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<title>連載・エッセイ</title>
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<title>第29回　東ドイツの「偉人通り」はその後……</title>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 　昔のオリンピックでは、特に体操などの種目でよく東独の国歌...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map3.html"><img alt="地図から見た戦争" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/06/post_89.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%;">　昔のオリンピックでは、特に体操などの種目でよく東独の国歌が流れたものである。「廃墟からの復活」というタイトルが付いているが、これは旧ソ連国歌と並んでなかなか感動的な名曲だった。その国も東西統一で消滅してすでに20年以上が経過した今、シュタージと呼ばれて恐れられた国家秘密警察が国民の動向を大がかりに監視し、「英雄」として恵まれた生活を送ったとされたスポーツ選手も、国家を挙げてのドーピング漬けでいかに苦しめられていたかが次々と明らかになってきている。<br>
　ドイツ統一前に各州の測量局から地形図を直接取り寄せていた私は、東独が消滅した時にザクセンやブランデンブルクなど新しい州の測量局へカタログを請求し、地形図をさっそく注文したものだ。新しい州とはいえ、東独時代の「県」を廃止して昔の州を復活させたものである。もちろん新州の測量局としても一から作り直すわけにはいかず、暫定的に東独時代の図を送ってきたのだが、それが「秘密書類扱い」で、その注意書きの上に「秘密解除！」のゴム印が紺色で捺されていたのが生々しかった。<br>
　その東独の秘密地形図については白水社の<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=03173">『世界の地図を旅しよう』</a>で書いたので長々と解説しないが、とにかく道路なら車線数や舗装材質（建設中なら完成年）、橋梁は長さや幅員はもちろん材質から耐荷重量まで、川は流速から底質（川底が砂か土か等）、山林は樹種と平均の樹高と幹の太さ、樹間の間隔に至るまで、これ以上詳しい国土のプロフィールがあるだろうか、というほどまで数字と略号でそれらを詳細に表現した地形図であった。これらの地形図はもちろん一般人の手に入るものではなく、ふつうの市民用には工場や操車場などを省略し、または地形なども意図的に「いい加減」に描き直したものが供給されていたのである。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_29a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_29as.jpg" border="0"></a><br>
図１　1:10,000地形図「ズール」ドイツ民主共和国国防省軍事地図局発行<br>
<span class="text_s_gray">地図はすべてクリックすると拡大します</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　このズール（Suhl）という標高400m台の山間の小都市はドイツ中部のテューリンゲン山地（テューリンゲン森）の南側斜面に位置し、現在はテューリンゲン州に属している。東独時代はその最南端に近く、旧西独バイエルン州と「国境」を接していた。ズールは中世から鉄砲の産地として知られた町で、宗教改革後に各地で多発した戦争には、ここで造られた銃器が大いに活躍したという。今も市庁舎前には「鉄砲鍛冶の像」（記念碑）が置かれている。<br>
　その歴史はナチス時代に引き継がれ、第二次大戦下でもここの銃器工場で多数の銃が生産された。市の人口も1933年（昭和８）の15,477人が６年後に25,530人と急増しているのは、ナチ時代にここで銃器の増産に力が入れられた証拠であろう。しかしその後この都市に迫った連合軍は、あえて銃器工場を破壊しなかった。もちろんその後に活用するためである。<br>
　第二次大戦の戦後処理を話し合ったヤルタ会談によりドイツ東部はソ連が占領することとなり、以後この町は東欧・ワルシャワ条約機構の銃器生産の要としての地位を占めるようになった。ソ連で膨大な犠牲者を出したドイツとの「大祖国戦争」（1941〜45年の独ソ戦）の中にあって、ズール製の機関銃の威力を思い知ったカラシニコフ軍曹が開発した有名な「カラシニコフ」の工場もここに設けられ、「西への備え」の一端を担う拠点都市となったのである。<br>
　この地形図に載っている通り名を観察すると興味深い。まず気付くのは東独や社会主義にとって功績のあった人の名前が並んでいることだ。左上のKultHs（Kulturhaus＝文化会館）の南側にあるヴィルヘルム・ピーク通り（Wilhelm-Pieck-Strasse）であるが、これはドイツ民主共和国の初代大統領（任期1949〜60）の名前。その後は国家評議会議長が元首となったため、最初で最後の東独の大統領となった。ちなみに東独末期の国家評議会議長を延々13年とつとめたのがエーリヒ・ホーネッカーである。<br>
　その南側には黒い建物のPolikl（Poliklinik＝外来診療病院）とKino（映画館）、そしてMet（金属工業）があるが、このMetは市内各所に大規模なものが分布しているから、銃器工場ではないだろうか。その南側が「10月７日通り」（Strasse des 7. Oktober）である。これは建国記念日にあたり、1949年（昭和24）のこの日にドイツ民主共和国が発足した。右下のSch（学校）の東から南側はクララ・ツェトキン通り（Clara-Zetkin-Strasse）である。クララ・ツェトキン（1857〜1933）は若くしてドイツ社会主義労働者党（後にドイツ社会民主党）に入り、早くから女性解放運動にかかわり、ナチ党が政権を掌握して共産党が非合法化された際にソ連に亡命、その地で亡くなっている。<br>
　その学校の東側、もうひとつの学校の西側に沿った通りはStrasse der Opfer des Faschismus、ずいぶんと直接的だが「ファシズムの犠牲者通り」という。かつては通り沿いにシナゴーグ（ユダヤ教会）のあるホーエンローエ通りであったが、戦後このように改称された。東の方へ目を移すと前述の鉄砲鍛冶の像がある。RatHs（Rathaus＝市庁舎）の東側に噴水記号のある広場がカール・マルクス広場である。この名の広場は東欧から中国に至るまでの社会主義国の多くに存在する。<br>
　さて、他にも東独の首相の名を冠したオットー・ヌシュケ通り（Otto-Nuschke-Strasse）、ワイマール期のドイツ共産党党首であったエルンスト・テールマン通り（Ernst-Thälmann-Strasse）などが存在したのだが、今の地図で調べてみると、たとえば初代大統領のピーク通りはフリードリヒ・ケーニヒ通りと改称されているし、建国記念日通りも駅通り（Bahnhofstrasse）に、クララ・ツェトキン通りもシュロイジンガー通りに軒並み改められている。これらの新しい通り名は、他の都市の例などから想像すると戦前の旧称を復活させたものと思われるが、やはり「東独」の41年間があまり幸福な時代ではなかった証拠、ということだろう。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_29b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_29bs.jpg" border="0"></a><br>
図２　日本の団地を思わせるズール市郊外の団地。同上図</div>

<p style="line-height: 200%;">　東独崩壊直前のこの「秘密地形図」を見ていると、冷戦に直面していた頃の都市の姿が浮かび上がってくるが、東側の山の斜面に鉄筋コンクリートの団地が並ぶ風景は、道路の曲線の形など、まるで東京郊外の丘陵に開かれた団地のようだ。これらの集合住宅が、特に1970年代に大幅に増加する人口を支えたのである。政治学者の原武史氏と作家・重松清氏との対談で構成された『団地の時代』（新潮選書）で、日本の団地とソ連の団地の類似性を指摘しているが、その大きな影響下にあった東ドイツの団地の姿を地形図で見れば納得できる。集会所（Halle）や学校が団地の中に配置された雰囲気も似ている。日本と違って通り名が付いているが、団地の周囲はレーニン環状道路（Leninring）、カール・マルクス通り（Karl-Marx-Strasse）が弧を描いて取り囲んでいる。かの宇宙飛行士の名を付けたユーリ・ガガーリン通りもあった。<br>
　現在の名前を調べてみたら、ガガーリン通りとマルクス通りは生き残っているけれど、レーニン環状道路の方は抹消されていた。消えるべくして消えたのかもしれないが、レーニン環状道路の現在の名がam Himmelreich（天国にて）とは、あまりに反動が大きすぎる。それだけレーニンの名に辛い思い出を持った人が多い、ということだろうか。<br>
　冷戦体制の一端を支えたこの町も時代の急激な変化にさらされて、今はなかなか厳しい状況のようだ。ちなみに市の人口はピークの1988年（昭和63）に56,345人を記録したが、ドイツの東西統一以後は激減に転じ、2007年の人口は41,015人にまで落ち込んでいる。</p>]]>

