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連載・エッセイ

第12回 軍用地はその後どうなったか ―2009.12.18

地図から見た戦争


図1 1:10,000「上野」大正5年修正

 一面に「赤い建物」がぎっしり並んでいるが、図の左端にあるように東京の「後楽園」である。もとは水戸徳川家の上屋敷だった。町名は小石川町とあるが、小石川という地名は水道橋から北、白山あたりまでの古くからの広域地名で、昭和22年(1947)まで区名でもあった(本郷区と合併して文京区)。しかしここに載っている「小石川町」は広大な水戸藩邸の敷地に明治5年(1872)になって命名された町名である。そもそも江戸時代には武家地に「町名」が存在しなかったので(「町」ではないので当然だが)、明治維新を迎え、改めてたくさんの町名を東京の武家屋敷地帯に相次いで設定した。縁起を担いだ「瑞祥地名」もあるが、多くは通称や旧大名家にちなむ名称となっている。
 武士の世が終わってすぐの明治2年(1869)、新政府はこの水戸藩邸も接収して同12年に東京砲兵工廠を置いている。当時は海軍造兵廠、横須賀海軍工廠、大阪砲兵工廠とともに四大工廠と呼ばれ、「帝都の大武器製造工場」として陸軍の装備を充実させた。とはいえ最初のうちは旧幕時代に諸藩お抱えの元鉄砲師などが働いていたという。有名な三八式歩兵銃などもここで大量に作られている。
 上の方に工場の記号とM字が並んでいるが、Mは陸軍所管を表わす組み合わせ記号であり、双方で「陸軍の工場」を意味する。参考までに濃紺色の破線は暗渠で、下富坂町などを流れてきた小川は工廠の敷地内では地下を流れていた。図の切れ目なので工廠の全体を見渡せないが、周囲には煉瓦またはコンクリートの塀が巡らされていたことが、ハタザオのような記号で読み取れる。工廠の周囲には、今よりだいぶ狭かったとはいえ現在の白山通り(工廠の東側)や春日通り(北側)がすでに通り、どちらにも市電の線路がある。春日町や壱岐坂下などの停留場名は今も交差点名に健在だ。図の6年後、関東大震災の年にあたる大正12年(1923)には陸軍造兵廠に変わっている。


図2 1:10,000「上野」昭和31年修正

 戦後11年経った昭和31年(1956)である。街路がほぼ同じなので激変がわかりやすい。昭和20年(1945)に帝国陸軍は消滅し、原則としてその関連施設のすべてを米軍が接収したが、この造兵廠はひと足先の昭和10年頃に小倉市(現北九州市)へ移転し、跡地には同12年、後楽園スタヂアムが開場した。当時はプロ野球の黎明期で、前年に巨人の沢村栄治が対タイガース戦でノーヒット・ノーランを達成したそうだ。その伝説の名投手も昭和19年(1944)に輸送船に乗っていて米潜水艦に沈められ、戦死している。
 戦争が終わってプロ野球も復活し、この図の修正年である昭和31年(1956)は川上哲治が通算2000本安打を達成した年である。長嶋茂雄はその翌年に巨人軍に入団した。さて、図を見ると現在とはだいぶ異なり、後楽園球場の隣には競輪場も見える。こちらは昭和24年にできた都営の施設で多くの入場者で賑わい、都の収入も相当なものだったが、美濃部亮吉知事が就任して都営ギャンブル全廃を宣言、昭和47年(1972)には廃止された。


図3 1:10,000「日本橋」平成10年修正

 東京ドームは同63年(1988)のオープンだが、日本初のドーム球場もすでに21年の歳月が経ってしまったとは感慨深い。広さを表わすのに「東京ドーム何個分」という言い方もすっかり定着した。ドームの場所は後楽園球場ではなく、競輪場のあった位置である。図2の「帝都高速丸ノ内線」は図の修正の2年前、銀座線に続く東京2番目の地下鉄として池袋〜御茶ノ水間が開業したばかりで、同31年(1956)7月に東京駅に達した。その後このエリアには都営地下鉄三田線(昭和47年)、東京メトロ南北線(平成8年)、都営大江戸線(同12年)が地下を縦横に走り回るようになったが、以前の主役であった都電は荒川線を除いて昭和40年代に全廃されている。


図4 1:25,000「赤羽」昭和20年部分修正

 こちらは郊外である。戦争中の昭和17年(1942)4月に東京が「ドゥリットル空襲」を受けて「帝都防衛」のため急造した成増飛行場だ。翌年に始まった工事には近衛師団や第一師団から成る赤羽工兵隊の他に在郷軍人や中野刑務所の囚人、動員学徒、それに朝鮮人労働者などがあたり、突貫工事で行われた。以前は畑や集落のあった場所だが、「非常時である」として有無を言わさず強制買収、移転させられた農家は66戸に及んでいる。
 昭和20年の終戦を迎えると直ちに米軍が接収し、米陸軍の家族宿舎が建設されたが、同22年には第5空軍の家族宿舎「グラントハイツ」となった。南北戦争時にグラント将軍として活躍し、後に第18代大統領となったユリシーズ・グラント(1822-85)にちなむ命名である。東武東上線の上板橋駅から陸軍第一造兵廠まで伸びていた専用線が啓志駅(後にグラントハイツと改称)まで延長され、池袋から直通の進駐軍専用列車が走った。ちなみに啓志とはグラントハイツの建設責任者、ケーシー中尉にちなむものである。


図5 1:25,000「赤羽」昭和45年修正

 図はグラントハイツ時代のものだが、川越街道周辺の密集市街、東側の昔ながらの農村集落と比べて明らかに異なる景観が広がっていたことが一目瞭然だ。芝生が敷き詰められた中に余裕をもって並ぶ広い住宅が想像できる。もちろん、まん中には翩翻(へんぽん)たる星条旗。現在の米軍基地と同様に「練馬区の中の異国」であり、基地内には米軍子弟のための学校から映画館、ショッピングセンター(PX)、ゴルフ練習場やプールなど、何でも揃っていた。
 その後は返還運動が起こり、昭和30年代から少しずつ「接収解除」が行われていった。昭和46年(1971)には全面返還が決まり、広大な面積を公園と団地など住宅地とする再開発が行われることになった。高松町や田柄町の各一部にあたるハイツ内の町名は返還直前に「光が丘」として住居表示されている。
 図の3年後の昭和48年(1973)にグラントハイツは全面返還され、下の図6のようなニュータウンに変貌した。長らく交通機関がバスしかなかったが、平成3年(1991)には都営地下鉄12号線(現大江戸線)が練馬まで開業、同9年には新宿まで、さらに同12年(2000)には環状部分が開業して都心部への連絡が便利になった(たとえば光が丘〜六本木間は32分)。
 農村から陸軍飛行場、米軍住宅、そしてニュータウンへ。この地域にとっては、何とも目まぐるしい20世紀であった。これも戦争がもたらしたものである。


図6 1:25,000「赤羽」平成10年部分修正

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