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連載・エッセイ

第6回 ナポレオン戦争をめぐるフィヒテとヘーゲル その1(1/2) ―2009.08.04

「戦後」の思想

 ナポレオン戦争においてフランス軍は、戦争を「国民の本分」とする新しい形態をもたらした。そして、それはたちどころに敵方にも持ち込まれ、これ以降、「国民」を主体とする軍隊が相手の殲滅をめざして総力をあげてぶつかり合うことになるのである。その流れは戦争技術の発展とともに加速され、20世紀にいたって、ついには第一次世界大戦と第二次世界大戦の惨状に行き着くことになる。
 そのナポレオン戦争に、カント以降を代表する哲学者であるフィヒテとヘーゲルが文字どおり立ち会っていた。しかも、二人はナポレオンにたいしてきわめて対照的な態度を示すことになる。フィヒテはナポレオンの占領に対抗してドイツのナショナリズムを煽り立て、のちの解放戦争にむけた下地を作り出す。一方、ヘーゲルはナポレオンのうちに「世界精神」を認め、彼によって世界史の針が一歩大きな前進を遂げたことを確認するのだ。この両者のきわめて対照的な「戦後思想」をここでは確認しておきたい。
 まずはプロイセン軍とフランス軍のぶつかり合いを、松村劭『ナポレオン戦争全史』(原書房、2006年)に依拠して、最低限確認しておこう。
 1803年にナポレオン戦争が勃発すると、1806年7月には、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなど西南ドイツの諸邦はライン同盟を結成し、ナポレオンを今後自らの「保護者」とすることを宣言する。つまり、「ドイツ」の西南部がフランス側に自ら組み込まれてゆくのである。これはそれまでの勢力地図を大きく塗り替える出来事だった。その翌月8月には、フランツ2世がオーストリア皇帝に就くとともに、神聖ローマ皇帝からは退位する。これによって962年から続いてきた神聖ローマ帝国そのものが消滅してしまう。
 ナポレオンの登場によるこのヨーロッパの激変のなかで、1806年9月の段階で、プロイセン王は対フランス戦争計画を企て、14個歩兵師団計13万の兵力を動員した。一方、プロイセンに侵攻可能なフランス軍は計20万の兵力で、その時点ではバイエルン(ライン同盟の重要な一角)に駐留していた。同年の10月10日、ザール河畔のザールフェルトでナポレオン軍の一部がプロイセン軍の警戒部隊と衝突し、これをただちに撃破したとき、イエナ会戦の火蓋が切って落とされた。まだこの段階では和平の可能性を探っていたプロイセン軍にたいして、10月14日の夜明けとともに、ナポレオンは10万の兵力をイエナに投入し、同時に別の部隊はイエナの北、アウエルスタットでプロイセン軍の退路を断つ防御戦に従事する。この二つの戦場でプロイセン軍は壊滅的な打撃を受けて、同日の午後4時ごろには、イエナにもアウエルスタットにも、組織的なプロイセン軍は存在しなくなっていたとされる。
 この二つの戦闘におけるプロイセン軍の損害は戦傷死2万5千人、捕虜2万5千以上、ナポレオンの率いるフランス軍の損害は8千人だったと言われる。しかし、ナポレオンはこの決定的な勝利の時点でただちに和平交渉に入るのではなく、10月15日から11月7日まで、徹底した追撃をくわえる。これは「軍事史に残る大追撃」と呼ばれているという。そして、10月24日、ついにナポレオンがベルリンに無血入城を果たす。ベルリンにおけるプロイセンとの交渉でいったんプロイセンの存続を認めたナポレオンは、数日後にこれを撤回し、プロイセン全土の占領をもとめる。これにたいして、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はロシアに逃亡する。これによってナポレオンの戦争は対ロシア戦にむけても展開してゆくことになる(もちろん、これが向かうところ敵なしと見えたナポレオンにやがて決定的な打撃を与えることになる)。
 翌年1807年7月のティルジット講和条約で、プロイセンの敗北は確定し、国家としての存続はかろうじて確保されながらも、プロイセンは領土のほぼ半分を失う。さらに、縮小されたプロイセンに15万におよぶフランス兵が莫大な賠償金の支払いが済むまで駐留することになる。そして、1813年の解放戦争をへて、1814年から15年にかけてのウィーン会議にいたるまで、以後プロイセンは直接・間接にフランスの支配下に置かれることになる。
 イエナ会戦当時、フィヒテはすでに1798年から99年にかけてのいわゆる「無神論論争」でイエナ大学を追われ、ベルリンに暮らし、在野の立場で著作を発表するかたわら、「現代の根本特徴」、「ドイツ国民に告ぐ」など精力的に公開講義を行っていた。彼は、ナポレオンがベルリンに入城する1週間ほどまえにケーニヒスベルクにいったん移住し、1807年8月、ティルジット講和条約締結の1ヶ月後にベルリンにもどる。そして、1807年12月13日から翌年の3月20日まで、毎日曜日に、あらためて公開講演『ドイツ国民に告ぐ』を行なう(これは同じタイトルの第4回目の連続講演で、のちに出版され、よく知られているのは、このときのものである)。それは、フランス駐留軍の面前で行なわれた、きわめて挑発的な連続講演だった。
 一方ヘーゲルは、イエナ会戦の当時、まさしくイエナ大学の「員外教授」という身分で哲学を講じつつ、ナポレオン軍の進撃を間近に控えながら、どんどん嵩張ってゆく『精神現象学』の原稿を書き継いでいた。またたく間にナポレオンがイエナを平定したとき、ヘーゲルは実際にナポレオンの姿を目にしたようだ。「私は皇帝が、世界精神(Weltseele)が、馬にまたがっているのを見た」という、彼が友人にあてた手紙の一節はあまりに有名である。ヘーゲルとナポレオンの結びつきに強い光をあてたのは『ヘーゲル読解入門』(上妻精・今野雅方訳、国文社、1987年)における、ロシアからの亡命知識人の家系に属する哲学者コジェーヴの解釈だが、『精神現象学』の中軸をなす「承認論」のうちに、私たちはさらに、この新たな戦争の時代における「生きのびの思想」とでも呼ぶべきものを確認することができるのではないか。
 以下では、フィヒテについては初期の『フランス革命論』と講演『ドイツ国民に告ぐ』を軸にして、またヘーゲルについては『精神現象学』に焦点を置いて、ナポレオン戦争を決定的な背景としたそれぞれの「戦後思想」を考えたい。

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連載・エッセイ


細見和之「戦後」の思想
- 第5回 カント『永遠平和のために』その4(2/2) [2009.07.28]

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