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<title>第１回</title>
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<modified>2010-09-02T00:17:18Z</modified>
<issued>2010-09-01T01:00:00Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 学生の街、コインブラに暮らして 　８月上旬から海外研修の場...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>市之瀬敦「クレオール語をはじめて聞いた町から」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/coimbra.html"><img alt="クレオール語をはじめて聞いた町から" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/08/27/1030.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%;"><b>学生の街、コインブラに暮らして</b><br>
　８月上旬から海外研修の場所コインブラに暮らしている。コインブラと言えばもちろん、テージョ川の洗濯女、という言葉を思い浮かべながらシャンソンを口ずさむ方もいるかもしれないが、ポルトガル通の方なら、やはりヨーロッパ最古の大学の１つ、コインブラ大学を思い出すのではないだろうか。私は今、そのコインブラ大学文学部の客員研究員として半年間の滞在を始めたところなのである。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01as.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">コインブラの町</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　わずか半年間の暮らしなので、アパートを探すのに苦労するかと思われたが、運よく、コインブラ入りした翌日には希望の物件に出会うことができた。こちらの大家さんの多くは最低でも1年間の賃貸契約を好むため、困難を覚悟していたのだが、思ったよりずっとスムーズに住居を定めることに成功した。こういうときに、得意のポルトガル語力が交渉の場で生きるのである。と、自慢したいところだが、実際は大学の国際交流課の女性職員がとても協力的だったことと、若い大家さんが外国人研究者に理解を示してくれた、というのが本当の理由である。もっとも、私が英語しか話せない人間だったら、やはり住むのは難しかっただろうとは推測するのだが。<br>
　なにはともあれ暮らし始めたアパートはコインブラでは有名な物件である。皆さんも今から6年前、ポルトガルで開催されたサッカーの大きな祭典、「ユーロ04」のことを憶えていらっしゃるだろう。ポルトガルが主催した史上最大にして最高のスポーツの“フェスタ”であった。残念ながらポルトガルは決勝戦でギリシャに敗れ、準優勝にとどまったが、ポルトガル人にとっては今もなお心地よい記憶の大会である。<br>
　などと、サッカーへと流れていくのが目的ではなく、アパートの話である。なんでもサッカーにこじつけようとするのは私の悪い癖である。いや、そうとも言えず、私が住むアパートとサッカーは切っても切れない関係にあるのだ。「ユーロ04」の際、コインブラには大会用に市営スタジアムが建設された。3万人ほど収容するモダンな建物である。しかし、人々はスタジアムを新設するだけでなく、同時に大規模な都市開発を考えたのだ。<br>
　スタジアムのすぐ側にコインブラ第2のショッピングセンターを建て、その間にアパートを挟むという、生活の利便性とサッカーの情熱を満たすことの両立を考慮した素晴らしい計画を実現したのである。私がいるのはこのアパートなのである。ちなみに、ショッピングセンターの名前は『ドルチェ・ビータ』。私は毎日その中にあるスーパーマーケットで買い物をし、そして週末には徒歩1分の場所にあるスタジアムでサッカーを観戦するという、まさに「甘い生活」、というか、かなりあまえた暮らしを送っているのである。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01bs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">ドルチェ・ビータの外壁</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><b>コインブラのお勧めレストラン</b><br>
　私は料理が苦手な人間なので、食事は、ドルチェ・ビータの中にあるジュンボというスーパーマーケットでサンドウィッチなどの軽食を買ってきて済ましてしまうか、あるいは外食になる。けっしていわゆるグルメなどではないものの、日本から持ってきたガイドブックで紹介されたレストランにも足を運ぶようにしている。だが、やはり地元の人がお勧めするお店に勝るものはないはず。<br>
　というわけで、先日は、土曜日に発刊される週刊紙『エスプレソ』の付録で紹介されたコインブラの名レストラン、「オ・セレナータ」に行ってみた。３５度以上あった暑い夏の午後、やっとの思いで辿り着いたお店の内装は、古いポルトガルの農村を思わせるかなり凝った装飾。本気でレストランをやっていることが感じられる。『エスプレソ』紙の付録を手に、案内された一番奥の席に着くと、手前の席で食事をしていた初老のポルトガル人夫婦が笑顔を浮かべながら一言発した。「嘘は言っていないよ」。<br>
　そう、彼らも同じ付録を見てやってきたのだった。優しく微笑む奥さんがそれを手にしていた。私は「本日のメニュー」にあった豚肉料理を頼んだのだが、それまで他のレストランで食べた同じ料理と比べても格別に美味しかった。『エスプレソ』紙も、初老の夫婦も「嘘は言っていな」かったのである。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01cs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">オ・セレナータの内装</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　夫婦が先に席を立ったが、目があったとき互いに自然と笑顔が浮かび、「ボア・タルデ」（良い午後を）を言って別れた。美味しい食事を共にすると人はなぜか互いに親しみがわくように思える。ひとりの食事とはいえ、私はとても満足してレストランを後にしたのであった。ついでに言えば、ウエイターたちの接客態度も悪くなかった。私はけっして「オ・セレナータ」のまわし物などではないが、お勧めの店である。場所はコインブラ駅の近く、ソタ広場である。ちょっと見つけにくい場所にあるので、行く時は地元の人に尋ねるのがよいと思う。</p>

<p style="line-height: 200%;"><b>ジョン・ホルム教授の自宅訪問</b><br>
　コインブラ大学で私の「身元引受人」になってくれたのは、文学部のジョン・ホルム教授である。おわかりのように、ポルトガル人ではなく、アメリカ人である。ピジン・クレオール語研究に興味のある方ならすぐに気づくだろうが、今から20年以上も前に、『ピジンとクレオール』という大著を刊行、その後もたくさんの著作を発表されている、この分野の巨人のひとりである。<br>
　私がホルム教授と初めて会ったのは1996年、ベルリンで開かれた学会の時であった。当時はまだニューヨーク市立大学に所属されていたが、大都市の暮らしに飽きた教授は、2000年、クレオール語研究が十分に発展していなかったポルトガルの大学に籍を移したのだった。彼の下からはすでに数多くの若手研究者が育っており、コインブラ大学は今やクレオール語研究の世界的な一大中心地となりつつあると言っても過言ではないだろう。ポルトガル語は世界の各地にたくさんのピジン・クレオール語を生み出した言語なのに、ポルトガルはその研究があまり盛んとは言えない時代が長く続いたが、ようやく世界を前に恥ずかしくない状況が生まれたのである。ホルム教授の貢献はきわめて大きい。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01d.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01ds.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">ジョン・ホルム教授</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　ホルム教授はコインブラ郊外、20キロほど離れたところにあるセミーデという小さな村に暮らしている。おそらくかつてはコインブラの裕福な住民が夏の別荘として使っていたらしい住居に、夏だけでなく、1年中住んでいる。先日、教授は私を自宅の夕食に招いてくれたのである。実は教授はひとり暮らしではなく、長年の同居人がいる。ほぼ同年代のイギリス人作家・歴史家であるマイケル・パイ氏である。恥ずかしい話、パイ氏に会うまで知らなかったのだが、氏の作品は日本語にも翻訳されており、映画化されたこともあるのだという。<br>
　パイ氏自身が料理してくれたチキンに私が舌鼓を打っている間、氏は自室からその日本語訳の本を2冊持って来て見せてくれた。『人生を盗む男』（徳間書店）と『無限都市ニューヨーク伝』（文藝春秋）である。私が興味深そうにしていると、パイ氏は「夏休みの宿題じゃないから無理に読まなくてもいいよ」と言いながら、2冊ともプレゼントしてくれたのであった。ポルトガルの農村地帯でイギリス人作家から著作の日本語訳をプレゼントされるという何とも不思議な経験をしたものである。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01e.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra01es.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">マイケル・パイ氏</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　食事も終わり、コーヒーをすすりながら、ホルム教授はピジン・クレオール語研究についていろいろな話をしてくれた。印象に残っているのは、語彙論の重要性を強調していたこと。統語論の研究者たちは自分たちだけが言語の本質を理解しているかのような態度を見せることがあるが、同時に閉鎖的なところがある。一方で、「語」については誰もが話ができる、つまり語彙論は民主的な分野、だからこそ重要なのである、というのが教授の主張。ご両親も左翼的な思想の持ち主だったそうだが、その血をひいているのだなと思わされた。イデオロギー的な問題は別にして、クレオール語研究が統語論に傾きすぎていることはよく指摘されるところでもある。ホルム教授の言うように、語彙論を含め、もっと広い視点をもって研究を進めるべきなのであろう。<br>
　ちなみに、おふたりの自宅で私はずっと英語を話した。本当に楽しい時間だったけれど、コインブラのアパートに戻った時にはヘトヘトであった。<br>
　さて、私のコインブラ生活は始まったばかり。面白い経験をしたら、また報告させていただきたい。</p>]]>

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<title>第28回　東京の軍施設はその後どうなったか</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/08/27/1400.html" />
<modified>2010-08-27T05:04:09Z</modified>
<issued>2010-08-27T05:00:00Z</issued>
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<created>2010-08-27T05:00:00Z</created>
<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 　大日本帝国の首都であった東京には「帝都防衛」のための多く...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map3.html"><img alt="地図から見た戦争" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/06/post_89.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%;">　大日本帝国の首都であった東京には「帝都防衛」のための多くの軍施設が存在したが、軍の消滅とともに建物や跡地はそれぞれ変遷を重ねて今日に至っている。東京の区部に存在したいくつかの軍施設の「その後」を図上でたどってみた。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28as.jpg" border="0"></a><br>
図１　1:10,000「日本橋」昭和５年測図（空中写真測量）<br>
<span class="text_s_gray">地図はすべてクリックすると拡大します</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　天皇と皇居の防衛を任務とするのが近衛兵である。私事であるが筆者の亡き伯父はかつて近衛師団に在籍していた。父はよく「兄貴は近衛兵だった」と自慢していたが、全国から選抜された兵によって構成されたというから、一族にとっては相当に名誉なことだったらしい。その近衛師団があったのは現在の北の丸公園であるが、昭和５年（1930）測量のこの図によれば、現在の公園の全域に建物があり、今とはまったく違う景色だったことがわかる。<br>
　それでも近衛師団司令部の建物だけはその後も残され、今も国立近代美術館の工芸館（重要文化財）として往時の姿を保っている。重厚なゴシック様式の洋館建築で、明治43年（1910）の竣工というから、今年でちょうど100年を迎えるものだ。図では「近衛師団司令部」の文字の下、敷地の最南端に位置する建物である。師団司令部の建物の北側には「近歩一・二聯隊」とあるが、これは近衛歩兵第一および第二聯隊で、「きんぽいち」「きんぽに」と呼ばれていたという。<br>
　濠の北側に目を移せば、市電が分岐する九段下交差点の南側には「愛国婦人会」。旧千代田区役所の敷地にあたるが、戦死者・戦傷者の家族を支援する団体として明治34年（1901）に発足、戦争未亡人に仕事の斡旋なども行なっていた。その北隣の「戦利水槽」とは、おそらく日露戦争あたりの戦利品なのだろうが、旅順か満洲あたりでせしめたのだろうか。この土地には地図の測量された４年後の昭和９年（1934）に軍人会館が建設された。今も九段会館（日本遺族会運営）として現役の建物だが、ビルの上に入母屋の瓦屋根が載った「帝冠様式」の代表例として知られている。昭和11年の「二・二六事件」ではここに戒厳司令部が置かれた。</p>

<div align="center"><table width="380"><tr><td colspan="3">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28bs.jpg" border="0"></a></td></tr>
<tr><td width="180">図２　1:10,000「日本橋」昭和31年修正</td><td width="10"></td><td width="180">図３　1:10,000「日本橋」平成10年修正</td></tr></table></div>

<p style="line-height: 200%;">　図１とまったく同じ場所であるが、もちろん終戦後はすべての軍施設が連合軍の管理下に置かれたため、近衛師団司令部も接収された。建物の配置は前図とほとんど変わっていないように見えるが、この頃の近歩一・二の兵舎は警察学校として使われ、教育総監部は関東甲信越国税局に変わっている。おそらく建物はそのままだったのではないだろうか。ここに限らず、元兵舎がたとえば新制中学校の仮校舎などとして使われたりした例は多い。軍人会館（九段会館）は図２では「アーミーホール」となっている通り、図の翌年の昭和32年（1957）まで連合軍の宿舎として使われていた。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28cs.jpg" border="0"></a><br>
図４　1:10,000「世田谷」昭和３年修正</div>

<p style="line-height: 200%;">　こちらは原宿駅の西側、今の代々木公園であるが、昭和３年（1928）の当時はこの通り「代々木練兵場」であった。明治神宮の森の南側に位置しており、植生記号でわかるように裸地または荒地、ところどころに広葉樹・針葉樹の独立樹が点在していたようだ。地形も昔ながらで改変されていないように見えるから、おそらく武蔵野の面影が色濃く残っていたのではないだろうか。前述の近衛師団司令部の建物が完成した明治43年（1910）の12月、徳川好敏陸軍工兵大尉はここで日本で初めて飛行機を飛ばした。高度70m、飛行距離は3,000ｍであった。その南側にある煉瓦塀（もしくはコンクリート塀）で囲まれた「衛戍（えいじゅ）刑務所」は陸軍の刑務所で、「二・二六事件」の容疑者もここに収監されたという。</p>

