

図1 1:10,000「中山」平成6年修正
中山競馬場の東隣の地域に丸い一画がある。半径ちょうど400mのきれいな円を描く道路に囲まれており、東側にはわずかな窪みがある。中央部には蝶ネクタイのような形をした行田公園があり、その北側は税務大学校や行田中学校、南側は行田団地と行田東・行田西の2つの小学校。西端にはJR武蔵野線がかすめているが、西側には中山競馬場の長円形、南東には日本建鐵船橋製作所の長方形の敷地があって、地上に描かれた「3つの図形」は地図で見ても衛星画像でもよく目立つ。
競馬場の長円と工場の長方形はその目的に合致した形なので謎でも何でもないが、団地や学校が真円の道路で囲まれていなければならない理由はないから、何らかの目的で真円形に区画された中に施設があり、その後使用されなくなって「跡地」になったことは明らかだ。武蔵野線が弧の一部に中途半端に侵入していることから、この線ができた昭和48年(1973)にはすでに「跡地」だったと考えられる。

図2 1:25,000「船橋」昭和45年修正

図3 1:25,000「船橋」昭和7年要部修正
しかし「謎の円形」は、昔の地図を見れば一目瞭然だ。昭和45年の1:25,000地形図「船橋」には公園も団地もなく空き地の中に9つもの電波塔の記号が記されており、中央付近の少し大きめの建物には「無線送信所跡」の注記がある。西側には整然と並ぶ戸建てと思われる家屋。戦前の図3には「船橋海軍無線電信所」とあるように、ここは海軍の通信所であった。正式には「海軍東京無線電信所船橋送信所」と称し、大正4年(1915)に完成した。何千キロも離れて展開する太平洋上の連合艦隊などへ向けて送信するために設けられたもので、翌大正5年には逓信省の通信所も併設されている。
この送信所の活躍で有名なのは大正12年(1923)に起きた関東大震災で、大きな被害を受けた東京や横浜など関東地方の被害状況を世界中に発信することができた。日本ではまだラジオの放送が始まっていない(開始は大正14年)。これに対して世界中から多くの義捐金が寄せられたことは知られている。黎明期の鉄筋コンクリート団地で知られる同潤会はその義捐金のうち1000万円を元に財団法人として設立され、まずは東京市・横浜市内の木造バラックを建て、震災2年後からは鉄筋コンクリートの集合住宅を各地に次々と建設していった。
この通信所からは太平洋戦争の火蓋を切る真珠湾攻撃命令、「ニイタカヤマノボレ1208」も送信されたという。戦後は他の軍事施設同様に米軍が接収し、その通信基地として使われたが昭和41年(1966)に返還されている。ひょろりと高い主塔は高さ約200m、その周囲を取り囲む副塔は約60mであったが同46年には解体され、跡地には冒頭の地図のように公園や団地ができた。よくよく気をつけていないと見過ごしそうだが、今も付近には「海軍」と彫られた境界石がいくつも残っているそうだ。
通信所ができたのは塚田村(現船橋市)で、近くの東武野田線(当初はその前身の総武鉄道)には塚田駅もあるが、実はこの旧村名は通信所の建設された行田新田と前貝塚村・後貝塚村の3村が明治22年(1889)に合併した際に貝塚の塚、行田の田をとって繋げた合成地名である。さらにこの行田新田(昭和15年に行田町と改称)も実は合成地名で、現在はいずれも市川市内にある行徳領と田尻村の人たちが開拓したことから両地名を合成して行田新田としたのである。

図4 1:10,000「戸塚」平成7年修正
図4は現役の通信所、米海軍戸塚無線送信所(深谷通信隊)である。こちらも日本海軍の通信所であったが、戦後は米軍の施設となった。船橋よりひと回り大きい半径500mで面積は約77ヘクタールと広大だ。アメリカの第七艦隊の艦船および航空機へ送信するための施設である。船橋も戸塚もそうだが、送信施設から一定半径の範囲内を送信の障害にならないよう円形に用地を買収するようで、これが地図上の円形として目立つ存在になる。
しかし周囲が畑ばかりの昔はともかく、徐々に市街化が進んでくると、船橋のような周回道路がなくても円形が浮き上がってくる。周回道路がない代わり、一部が戸塚区と泉区の境界線となっているので、南側をよく見ると一点鎖線がきれいに弧を描いているのがわかる。円の内側には「かまくらみち」と記された県道も通っており、私は30年ほど前にバスでここを何度か通ったことがあるが、ずっとフェンスが続いて芝生の間に高いアンテナと建物があり、日本語英語併記の注意看板もあり、緊迫した雰囲気だった覚えがある。最近では「円内」の畑に地元の人が立ち入ることは認められているそうで、そんな空気は緩んだのかもしれない。平成16年(2004)には返還の方針が決まったが、今後どのような地域に変貌するだろうか。