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第33回 マルタの春 ―2010.03.24 ![]() 要塞都市ヴァレッタ 地中海の小さな島マルタを訪れた。ドルドーニュの異常な悪天候にげんなりして、春の南国に脱出をはかったのだ。行く前に、ガイド・ブックを読み、アレック・ギネス主演の映画『マルタ物語』(1953)を見て軽くウォーミング・アップして出かけたが、実際に見たマルタは歴史の宝庫のような所だった。 マルタはイタリア・シシリア島の南90キロにある屋久島より小さい島だが、1964年にイギリスから独立した国家でEU(ヨーロッパ連合)加盟国でもある。人口はわずか40万! 言葉は英語とマルタ語で通貨はユーロ。 オフ・シーズンで半額の5つ星ホテル“フェネシア”に陣取り、1週間、島中を歩き回った。紺碧の海に魅され、5000年前の“Sleeping Lady(眠れる貴婦人)”像に心奪われる旅だった。なにより、マルタ人は親切だった。ただし、お国自慢のウサギ料理は最初で最後になるだろうが。 マルタの歴史は波乱に満ちている。地中海の要衝の地に位置し良港があるために、3000年にわたって繰り返し侵略され異民族の支配下にあった。フェニキア、カルタゴ、ローマ、アラブ、ノルマン、スペイン、マルタ騎士団、フランス、イギリス、とそのリストは長い。 フェニキア人がやってくる前の先史時代のマルタには、世界最古の神殿の遺跡が島の各地に残っている。今回の旅でわたしが最も興奮したのは、ギリシャやエジプトの神殿より古い地下3階建ての神殿ハイポジューム(ユネスコ世界遺産)だった。 上の写真は、マルタ騎士団(1530-1798)の統治下に建てられた城壁だが、首都ヴァレッタは騎士団がイスラム軍の侵略に備えて建築した要塞都市だ。 ここには、4つの岬があり二つ城砦が残っている。その湾内はグランド・ハーバーと呼ばれ、その支配をめぐって天下分け目の戦いが二回行われている。ヨーロッパの命運を賭けたこの二つの戦いは、いずれも「マルタ包囲戦」と名付けられている。 第一のマルタ包囲戦は1565年。イスタンブールから押し寄せてきたオスマン帝国の大艦隊を迎え撃ってのマルタ騎士団の戦い。第二のマルタ包囲戦は第二次大戦中の枢軸軍の3年間にわたる猛爆と海上封鎖に耐え、英軍の増援で逆転勝利した戦いだ。 前記の映画『マルタ物語』は、当時のマルタの人々の苦難を背景に、英軍パイロットとマルタ娘の悲恋を描いたものだ。ご興味のある読者は、実写フィルムも入った10分間のダイジェスト版http://www.youtube.com/watch?v=u7oGZm8Pct8をどうぞ。 以下は、地下神殿ハイポジューム、16世紀と20世紀のマルタ包囲戦を中心にしたわたしの歴史散歩である。 ![]() 地下神殿ハイポジューム 地下神殿に出かける日の朝、フェニシア・ホテルの食堂で面白い光景にであった。日本人団体客のご婦人の一人がシャンパンを片手に、朝食をとっている姿である。「日本も変ったわね」と妻がつぶやいた。 さて、本題の地下神殿ハイポジューム。この写真(撮影禁止なのでネット公開のものを借用)を見ると,ローマ時代のカタコンベのようだがそうではない。1902年に発見されたとき、考古学者もそう思ったが、よく調べてみると、BC3600年に建築された神殿・墓地だった。 日本語のオーディオ・ガイドを聴きながら、小さな部屋がいっぱいある迷路のような道を進んでいく。 同時代の地上の巨石神殿遺跡に比べると、保存状態がいいのに驚く。 硬い岩盤を、先史マルタ人は石のハンマーやのみを使ってくり抜いていったのだから、その忍耐力は想像を絶する。