<div align="center"><table width="380"><tr><td colspan="3">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28d.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28ds.jpg" border="0"></a></td></tr>
<tr><td width="180">図５　1:10,000「世田谷」昭和30年修正</td><td width="20"></td><td width="180">図６　1:10,000「渋谷」平成11年修正</td></tr></table></div>

<p style="line-height: 200%;">　もちろん代々木練兵場も戦後は接収され、米軍の将校のための住宅・ワシントンハイツとなった。周囲の日本の密集した市街地に比べて圧倒的に余裕をもって建てられた住宅を見ると、まさにアメリカのワシントン郊外にありそうな高級住宅地がそのまま引っ越してきたような景観だ。しかしその住宅も昭和39年（1964）に行なわれた東京オリンピックの時には一部が選手村として利用され、またその会場の国立競技場も建設された。<br>
　その後、南西側には新橋に近い愛宕山からNHK放送センターも移転してくる（昭和48年）。衛戍刑務所の跡地は、少なくとも塀が健在なのは読み取れるが、何に使われているかはわからない。いずれにせよ刑務所跡地にはその後渋谷区役所と渋谷税務署、神南小学校ができ、それに加えて今はC.C.Lemonホールとなった渋谷公会堂が建っている。</p>

<div align="center"><table width="380"><tr><td colspan="3">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28e.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_28es.jpg" border="0"></a></td></tr>
<tr><td width="180">図７　1:10,000「三田」昭和３年修正</td><td width="20"></td><td width="180">図８「三田」昭和34年修正</td></tr></table></div>

<p style="line-height: 200%;">　こちらは六本木の北側、今は「東京ミッドタウン」として知られる界隈。右に見える「歩一聯隊」が歩兵第一聯隊、現在の外苑東通りの西側の「歩三聯隊」が歩兵第三聯隊である。「歩一」の方は典型的な明治以来の建物に見えるが、「歩三」は大正の図までは「歩一」と同じような兵舎の並び方をしていたのが、上から見ると「中の字型」をした独特な形に変わっている。調べてみると関東大震災後に建てられた復興建築であり、機能性を重視した設計で当時では外観も含めて最先端の「ビルヂング兵舎」だったらしい。「日本初の本格的鉄筋コンクリート兵舎建築として意義深いものがある」、とずっと後になって日本建築学会も保存を要望している。<br>
　歩兵第三聯隊の兵舎は戦後、連合軍のハーディバラックスとなった。バラックは兵舎のことである。歩兵第一聯隊の跡地も東側はハーディバラックスだが、敷地の西側には昭和29年（1954）に保安庁から改組して５年目の防衛庁（現防衛省）も見える。その後はこの敷地がまるごと防衛庁になった。<br>
　今では首都高速が上を通る大通りとなった六本木通りも当時は狭く、その拡幅もまだ始まったばかりだったようで、六本木交差点の前後だけ従来の３倍ほどの道幅になっている。交差点を４方向に走る都電もあり、三河台町や竜土町、桧町などの昔ながらの町名も健在だ。しかしながら都電は自動車交通の邪魔になるとして昭和40年代に撤去され、東京大空襲で「焼け残った」町名も、この後昭和37年（1962）に現われた「住居表示法」が猛威をふるい、やはり昭和40年代前半に軒並み潰されてしまった。なお国土地理院は１万分の１地形図の作成をやめたため「平成11年修正」以来出ておらず、２つの「聯隊跡地」もその時点ではあまり変化がないので掲載しなかった。<br>
　しかし平成10年代からの現地の変化は実に大きく、時代を画した「近代兵舎」を長らく使い続けてきた東大生産技術研究所が移転した後は日本建築学会の要望書（平成12年）もむなしく取り壊され、後に国立新美術館ができた。また、防衛庁の移転跡地は「東京ミッドタウン」の２つの高層ビル、それにザ・リッツ・カールトン東京、サントリー美術館などとして生まれ変わり、多くの人を集めている。ちなみにミッドタウンの旧町名である桧町（檜町）の名は、この地にあった長州藩邸に檜が多かったため明治になって名付けられたものだ。町名は消えたが、かろうじて公園の名に残っているのはせめてもの慰めである。</p>]]>

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<title>執筆者プロフィール</title>
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<modified>2010-09-02T00:21:39Z</modified>
<issued>2010-08-27T01:30:00Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 　市之瀬 敦（いちのせ あつし）1961年、埼玉県生まれ。外務省在ポルトガル日...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>市之瀬敦「クレオール語をはじめて聞いた町から」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/coimbra.html"><img alt="クレオール語をはじめて聞いた町から" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/coimbra/coimbra_title.jpg" border="0"></a></p>

<dl><dt><img src='http://www.hakusuisha.co.jp/detail/imgs/profile.gif' alt='プロフィール：' border='0'>　<b><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/searchresult/index.php?keyword=%E5%B8%82%E4%B9%8B%E7%80%AC%E3%80%80%E6%95%A6&search_type=1">市之瀬 敦</a></b>（いちのせ あつし）</dt><dd>1961年、埼玉県生まれ。外務省在ポルトガル日本大使館専門調査員を経て、上智大学外国語学部ポルトガル語学科教授。留学先で出会った、美しいけれど、どこか悲しいポルトガル・サッカーの虜となる。好きなチームはベンフィカ・リスボン、リバプール、浦和レッズなど。なぜか赤いユニホームを着るクラブが多い。ポルトガル語学、クレオール諸語研究とともにポルトガル社会論、ポルトガル語圏アフリカ文学に関する研究もおこなう。著書は『ポルトガル語のしくみ』（白水社）、『出会いが生む言葉　クレオール語に恋して』（現代書館）、『ポルトガル・サッカー物語』（社会評論社）、『ポルトガル　革命のコントラスト』（ぎょうせい）など多数。
</dd></dl>]]>

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<title>３「斜塔と生きる」（後篇）</title>
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<modified>2010-08-06T05:54:30Z</modified>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール ［前篇から読む］ 　屋根裏部屋のような最上階の天井のすみか...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>市口桂子「ボローニャ四方山話」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/bologna.html"><img alt="ボローニャ四方山話" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/02/22/1200.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<div class="text_s_gray" align="right"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/08/06/1500.html">［前篇から読む］</a></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　屋根裏部屋のような最上階の天井のすみから、陽の光が差しこんでいる。頂上だ。さらに狭くてすべりやすい最後の階段を、補強用の柱や鉄骨などで頭を打たないように注意してのぼっていこう。<br>
　からだが空の下に飛び出した瞬間に、風がからだにまとわりついていた湿気をはぎとり、３６０度の景色をつれてくる。窮屈で暗い階段から抜け出した目にまず飛び込んでくるのは、地平線近くまで続く煉瓦色の町並みと、その中をまっすぐにひた走るローマ時代の高速道路、エミリア街道の姿だ。街道が緑の地平線にまぎれて消える先には、海沿いのリミニの町が、そしてアドリア海がある。この道を古代ローマ軍がかけぬけていったのだ。そう思うと、ひたすら続くだけの直線道路も感動的なものとなる。<br>
<br>
　塔の頂上はテラスになっており、ぐるりと一周できるようになっている。反時計回りに歩いてみよう。<br>
　エミリア街道の左側にほぼ平行して、もうひとつの道が地平線に向かって伸びている。これもアドリア海までとどく道だ。終着点は、５～６世紀のモザイク芸術で有名なラヴェンナの町である。夕刻、太陽が西に傾いた頃に塔にのぼると、ちょうどこの道の方向にある家々の屋根の上に、２本の塔のシルエットがキレイに浮かび上がるのを見ることができるだろう。</p>

<div align="right">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03d.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03ds.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">「家並みに浮かび上がる二本の影」</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　今度は反対側、西側のリッツォリ通りに面した方へ行ってみよう。この通りの左側がボローニャの心臓部だ。中央広場ピアッツァ・マッジョーレ（Piazza Maggiore）の周囲に、市役所、旧執政長官宮、旧大学舎、ボローニャの守護聖人をまつったサン・ペトローニオ聖堂（Basilica di San Petronio）などが並んでいる。いっぽう右側には、中庭と鐘楼をもった司教座教会（ドゥオーモ）。そしてその脇に、２本の塔が見えるだろう。見た目は「ガリゼンダ」に似ている。ずんどうの四角柱でレンガ造りだ。高さも建設当時のガリゼンダと同じで、約６０メートルである。上部にギザギザ模様が入っているのが「プレンディパルテ（Prendiparte）の塔」と呼ばれている。現在は地上３階までを客室とし、一晩に一組の客だけを泊めるというＢ＆Ｂになっている。そしてもう一本の塔は、「美しく高いもの（アルタベッラ＝Altabella）」というあだ名を持つ「アッゾォグィーディ（Azzoguidi）の塔」である。現在は１階に宝石店が入居している。</p>

<div align="right">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03e.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03es.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">「アッゾォグィーディの塔とプレンディパルテの塔」</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　これらの塔は「アジネッリ」や「ガリゼンダ」と共に、かつては「塔の森」と呼ばれていた中世ボローニャの姿を今に伝える、最後の「樹」たちである。<br>
　１１世紀から１４世紀にかけてのボローニャには、前出の４つの塔と同様の塔が多数林立していた。その数については、３４本かラ２００本までと諸説ある。ボローニャ市当局の情報では、塔のほとんどが１２世紀に建設されたもので、当時の城壁の内側にたてられていたという。城壁内の面積はわずか１平方キロメートル弱であったから、その景観やいかばかりであったろうか。当時の塔の数を１８０本と仮定してつくったボローニャの模型を見たことがあるが、なんだか針山のようだな、と思ったのを覚えている。</p>

