
本年(二〇〇九年)は世界天文年である。一六〇九年、当時パドヴァ大学の教授であったガリレオ・ガリレイは、二枚のレンズ(凸レンズと凹レンズ)を組み合わせると遙か彼方の物体でもすぐ傍にあるかのように見えるという望遠鏡がオランダで発明されたことを聞きつけた。そこで自分の工夫を加えて望遠鏡を自作し(これをオランダ式あるいはガリレオ式望遠鏡という)、人類史上初めて天文観測を行い、数々の新発見をすることができた。以来四〇〇年が経ったのを記念しての世界天文年で、観察と実験の重要性を主張して近代科学の基礎を築いたガリレオの功績を称えようという意図が背景にある。
さて、このガリレオとシェイクスピアとを強引に結びつけようというわけである。むろん、遠く離れたイタリアとイギリスで生涯を送った二人だから直接の接点はない。しかし、結びつけられる要素はいくつか見出すことができる。以下は牽強付会の二人の道行きの物語である。
一番の事実は、二人とも一五六四年生まれであるということだ。歴史の学習において、文化は政治に従属させられ、科学と文学とは別個に扱われるので、私は二人が同年生まれで同時代を生きたことに気づいていなかった。ルネサンスや宗教改革運動がピークを過ぎ、幾分時代が落ち着いた頃であったからこそ、二人の時代を画する仕事が可能になったのではないかと秘かに思っている。
ガリレオは、大学教授の仕事に就きながら貴族からの援助を得て、振り子の等時性や重力の下での落下運動など力学原理の研究に没頭することができた。アリストテレス流の世界観を否定して、新しい力学の建設に打ち込んでいたのだ。シェイクスピアは、故郷のストラトフォードを出てロンドンの劇団に加わり、木戸番や下っ端俳優を経た後劇作に没入した。エリザベス一世の絶対王政を迎えたイギリスとローマカトリック教会の教義が支配したイタリア、それぞれ国家形成の原理は異なるものの、ルネサンスの残光の中で共に実験的試みが可能であったのではないだろうか。
とはいえ、ローマカトリック教会との確執においては二人の間で大きな差異があった。ヨーロッパ諸国で宗教改革の嵐が吹き荒れた後、ローマ教会は初め地動説に寛容であったが、やがて態度を硬化させ、ガリレオは二度まで宗教裁判を受けざるを得なかった。その苦難の中で『新科学対話』を書き、近代科学の礎を築いたのである。一方、既に一五三四年、ヘンリー八世によってローマ教会と絶縁していたイギリスにおいては、メアリ一世の揺り戻しはあったものの、エリザベス一世が布告した統一法で国教会の権威が確立していた。シェイクスピアはカトリック教会の圧力を気にすることなく劇作に打ち込めたのだ。ガリレオの科学は権力に屈服し、シェイクスピアの文学は権力を相対化し得たかのように見えるが、それはローマ教会との関係抜きでは論じられないだろう。
二人の共通点は、星の世界への親密な思いである。それもまさに理科的態度と文学的観点の対比が見られて微笑ましい。
ガリレオは望遠鏡を手にするや、月の凸凹、太陽の黒点、木星の四大衛星、天の川の星の群れと、新たな発見を積み重ねた。ガリレオは星界の多重性を暴き出すことによって、自然の豊穣さを実感させたと言えよう。もっとも、ガリレオは見たものしか信じないという科学者的な限界があったのも事実である。後年、彗星が飛来したとき自慢の望遠鏡で観測したのだが、分解能が悪くて彗星の核の位置を正確に定めることができなかった。そのため、彼はアリストテレス流の解釈に立ち戻って月下圏の現象だと断じる間違いを犯している。科学者は往々にして強引に決着をつけたがる存在なのである。ともあれ、ガリレオは星を私たちに近づける第一の功労者となった。
他方、シェイクスピアは天文好きであり、それを暗示的に劇作に使うことを心得ていた。実際、シェイクスピアの作品には月の相・日食や月食・流星雨・彗星・星座などが多く使われている。それらを、どのような舞台効果を企み、どのような心情を表現しようとして使っているかを調べれば面白いのではないだろうか。
例えば、「ジュリアス・シーザー」の第三幕第一場に「おれは北極星のように不動だ」と宣言する場面がある(小田島雄志訳、『シェイクスピア全集第三巻』白水社)。権力の頂点に上り詰めた人間の傲慢な言葉であり、その直後に暗殺されるという劇的な効果を暗示する台詞である。しかし、シェイクスピアは、地球の歳差運動(自転軸がゆっくりずれていく運動)により、北極星は不動ではないことを知っていたに違いない。事実、シーザーの時代には北極を指す星はなく、すべての星は動いていたのだから。なればこそ、権力者を揶揄する大いなる皮肉としてこの台詞を配したのではないかと考えられるのだ。
また、「恋の骨折り損」第一幕第一場では「星の一つ一つに名前を与える学者」という台詞がある。一六〇〇年頃、ドイツのアマチュア天文学者バイエルが『ウラノメトリア』を出版した。星座ごとに星の明るさ順にギリシャ文字で呼ぶ方式にしたのだ。この方式は現在も踏襲され、オリオン座アルファ星とか画架座ベータ星というような呼び方をしている。この「星の一つ一つに名前を与える」作業が進んでいることを以前から知っていたシェイクスピアは、生半可なアマチュア天文家ではなかったのは確実である。
とすれば、シェイクスピアは一六一一年に引退して故郷で悠々自適の生活を送ったようだが、ひょっとすると望遠鏡を手にして星空を眺めるのを楽しみにしていたのではないかと想像できる。やっと一六〇九年にガリレオが望遠鏡を手にしたのだから、まだそんなに普及するほど時間が経っていないではないかと思われるかもしれないが、望遠鏡はたちまち評判になって世間に広がったことがわかっている。その証拠は日本にある。
一六一三年にイギリスの軍艦クローブ号でやってきたジョン・セーリスは、駿府にいる家康と会見した。そのとき、銀台鍍金の「靉靆(筒眼鏡)」を献上したと『通航一覧』に記載されているのだ。ガリレオ式望遠鏡が発明されてたった四年足らずで、遙か東方の日本に渡来しているのである。そのことを考えるなら、シェイクスピアはやすやすと望遠鏡を手に入れられたことは疑いない。ガリレオとシェイクスピアがここでつながったと言うべきだろうか。
(筆者=宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授。著書に『疑似科学入門』(岩波新書)、『物理学と神』(集英社新書)、『科学の落し穴』(晶文社)など多数。)