写真はB2の中央にある円形の部屋だが、地上の神殿に模して造られたものだという。神聖な儀式の場だったのだろう。設計図もなく、暗闇のなかランプを頼りにこれほど美しい空間を創りだした人々にブラボー! ![]() 眠れる貴婦人 20世紀初めにこの石窟神殿が発見されたとき7000体の人骨があったので、考古学者は、ハイポジュームは神殿であり共同墓地であったと考えている。 前記の円形の部屋に隣接した小部屋から発見された埋葬品に“Sleeping Lady(眠れる貴婦人)”像(20cm)がある。マルタ文化遺産のシンボルのような存在だが、わたしは考古学博物館でこの像を見て感動した。 画家ボテロが描くような太った女性が、右の腕を枕にして、舟形のソファに横たわり眠っている姿は、ユーモラスでおおらかだ。太い腕と大きなお尻は生命感に溢れている。この像が死者へのはなむけだったとすると、眠るがごとき大往生讃歌ではなかろうか。 “眠れる貴婦人”が創られた時代は、神殿時代と呼ばれているが、武器も城跡も発見されていない。食べ物も十分にある平和な時代だったのだろう。この偉大な文明も、BC1500年に突然消滅するが、その原因は謎である。 ![]() マルタ包囲戦(1565) ヴァレッタからバスに乗って15分、漁港マルサシュロックにやってきた。湾内には赤・緑・青・黄の原色が塗られた小さな漁船で溢れ、岩壁には土産物店が並び、あちこちで網の修理をしているのどかな風景が広がっていた。 マルサシュロックは、1565年5月、オスマン帝国の大艦隊がマルタ攻略のために錨を降ろしたところだ(1989年12月には、ここでゴルバチョフとブッシュ〔父〕が冷戦終結宣言をした)。ガレー船と輸送船の200隻、4万人の大編隊であった。迎え撃つマルタ騎士団は8000人。オスマン陸軍司令官ムスタファ・パシャは“2週間でマルタを降伏させる”と豪語していたが、そうはならなかった。 マルタ攻防戦は、オスマン帝国とスペイン、イスラム教とキリスト教、東と西の地中海の覇権をめぐる決戦であった、と歴史家はいう。当時のオスマン帝国はスレイマン一世の時代で最盛期を迎えていた。彼の治世下、ハンガリーは占領されウィーンが包囲されている。マルタが陥落すれば、イタリアも危ない……キリスト教の総本山バチカンの教皇は、夜も寝られぬほど心配したという。 防衛軍のマルタ騎士団は、ホスピタル騎士団とも言われる。十字軍のエルサレム統治時代に、キリスト教巡礼者のための病院を建てたことから 当時の記録を駆使して書かれた”Empires of the Seas-The Final Battle for the Mediterranean 1521-1580”(海の帝国ーー地中海の決戦1521-1580)(Roger Crowley著 2008刊)を読むと 、攻防戦はすさまじいものであったことが分る。防衛軍はグランド・ハーバーを囲む岬の三つの砦に立て篭もり応戦した。上の絵はオスマンの大軍が聖エルモ砦を陥落させ光景だが、この戦いでマルタ側1600人がほぼ全滅、オスマン軍8000人が戦死した。 エルモ砦で捕虜になった騎士は首を切られ、十字架にかけられて海に流された。それを見た聖アンジェロ砦にいた、マルタ騎士団長(総司令官)フランス貴族のド・ヴァレットは激怒。直ちにイスラム兵の捕虜全員を断首し、その首をひとつずつ大砲に詰め込み敵陣に打ち込んだという。当時のキリスト教徒とイスラム教徒の間の憎しみはこれほど激しかった。 オスマン軍の執拗な攻撃にもかかわらず、ド・ヴァレットが率いる騎士団は持ちこたえる。