<div align="right">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03f.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03fs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">「林立していたボローニャの塔」</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　それにしても、誰がなんのために、これだけの塔を狭い町の中につくったのか。<br>
　塔を建設したのは当時の貴族たちであった。「アジネッリ」も「ガリゼンダ」も「プレンディパルテ」も、所有者であった貴族の名字なのだ。富と権力の象徴として、彼らが競い合って高い塔を建てた、というのがよく聞く説である。しかし果たして実際には、事情はもっと深刻であった。<br>
　５世紀後半に西ローマ帝国が滅亡した。巨大な基軸を失ってからの数百年、ボローニャは異民族の侵入や、ローマ法王と神聖ローマ帝国皇帝（ドイツ王）との間の確執などに翻弄され続けた。それが１２世紀になってようやく、「自治」をもつにいたったのである。町には大学もでき、運河も港も整備され、商工業が発達した。しかしながら自由とは、所詮、不自由なものである。法王や皇帝といった睨みをきかせていた強面（コワモテ）がいなくなると、隣近所とのいさかいも、商売敵との競争も、そして家の中のもめごとも、すべて自分で処理しなければならなくなった。そしてそのために、前にもまして武器を持つ回数が増えていったのである。無数の塔が生まれた１２世紀は、近隣諸国との戦いと、地元の貴族間の覇権争いにあけくれた世紀であったのだ。<br>
　町の外からの攻撃に対する防備として城壁がある。しかし、城壁の中で戦いが起こったら、どうやって自分たちを守ればいいのか。そこで現れたのが石造りの塔、もしくは、塔のように背の高い家々であった。それぞれの貴族が、自分たちの家を要塞化したと思えばよい。当時の住居は木造で燃えやすかったから、丈夫な石壁の塔は、敵の攻撃を受けたり火事になったりした時には、非常階段兼避難場所となったのだ。塔には見張り台の役目もあり、仲間の貴族の家に侵入しようとしている敵を見つけたら、塔の頂上で火をおこし、緊急連絡を送ることができた。塔の外壁をよじ登っている敵には、友軍の塔から弓矢で攻撃をしかけた。敵の侵入を防ぐため、窓は小さく高い場所に、入口は地上から数メートル以上の高さにつくられていた。「アジネッリ」をはじめ、現存する塔には地上に入口があるが、それらは後の時代に増築されたものである。<br>
　塔を利用した空中戦は凄まじかったとみえて、１２４５～１２６７年にかけてつくられた法律には、塔から攻撃をしかけた場合には、その塔は完全に破壊されるものとする、という罰則が記されていた。また、２０メートル以上の塔は住居として使用してはならず、階段ではなくメンテナンス用の簡単なハシゴしかかけてはならない、などの条項もあった。こうして塔は、本来の利用価値をなくしてしまったのである。そして何より、構造上の問題や手入れ不足のために古くなった塔が崩壊し始めた事実が、ボローニャから背の高い塔が消えていく大きな原因のひとつとなった。<br>
　「塔の森」のうち今日まで生きのびた塔は、わずか１７本である。そのうち４０メートルをこえているのは、前述の４本のみだ。<br>
　「アジネッリの塔」については、もとは他の塔と同じく６０メートルくらいだったのが、ボローニャ全体の見張り台として活用するために、市政府が残り３０メートルをつけたした、という説がある。１３世紀の記録には、宗教関係者の犯罪人を鳥カゴのような牢にいれて、２０メートルほどの高さの場所につるしていた、とある。つまりその頃にはすでに、塔は政府に売却されていたということであろう。いっぽう、もとの所有者のアジネッリ家は、１５８３年に断絶している。この一家の名前を残すものは、現在、この塔以外にはなにも残っていない。<br>
　塔守のロベルト氏が、興味深い話を教えてくれた。「アジネッリの塔」は、微妙に毎日“動いて”いるらしい。日の光に暖められ、塔の中の空気と大量のレンガが膨張し、１～２mmという微小な変化ではあるが、塔そのものが呼吸するように、ふくらんだり縮んだりしているのだそうだ。それはまるで、樹齢９００年を超えた巨木のようである。<br>
　巨木は、ボローニャの歴史をながめてきた。古くは、同じ町に住む人々が剣で殺し合うのを見た。１６００年代には足元で火薬の売買が行われているのを知り、心安らかではいられなかったことだろう。第２次世界大戦も経験した。連合軍の空襲があると、塔の上に登った４名のボランティアが、爆撃を受けた地区を救急隊に知らせていたのだそうだ。そして巨木は、その同じ連合軍が、解放者として華々しくボローニャに入城してくるのも見ていた。塔の入口に向かって右側の外壁には、ちょうど人の頭くらいの高さに、今でも黒いペンキで</p>
<p style="color: #000000; line-height: 200%; padding: 20px;">
Ｗ ＲＯＯＳＥＶＥＬＴ　　（ルーズベルト万歳）<br>
Ｗ ＣＨＵＲＣＨＩＬＬ　　（チャーチル万歳）<br>
Ｗ ＳＴＡＬＩＮ　　　　　 （スターリン万歳）</p>
<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　と書かれた落書きを見ることができる。１０年程前には、元銀行員が塔に２日間ぶらさがり、不当解雇に対する抗議を行ったのも見ていたはずだ。<br>
「アジネッリはいつもここにあった。これからも長く存在し続けるだろう。僕らは通りすぎていくだけさ」<br>
　塔の頂上で風に吹かれて町を見下ろしていると、そんなロベルト氏の言葉が、少しばかりの郷愁をこめて、しかし、なんとも心地よく耳に響いた。<br>
　斜塔の下で人々はざわめきながら生きている。大樹の影に集うようにして。</p>
<p style="line-height: 150%; font-family: serif; font-color: #666666; padding: 20px;">【インフォメーション】<br>
　アジネッリの塔（Torre degli Asinelli）<br>
　　　夏期　９：００～１８：００　/　冬期　９：００～１７：００<br>
　　　入場料	　　３ユーロ<br>
<br>
【主な参考資料】<br>
　LA TORRE DEGLI ASINELLI<br>
　　　Franco Bergonzoni著　１９９４年　Istituto Carlo Tincani刊<br>
　LE DUE TORRI <br>
　　　Giancarlo Bernabei著 １９９２年　Santarini刊</p>

<div class="text_s_gray" align="right"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/08/06/1500.html">［前篇に戻る］</a></div>]]>

</content>
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<title>３「斜塔と生きる」（前篇）</title>
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<modified>2010-08-10T04:25:20Z</modified>
<issued>2010-08-06T06:00:00Z</issued>
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<created>2010-08-06T06:00:00Z</created>
<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 　ボローニャのシンボル、といえば、地元住民は「ドゥエ･トッ...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>市口桂子「ボローニャ四方山話」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/bologna.html"><img alt="ボローニャ四方山話" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/02/22/1200.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　ボローニャのシンボル、といえば、地元住民は「ドゥエ･トッリ（Due torri）」を真っ先にあげる。歴史地区の中心、文字通り町の“へそ”に立っている、２本の斜塔のことだ。<br>
<br>
　第２話で登場したマッジョーレ大通り（Strada Maggiore）と、それに続くリッツォリ通り（Via Rizzoli）を含む５本もの道が集まるラヴェニャーナ門広場（Piazza di Porta Ravegnana）。この小さな広場に、四角柱のレンガ造りの２本の斜塔が、ちょうどＶ字のように並んで位置している。その高さにはかなりの違いがあり、地上約４８メートルの「ガリゼンダ（Garizenda）」を、約９７メートルの「アジネッリ（Asinelli）」が見下ろしている。２本とも１０００年代に入ってすぐに建てられたもので、どちらも建設中に自身の重みで傾いてしまったらしい。<br>
　特に「ガリゼンダ」の傾きが顕著だ。長方形のずんぐりむっくりした箱のようなその姿。かつ手は６０メートルの高さを誇っていたのだが、あまりに傾いて危険だというので切断され、現在の姿となった。それが１３６０年のことである。</p>
<div align="right">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03as.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">「傾斜するドゥエ・トゥッリ」</span></div>

<p style="color: #666666; line-height: 200%; padding: 20px; font-family: serif; font-style: italic;">傾いている方からガリゼンダの塔を見上げると、<br>
その上方を雲が流れていくときには、<br>
塔がこちらに向かって落ちてくるような感じがする。<br>
　　　　　　　　（『神曲』地獄編第31歌）</p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　１２００年代半ばに生まれたダンテが｢ガリゼンダ｣をこう歌った当時、塔はまだ切断される前の姿だったことになる。今では最新機器による監視が実施されており、喜ばしきかな、これ以上傾くことはないと言われている。<br>
　いっぽう、のっぽの「アジネッリ」は、やはり傾いてはいるものの、一千年近い年月を五体満足に生き延びてきた。ずんどうで空っぽの「ガリゼンダ」とは対象的に、細くなった先に冠をつけた箸のようにほっそりとした身体の中には、延々と木の階段が続いている。頂上までの段数は４９８段。楽な道のりではないが、小さな子供でも元気に登っている。階段の手すりが美しく光っているのは、見学者たちの手が何度もそこを触れるからか。いや、それだけではない。手すりを磨き上げている“塔守（とうもり）”がいるのだ。<br>
　本来は“塔の管理人”と言うべきところであるが、塔のメンテナンスを一手にひきうけ、その高見から町を見渡す管理人の姿は、灯台守を思わせる。やはり“塔守”と呼ぶのがふさわしかろう。現在の塔守は、３代目のロベルト･ザッザローニ氏だ。<br>
　１９５０年に、市が斜塔「アジネッリ」の管理人の公募を行なった。看護士をしていたのに血を見るのが苦手で、転職を勧められていたというロベルト氏の父親が、木工職人だった祖父を誘って応募したのが始まりだ。見学者たちが登っていく階段の大半は、ロベルト氏の祖父が製作したものである。その後、１９５４年から現在にいたるまで、ザッザローニ家が「アジネッリ」を守っている。今日働いているのはロベルト氏とその弟、叔父、女性がひとりの計４人だ。<br>
<br>
　塔守の仕事とは、いったいどのようなものなのか。<br>
　斜塔の所有者はボローニャ市である。市は塔の外観と構造上のメンテナンスを担当する。いっぽうザッザローニ一家は、市から斜塔という不動産を借りて、それを観光スポットとして運営している。運営に関わる塔の内部だけを管轄しているわけだ。見学者の払う入場料（一人３ユーロ）が一家の収入となり、年間８，０００ユーロの不動産賃貸料を市に支払う。塔内部の運営に関わるメンテナンスの経費も自分持ちだ。市からの援助はない。<br>
　塔守の一日を見てみよう。<br>
　朝９時にロベルト氏の弟さんが塔の入口の扉を開ける。午後１時にロベルト氏到着。塔内の照明、電気系統は正常に動いているか。階段が安全な状態に保たれているか。点検すべきことは多い。１日平均１００～１２０人、多い日には４００人という見学者たちを見守り、時には質問にも答える。イタリア人よりも外国人の見学者の方が多いそうだ。塔の扉が閉まるのが午後６時。この間少なくとも数回は、塔を上から下まで登り降りする。<br>
<br>
　「人々が常に安全に塔を見学できるようにしておくのが僕の仕事さ」<br>
と、ロベルト氏は、階段の手すりを握ってできた手のひらのマメをみせながら陽気に語る。塔は３６５日見学可能だ。休館日はない。ロベルト氏の休暇も、年に数日という状態だ。<br>
「それでもやめたいとか、仕事をかえたいとか思ったことはないね。すごく特別な仕事で、満足感を与えてくれる仕事だよ。この仕事をやってるのは、僕らだけなんだ。２、３日も塔から離れていると、塔のことが気が気でならなくなる。家の電気の配線がこわれていてもあまり気にならないのにね。塔のない自分は、魂のない人間みたいなもんだよ」<br>
　僕は塔の中で生まれたようなものだから、とロベルト氏。彼の母親は、妊娠中の大きなお腹を抱えて塔の中で働いていた。人は生まれた場所を、自分自身や家族、そして己の人生を象徴するものとして認識する、というのが彼の持論だ。ぼくのことをよく知ってる人は、名字のザッザローニではなく、「アジネッリのロベルト」と呼ぶんだよ、と彼は笑う。塔が彼のアイデンティティー（存在証明）なのだ。若くして病気で亡くなった彼の父親は、亡くなる直前まで塔守として働き続けていた。２４歳になる娘さんは別の職業を選んだが、３歳になる孫息子には、仕事をついでもらいたいと願う。<br>
<br>
　こうした話をうかがっていると、伝統的で、少々古くさいタイプを想像してしまうかもしれない。しかしロベルト氏はまだ４７歳。早口で勢いよく話し、日に焼けて引き締まったその風貌は、ヨットレースでもしていそうなタイプに見える。塔守というこの上なく保守的な職業に従事しているなど、とても思いつかないだろう。</p>

