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連載・エッセイ

第28回 ベルリンの壁 ―2009.09.25

ドルドーニュ便り《番外編》


ベルリンの壁を破る市民

今年の後半は歴史的な00周年記念日が多い。7月16日は人類が月に着陸して40周年、9月1日は第二次世界大戦開始(ドイツがポーランドを侵略)から70周年、10月1日は中華人民共和国の誕生60周年、11月9日はベルリンの壁崩壊から20周年だ。

1989年11月のベルリンの壁崩壊時、わたしは『ニューズウィーク日本版』の編集長をしていたが、この世紀の大ニュースに興奮、感激したものだ。大特集を組んだその週の表紙は、冷戦の象徴であったベルリンの壁の上で歓喜する東西ベルリンの若者だった。思えば、あの年は100年にいちど、あるいは200年にいちどの歴史大回転の年であった。

9月の上旬、富山の友人夫妻がわが家を訪れた。鈴木康雄さんは読売新聞のモスクワ特派員だったジャーナリストで、いまは富山国際大学の教授である。鈴木夫妻が滞在中、サン・ジャン・ドコール村で暮らすリトアニア人夫妻バストコスさんを夕食に招いた。その日のメイン・コースは、妻の得意料理ほろほろ鳥の丸焼きだった。

「ベルリンの壁が崩壊したとき、どこにいました?」と、考古学者のバストコスさんに聞くと「リトアニアの首都ヴィリニュスでニュースを聞きました。6日後にベルリンに行き、ハンマーや金槌を2マルクでレンタルする業者がいたので、それを借りて壁を叩いてかけらを記念にもってきたよ」と言った。

バストコスさんはリトアニア生まれだが、第二次大戦後、両親と共にカナダに移住しそこで育ち、トロント大学の教授になった人だ。彼は、ソ連の支配下にあった祖国リトアニアの独立運動組織の一員でもあった。1990年5月、ゴルバチョフ大統領がトロントを訪問した日のエピソードを語ってくれた。

バストコスさんは、ゴルバチョフを囲む群衆の間をぬって、彼に近づき「リトアニアに独立を」と刻まれたバッジを渡した。するとゴルバチョフは一瞬固い表情になったが、ライサ夫人にそれを渡し彼女はハンドバッグに入れたという。ところが、そのあと、カナダ人の大男の警護官がバストコスさんの腕をねじって組み伏せた。「あのときの後遺症で、いまでも右腕がときどき痛む。そのたびにゴルバチョフのことを思いだすよ」と苦笑していた。

鈴木さんはロシア語が堪能で『ゴルバチョフ回想録』(上下2巻、新潮社刊、1996年)の訳者でもある。「ゴルバチョフに会ったことあります?」と尋ねると「読売が、ノーべル賞受賞者として彼を日本に招待したときに何度か話したよ」という。

ゴルバチョフとはじめて会ったとき、自著の感想を聞かれた訳者の鈴木さんは「この本はゴルバチョフさんの『戦争と平和』ですね」と言ったという。共訳者工藤精一郎さんと1年半かけて完成した自伝の頁数が400字詰めで4800枚だった。『戦争と平和』とほぼ同じだったので、ついそんな褒め言葉が出たようだ。

すると、ゴルバチョフは、ページ数ではなく内容だと思い、最高の賛辞と受けとめた。彼は顔を赤らめさえしたという。「トルストイの本と頁数が同じだということ、話した?」と聞くと「いや、言わなかったよ。おかげで、彼は日本滞在中、僕にやさしかったね」と鈴木さんは答えた。


鈴木さんとバストコスさん

ゴルバチョフ回想録の文学的価値はともあれ、彼が20世紀の偉大なる政治家のひとりであることは間違いない。血を流すことなく、共産党独裁支配の終焉、東西冷戦終結への道を開いた最大の功労者であるからだ。
1989年10月6日、民主化要求デモが東ドイツの各都市で広がるなか、ゴルバチョフの東ベルリン訪問を特派員として取材したBBC外交担当編集長、ブライアン・ハンラハンはBBC World (オンライン版)で「あの時点で、次になにが起こるかを誰も予測できなかった」と回想している。

首脳会議の席で、ゴルバチョフは東ドイツのホーネッカー議長に「貴国が武力を行使してデモに対応した場合、ソ連邦はそれを支持しない」と断言し、改革に無関心の議長に「人生は、遅れる者を罰する」と警告を発している。この重要発言を、すぐにハンラハン記者は西ドイツの情報担当者から聞いたと書いているが、どんな方法で西ドイツ諜報機関が情報を得たかはいまだに分らないという。東ドイツ政治局内の反議長派のリークの可能性が高い。ともあれ、このゴルバチョフの不介入発言は、それまで東欧諸国の反体制運動を武力で弾圧してきたソ連の従来の方針から180度の転換だった。

