓地の面積はなんと400平方キロ、日本の諫早湾が「ミニ開発」に見えるほどの規模で、干潟の豊かな自然を破壊するとして反対運動もあったが、すでに全長33キロという途方もない締切堤防が2006年に完成してしまい、造成工事は着々と進んでいるようだ。
 群山の市街地の北側は錦江の河口部分にあたり、川幅は市街の前面でも1.2キロと大河の風格がある。今を去ること1346年前の663年(天智2)に倭と百済の遺臣たちが唐・新羅連合軍に破れたのは、この北岸一帯で行なわれた白村江の戦いである。
 図では「龍塘渡」という渡船が対岸を結んでいるが、現在では少し上流側に錦江河口堰が建設され、鉄道と国道がその上を通っている。戦前の鉄道は図にあるように群山港駅から北西方向に伸びる破線で示された鉄道連絡船が対岸の長項桟橋までを15分で結んでいた。1940年(昭和15)の時刻表によれば1日往復計15便が運航されている。
 言うまでもなく1945年までの朝鮮半島は日本領で、朝鮮総督府の管轄下にあった。もちろんこの地形図も「大日本帝国陸地測量部」の測量によるもので、地形図の欄外には「著作権所有者 朝鮮総督府 印刷兼発行者 陸地測量部」とある。
 その干拓地を見ると「内地」の地名群が目に飛び込んでくる。干拓地の直線的な堤防際のかつての島の周囲には香川、山口、石川、新潟、加賀、大分という日本の県名と旧国名が集中している。さらに南から南西に広がる干拓地内には山形、福島、岩手、熊本、岡山、広島などがあり、東側の昔からの陸地にある七星洞(チルソンドン)、臨沙二里(イムサーイーリー)といった朝鮮語地名と好対照を成している。
 その広々とした干拓地には「不二興業会社干拓地」の文字が縦に記されているが、立命館アジア太平洋大学准教授・轟博志氏の論文「朝鮮における日本人農業移民-不二農村の事例を中心として」(立命館言語文化研究17巻1号)によれば、ここには不二興業が日本全国から農家を募集、300戸が移住したという。このあたりの土地は錦江本流に近く地味が肥えていたこと、それに群山には以前から日本人が多く住んでいたため、移住農民への利便性も高かったために選ばれたそうだ。集落はおよそ10戸単位で出身県別に集められ、それぞれの県名が地区名になった。開拓地に出身地の名を付けることは、北海道やアメリカ大陸、それにブラジルなどでよく見られる。
 たまたま1964年に韓国国立地理院が発行した同地域の5万分の1を見る機会があったが、これと比較してみると、当然のことながら朝鮮語表記の地名の多くがそのままであるのに対し、日本の県名を付けた入植地の地名は変わっていた。小地名はハングル表記のみなので筆者には意味がわからないが、たとえば香川は「ヘイ」、大分は「ミジャン」、石川は「チャンジョン」などと明らかに以前の漢字の読みとは違っている。
 地形図の記号は日本の陸地測量部が作ったものだけに大半が「内地」と同じものであるが、地域性を反映して朝鮮総督府管轄のエリアに独自の記号もある。たとえば城門や廟、市場であるが、群山の市街地を見ると群山駅の北西の線路際と群山港駅の前に市場の記号(地図参照)が見えるが、残念ながらその他の記号は見あたらない。神社の記号にしても、天皇を頂点とする国家神道が、朝鮮の伝統的な祖先祭祀を取り込んでいく昭和10年代より前なので、神社も大都市以外にはあまり行き渡っていなかったのだろう。
 それでも前述の不二興業会社の入植地には神社の記号がある。加賀集落の北側、小高い丘にあるが、日本人が住み着けばまず最初に神社が建てられるというのは、今よりはるかに「お宮」が生活に密接だったこの時代、国策以前に自然なことだったのだろうが、干拓地とはいえ異文化をもつ人々が入り込んで勝手に宗教施設を作られる側としては、きわめて面白くないことだったことは想像に難くない。ひょっとしたら入植者の中には、はるか昔に目と鼻の先の白村江で百済人と一緒に戦った兵士の子孫が含まれていたかもしれないけれど。


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