<div align="right">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03bs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">「塔守ロベルト氏」</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　しかし、彼はこう語るのだ。<br>
「１９世紀に生まれたかったな。人が目を見て話すことの少なくなってしまった今世紀は、あまり好きじゃない。」<br>
　ロベルト氏に、「アジネッリ」の魅力を聞いてみた。頂上から見た景色の素晴らしさ。そこではいつも風が吹いていて、気持ちがいいこと。そして一息いれてから、こう言った。<br>
「塔に登ると、そこは町の中心なのに、地面から切り離されている。自由になれる気がするんだ。飛んでいるような感じかな」<br>
<br>
　わたしたちも斜塔に登ってみよう。<br>
　「アジネッリ」の塔の入り口は、マッジョーレ大通り側にある。人ひとりがはいれるだけの幅しかない小さな入口だ。地上約１０メートルの高さにある切符売り場には、いつも女性が座っている。そこまでは丸い螺旋を描いていた階段が、四方の壁に沿った四角い螺旋に変わる。見上げても、塔の中には階段しか見えない。踏み面の幅が極端に狭いところもあるので注意が必要だ。また、階段そのものの幅もせまいので、降りてくる人とすれ違うためには、どちらかが四隅にある小さな踊り場に立ちどまり、相手が通過するのを待たなければならない。</p>

<div align="right">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bologna/bologna_03cs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">「アジネッリ内部の四角い螺旋階段」</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　頂上に着くまでには、４つのフロアがもうけられている。傾斜を自覚し始めるのは、３つめのフロアあたりからだろうか。知らず知らずのうちに階段の手すりを握りしめて登っていることに気がつくのだ。そして、もうひとつ気づくことがある。のぼり始めたころには階段でいっぱいだった塔の内部が、いつのまにか広々としていることだ。これは、上へいくほど壁が薄くなる分、塔の中の空間にゆとりがでてくるからである。入口付近で幅３メートルを超えていた壁の厚さは、この辺りまで来ると１．５メートル程、頂上手前では1メートルとなる。こうして重さを軽減することで、塔に安定性を与えたのだ。</p>

<p><br><br />
<div class="text_s_gray" align="right"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2010/08/06/1510.html">［後篇につづく］</a></div></p>]]>

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<title>第27回　終戦直後の東京</title>
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<modified>2010-08-05T07:16:49Z</modified>
<issued>2010-08-05T07:00:00Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 図１　1:50,000「東京西南部」昭和23年資料修正 地...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map3.html"><img alt="地図から見た戦争" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/06/post_89.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_27a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_27as.jpg" border="0"></a><br>
図１　1:50,000「東京西南部」昭和23年資料修正<br>
<span class="text_s_gray">地図はすべてクリックすると拡大します</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　昭和20年（1945）８月、東京には数度の大空襲による焼跡が広がっていた。その焼跡にはバラックが建ち、闇市が進出を始める。筆者の母方の祖父は世田谷の上馬に住んでいた。空襲の被害が少なかった世田谷区なのにその一帯は運悪く焼かれ、家を失った祖父母は横須賀市へ転居した。爆撃機が身軽になるため適当に人家のあるあたりへ落としていった、という話は聞いたことがあるが、これといって目標らしい目標もない上馬の空襲はその類かもしれない。いずれにせよ、メインの標的であれ「捨て爆弾」であれ、一方的に殺された多くの東京都民が浮かばれないことに変わりはないが。<br>
　国土地理院の前身である陸軍陸地測量部は昭和10年代、「大日本帝国」の勢力圏の拡大に伴って外地の測量に追われていた。そのため本土の経年変化を反映させるべき地形図の修正作業は滞り、「帝都」の地形図でさえ昭和７年頃から手が付けられていなかった。昭和７年といえば、10月１日に周辺５郡82町村が編入されて新20区となり、東京市は旧15区と併せて35区を擁する「大東京市」になった（その後昭和11年に北多摩郡砧（きぬた）村・千歳村が編入されてほぼ現23区域となる）。その後は市街化がさらに進み、本来なら地図は大幅に塗り替えられているはずだったが、そんな事情で地形図としては昭和７年のまま終戦を迎えたのである。<br>
　人員も紙も不足するなか、なんとか新しい情報を盛り込もうとしたのがこの図である。新しい版を作る余裕はなく、少し薄い墨で印刷された元図には新情報のみが茶色のインクで加刷されている。新しい行政区画を記入、古い町村や郡名には×印が付けられた。「昭和23年資料修正」なので、前年に35区が23区に再編成されたばかりである。具体的には芝区・麻布区・赤坂区が港区に、四谷区・牛込区・淀橋区が新宿区、という具合に昭和22年５月３日に22区に統合され、３か月後の８月１日に練馬区が板橋区から分区して現在の23区が誕生した。<br>
　上の範囲では郡名を表わす「豊多摩」や「渋谷町」「代々幡町」などの旧自治体名が×で消され、さらに前回の修正にタッチの差で間に合わなかった昭和８年開通の帝都電鉄（現京王井の頭線）が茶色の線で記入され、それと交差する山手通りも茶色の二重線で追加された。欄外の注によれば「道路ハ昭和十九年・二十年ノ資料ニヨリ主要ナモノノミヲ修正ス」とある。さらに渋谷区役所も陸軍刑務所の跡地の現在地に茶色い○で示された。当時はおそらく外地へ行った陸地測量部員もまだ帰ってこない人が多かったのではないだろうか。極限状態にあって、なんとか少しでも東京の変化を記録しようとする執念のようなものが感じられる地形図である。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_27b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_27bs.jpg" border="0"></a><br>
図２　「東京都35区　区分地図帖」日本地図株式会社　昭和21年９月15日発行（昭和60年復刻）</div>

<p style="line-height: 200%;">　こちらはもっと早く、終戦１年後の昭和21年９月15日に発行された「東京都35区」の区分地図帖。東京都35区とあるように、まだ区割りは戦前のままで東京都の「行政区」であった。現在のような「特別区」となるのは昭和22年に区が再編されてからである。地図帖の表紙には「戦災焼失区域表示」とあるが、ピンク色に塗られている部分がそれだ。それを知らなければ、市街地をすべてピンクに塗ったのかと勘違いするほど「焼失区域」は多い。深川区・城東区（現江東区）などはほぼ全滅で、本所区の焼失面積は全体の96パーセントに及んでいる。白いままの部分はもはや家のない埋め立て地ぐらいしか残されていない。緑色で表示された帯状の範囲は凡例に「疎開区域」とあるが、これは延焼防止のために道路や鉄道沿いの建物を強制的に撤去したエリアだ。家を失った人の中には空襲だけでなく「疎開」させられた人も少なくない。<br>
　よく見ると渋谷区の場合は全部焼かれたわけではなく、主に台地上のお屋敷町は残った所が目立つ。敷地に余裕があって木々も多いため、延焼を防ぐことができたからだろう。この図で「焼けなかった区域」を確かめながら今の東京を歩くと、戦前からの木造の家が今もあちこちに残っており、戦前の東京市の名残を見つけたい人には大いに役立つ地図でもある。<br>
　この地図は昭和60年（1985）に同じ会社（日地出版）によって復刻・発行されたものだが、奥付を見ると復刻者には「東京空襲を記録する会」とある。東京大空襲を丹念に記録し、長年にわたって発表し続けたきた早乙女勝元氏による序文が収められているが、「あやまちを繰り返す愚行は、いついかなる状態にあろうとも避けねばならないが、学ぶためには素材がいる。記録である」と強調されている。日地出版の倉庫に２冊だけ保存されていたという地図帖が復刻されることの意義はまさにここにあったのだが、復刻されてからも、すでに25年の歳月が経過してしまった。当時よりさらに戦争体験者は少なくなっており、油断していると戦争ははるか遠く昔のことになってしまうだろう。<br>
　番地まで表示されたこの図を眺めていると、「東京は焼け野原になった」などという大雑把で月並みな表現より、よほど具体的に、広大な面積で家屋も学校も工場も、何もかもが焼かれた事実として迫ってくる。「頭の中の縮尺」をさらに上げてみれば、もっといろいろなことが想像できる。一郎君の家は焼かれて一家行方不明になった、和子さんは両親も弟も亡くして千葉のおじいちゃんに引き取られた、田中さんは経営していた町工場を失って茫然自失になった……。<br>
　戦争を知らない世代には、おびただしい数の亡き都民の無念を、このピンクの市街地から懸命に想像する義務があるのではないか。</p>]]>

