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連載・エッセイ

第5回 カント『永遠平和のために』その4(1/2) ―2009.07.28

「戦後」の思想

 もう一点、カントの『永遠平和のために』のもつ限界として、19世紀をつうじたナショナリズムの高揚を予測しようもなかったということがある。その点を、カントと彼が想定している「公衆(Publikum)」の性質に焦点を置いて確認しておきたい。カントの「永遠平和」という理念のうちにこんにちのEUの試みを鼓舞するようなインターナショナルな精神が脈打っていることは確かだとしても、それはあくまで、いわばナショナリズム以前のインターナショナリズムなのである。それはカントと公衆の関係を、彼にすぐ続くフィヒテと公衆の関係と比べてみれば、きわめて明瞭になるだろう。
 ふたたび『永遠平和のために』にもどって、カントが第2版で「第2追加条項」として書き加えた「永遠平和のための秘密条項」を確認してみよう。カントが唯一認めることができると述べている「秘密条項」は以下のとおりである。

 戦争にそなえて武装している諸国は、公の平和をもたらすことのできる条件について哲学者が示す原則を、忠告としてうけいれるべきである。(前掲、カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』211頁)

 これが「秘密条項」でなければならないのは、国家の最高の立法者たちが臣下の哲学者たちに助言をもとめているなどということが公然と知られれば、国家の威信が傷つけられ、その「品位」が汚されるからである。もちろん、カントはこれを徹底した皮肉として記している。したたかなまでに老獪であるとともに、きわめて諧謔的でもあるカントの精神がこの一節には溢れかえっているだろう。国家の立法者たちは、哲学者たちに「戦争の遂行と平和の樹立にかんする普遍的な原則について、自由かつ公に論じさせ」、そこからこっそりと政策の方向を決め、結果として哲学者の助言にしたがうようにすればよい、というのである。しかも、カントはこの条項をわざわざ第2版で追加したのだから、すでに述べたように、その態度はじつに挑発的であるだろう。

 哲学者たちは禁じられなければ、みずから進んでこれらの問題について論じるはずなのだ。またこの点についてさまざまな国家の間で意見が一致するためには、そのための特別な条約を締結する必要はない。普遍的な、すなわち道徳的で立法的な人間理性によって、そのことは義務づけられているのである。(同上、212頁)

 普遍的な「人間理性(Menschenvernunft)」にしたがうかぎり、どのような国家のあいだでも、戦争と平和に関して意見が一致するはずだ、というこの確信――。もちろん、それは啓蒙主義者カントの揺るぎない信念であっただろう。それは、カントが「啓蒙とは何か」(1784年)で語っている、あの「理性の公的な利用」の顕揚とそのままにつながっている。
 カントは周知のように「啓蒙とは何か」において、理性の「私的な利用(der Privatgebrauch)」と「公的な利用(der öffentliche Gebrauch)」を区別して、理性の「私的な利用」に関して自由は制限されても当然だが、理性の「公的な利用」には完全な自由が保証されねばならないと説いている。以下では、そのカントの区別によって生じる「公衆」の性格、およびカントにおける書くことと語ることの差異について見ておきたい。
 カントは「啓蒙とは何か」において、理性の私的な利用と公的な利用について、明快につぎのように説いている。

 さて理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な使用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。(同上、15頁、強調は原文)

 もちろん、この場合の「学者」は職業的な哲学者や法学者である必要はない。国家の官職に就いている公務員であれ、牧師であれ、彼らがその理性を「公的」に使用するかぎりは「学者」なのである。「読者であるすべての公衆の前で(vor dem ganzen Publikum der Leserwelt)」と記されているように、その場合にカントが具体的に念頭に置いているのは、自分の考えを雑誌論文や書籍、要するに「文書(Schrift)」の形で文字どおりに「公表」することである。そして、そのような「文書」に対応して、カントがここで想定している「公衆」とは、あくまで「読者の世界(Leserwelt)」を構成している「公衆」なのである。それにたいして、たとえば牧師が教区の信徒に講話などで語りかけるありかたは、理性の「私的な利用」であって、この自由が制限されているのは当然だとカントは考える。それがたとえどんなに大きな集団であっても、教区の信徒集団のような「内輪の集まり(eine häusliche Versammlung)」では、牧師はあくまでその教区の定めている信条にしたがって講話をしなければならない。それがカントの考えである。
 ここには、書くことのもつ公的性格と語ることのもつ私的性格という、きわめて特徴的な二分法が見られるだろう。そして、カントにとって「ほんらいの意味」での公衆とはあくまで、語られたことを聞く聴衆ではなく、書かれたものを読む読者なのだ。
 確かに当時は、雑誌、書籍の発行数が大幅に増大しつつある時代だった。ヨーロッパの東の辺境都市ケーニヒスベルクでカントが執筆した論文や書籍を、ベルリンはもとより、ロンドンでも、パリでも人びとは読むことができた。しかし、それを読んだ人びとはそれについてどのように論議すればよいのか。やはり、カントの言う理性の「公的な利用」にしたがって、それについてドイツ語、英語、フランス語などで書かれた文章をつうじて意見を公表する、ということになるだろう。そのようにして成立する、読むことと書くことが形づくるものこそが「世界市民社会(Weltbürgergesellschaft)」なのである。そのかぎりにおいて、カントの想定している「世界市民社会」とはじつのところ学者共同体に等しい。そして、カントの『永遠平和のために』が最終的にめざしている「世界市民」というありかたもまた、このような学者共同体と切り離すことはできないだろう。

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連載・エッセイ


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