
今は陸上輸送の大半をトラックが担う時代だが、戦時中は陸の主役は圧倒的に鉄道であった。そのため何かモノを運ぶ場面があれば、大小の規模の差はあれ必ずと言っていいほどレールが敷かれ、そこを蒸気機関車が牽く重量級の貨物列車から、果ては人力のトロッコに至るまで、用途に合わせた車両が往復していたのである。もちろん軍隊でも兵器・兵員その他の輸送には、鉄道が大いに活躍した。
千葉県に鉄道連隊という部隊があった。第一連隊が千葉、第二連隊は津田沼に置かれ、戦地における鉄道の敷設と運営、破壊工作までを担う連隊であったが、演習と称して国内の数々の鉄道・軌道の建設にも携わっている。この場合、建設業者に頼むのに比べ、材料費を負担するだけでよかったので、鉄道事業者としてはだいぶ助かったらしい。札幌の「雪まつり」会場に雪を運んで彫刻する作業が、実は陸上自衛隊の「野戦築城訓練」、というのを連想してしまう。

図1 鉄道連隊の演習線 1:25,000「松戸」昭和19年部分修正 | | 
図2 新京成電鉄 1:25,000「松戸」平成17年更新 |
その演習線が津田沼から松戸付近に至る下総台地上に敷かれていた。図1がそれであるが、北初富から五香あたりにかけて、線路がカーブを繰り返している。これは図2でわかる通り、現在の新京成電鉄の線路だ。敗戦後にこの線路跡地を民間に「払い下げる」ことになり、地域の将来性を見越して西武鉄道と京成電鉄が競った。結局は京成が引き受けて新京成電鉄を設立、今に至っているのだが、この演習線は困ったことに妙な蛇行を繰り返しており、そのまま使うには使い勝手が悪かったため、一部の迂回路的な部分については短絡するなどして改良を加えている。
それにしても、なぜそれほど蛇行していたかについては、一部に流布する「機銃掃射を避けるため」などという子供だましの説はともかく、『民鉄経営の歴史と文化(東日本編)』(古今書院)で筆者の山田俊明氏は「路線四五キロをもって一運転区大隊を編成すべしという鉄道連隊の規定に合わせるために、線路を故意にねじ曲げたからであるといわれている」としている。いずれにせよ、当初は畑と雑木林だった沿線には住宅地が激増した。

図3 弾薬庫の引込線跡 1:25,000「原町田」昭和41年改測 | | 
図4 横浜高速鉄道こどもの国線 1:25,000「原町田」平成19年更新 |
図1には昭和40年に開園したばかりの多自然型遊園地「こどもの国」が載っているが、その南側、長津田駅に至る破線で表わされた線路は、「建設中のこどもの国線」ではない。実はここ、戦前には東京陸軍兵器補給廠(田奈部隊填薬所)、つまり弾薬庫だった。戦後は米軍が接収してやはり同じ弾薬庫として使われていたが、その後返還され、「平和利用」でこどもの国になったのである。この線路は地形図記号では「建設中または運行休止中」を意味するが、戦前には横浜線の長津田駅に至る軍用の引込線であり、図1はそれが放置されている状態である。現在はない東側に枝分かれした支線(どちらが支線かわからないが)も載っている。
図2は現状で、開園2年後にあたる昭和42年(1967)に東急こどもの国線(施設保有はこどもの国協会)が開通した。その後は沿線の宅地化に伴う一般客の需要に応えるべく、平成9年には横浜高速鉄道となり、中間に恩田駅も開業した。とにかくこの40年近くで進んだ都市化の波は著しい。

図5 日立航空機専用線から転じた西武上水線 1:50,000「青梅」昭和28年応急修正(同29年発行)

図6 西武拝島線 1:50,000「青梅」平成9年要部修正
隷書体で大きく書かれた「北多摩」の郡名が目立つ。今は郡域の全部が市制施行したためすでに消滅したが、その北側に走るのは「上水線」である。これは現在の拝島線の一部で、昭和43年(1968)に拝島まで延伸される以前は玉川上水駅が終点だった。
まとまった集落もなく、有力な神社仏閣があるわけでもない場所に終着駅。これは要注意である。ご想像の通りかもしれないが、ここには日立航空機の工場があり、人員と資材運搬のために緊急に整備された線路であった。起点は西武国分寺線の小川駅である。
もうひとつ、小川から北東へカーブしながら伸びている引込線、こちらはブリヂストンの工場専用線だが、戦時中は陸軍兵器補給廠小平分廠であった。その後、昭和37年(1962)にブリヂストンの専用線を西武鉄道が譲り受けて萩山まで延長、新宿線からの直通電車が走るようになった。拝島線の線路が「紆余曲折」しているのは、そんな歴史を背負っているからである。