
目抜き通りインディペンデンツァ通りは、旧市庁舎のある中央広場の手前で、T字路になって左右に道が分かれる。左手がリッツォリ通り(Via Rizzoli)で、道のつきあたりには、ボローニャのシンボルのひとつ、「二本の斜塔」がある。この斜塔の足元から、5本の道が放射線状にのびている。真ん中の、リッツォリ通りから道なりにまっすぐのびているのが、目指すマッジョーレ大通りだ。
マッジョーレ大通りは、ローマ帝国時代、紀元前189年から187年にかけてつくられたエミリア街道(Vie Emilia)の一部である。アドリア海沿岸のリミニと、ミラノの手前にあるピアツェンツァをつなぐ直線道路で、ボローニャ市の中心を貫いている。より早く行軍するには、直線道路がもっとも都合が良い。エミリア街道は、ローマ帝国がつくった古代の軍用高速道路といえる。ちなみに、現在の高速道路も、ほぼ、これに平行して走っている。
マッジョーレ大通りはひじょうに、まことに、交通量の多い道である。しかし、馬車がすれちがうことを想定してつくられた古代の道は、けっして広くはない。しかも、道幅の3分の2くらいが、常時、路上駐車によって占拠されてしまっている。たった一台の車が路駐に手間取れば、あっという間に渋滞を起こすほどだ。いっぽうで、道の両側にはポルティコがしっかりと設置されている。こちらのポルティコも、幅が3メートルほどある。歩行者は、交通渋滞などどこ吹く風で、実にゆったりと移動し、井戸端会議を開くことができるのだ。排気ガスにもめげず、オープンカフェで話し込む学生たちもいる。メタリックな内装の多国籍企業も店舗を出しつつあるが、今でも昔ながらの小売店ががんばっている。ポルティコの下に、ピカピカに磨きあげられたテーブルやイスを並べている家具工房や、あそこにいけば、どこにも売っていない地元のリキュールが必ず手に入る、といわれた食料品店も健在だ。片側のポルティコ部分だけでもつぶして車道を広げようとしなかった市当局には、心から敬意を払いたい。
とはいうものの、実際には市としても、ここのポルティコに手をつけることなどできるわけがないのだ。
「マッジョーレ大通り。ここでクリスマス市が開かれる」
マッジョーレ大通りの建物の多くは、13世紀から17世紀にかけてつくられた貴族の館である。歴史的建築物のオンパレードなのだ。今日も住居として使われているが、博物館として一般公開してもいいんじゃないか、という建物も多い(事実、博物館になっている館もある)。ルネッサンスの時期からここにあるのであろう、むき出しの煉瓦作りの柱と、古い木の梁に支えられたポルティコ。毎年クリスマス市が開かれるサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会のポルティコを支えるのは、直径が20センチ程しかない可憐な石柱たちだ。これらのポルティコの柱の中には、鉄の輪を巻かれたものも数多くある。柱の倒壊を防ぐための措置だ。無数の車がひっきりなしに起こす振動と衝撃から、いかにしてポルティコを守るか。市と建物の所有者たちにとっては、実に金のかかる、そして終わりなき悩みなのである。
中でも19番地にあるイゾラーニ宮(Casa Isolani)は、その古さにおいて群を抜いている。1200年代半ばに建てられたイゾラーニ宮は、わたしがボローニャにやってきた1992年には、なかば放置状態であったように記憶している。マッジョーレ大通りから入り、館の中庭をへて、向こう側にある広場まで通り抜けができるので、多くの人が近道として使用していた。ここの修復が終わったのは、1999年のことである。塗り固められていた窓が開け放たれ、木彫に飾られた天井の古い木の梁のかたわらに、補強用の鉄の梁とワイヤーが設置された。何もないと思っていた壁に立派な玄関が出現したときには驚いたものだ。いったい何世紀の間、あの扉は閉ざされていたのだろう。今日では店舗と飲食店が入り、高級ショッピングアーケードとなっている。ちなみに、8世紀をこえた今でも、同家の子孫が所有しているというのも驚きだ。
この館のシンボルともなっているのが、高さ9メートルもある樫の木の柱に支えられたポルティコである。3本ある柱は、ほとんど炭化しているのではないか、と思わせるほど真っ黒で、いびつに歪んでいる。それを補助する形で、煉瓦積みの柱が2本たっている。ポルティコの上にのっかっているのは、日本でいうところの4階部分だ。ポルティコの天井には、いわくつきの「3本の矢」が刺さっている、と言われており、「3本矢のポルティコ」とも呼ばれている。イゾラーニ家の主人が、浮気妻を亡き者にしようと暗殺者を送ったが、窓に全裸で現れた彼女の姿に手元が狂い、彼女を狙っていた矢が間違って刺さった、というのが一番有名な話。しかし、二人の貴族が喧嘩の最中に放った矢が刺さったのだ、という説もあるし、19世紀半ばに行われた修理の際、大工が残していった管か何かだろう、という現実的な説もある。わたしも何度か目を凝らしてこの矢を探してみたが、いまだにどこにあるのかわからない。ぜひ一度見てみたいものだ。
「イゾラーニ宮」
これらの大通りだけでなく、そこここに現れる横道にも、ポルティコを見つけることができる。ポルティコを追っていくだけで、ボローニャの旧市街の大部分を歩くことになるだろう。そして、ポルティコの下には、たいてい活発な商業活動があり、人が集まっていることに気つくはずだ。