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<title>第26回　地名に残る「戦争の時代」</title>
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<modified>2010-07-23T00:43:20Z</modified>
<issued>2010-07-23T01:00:00Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 図１　1:25,000「東京南部」平成18年更新 地図はす...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map3.html"><img alt="地図から見た戦争" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/06/post_89.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_26a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_26as.jpg" border="0"></a><br>
図１　1:25,000「東京南部」平成18年更新<br>
<span class="text_s_gray">地図はすべてクリックすると拡大します</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　東京・隅田川には多くの橋が架かっているが、その最下流にあるのが勝鬨橋（かちどきばし）である。完成は昭和15年(1940)だから今年でちょうど70年を迎える。この橋は大きな船が通るときにまん中から２つに割れ、橋桁を斜めに上げて水路を確保する「跳開橋」（ちょうかいきょう）であるが、自動車の交通量激増の影響もあって昭和45年に試験のために跳開されたのを最後に、それから40年間動いていない。それでも重厚な姿は町のシンボルになっている。<br>
　この橋の名は、架橋以前にここで両岸を結んでいた渡船・勝鬨渡（かちどきのわたし）にちなむもので、明治38年の１月、日露戦争で旅順が陥落したのを記念して命名された経緯がある。今はその東詰の町名が「勝どき」という漢字かな交ぜ書き地名になっているが、町名が月島通などから変えられた昭和40年(1965)に「鬨」という字が当用漢字でなかった、というのが理由である。<br>
　「鬨」は１字だけで「かちどき」と読むのだが、これだけでピンとくる人が少ないからか、勝の字を頭に付けて２字としたのだろう。ついでながら、鬨の文字の部首は「門がまえ」に似ているが「たたかいがまえ」で、２人がつかみ合って争っている象形文字なのだそうだ。闘という字も、正字は「たたかいがまえ」である。<br>
　徳島市には「かちどき橋一丁目〜六丁目」という町名があるが、やはり「かちどき橋」が由来である。こちらは日露戦争ではなく、日中戦争が膠着状態にあった昭和14年に橋名が公募された際、「勝ってほしい」という願いを込めたのか、そのように名付けられた。橋は昭和16年に完成、町名もその年に誕生している。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_26b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_26bs.jpg" border="0"></a><br>
図２　1:25,000「岐阜」平成４年修正</div>

<p style="line-height: 200%;">　岐阜市の東隣に位置する各務原市は、大正時代から陸軍航空隊の町として発展した。各務原（かかみがはら）とは難しい読みだが、鏡のように平らな野原ということらしい。連載の<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/08/07/1000.html" target="_blank">第４回</a>では名鉄各務原線の駅名が、防諜の目的で一聯隊前駅が各務原運動場前に、二聯隊前駅が名電各務原などと改称されたことを取り上げたが、実は戦争の時代を反映する町名が今も見られる。<br>
　たとえば高山本線那加（なか）駅・名鉄新那加駅の北側にある那加東亜町は、昭和19年(1944)以来の町名だが、これは戦争の大義名分であった「大東亜共栄圏」にちなむものであるし、同年にできた駅南側の市街地、那加日之出町も「日の出の勢い」で発展することを願ったもので、こちらも時代の空気を反映している。<br>
　図の右側、各務原飛行場駅（現在は航空自衛隊岐阜基地）の右上に見える那加雄飛ヶ丘町（ゆうひがおかまち）も飛行場と町の発展「雄飛」を結びつけて、同じく昭和19年に命名されたものだ。この一郭は昭和12年に畑から川崎航空機工業の大社宅群として生まれ変わった土地である。他にも市内には昭和17年に日本軍が英軍に勝って陥落させたシンガポール（当時日本では昭南島と呼んだ）にちなむ那加昭南町（しょうなんちょう・図の範囲外）もある。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_26c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_26cs.jpg" border="0"></a><br>
図３　1:25,000「鯖江」平成８年修正／昭和５年修正</div>

<p style="line-height: 200%;">　こちらは国産眼鏡フレームの大半を作っている「眼鏡の町」福井県鯖江市。中心市街から北へ３キロほど離れた福井鉄道沿いの地域だが、神明（しんめい）駅の西側には三六町（さんろくちょう）が見える。この町名は昭和31年に命名されたのだが、陸軍歩兵第三六聯隊の兵営があったことにちなむものだ。現在は病院や学校、住宅地となっていて、地図を見ただけでは過去はわからないが、右に並べた図を見ればその兵営と町名は重なっている。<br>
　こちらは昭和５年の修正版であるが、兵舎が中庭を取り囲んで建てられているのがわかる。聯隊の名などが何も記載されていないのは、この図が昭和22年に発行されたから。当時は修正作業が追いつかず、すでに消滅した兵営関係の文字を地図から削除しただけで発行することが珍しくなかった。神明という駅名も、大正13年(1924)の開業時はその名も「兵営駅」で、それが昭和14年に「防諜のための改称」で中央駅となり、昭和21年に神明に変わっている。<br>
　さて余談かもしれないが、戦前に陸軍の航空部隊が置かれたことにより「空都」と呼ばれた東京都立川市の話。航空隊だけでなく航空工廠や関連工場関係の住民が激増したため昭和10年代の人口増加は著しく、同15年には市制施行している。急激な都市化に対応すべく昭和17年(1942)に町名改正が行われたのだが、当初は立川駅北口の飛行場側を羽衣町、市域東端あたりに曙町（日の出の方角による）とする予定だったという。ところが軍部から「羽衣町など軟弱な名前では飛行機が墜落しそうだ」と横槍が入り、両者を入れ替えたらしい。この町名も「戦争に影響された町名」だろうか。</p>]]>

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<title>第2回　林ひふみ【中国語】</title>
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<modified>2010-07-21T06:42:12Z</modified>
<issued>2010-07-21T05:31:18Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 【主な使用地域】中国、台湾、シンガポール、マレーシア 【話者数】13億人 【使...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>ことば紀行</dc:subject>
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<![CDATA[<div align="center"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/kotobakikou.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/kotobakikou/kotobakikou_title.jpg" alt="ことば紀行" border="0"></a>

<p><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/kotobakikou/kotobakikou02.jpg"></div></p>

<div class="plainbox">【主な使用地域】中国、台湾、シンガポール、マレーシア<br>
【話者数】13億人<br>
【使用文字】漢字、ローマ字<br>
【あいさつしてみよう】ニイハオ！（こんにちは）</div>

<p>　中国語の魅力の一つは、さまざまな母語を持つ人たちの共通語だということ。日本の26倍ある国土に13億人が暮らす中国では、多数派の漢民族が話す言葉も、地域ごとに大きく異なる。</p>

<p>　たとえば、上海語や広東語を話す人の数は、フランス語やイタリア語よりも多い。北京語を基礎とする標準中国語（普通話）との違いも大きくて、方言というより、ヨーロッパの各国語をイメージした方が近いくらいだ。</p>

<p>　同じく中国語を使う台湾では、全人口2300万のうち、73％が福建語系の台湾語を母語とする人々だ。ほかに客家が12％。第二次世界大戦後に中国各地から移住した外省人が13％。そして先住民が２％となっている。九州ほどの小さな島で、大きく分けても４種類の言語が日常的に使われているのだ。そうした多言語な社会の様子を知るには、台湾映画がおすすめである。</p>

<p>　たとえば、1980年代以来、台湾映画界をリードしてきた侯孝賢監督。外省人だが、広東省梅県という客家地区の出身で、母語は客家語だ。自伝的要素の強い初期作品では、多言語生活の生む悲哀が描かれた。『童年往事〜時の流れ』（1985）の主人公は、台湾南部の港町高雄郊外で育つ。学校の授業は標準中国語、地元の友人たちは台湾語、家族の会話は客家語だ。祖母は客家語しか話せないので、家族以外とコミュニケーションがとれず、亡くなるまで、故郷に帰る道を探していた。</p>

<p>　新しい作品では魏徳聖監督の『海角七号〜君想う、国境の南』（2008）がイチオシ。映画の舞台は台湾最南端の恒春半島だ。ここの人々は台湾語と標準中国語のバイリンガル。客家や先住民であれば、日常的に３言語を使い分ける。美しい南シナ海の砂浜や、甘く悲しい恋物語に加え、登場人物が場面や相手によって言語を切り替えるのも見どころの一つだ。日本公開時には、字幕に印をつけることで、台湾語と標準中国語が区別できるよう工夫されていた。</p>

<p>　さらに日本統治時代に育った老人は今も日本語の歌を歌い、先住民の歌にもコウバ（工場）、タイホク（台北）など日本語由来の単語が出てくる。恒春半島は近代日本最初の対外戦争だった牡丹社事件（1874）の現場でもある。日本人ヒロイン友子の乗ったマイクロバスが、城門を通れずに立ち往生する恒春城は、なんと19世紀末に日本軍の侵略を防ぐために建てられたものだという。台湾映画は奥深いのだ。</p>

<div align="right">（筆者＝明治大学理工学部准教授）</div>]]>

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<title>第13回</title>
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<modified>2010-07-21T05:28:35Z</modified>
<issued>2010-07-21T05:27:12Z</issued>
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<created>2010-07-21T05:27:12Z</created>
<summary type="text/plain"> 　今年四月九日、井上ひさし逝去。「ひょっこりひょうたん島」主題歌をランドセル姿...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>「愛書狂」岡崎武志</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/aisho.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/aisho_title.jpg" alt="愛書狂" border="0"></a></p>

<p>　今年四月九日、井上ひさし逝去。「ひょっこりひょうたん島」主題歌をランドセル姿で歌い、文庫の『ブンとフン』を自分のお小遣いで買った世代としては、井上の作家的成長が自分史と重なる。</p>

<p>　筑摩現代文学大系に井上が収録された巻で、川本三郎が月報を書いている。七一年「朝日ジャーナル」編集者時代、井上の担当になる。川本がある事件にまきこまれて逮捕、朝日をクビに。一カ月の留置所暮らしから出て来た時、留守宅に何度も井上から激励の電話をもらったことを知る。「〝朝日のきれめが縁のきれめ〟みたいな人間が少なくなかったので」川本はジンときた。</p>

<p>　井上の手書き原稿の特徴は、稀にみる読みやすさだ。丸っこい柔らかな文字は人柄を表していた。原稿がたびたび遅れることから「遅筆堂」と名乗ったが、文字に乱れはなかった。川本の生原稿もていねいで編集者に喜ばれている。</p>

<p>　自らの原稿の文字をそのまま印刷して月報としたのは『植草甚一スクラップ・ブック』。植草は自伝のなかで、東宝の社員だったころ、印刷所の植字工程を目撃し、その苦労を思いやって「それでぼくは原稿は楷書で大きく書くことにしたんだ」と記す。植字部から賞状をもらいたかった、とも。</p>

<p>　右に挙げた三人に共通するのは、もの書きとして世に出る前に、いずれも前哨戦と呼べる苦闘の時期を持つ苦労人だったこと。井上は若き日、浅草フランス座で幕の上げ下げからトイレの掃除までした。苦労人は、編集者、植字工など裏方の苦労を知る。かの石原慎太郎は悪筆で、文字を読み解く専門の植字工がいたそうだ。</p>]]>

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<title>山中俊治「ブレードランナーたちと共に見る夢〜義足デザインでロンドンパラリンピックを目指す」</title>
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<modified>2010-07-21T23:34:51Z</modified>
<issued>2010-07-21T05:00:47Z</issued>
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<created>2010-07-21T05:00:47Z</created>
<summary type="text/plain">義足のスケッチ画 　スポーツ用義足を初めて見たのは映像の中だった。両足の膝下が人...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>特別寄稿</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<table align="right"><tr><td align="center"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/front/front151.jpg"><br><span class="text_s_gray">義足のスケッチ画</span></td></tr></table>

