白水社 白水社
書籍の検索 →詳細検索はこちら
 

教科書検索はこちらから買い物カゴを開く
白水社 白水社 白水社
トップページ
耳より情報 新刊情報 おすすめ本 全集・シリーズ 白水Uブックス 文庫クセジュ 語学書 雑誌『ふらんす』
岸田國士戯曲賞 パブリッシャーズ・レビュー クラブ白水社 メルマガ「月刊白水社」 教科書見本 連載・エッセイ 書店様向けページ
連載・エッセイ

第5回 地形図に描かれた空襲 ―2009.08.21

地図から見た戦争


図1:昭和7年修正「名古屋北部」

図2:昭和22年修正「名古屋北部」

 図1は昭和7年頃の名古屋市の中心部である。格子地紋(ダブルハッチ)で家屋の密集した市街地が黒々と描かれ、それだけに名古屋城周辺の白っぽさが目立つが、お濠の内側(北側)には多くの兵営が置かれていた。もともと日本の県庁所在地は城下町由来の都市が多く、城跡には軍関係の施設が置かれるのが常であったが、名古屋でも「二重丸に星印」で示された第三師団司令部、「一重丸に星」の歩兵第五旅団司令部をはじめ、歩兵第六聯隊(図では歩六)、野砲兵第三連隊(野砲三)、輜重第三聯隊(輜重三)の兵舎がびっしりと城跡を埋めている。それに加えて本丸の北側は図にまっ白く表わされた練兵場であった。
 米軍による名古屋大空襲があったのは主に昭和20年(1945)3月12日および19日、5月14日の3回で、5月の空襲では名古屋人の誇りであった金鯱城こと名古屋城が炎上、天守閣を含む主要部分が焼失した。米軍側は「誤爆」としているそうだが、いずれにせよほとんど抵抗もできないまま城を焼かれた名古屋市民の悔しさは想像に難くない。ついでながら城は昭和34年(1959)に再建されて平成21年(2009)の今年50周年を迎えたが、慶長14年の築城から数えればちょうど400年でもある。
 図2は昭和30年(1955)資料修正版ではあるが、おおむね行政区画の変更を反映しただけなので地形・地物は昭和22年の状態が描かれている。図1と比較して明瞭なのは、まず名古屋城が名古屋城「趾」と改められ、描かれていた建物が消されていることだ。
 それから、城の周囲を埋め尽くしていた密集市街地が、特に城の南側と西側で白くなり、疎らに単独の家屋が点々と描かれているのが衝撃的である。城の西側を南北に流れる堀川より東側の、徳川家康以来の城下町が広がっていた部分は、200〜300機にのぼるB29が大量の焼夷弾を投下したため焼け野原となり、実に無惨な状態だ。修正した国土地理院(当時は地理調査所)の職員にとっても、市街地を削って白くし、疎らな家屋をポツリポツリと描いていくのは辛い作業だったに違いない。


図3:1:50,000「広島」昭和24年応急修正

 こちらは昭和20年8月6日に原子爆弾が投下された広島である。昭和24年(1949)の応急修正版だが、市街地は一見健在のように見える。「広島市」の注記の北側に描かれた広島城とその周辺の市街地はびっしりと細かい線で覆われているのだが、この線はタテ線である。欄外に記された凡例によれば「戦災地域」を示しているという。
 市街地の表現は本来は名古屋の図で見たようにダブルハッチ(商店街の多いエリア)または斜線のハッチ(その他の密集市街)で表現されているのだが、敗戦直後の地理調査所では被災した市街地を応急的にタテ線で示すことにしたようだ。他の都市でも部分的に用いられたが、広島の図では原爆によって壊滅的に焼失したエリアが示されている。爆心地は「広島市」の市の字の左、相生橋の少し南で、周囲は名古屋のような焼け残りもほとんどなく大半が「更地」と化してしまった。
 (財)日本地図センターが発行する『地図中心』の被爆60年増刊号(特集・米軍が空撮した広島・長崎 昭和20年8月 http://www.jmc.or.jp/book/mapcenter/hibaku60nen.html)には、アメリカの公文書館で見つかった原爆投下直前と直後の写真が見開きで並べられているが、その画像の対比は一瞬息を飲むほどの衝撃を見る人に与える。原爆投下前後の写真を並べることで、わずかな例外も許さない徹底的な破壊が実感として迫ってくるのだ。話に聞き、知識として原爆を知ったつもりの人も、改めてその威力の凄まじさ、残虐性に思いを致すことができる画期的な出版と言っていいだろう。
 投下直前の市街をびっしりと覆う瓦屋根の下には、市民たちそれぞれの暮らしが営まれており、「行ってきます」「気をつけて」「きのう学校でね……」などと声を交わした普通の朝の日常生活があったはずだ。あの1発の爆弾が、それら実に多くの人々の暮らしを、実に乱暴な形で消滅させてしまったのである。


図4:1:25,000「広島」昭和25年修正(昭和32年資料修正)

 図4は原爆の投下から5年後に修正された広島である。縮尺が図3より大きいので詳細がよくわかるが、焼け野原となったわずか5年後にもかかわらず、かなりの家屋が建っている。まん中に白い巨大な大通りが完成しつつあるが、これは平和大通りで、新大橋の西側ではグリーンベルトも草地の記号(…)で表現されている。
 原爆投下後はもう何十年間は草も生えないだろうと言われた広島も、その数日後には市内電車が走り始め、復興に向けて人々は立ち上がり始めた。この新旧とりまぜたような、どこかアンバランスな地形図からは、あれほどの惨劇に見舞われたにもかかわらず、街を甦らせようとする強い「意志」がひしひしと伝わってくる。


連載・エッセイ
温又柔「失われた『母国語』を求めて」
- 第8回 幻の原稿 [2011.12.13]

今尾恵介「日本を定点観測する」
- 第15回 中世の自治都市・堺の今昔 [2011.12.06]

温又柔「失われた『母国語』を求めて」
- 第7回 「ママ語」の正体 [2011.11.28]

今尾恵介「日本を定点観測する」
- 第14回 仙台南隣の宿場町は「副都心」へ ─ 長町 [2011.11.25]

村田奈々子「ギリシアの風」
- 第8回 サイードとカヴァフィス [2011.11.22]



↑ページのトップへ