
屋根裏部屋のような最上階の天井のすみから、陽の光が差しこんでいる。頂上だ。さらに狭くてすべりやすい最後の階段を、補強用の柱や鉄骨などで頭を打たないように注意してのぼっていこう。
からだが空の下に飛び出した瞬間に、風がからだにまとわりついていた湿気をはぎとり、360度の景色をつれてくる。窮屈で暗い階段から抜け出した目にまず飛び込んでくるのは、地平線近くまで続く煉瓦色の町並みと、その中をまっすぐにひた走るローマ時代の高速道路、エミリア街道の姿だ。街道が緑の地平線にまぎれて消える先には、海沿いのリミニの町が、そしてアドリア海がある。この道を古代ローマ軍がかけぬけていったのだ。そう思うと、ひたすら続くだけの直線道路も感動的なものとなる。
塔の頂上はテラスになっており、ぐるりと一周できるようになっている。反時計回りに歩いてみよう。
エミリア街道の左側にほぼ平行して、もうひとつの道が地平線に向かって伸びている。これもアドリア海までとどく道だ。終着点は、5~6世紀のモザイク芸術で有名なラヴェンナの町である。夕刻、太陽が西に傾いた頃に塔にのぼると、ちょうどこの道の方向にある家々の屋根の上に、2本の塔のシルエットがキレイに浮かび上がるのを見ることができるだろう。
「家並みに浮かび上がる二本の影」
今度は反対側、西側のリッツォリ通りに面した方へ行ってみよう。この通りの左側がボローニャの心臓部だ。中央広場ピアッツァ・マッジョーレ(Piazza Maggiore)の周囲に、市役所、旧執政長官宮、旧大学舎、ボローニャの守護聖人をまつったサン・ペトローニオ聖堂(Basilica di San Petronio)などが並んでいる。いっぽう右側には、中庭と鐘楼をもった司教座教会(ドゥオーモ)。そしてその脇に、2本の塔が見えるだろう。見た目は「ガリゼンダ」に似ている。ずんどうの四角柱でレンガ造りだ。高さも建設当時のガリゼンダと同じで、約60メートルである。上部にギザギザ模様が入っているのが「プレンディパルテ(Prendiparte)の塔」と呼ばれている。現在は地上3階までを客室とし、一晩に一組の客だけを泊めるというB&Bになっている。そしてもう一本の塔は、「美しく高いもの(アルタベッラ=Altabella)」というあだ名を持つ「アッゾォグィーディ(Azzoguidi)の塔」である。現在は1階に宝石店が入居している。
「アッゾォグィーディの塔とプレンディパルテの塔」
これらの塔は「アジネッリ」や「ガリゼンダ」と共に、かつては「塔の森」と呼ばれていた中世ボローニャの姿を今に伝える、最後の「樹」たちである。
11世紀から14世紀にかけてのボローニャには、前出の4つの塔と同様の塔が多数林立していた。その数については、34本かラ200本までと諸説ある。ボローニャ市当局の情報では、塔のほとんどが12世紀に建設されたもので、当時の城壁の内側にたてられていたという。城壁内の面積はわずか1平方キロメートル弱であったから、その景観やいかばかりであったろうか。当時の塔の数を180本と仮定してつくったボローニャの模型を見たことがあるが、なんだか針山のようだな、と思ったのを覚えている。
「林立していたボローニャの塔」
それにしても、誰がなんのために、これだけの塔を狭い町の中につくったのか。
塔を建設したのは当時の貴族たちであった。「アジネッリ」も「ガリゼンダ」も「プレンディパルテ」も、所有者であった貴族の名字なのだ。富と権力の象徴として、彼らが競い合って高い塔を建てた、というのがよく聞く説である。しかし果たして実際には、事情はもっと深刻であった。
5世紀後半に西ローマ帝国が滅亡した。巨大な基軸を失ってからの数百年、ボローニャは異民族の侵入や、ローマ法王と神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王)との間の確執などに翻弄され続けた。それが12世紀になってようやく、「自治」をもつにいたったのである。町には大学もでき、運河も港も整備され、商工業が発達した。しかしながら自由とは、所詮、不自由なものである。法王や皇帝といった睨みをきかせていた強面(コワモテ)がいなくなると、隣近所とのいさかいも、商売敵との競争も、そして家の中のもめごとも、すべて自分で処理しなければならなくなった。そしてそのために、前にもまして武器を持つ回数が増えていったのである。無数の塔が生まれた12世紀は、近隣諸国との戦いと、地元の貴族間の覇権争いにあけくれた世紀であったのだ。