<p style="line-height: 200%;">　スポーツ用義足を初めて見たのは映像の中だった。両足の膝下が人工物に置き換えられ、信じがたいスピードで走り抜ける異形のランナーに私の眼は釘付けになった。<br>
　そのランナー自身の肉体は脛の辺りで終端となっていた。代わりにふくらはぎの後ろに接続された炭素繊維のプレートが、ネコ科の動物のつま先を思わせるカーブを描いて、地面に着地している。スキー板にも似た、そのしなやかなプレートの弾力を巧みに使って送り出される高速の足先は、その薄さゆえにほとんど映像から消えてしまう。その滑らかな走行は、飛んでいるようにさえ見えた。<br>
　最新のテクノロジーが生み出した高性能の装置が人体に装着され、一体となって疾走するという、まるでＳＦの世界のできごとのようなシーンだった。<br>
　彼の名はオスカー・ピストリウス。刃物のような足に敬意を込めて「ブレードランナー」と呼ばれる。南アフリカ出身で北京パラリンピックの陸上競技（下腿義足クラス）における100、200、400メートルの金メダリストである。<br>
　先天的に下肢の骨格の一部が欠如しており、一歳になる前に両足を膝下で切断した。その後、水泳やラグビーなどを経て今日に至る、世界最強の義足アスリートだ。<br>
　私は、彼の肉体と義足の関係に人と人工物の関わりの理想を見たように感じていた。<br>
　私たちインダストリアル・デザイナーは、乗用車や家電などの工業製品の、機能と美しさのバランスを取ることにいつも苦労している。生物のデザインは機能美のお手本であるというのはよく言われる。機能を突き詰めれば自然に美しいものになるから、工業製品もそういう風にデザインしましょうという意味だ。<br>
　しかし、現実はそれほど単純ではない。生き物は、それ自身が生きることにただ忠実であるから美しい。しかし、工業製品はそれ自身のためにあるわけではなく、人にとって便利でなくてはならない。<br>
　この便利というのが結構やっかいだ。例えば、私たちの役に立つように品種改良を重ねてきた、まるまると太った食用家畜の姿からは、原種の野生動物が持っていた躍動美はすっかり失われてしまっている。私たちに都合のいい物は必ずしも美しいものではない。工業製品を便利にすることや、安く作ることは人にとってとても有益なことだが、それで工業製品が美しくなるわけではない。そこにデザイナーの苦悩がある。<br>
　しかしオスカー・ピストリウスの義足は、そうした苦悩を軽々と超えているように見えた。彼が履く人工の足は、ある意味で「便利」であるはずだが、彼の肉体と一体化することで完璧な美しさを醸し出していた。これこそ、人が作りし物の究極の機能美なのではないか。<br>
　その感動に誘われて、一昨年の秋から私は慶應義塾大学の研究室の学生たちと一緒にスポーツ用義足の情報を集め始めた。改めて北京パラリンピックでは様々な日本選手が活躍したことを知った。その選手たちにとても信頼されている一人の義肢装具士がいる。その人の名は臼井二美男。<br>
　義肢装具士とは、義手義足やサポート器具を個人に合わせて製作する人のことである。私たちは、南千住にある鉄道弘済会義肢装具サポートセンターを訪ねた。ここは全国でも最もたくさんの義足を作っている施設だ。内部を見学させてもらううちに、リハビリの現場に出くわした。<br>
　ちょうど、走ることに挑戦し始めたばかりの少女がいた。義足を調整しながら指導する男性の声が、トレーニングルームに響く。少女は足を切断して以来走ったことがないらしい。10メートルほどの距離を何度か往復するうちに、少しずつ速歩きが駆け足に変わっていく。<br>
 「おお、走ってる、走ってる！　……走れたじゃん。」<br>
　一緒に走りながら明るく励ます声の主が臼井さんだった。自転車の乗り方を教える父親のように見えた。<br>
　その日から私たちと義肢装具士、義足アスリートたちとの交流が始まった。<br>
　臼井さんに勧められるままに、障害者スポーツの練習会にも参加した。最初は、グラウンドの隅の方から眺めていた。彼らの切実な状況に、デザイナーなど必要とされていないのではないか。そんな思いに身がすくんだ。<br>
　しかし、やはり本物は美しい。彼ら彼女らの走り、跳躍する様を夢中になってスケッチした。描き進めるうちに少しずつ問題点も見えてきた。<br>
　義足は、ひとつとして同じものはない。足の切断箇所や切断形状が一人一人違うからだ。個人のために、いろいろな大きさ、長さのパーツを組み合わせて作られる。そのジョイントパーツは、工業デザインの理想からは遠いものだった。現状では無骨なボルトがむき出しで使用され、カーボンのエッジすら仕上げられていないものもある。美しくないだけでなく、選手が転倒して、けがをする可能性もある。<br>
　そんな義足を選手たちは思い思いに装飾していた。花柄をプリントしたり、飾りを付けたり、黒と金の派手な絵柄のものもあった。<br>
　選手たちは、日常生活ではもっと飾り気のない義足を使う。日常生活用義足は、むき出しのアルミパイプに本物に似せた形のつま先がついた物で、ふだんは服の下に隠されることが多い。柔らかいウレタンの表皮をかぶせて全体を本物の足に見せることもあるが、いずれにしても目立たせることはしない。<br>
　競技場に出る時、選手たちはスポーツ用義足に履きかえる。飾り立てられたスポーツ用義足はハレの場のためのものなのである。<br>
　私がスケッチしているのを見て、ある選手が声をかけてくれた。<br>
 「絵を描かれる方ですか。」<br>
 「いえ、工業製品のデザイナーです。」<br>
　私は自分が彼らを見てどう感じているかを懸命に話した。何をしたいと思っているかも。両足にブレードを履いたその青年は、にっこり笑って言った。<br>
 「この脚をかっこいいって言ってくれて、うれしいです。自分でもそう思ってました（笑）。もっとかっこいい義足が欲しいです。」<br>
　彼は北京パラリンピック自転車競技の銀メダリストだった。やれることがあるかもしれないと感じた瞬間だった。<br>
　スポーツという機能優先の世界では、選手たちも義足を隠すことをしない。観衆も眼を背けることなく、応援する。そこに本当に美しい義足があれば、選手たちと、見守る人々の気持ちを、もっと明るくすることができるかもしれない。<br>
　今年の春、ようやくスポーツ用義足の試作品が出来上がってきた。厚生労働省の支援を受けて、臼井さんと、義足メーカーと一緒に開発したものだ。今、数十人のアスリートたちにテストしてもらっている。まだまだ完璧にはほど遠い試作品だが、選手たちは何度も走ってくれる。「早くこれで大会に出たいです。」そう言ってくれる笑顔がうれしい。当面の目標は、2012年のロンドンパラリンピックだ。私たちがデザインした義足を履いた選手がメダルを取ることを夢みている。<br>
<br>
<span class="text_s_gray">◇筆者＝インダストリアル・デザイナー。腕時計から鉄道車両に至る幅広い工業製品のデザイナーである一方、技術者としてロボットなどの先端技術開発に従事。2001年には、ＪＲ自動改札機「Suica」をデザイン。慶應義塾大学教授。</span></p>]]>

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<title>柳下毅一郎「本を食って生きている」</title>
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<modified>2010-07-14T02:11:42Z</modified>
<issued>2010-07-14T02:05:26Z</issued>
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<summary type="text/plain">　これまで読んだ最高の短編小説は何かと訊ねられたら、迷うことなくジーン・ウルフの...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>特別寄稿</dc:subject>
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<![CDATA[<p style="line-height: 200%;">　これまで読んだ最高の短編小説は何かと訊ねられたら、迷うことなくジーン・ウルフの「デス博士の島その他の物語」という短編を挙げる（国書刊行会より刊行の同題短編集に収録）。それはとある浜辺に住む少年の話である。母親に顧みられない少年はいつも一人で本を読んでいる。孤独な少年の友達はその本の登場人物だけなのだ。物語の終わり、少年は悪漢のデス博士に語りかける。「この本、もうあと読みたくないよ。博士はきっと最後に死んでしまうんだもん」<br>
　デス博士は答える。<br>
「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ」<br>
　この言葉ほど読書の喜びと哀しみを鮮やかに示したものはない。この小説は二人称で書かれている。タッキー少年はぼくである。ぼくはかつて孤独な少年だった。あのころ、ぼくの友達は本の中にいた。りゅうのボリスとネズミのリーピチープが遊び相手だった。図書館に通って借りてきた本に読みふけった。読む本がなくなってしまうのが怖かったのでいつも多めに本を借りてきて、読み終わってしまうのが惜しくて最後の方はゆっくり読んだ。そして好きな友達の出てくる本は、何度も何度もくりかえし読み、そのたびに友達は戻ってきてくれた。<br>
　長い年月が過ぎ、さすがに本の外にも何人かは友達ができた。でも、相変わらずいちばん幸せなのは家に座って本を読んでいるときである。最高の友達は本の中にいる。いちばん大切なことを教えてくれたのは本の中の人たちだ。<br>
　今、ぼくは翻訳を仕事にしている。英語の本を読んで、日本語の本を書く仕事だ。まあ仕事と言っているのだが、それよりは生理現象のような気がしている。本を食って本を排出している。読む材料はもちろん英語の小説だけでなく、日本人の小説もあればノンフィクションもある。素晴らしいノンフィクションに天の配剤ともいうべきドラマを教えられ、巧みな小説に世界の真実を見せつけられる。そのすべてが自分の書くものの糧となっている。単に言葉の綾ではない。読書は楽しみでも暇つぶしでもない。空気や食事のように生きていく上では必要なものなのだ。すべての人がそうだというつもりはない。でも、まちがいなく本を食って生きているのはぼくだけではないだろう。<br>
　よく、なんでそんなに本を買うんだと訊かれる。家には一生かかっても読み切れないくらいの本が山積みだというのに。すでに本棚からは本があふれだし、床に山積みになった本のあいだをおそるおそる縫って歩かなければならない（一日一回、山に足を引っかけて雪崩が起こり、溜息をつきながら本を積み直す）。なぜかって？　それは本を読んでいないと死んでしまうからだ。履歴書に書く「読書、映画鑑賞、音楽鑑賞」という「趣味」欄はどうにもしらじらしい。読書は趣味なんかじゃない。もっと切実で、はるかに大事なものなのだ。<br>
　今、書籍の電子化についての話がかまびすしい。黒船が上陸し、維新が起こって旧体制が一新され、書籍が滅ぶとか書店が消えるとか、いずれにせよ景気のいい話はあまり聞こえてこない。本を食って生きている人間にとっても他人事ではない。食べ物がなくなったら飢え死にしてしまうではないか。<br>
　でも、ぼくは実はあまり心配していない。本が将来どんな形態になるのかはわからないけれど、読書という行為自体がなくなるとは思えないからだ。本の川の中で泳ぐ魚、本を食って本を排泄する紙魚たちがいるかぎり、読む本の種は決して尽きまい。そしてページを開ければ、いつでも昔の友達と再会できるのだ。本のページを開けば、みんな帰ってくる。ホールデンが、ウサギが、ハワード・キャンベル・ジュニアがそこにいる。</p>
<p><span class="text_s_gray">▼（やなした・きいちろう）英米文学翻訳家・映画評論家。1963年生まれ。出版社勤務ののち、映画評論家に。訳書に、J・G・バラード『クラッシュ』（東京創元社）、ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』（国書刊行会）、ジョン・スラデック『蒸気駆動の少年』（河出書房新社）、アラン・ムーア『フロム・ヘル』（みすず書房）、サイモン・クーパー『サッカーの敵』『アヤックスの戦争』（以上白水社）など。著書に『興行師たちの映画史』（青土社）など。編書に『女優林由美香』（洋泉社）など。多摩美術大学非常勤講師。</span></p>]]>

