

図1 1:50,000「横須賀」昭和19年部分修正
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戦争末期の昭和19年(1944)に部分修正が行われた5万分の1地形図「横須賀」のうち逗子付近である。紙質も印刷の状態もよくないが、発行されたのは戦後の混乱期の昭和22年(1947)。紙もインクも人材も極度に不足していた頃だから当然かもしれない。このエリアは東京湾口を睨む海軍の横須賀鎮守府がある要塞地帯で、地形図は大正以前から長らく一般人が入手できない状態であり、ようやく市販できるようになったのが戦後のこの時期だったのである。
現在は逗子市だが、自治体名が見当たらないのは前年に横須賀市に編入されていたため。当時は軍事的に拠点となる自治体に対しては国が「強制合併」させることがあり、旧逗子町も海軍軍需部の倉庫、いわゆる池子の弾薬庫(現在は米軍住宅)などが存在したためか、編入が行われている。ちなみに戦後になって住民による「分離独立運動」もあり、昭和25年になってふたたび逗子町となり、同29年に市制施行した。
さて、横須賀線逗子駅の東方で交差しているのは現在の京急逗子線であるが、開通時は湘南電気鉄道といった。それが京浜電気鉄道となった翌年の昭和17年、当時の国の陸運統合政策により東京急行電鉄、いわゆる「大東急」の逗子線になった。同23年には京浜急行電鉄として再出発するが、図の修正時はいずれも大東急の頃である。
国鉄の逗子駅の右下に見えるのは現在の京急新逗子駅の前身、京浜逗子駅で、当時は「湘南逗子駅沼間口」と称した。その左下に細長く伸びている空き地は休止線で、その南端部に「湘南逗子駅葉山口」があった。沼間口とともに同じ駅の構内という扱いであったが、電車はきちんと両者に停車していたから、わずか350m程度しか離れていないけれど、事実上は2つの駅だった。葉山口が後の逗子海岸駅(昭和60年に京浜逗子駅と統合されて新逗子駅)であるが、この短区間は戦時中に「不要不急線」として運休を余儀なくされていたのである。
太平洋戦争は昭和16年(1941)末に始まったが、もともと資源の乏しい日本にあって、よほどの幸運でもない限り金属不足は当然の成り行きで、ハチ公の銅像が撤去されたことに象徴されるごとく、官民挙げた金属供出が行われ(国家総動員法に基づく金属類回収令)、昭和19年頃にはついに鉄道のレールもターゲットになった。標的は神社仏閣や温泉地などへの、比較的「観光色」の強い路線、また並行した路線があって輸送がなんとか確保される路線で、これらを「不要不急線」と認定し、休止もしくは廃止させてレールを剥がして他に転用したのである。ただしハチ公像などと違って溶かして他の用途に使うのではなく、必要不可欠な新線建設(たとえば鉄鉱石や石灰鉱山などへの路線)や重要路線の複線化といった目的のために使われた。
この湘南逗子駅沼間口〜葉山口間のレールも、横須賀線衣笠駅から南西方に位置する海軍武山海兵団への通勤線の建設に使われる計画だったというが、結局は終戦により未完のままとなっている。地形図上の白く細長い空地は、そんな戦時休止の傷痕だ。ちなみに昭和23年にはこの区間もめでたく復活を遂げたが、手続き上は京浜逗子〜逗子海岸間の新線開業であり、湘南逗子駅沼間口は湘南逗子(その後昭和38年に京浜逗子と改称)、葉山口は逗子海岸という別々の駅になった。

図2 1:50,000「八王子」昭和20年部分修正

図3 1:50,000「八王子」昭和23年資料修正
図2は八王子市街の西方であるが、右端で中央本線を跨いでいるのは京王御陵線である。今はなき路線だが、大正天皇の陵墓である多摩御陵へ参拝する乗客の便を図るために昭和6年(1931)に開業した路線で、当時は京王電気軌道が運行したが、先ほどの湘南電気鉄道と同様、昭和19年に陸運統合で大東急の一部になっている。天皇陵への路線だから「不要不急」に認定しにくかったのか、休止されたのは昭和20年1月のことである。図2は同年の部分修正だが、休止は反映されなかったようだ。
ついでながら、中央本線にも御陵参拝のための駅はあった。ただし皇室専用で一般客は利用できず、もちろん一般の列車は停車しないので地形図にも表示がないのだが、京王御陵線が交差する地点の左に記された甲州街道の「道」の字の下にある、短い線路が分岐したところが東浅川仮駅であり、その駅前から御陵へ向かう道も描かれている。
もうひとつ「不要不急」で休止となったのが高尾山のケーブルカーで、これは浅川駅(現高尾駅)から南西へ谷を遡ったところにある清滝駅から高尾山駅までの「高尾索道」がそれだ。「索道」は現在ではロープウェイを指し、昭和2年(1927)に開通した当時の名称も「高尾登山鉄道」という鋼索鉄道であるが、それを索道と略称したのだろうか。こちらも昭和19年(1944)2月に休止となったが、やはり図2には反映されていない。ちなみに途中駅が描かれているが、ちょうどすれ違い地点に設けられた琵琶滝駅で、今はない。ケーブルの復活は昭和24年(1949)のことであった。
日本のケーブルカーは大正末から昭和の初めにかけて開通したものが多くを占めているが、やはりその性格上たいてい「観光登山用」であったため、戦時中はその大半が休止・廃止に追い込まれた。復活したものも多いが、中には日本最急勾配を誇った伊勢の朝熊山(朝熊登山鉄道)や京都・愛宕山のケーブル(愛宕山鉄道)など、再び走ることが叶わなかったものもある。
図3は昭和23年(1948)の資料修正で、いずれも休止中なので御陵線、高尾山のケーブルはともに線が消されている。両線ともに線の痕跡はほとんど認められないが、よく見ると御陵線が中央本線を跨いでいた地点付近の「よこやま」の平仮名。どうやら担当者が横山駅の駅名表記を消し忘れたようで、図らずもここに鉄道があったことを静かに語っている。
ちなみに御陵線は一部区間で復活を果たした。北野〜山田間(地図の範囲外)がそれで、そこから西へ新線を延ばし、高尾駅を経て高尾山口までが昭和42年(1967)に開通。京王高尾線として生まれ変わったのである。御陵参拝をひと休みしてから高尾登山へ。電車の行き先も時代と無縁ではない。