雨からも雪からも、夏の強い日差しからも人々を守ってくれるポルティコ。道が泥だらけでも、ポルティコの下なら快適に歩ける。自動車にクラクションを鳴らされることなく会話を楽しみ、散歩ができる。工房をもつ職人にとっては、ちょっとした作業場となり、飲食店ならテーブルを並べることができる。歩行者にとっても商人にとっても、誠にありがたい存在なのだ。
なのに他の町では、なぜ、ボローニャほどにポルティコが発展しなかったのだろう。
ここで、一千年ほど時をさかのぼってみよう。
いつポルティコが生まれたのかは定かでない。もともとは、ちょっとした家の増築から始まったのだろうと考えられている。梁を延長し、その上に板をならべて部屋を広げる。でっぱりが少なければ、梁だけでも持ちこたえられるであろう。しかし、増築部分が大きくなれば、それを支える柱が必要となってくる。このように、いとも単純な理由でもってポルティコは生まれた。柱の土台が公道や公地を不法占拠することになったが、それを規制する法律などなかった時代であった。
状況が大きくかわったのは、1088年のことだ。パリ大学と並んでヨーロッパ最古とされるボローニャ大学が開設された。これに伴い、ボローニャでは一種の人口爆発が起こった。欧州各国から大量に流入した学生たちは、経済効果と共に、住居不足という問題をボローニャに持ち込んだのだ。また同時期に、町を流れる渓流を利用した運河と港(現在は存在しない)ができたのも大きかった。船を使った貿易が活発になり、商人も手工業者も増加した。高度成長期を迎えていたのだ。
ボローニャには、過去に三つの城壁が存在した。最初の城壁は、おそらく8世紀頃のものと考えられている。二番目の城壁は1200年前後に完成したもので、全長が3.5キロメートル。最初の城壁にくらべて、実に6倍程の領土を守っていたと思われる。そして最後が、14世紀に完成し、20世紀に破壊された城壁である。全長が7.6キロメートルで、二番目の城壁の倍以上の長さを誇っていた。ここにひとつ、大変興味深いことがある。二番目の城壁が完成した後、わずか二十数年後の1226年に、三番目の城壁の下準備が始まっていた、という事実だ。城壁工事には多大の労力と資金が必要である。一度造れば、それをできるだけ長く使いたい、というのが施政者の本音であったろう。にもかかわらず、それほどわずかな期間に新たな城壁の構想を描いていた、というのは、いかに人口増加が激しかったかを物語っているといえよう。町の随所で、例の増築が氾濫していたことは想像に易い。
実は当時、ボローニャにあったようなポルティコは、他の都市国家でも造られていた。 経済的発展と人口増加にともなう住居問題と公道公地の不法占拠というのは、城壁に囲まれたイタリアのすべての都市が抱えていた問題であったのだ。そこで、特に公道の機能を守るために行われたのが、秩序なく増築されたポルティコの全撤去であった。しかしボローニャだけが、ある時点で違う方向へと舵をきった。撤去するのではなく、都市計画に組み込むことを考えたのだ。
なぜか。
今日でも色あせないポルティコの利便性を、職人や商人を中心にして、一般の人々が強く認識していたこと。それに加えて当時のボローニャには、他の都市とは違い、権力を一手に握る存在がいなかったことが幸いした。職人にポルティコという職場を与え、学生に貸部屋を与えることで町が潤うと、誰もが知っていたのだ。
ポルティコと公道に関する明確な法整備は、1211年から始められ、1288年に一応の集大成をみる。曰く、ポルティコは私有財産ではあるが、その使用は公共のものとすること。ポルティコの高さは、馬にのった状態で通行が可能な7ピエーデ(約2.7メートル)とすること。また幅も同様の長さにすること。ポルティコの整備は所有者の義務とし、その経費は所有者本人が負担すること。そして、新しく館を建設する場合には、必ずポルティコを併設すること。
つまり、私有財産を公共の利益のために差し出せ、と義務づけたわけだ。民主主義だ、個人の権利だと声高に叫ばれている現代の社会においては、とうていこの決断は下せないしろものであろう。
今年の冬は、例年にない大雪が何度となくボローニャを襲った。めったに見られないブリザード(雪嵐)まで吹き、交通網が完全なマヒ状態におちいった。そんな雪の一日、わたしは旧市街のポルティコの下にいた。道には50センチほどの雪がつもり、除雪車が忙しげに動いていた。道に車の影は少なく、ダイヤの狂った市バスを待つ人々が、ポルティコの下で降り続く雪をながめていた。
「雪のポルティコ」
800年以上も昔に発布された法律のおかげで、わたしたちは雪にもぬれずに、のんびりとバスを待っているのか。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
ボローニャにポルティコありき。
ボローニャゆえに、ポルティコありき。
【参考資料】
- Francesca Bocchi, “Bologna nei secoli IV-XIV”, 2007, Bononia University Press
- Francesca Bocchi, “Bologna e i suoi portici”, 1997, Grafis Edizioni