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青柳いづみこ「ピアニストの読書術〜クセジュで読み解くドビュッシー」 ―2010.06.15

 白水社の書籍の読者も、そして書き手も、きっと教養溢れる方々だろう。知識も話題も豊富、学問の体系もきっちりおさえた上で縦横無尽な議論を展開させる。
 その点で、私たち音楽家はとても弱いのだ。とくに日本の演奏家は。
 ヨーロッパでは音楽学校は各種学校扱いである。中・高は一般の教育機関に通うし、大学も音楽とは別に登録する。でも、日本の音高・音大は一般科目も履修するシステムなので、かえって具合が悪い。専門分野や楽器の実技習得に精を出しすぎて、一般教養は手を抜きまくりだからだ。
 私が通った芸大付属高校というのは白水社と同じお茶の水にある。というか、以前はあった。芸大の前身である東京音楽学校のお茶の水分教場の校舎を転用したらしい。授業は午前中だけ。科目はいちおうそろっているが、数学の授業なんてチンプンカンプン。先生もあきらめていて、「今度の試験には教科書のこの問題とこの問題が出ますよ、さあ皆さん数式と答を書きましょう」てな具合。試験のときは教室中を教科書が回っていて、先生は見て見ぬふり。それでも半分しかとれなかったのだから、いったいどういう頭なんだろう。
 芸大の入試は国語・算数・社会の3枚で合計100点をとればよいと言われていた。社会の設問は「ヘレニズム文化について書け」というもので、白紙で出したおぼえがある。
 そんな教養欠落者が曲がりなりにもドビュッシーで博士ロンブンなるものを書いたのだから、文庫クセジュにはすこぶる恩恵を被っている。
 たとえば、ジョルジュ・ブルジャン『パリ・コミューン』。1870年に勃発した普仏戦争がドビュッシーの人生を大きく変えた。パリ包囲で職を失った父親は、蜂起に際してコミューン側の兵士として戦い、イッシー砦で捕らえられたと伝記には書いてある。政治音痴の私としては、さっそく本書を買いに本屋さんに走ったものだ。
 そして、モーリス・セリュラス『印象派』。ドビュッシーは一般的に印象派音楽の創始者と言われているものの、どうも違うなぁというのが私の直感だったのだが、読んでみたらルノワールもルドンも、そして本家本元のモネ自身も、「私は印象派なんつーもんじゃない」と怒っていたのでおもしろかった。
 怒っているのはドビュッシーだって同じだ。彼はグロテスクの美が好みで、モネではなくモローの絵、ルドンやゴヤの版画も大好きだったし、E.T.A.ホフマンやエドガー・ポーの怪奇小説も愛読し、ポーではオペラ化も考えたほどだから、幻想文学と美術を総括したルイ・ヴァックス『幻想の美学』は座右の書となった。
 お勉強が中学どまりでは当然フランス文学史についての基礎知識も皆無。ドビュッシーはマラルメの火曜会に出席した唯一の音楽家で、周辺の文士たちとも交流があったし、象徴派の機関紙も定期講読し、大詩人からマイナー詩人まで、あらゆるテクストにもとづく歌曲を作曲しているので、ルネ・ラルウ『フランス詩の歩み』やアルベール=マリ・シュミット『象徴主義』にはホント、お世話になった。
 しかし、一番お世話になったのは、一連のオカルト関係書だろう。クセジュはこの分野が「とても」充実しているのだ! 何しろドビュッシーは19世紀末のオカルト雑誌を定期講読し、オカルティストのたまり場「独立芸術書房」に入り浸り、店主からヘルメス学に精通しているとお墨付きをもらったり、テンプル騎士団に派生した「シオンの修道院派」という秘密結社の親玉だという説もあるぐらいだから、セルジュ・ユタン『秘密結社』『錬金術』、リュック・ブノワ『秘儀伝授 —エゾテリスムの世界』、ポール・クーデール『占星術』などを読みあさって基本的な知識を得た。
 そしてもちろん、クセジュの音楽部門も。ドビュッシーはパレストリーナやラッススなどルネサンスの音楽、クープランやラモーなど18世紀ロココの音楽を深く愛して作曲のよりどころとした。彼が教会旋法をアレンジして編み出したさまざまな旋法は、20世紀音楽に多大な影響を及ぼしている。そんなわけで、パイヤール『フランス古典音楽』やオリヴィエ・アラン『和声の歴史』にも虎の巻として大活躍してもらった。
 ざっとこんなふうに、文庫クセジュがなかったら、私はドビュッシー屋として初めの一歩すら踏み出すことができなかったに違いない。

▼(あおやぎ・いづみこ)ピアニスト・文筆家。演奏と執筆を両立させる希有な存在。これまでに7枚のCDが『レコード芸術』誌で特選盤となるほか、『翼のはえた指 評伝安川加壽子』で吉田秀和賞、『青柳瑞穂の生涯』で日本エッセイスト・クラブ賞、『六本指のゴルトベルク』で講談社エッセイ賞を受賞。


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