オスマン軍は地下道を掘り城壁を爆破しようとするが失敗、攻城やぐらも破壊される。オスマン軍が打ち込んだ砲弾13万発は、かつてない規模だったという。 やがて夏になり、酷暑のなかオスマン軍の兵士の体力が衰え、士気が衰えていく。9月になりムスタファ・パシャは最後の総攻撃をかけるが失敗。シシリアから8000の援軍が上陸しオスマン軍に止めを刺す。112日間にわたる包囲戦は終わり、ヨーロッパは救われた。イスタンブールに帰りついたオスマン軍は1万だった。 マルタの首都ヴァレッタは、70歳で槍をもって敵と白兵戦をした騎士団長ド・ヴァレットを顕彰して名づけられたものだ。 ![]() 16世紀のマルタ騎士団のガレー船 前記の『海の帝国ーー地中海の決戦』の著者は、16世紀の海戦の数々を克明に描いているが、戦闘艦ガレー船のこぎ手の言語を絶する悲惨にもふれている。こぎ手は、オスマン軍はキリスト教徒の奴隷をマルタ騎士団はイスラム教徒の奴隷だったが、そのあつかいは双方とも家畜なみだった。 3、4人が鎖でつながれ一列に並び、太鼓でリズムをとり鞭で打たれながら突撃する彼らは、ガソリンなみの消耗品だった。ガレー船のこぎ手はいつも不足していたので、それを補充する手っ取り早い方法は、敵地、敵船を襲い異教徒を奴隷にすることだった。男はこぎ手となり女・こどもは売られた。当時、マルタとアルジェは有名な奴隷売買の市場だった。 わたしは、マルタの盾になり犠牲になったガレー戦のこぎ手について知りたい思い、マルタ海洋博物館を訪れた。ガレー船のモデルはあるが、こぎ手についての説明はまったくない。「なぜないのかな?」とわたしは妻につぶやいた。 ![]() マルタ 1942年4月 第二次世界大戦下のロンドン大空襲はよく知られているが、マルタ大空襲のことは日本ではあまり知られていない。わたしもガイド・ブックを読んではじめて知った。ヒットラーは英国を屈服するために、空爆とV2ロケット弾でロンドン無差別攻撃をしたが、ドイツとイタリアはそれを上回る量の爆弾をマルタに投下している。 1940年6月10日、イタリアのムッソリーニが連合国に宣戦を布告。翌朝シシリアの基地を飛び立ったイタリア空軍爆撃機は、英国地中海艦隊の基地と造船所があるヴァレッタを空襲する。マルタ人にとってこれはショックだった。ムッソリーニがヒットラーと手を結んでいるとはいえ、歴史・文化的には兄弟のようなイタリアがまさか……と思っていたからだ。 その日から、3年間マルタは独伊空軍の標的となり、3000回以上の爆撃を受けている。無差別攻撃で2万5000の建物が破壊され、上の写真のような瓦礫の山になった。最悪の時期には、154日間一日の休みもなく爆撃が続いた。 シシリアからマルタまでの距離は90キロだから、爆撃機は20分で飛んでくる。レーダーが敵機発進を捉えると街中に空襲警報が鳴り、マルタ市民は地下防空壕に飛び込んだ。空襲の死者が1600人ですんだのは、昔からあるカタコンベのおかげだった。http://www.youtube.com/watch?v=VeiVHq8TpXk マルタ島は独伊海軍によって完全に海上封鎖され食糧と石油が不足してくる。厳格な配給制度が実施され、一日のおとなの食糧配給は1500カロリー(ふつうの半分)、ミルクは病院と幼児だけに支給された。英国人マルタ総督は率先してこれを実行した。 闇市では卵サンドが、1週間分の賃金と同額になり、料理をする燃料もなくなり、家具を燃やして煮炊きをするようになる。当時の状況をあるマルタ人が次のように回想している。「空腹のまま寝て、目覚めると空腹を覚え、一日中空腹だった」。市民はネズミまで食べ始めた。 