町の外からの攻撃に対する防備として城壁がある。しかし、城壁の中で戦いが起こったら、どうやって自分たちを守ればいいのか。そこで現れたのが石造りの塔、もしくは、塔のように背の高い家々であった。それぞれの貴族が、自分たちの家を要塞化したと思えばよい。当時の住居は木造で燃えやすかったから、丈夫な石壁の塔は、敵の攻撃を受けたり火事になったりした時には、非常階段兼避難場所となったのだ。塔には見張り台の役目もあり、仲間の貴族の家に侵入しようとしている敵を見つけたら、塔の頂上で火をおこし、緊急連絡を送ることができた。塔の外壁をよじ登っている敵には、友軍の塔から弓矢で攻撃をしかけた。敵の侵入を防ぐため、窓は小さく高い場所に、入口は地上から数メートル以上の高さにつくられていた。「アジネッリ」をはじめ、現存する塔には地上に入口があるが、それらは後の時代に増築されたものである。
塔を利用した空中戦は凄まじかったとみえて、1245~1267年にかけてつくられた法律には、塔から攻撃をしかけた場合には、その塔は完全に破壊されるものとする、という罰則が記されていた。また、20メートル以上の塔は住居として使用してはならず、階段ではなくメンテナンス用の簡単なハシゴしかかけてはならない、などの条項もあった。こうして塔は、本来の利用価値をなくしてしまったのである。そして何より、構造上の問題や手入れ不足のために古くなった塔が崩壊し始めた事実が、ボローニャから背の高い塔が消えていく大きな原因のひとつとなった。
「塔の森」のうち今日まで生きのびた塔は、わずか17本である。そのうち40メートルをこえているのは、前述の4本のみだ。
「アジネッリの塔」については、もとは他の塔と同じく60メートルくらいだったのが、ボローニャ全体の見張り台として活用するために、市政府が残り30メートルをつけたした、という説がある。13世紀の記録には、宗教関係者の犯罪人を鳥カゴのような牢にいれて、20メートルほどの高さの場所につるしていた、とある。つまりその頃にはすでに、塔は政府に売却されていたということであろう。いっぽう、もとの所有者のアジネッリ家は、1583年に断絶している。この一家の名前を残すものは、現在、この塔以外にはなにも残っていない。
塔守のロベルト氏が、興味深い話を教えてくれた。「アジネッリの塔」は、微妙に毎日“動いて”いるらしい。日の光に暖められ、塔の中の空気と大量のレンガが膨張し、1~2mmという微小な変化ではあるが、塔そのものが呼吸するように、ふくらんだり縮んだりしているのだそうだ。それはまるで、樹齢900年を超えた巨木のようである。
巨木は、ボローニャの歴史をながめてきた。古くは、同じ町に住む人々が剣で殺し合うのを見た。1600年代には足元で火薬の売買が行われているのを知り、心安らかではいられなかったことだろう。第2次世界大戦も経験した。連合軍の空襲があると、塔の上に登った4名のボランティアが、爆撃を受けた地区を救急隊に知らせていたのだそうだ。そして巨木は、その同じ連合軍が、解放者として華々しくボローニャに入城してくるのも見ていた。塔の入口に向かって右側の外壁には、ちょうど人の頭くらいの高さに、今でも黒いペンキで
W ROOSEVELT (ルーズベルト万歳)
W CHURCHILL (チャーチル万歳)
W STALIN (スターリン万歳)
と書かれた落書きを見ることができる。10年程前には、元銀行員が塔に2日間ぶらさがり、不当解雇に対する抗議を行ったのも見ていたはずだ。
「アジネッリはいつもここにあった。これからも長く存在し続けるだろう。僕らは通りすぎていくだけさ」
塔の頂上で風に吹かれて町を見下ろしていると、そんなロベルト氏の言葉が、少しばかりの郷愁をこめて、しかし、なんとも心地よく耳に響いた。
斜塔の下で人々はざわめきながら生きている。大樹の影に集うようにして。
【インフォメーション】
アジネッリの塔(Torre degli Asinelli)
夏期 9:00~18:00 / 冬期 9:00~17:00
入場料 3ユーロ
【主な参考資料】
LA TORRE DEGLI ASINELLI
Franco Bergonzoni著 1994年 Istituto Carlo Tincani刊
LE DUE TORRI
Giancarlo Bernabei著 1992年 Santarini刊