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連載・エッセイ

第14回 市電に「特急」が走った理由 ―2010.01.22

地図から見た戦争


図1 電車線路及停留場一覧図 昭和4年発行 東京市電気局

 図1は東京市電気局、つまり今の東京都交通局の前身が発行した路面電車の案内図である。東京府が都になるのは昭和18年(1943)のことだから、まだ「市電」の時代だ。デザイン的にも優れていて、市電の路線は赤い太線でわかりやすく示し、連絡する省線(国鉄)と他の私鉄が青で印刷されている(系統図は裏面の別図)。さらに地色が白なら低地(沖積低地)、薄緑は台地と色分けされているのはなかなか画期的だ。これなら、どこに坂道があるのかさえわかる。
 現在の地下鉄案内図を見ると、路線別にシンボルカラーで色分けするのは見やすくて結構だが、地形との関係などは眼中にない。今さら等高線を描けとは言わないが、戦前のこの路線図ぐらいの工夫があれば、東京の「顔つき」が一目でわかっていいのだが。また、図は西が上になっているが、「江戸図」もそんな向きのものが多く、江戸人の方角感覚を無意識に、または意識して使ったのかもしれず、「北が上」を墨守せず、実用本位に徹底したところもまたいい。
 さて、日本橋から新橋に至る停留場に注目いただきたい。日本橋、通三丁目、京橋、銀座一丁目、銀座二丁目、銀座四丁目、出雲町、芝口、新橋駅前。現在の平均的なバス停の間隔より少し狭い平均約290m間隔で設けられている。出雲町はついでながら現存しない町名で、江戸時代にここを埋め立てる際、出雲・松江藩が担当した地区であった。町名はそれにちなんで命名されたものだ。残念ながら震災復興事業の町名地番整理により、この図が出た翌年の昭和5年(1930)に「銀座」に含まれて消滅している。


図2 東京電車案内 昭和19年発行 青木書店

 この図はそれから15年も経った昭和19年(1944)の路線図である。この頃はすでに東京市が東京都になっており、「都電」の路線は黒い線だ。これで日本橋と新橋の間を見ると、昭和4年に比べて停留場の数は半分以下になっている。日本橋、京橋、銀座四丁目、新橋しかないので地下鉄の駅と同じ間隔であり、停留場間隔の平均は800m弱と大幅に広くなった。
 省略されたのではなく、途中の停留場が廃止されてしまった結果である。これも戦争の影響で、節電がその目的であった。日本の大陸進出を牽制すべく、ルーズベルト大統領のアメリカ合衆国は昭和15年(1940)に航空燃料等を、翌16年からは全面的な対日石油禁輸に踏み切った。それが太平洋戦争の直接の引き金になるわけだが、資源を「敵」に握られた日本としては南方の石油奪取を焦るがうまくいかず、結局はジリ貧の中で国民に窮乏生活を強いることになった。
 鉄道省では小回りの利く気動車を導入し、その専用駅をいくつも新設して好評のうちに運転中だったが、まっ先に止められ、気動車のみが停車する駅はいくつも廃止となっている。その次は電車の駅で、利用者が少ない駅、隣との間隔が狭い駅が狙われ、全国各地の主に私鉄電車の小さな駅が休止または廃止となった。電車が停止し、ドアを開閉して再び発車するという一連の動作には一定の電力を消費するため、「非常時であるから、近い所は歩きなさい」ということになった結果がこのスカスカの路線図なのである。都電では昭和19年(1944)の10月5日に膨大な数の停留場が廃止となった。戦後になって少しずつ復活を果たしてはいるが、かなりの数はそのまま復活せず、モータリゼーションの直撃を受けて都電の路線そのものが廃止の道をたどっていくのだが。


図3 「名古屋地図」袋の市営電車路線略図 昭和18年発行 六楽会

 昭和18年以降になると神社仏閣への参拝客を運ぶ鉄道、観光地のケーブルカーなどが「不要不急」と認定され、レールを剥がされるなどの動きにつながっていくが、路面電車では「急行運転」が行われたところも多い。急行といえば聞こえはいいが、節電のため停留場を通過するものであった。都市と時期によって異なるが、最後にはどこも終日急行運転、つまり通過となる停留場は事実上の廃止となったのである。
 図は名古屋市電の路線図だが、黄色が急行停車停留場、赤が特急停車停留場と凡例にある通り、急行・特急が運転されていた。まず石油禁輸開始の昭和15年(1940)2月に利用者の少ない停留場を通過する急行の運転が始まり、同18年1月からは、さらに停車停留場を減らした特急の運転が始まっている。市の中心部ではほとんど他線との交差地点にしか停まらない状態だったが、この特急の運転が中止となったのは昭和20年、空襲で自慢の天守閣が焼かれ、名古屋市民にとって茫然自失の終戦を迎えた直後、9月1日のことである。


連載・エッセイ
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