飢餓が迫り、敵を迎え撃つ戦闘機スピッツファイアーが必要とするガソリンの不足も深刻になっていく。1942年6月、食糧と石油が届かなければマルタは9月に降伏するしかない、とマルタの英軍首脳はロンドンに訴える。 チャーチルはこれに応えて、8月初旬、空母、駆逐艦、巡洋艦など64隻の大艦隊が護衛する14隻の補給船団を英国から地中海に送る(作戦名“ぺデストル)。独伊はこれをいち早く察知して、ジブラルタルからマルタに向かう大編隊に、Uボート、ユンカース(急降下爆撃機)、魚雷艇で襲いかかる。 空母イーグルを撃沈し多数の護衛艦を大破し、つぎつぎと補給船を沈めていく。枢軸軍の最大の目標は、米国タンカー“オハイオ”だった。石油を満載した世界最大・最新の“オハイオ”に執拗な攻撃を繰り返す。タンカーに魚雷が直撃、ユンカースの直撃弾が2発命中。火災が発生して爆発を避けて乗員に退船命令が下る。 エンジンが停止し大爆発の危険がある“オハイオ”の救済はもはやできないと思われた。しかし、火の勢いが弱まると、再び乗員がタラップを駆け上り復旧作業にかかる。やがて、2隻の駆逐艦が救援にかけつけ”オハイオ“を両側から支え時速4キロで曳航、奇跡的にグランド・ハーバーに入港する(写真下)。待ち受けたマルタ市民は熱狂的に歓迎する。「あの日のことは、生涯忘れない」とオハイオを出迎える大群衆のなかにいた人は言っている。この日マルタは救われた。マルタに春がやってきた。 ぺデストル作戦でイギリス海軍は大損害を受け、マルタに辿りついた補給船はオハイオをふくめて5隻だった。しかし、それ以降マルタへの補給は増強され形勢は逆転する。連合軍は地中海のドイツ軍補給路を寸断し、エルアラメインの戦いの勝利に貢献する。 「マルタが陥落していたら、補給路を確保したロンメルは北アフリカ作戦に勝利し、スエズ運河を占領しヒットラーの中東石油支配を可能にしたのではないだろうか」と軍事史家のピーター・スミスは言っている。http://www.youtube.com/watch?v=PArBx5TdZG0 マルタはヒットラーの野望を打ち砕いた影の主役だった。 ![]() グランド・ハーバーに着いた“オハイオ”号 “オハイオの奇跡”から70年。マルタは中立国となり、観光で稼いでいる。生活レベルはそれほど高くはないが、人々は親切だ。足の悪い中年の人が道案内をしてくれ、見知らぬ若い母親が同じ方向だからと車でホテルまで送ってくれた。ホテルのバーのピアニストはわたしの姿を見て、坂本九の“上を向いて歩こう”を演じてくれた。 わたしがこの旅で見た心に残る光景と言葉を紹介して、マルタ歴史散歩を終えよう。 ローマ時代に建設された旧都メディナの“ノルマン・ハウス”という小さな博物館を訪れたときのことだ。博物館はVIPが訪問中で一時閉館中、黒塗りの車が待機し警官が二人立っていた。しばらくして、小柄な紳士がでてきて運転手の隣に坐り、3人の補佐官は後部に坐り車は発進した。 「VIPはどなたですか」と博物館員に聞くと、運転手の隣に座った人はマルタ大統領だという。「アベラは謙虚な人で、国民的人気があるわ」と彼女は言った。 450年前にオスマン大艦隊が上陸したマルサシュロック港のレストランで魚料理を食べ、その店の壮年オーナーと雑談をしたときのことだ。「マルタは歴史の宝庫ですね」とわたしが言うと「外国人支配の歴史のなかで、善政もあり悪政もあった。しかし、一つだけ確実なことは、彼らはすべてマルタに文化的貢献をしたことだね。」と軽やかな応えが返ってきた。マルタの人は誇り高くたくましい。 |
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