だが、ホーネッカーはゴルバチョフの警告を無視して、その年の6月に中国共産党がとった“天安門方式“による解決を決定した。東ベルリンのアレクサンドル広場に集まった民主化を求める大群衆を鎮圧するため、軍の出動を指示したのだ。しかし幸いにも、指示を受けた政治局員がその決定に抵抗し実行しなかったので、東ドイツでは悲劇は起こらなかった。数日後、権威を失ったホーネッカーは辞任した。

ゴルバチョフは前年の共産党の会議で「社会システムや生活スタイルを外部から強制する、とくに武力による強制は危険である」と表明しているから、不介入の原則は彼の信念であったことがわかる。「ゴルバチョフがいなければ、ソ連と東欧の共産主義が消滅するには、血なまぐさい長い時間がかかったのではなかろうか」と、BBCのハンラハンは20年後に書いている。


1987年7月27日号のタイム誌

ベルリンの壁崩壊から1年後、東西ドイツは統一しヨーロッパの政治地図は塗り変るのだが、実現までには紆余曲折があった。統一反対の急先鋒はサッチャー英国首相だった。

壁の崩壊から2週間あと、コール西ドイツ首相が統一計画を突然発表した。その10日後に開かれたEU首脳会議の夕食会の席で、サッチャーは「われわれはドイツを2度負かした。しかし、これで振り出しになった」とコールの面前で言い放ったという。

今月上旬、英国外務省はベルリンの壁崩壊前から東西ドイツ統一までの間に交わされた手紙やメモなどの外交秘密文書を公開した。それによるとサッチャーだけでなくフランスのミッテラン大統領も、当初は東西ドイツ統一に反対していたことがわかる。例えば、1990年1月エリゼ宮での昼食会で、ミッテランはサッチャーに「昔の悪いドイツの再来になるのではないか」、「統一ドイツはヒットラーより大きな影響をもつのではないか」と懸念を表明している。

しかし、ミッテランは統一への流れはもはや阻止できないことを知り賛成にまわる。その時点で考えだされたのが、EU共通通貨ユーロの創設だった。ユーロによってドイツとフランスを中心とするEU諸国が経済的に一体化する構想である。ミッテランは、東西ドイツ統一をテコに、EU統合を加速させたといえる。

一方、サッチャーは統一へのペースがあまりにも速すぎると考え、5年間の移行期間を提案するが、耳を傾ける者はいなかった。ハード英国外務相も統一推進派で、サッチャーを説得するのに苦労したと語っている。米国のブッシュ(父)とソ連のゴルバチョフは当初からドイツ統一に賛成だったので、サッチャーの頑強な反対意見は孤立していたようだ。

それでも、サッチャーは3月に歴史家、政治家を集め“ドイツ人は危険か?”というセミナーを開催している。しかし、今回公開された文書によると、参加者は全員一致で「われわれはドイツ人に親切であるべきだ」と提言したという。

ゴルバチョフは東西ドイツの統一をどう考えていたのだろう。Le Monde別冊“1989”(2009年9-11月号)のインタビューで彼は、1989年6月、西ドイツのボンでコール首相と会談したときのことを次のように回想している。「あの時点で、われわれの共通認識は『統一を実現しなくてはならない。しかし、これは21世紀の課題である』というものだった」。

その5ヶ月あとに、ベルリンの壁崩壊が起こったわけだが、その予想外の展開にゴルバチョフは「歴史の蝶つがいが外れ、コントロールができない状況だった。平和革命ではあったが、危険な要素もあった」と語っている。ペレストロイカの推進者も、歴史の歯車がこれほどの急回転をするとは思ってはいなかったことが分る。

インタビューのなかで、ゴルバチョフは、コールが統一計画を発表したあと「12月中旬に、東ドイツのホーネッカーの後継者ハンス・モドロフが電話をかけてきて『統一以外に選択肢はない』と言った。わたしは1月26日に会議を招集し、すべての局面を検討し東西ドイツ統一に同意するという結論をだした」とも言っている。


メルケル首相

ドイツ統一から20年たった今、サッチャーやミッテランの心配は杞憂だったことが分る。ドイツはヨーロッパの優等生となり、世界は敬意を抱いている。もはやフランス人はドイツを怖いと思っていないし、世論調査をすると「最も信頼する国はドイツ」と7割のフランス人は答える。

東ドイツ出身のドイツの女性首相メルケルのヨーロッパでの人気は高い。もし年末にリスボン条約が批准され、EU大統領のポジションが制定されると、彼女はその最右翼候補と言われるほどだ。ベルリンの壁が崩壊したとき、彼女は科学アカデミーの量子化学の研究員だった。その日、メルケルは同僚と週一度のサウナに行き、翌朝目をさますと、西ベルリンへの往来が自由になっていたという。

わたしの手元に、ベルリンの壁のかけらがある。グラフティが描かれたコンクリートの破片である。壁の崩壊から1年後に、取材でベルリンを訪れ買ったものだ。なんの変哲もないこの破片を見るたびに、ゴルバチョフの顔を思いだす。


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