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<title>第25回　「不要不急」とされた鉄道</title>
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<modified>2010-08-17T06:48:08Z</modified>
<issued>2010-07-12T04:30:00Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 図１　1:50,000「横須賀」昭和19年部分修正 地図は...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map3.html"><img alt="地図から見た戦争" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/06/post_89.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_25a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_25as.jpg" border="0"></a><br>
図１　1:50,000「横須賀」昭和19年部分修正<br>
<span class="text_s_gray">地図はすべてクリックすると拡大します</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　戦争末期の昭和19年（1944）に部分修正が行われた５万分の1地形図「横須賀」のうち逗子付近である。紙質も印刷の状態もよくないが、発行されたのは戦後の混乱期の昭和22年（1947）。紙もインクも人材も極度に不足していた頃だから当然かもしれない。このエリアは東京湾口を睨む海軍の横須賀鎮守府がある要塞地帯で、地形図は大正以前から長らく一般人が入手できない状態であり、ようやく市販できるようになったのが戦後のこの時期だったのである。<br>
　現在は逗子市だが、自治体名が見当たらないのは前年に横須賀市に編入されていたため。当時は軍事的に拠点となる自治体に対しては国が「強制合併」させることがあり、旧逗子町も海軍軍需部の倉庫、いわゆる池子の弾薬庫（現在は米軍住宅）などが存在したためか、編入が行われている。ちなみに戦後になって住民による「分離独立運動」もあり、昭和25年になってふたたび逗子町となり、同29年に市制施行した。<br>
　さて、横須賀線逗子駅の東方で交差しているのは現在の京急逗子線であるが、開通時は湘南電気鉄道といった。それが京浜電気鉄道となった翌年の昭和17年、当時の国の陸運統合政策により東京急行電鉄、いわゆる「大東急」の逗子線になった。同23年には京浜急行電鉄として再出発するが、図の修正時はいずれも大東急の頃である。<br>
　国鉄の逗子駅の右下に見えるのは現在の京急新逗子駅の前身、京浜逗子駅で、当時は「湘南逗子駅沼間口」と称した。その左下に細長く伸びている空き地は休止線で、その南端部に「湘南逗子駅葉山口」があった。沼間口とともに同じ駅の構内という扱いであったが、電車はきちんと両者に停車していたから、わずか350m程度しか離れていないけれど、事実上は２つの駅だった。葉山口が後の逗子海岸駅（昭和60年に京浜逗子駅と統合されて新逗子駅）であるが、この短区間は戦時中に「不要不急線」として運休を余儀なくされていたのである。<br>
　太平洋戦争は昭和16年（1941）末に始まったが、もともと資源の乏しい日本にあって、よほどの幸運でもない限り金属不足は当然の成り行きで、ハチ公の銅像が撤去されたことに象徴されるごとく、官民挙げた金属供出が行われ（国家総動員法に基づく金属類回収令）、昭和19年頃にはついに鉄道のレールもターゲットになった。標的は神社仏閣や温泉地などへの、比較的「観光色」の強い路線、また並行した路線があって輸送がなんとか確保される路線で、これらを「不要不急線」と認定し、休止もしくは廃止させてレールを剥がして他に転用したのである。ただしハチ公像などと違って溶かして他の用途に使うのではなく、必要不可欠な新線建設（たとえば鉄鉱石や石灰鉱山などへの路線）や重要路線の複線化といった目的のために使われた。<br>
　この湘南逗子駅沼間口〜葉山口間のレールも、横須賀線衣笠駅から南西方に位置する海軍武山海兵団への通勤線の建設に使われる計画だったというが、結局は終戦により未完のままとなっている。地形図上の白く細長い空地は、そんな戦時休止の傷痕だ。ちなみに昭和23年にはこの区間もめでたく復活を遂げたが、手続き上は京浜逗子〜逗子海岸間の新線開業であり、湘南逗子駅沼間口は湘南逗子（その後昭和38年に京浜逗子と改称）、葉山口は逗子海岸という別々の駅になった。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_25b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_25bs.jpg" border="0"></a><br>
図２　1:50,000「八王子」昭和20年部分修正</div>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_25c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_25cs.jpg" border="0"></a><br>
図３　1:50,000「八王子」昭和23年資料修正</div>

<p style="line-height: 200%;">　図２は八王子市街の西方であるが、右端で中央本線を跨いでいるのは京王御陵線である。今はなき路線だが、大正天皇の陵墓である多摩御陵へ参拝する乗客の便を図るために昭和６年(1931)に開業した路線で、当時は京王電気軌道が運行したが、先ほどの湘南電気鉄道と同様、昭和19年に陸運統合で大東急の一部になっている。天皇陵への路線だから「不要不急」に認定しにくかったのか、休止されたのは昭和20年１月のことである。図２は同年の部分修正だが、休止は反映されなかったようだ。<br>
　ついでながら、中央本線にも御陵参拝のための駅はあった。ただし皇室専用で一般客は利用できず、もちろん一般の列車は停車しないので地形図にも表示がないのだが、京王御陵線が交差する地点の左に記された甲州街道の「道」の字の下にある、短い線路が分岐したところが東浅川仮駅であり、その駅前から御陵へ向かう道も描かれている。<br>
　もうひとつ「不要不急」で休止となったのが高尾山のケーブルカーで、これは浅川駅（現高尾駅）から南西へ谷を遡ったところにある清滝駅から高尾山駅までの「高尾索道」がそれだ。「索道」は現在ではロープウェイを指し、昭和２年（1927）に開通した当時の名称も「高尾登山鉄道」という鋼索鉄道であるが、それを索道と略称したのだろうか。こちらも昭和19年（1944）２月に休止となったが、やはり図２には反映されていない。ちなみに途中駅が描かれているが、ちょうどすれ違い地点に設けられた琵琶滝駅で、今はない。ケーブルの復活は昭和24年（1949）のことであった。<br>
　日本のケーブルカーは大正末から昭和の初めにかけて開通したものが多くを占めているが、やはりその性格上たいてい「観光登山用」であったため、戦時中はその大半が休止・廃止に追い込まれた。復活したものも多いが、中には日本最急勾配を誇った伊勢の朝熊山（朝熊登山鉄道）や京都・愛宕山のケーブル（愛宕山鉄道）など、再び走ることが叶わなかったものもある。<br>
　図３は昭和23年（1948）の資料修正で、いずれも休止中なので御陵線、高尾山のケーブルはともに線が消されている。両線ともに線の痕跡はほとんど認められないが、よく見ると御陵線が中央本線を跨いでいた地点付近の「よこやま」の平仮名。どうやら担当者が横山駅の駅名表記を消し忘れたようで、図らずもここに鉄道があったことを静かに語っている。<br>
　ちなみに御陵線は一部区間で復活を果たした。北野〜山田間（地図の範囲外）がそれで、そこから西へ新線を延ばし、高尾駅を経て高尾山口までが昭和42年（1967）に開通。京王高尾線として生まれ変わったのである。御陵参拝をひと休みしてから高尾登山へ。電車の行き先も時代と無縁ではない。</p>]]>

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<title>第24回　台湾の地図に点在する警官駐在所</title>
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<modified>2010-06-25T03:10:50Z</modified>
<issued>2010-06-25T03:00:00Z</issued>
<id>tag:www.hakusuisha.co.jp,2010:/essay//6.2122</id>
<created>2010-06-25T03:00:00Z</created>
<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 図１　1:200,000帝国図「台北」昭和9年製版　大日本...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map3.html"><img alt="地図から見た戦争" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2009/06/post_89.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_24a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_24as.jpg" border="0"></a><br>
図１　1:200,000帝国図「台北」昭和9年製版　大日本帝国陸地測量部<br>
<span class="text_s_gray">地図はすべてクリックすると拡大します</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　現在の台北の国際空港は西郊の桃園市にある。都心から西へ直線距離で25kmほど離れているが、もちろん成田に比べれば半分程度である。図はその桃園市から南へ約30kmほど行った山の中であるが、深い峡谷を成して曲流するのは淡水河の上流部だ。<br>
　淡水河といえば台北市の西側を滔々と流れる堂々たる大河で、河口の淡水あたりでは川幅が1.5kmほどもあって対岸が霞むほど。台湾の面積は九州と同じくらいだが、ちょうどまん中を北回帰線が通っており、これより南は熱帯である。全般的に降水量は多く、富士山を上回る高さの玉山（3,950m、戦前の新高山）をはじめとする広い山岳地帯から駆け下る急流が山を刻み、険しい地形を作った。図は日本が台湾を領有していた頃の20万分の1帝国図（地勢図）であり、測量や地図作りは日本の国土地理院の前身である大日本帝国陸地測量部が担当していたのは言うまでもない。<br>
　図を一瞥するとバロン社、ソロ社、ブトノカン社、といった集落名と思われるカタカナの記載が目立つが、何よりも右上に大きな字で記された「蕃地」の文字が生々しい。蕃の字は「未開の異民族」を意味し、平たく言えば「未開人の住む所」だ。おそらく今の日本では「放送禁止用語」ではないだろうか。この蕃地に住む人々を日本人は昭和10年（1935）から「高砂族」と呼ぶようになったが、17世紀頃に対岸の中国・福建あたりから漢人が移住してくる以前からの先住民である。<br>
　彼らはマレー・ポリネシア系の言語をもつ多くの部族に分かれているが、平地に住む部族から徐々に漢民族と同化された。これを「熟蕃」という。それに対して山の中で伝統的な生活習慣を守る人々を「生蕃」と区別していた。日清戦争以降に新たな台湾の支配者になった大日本帝国としては、「生蕃」を日本人として同化させることに力を入れた。どの国の植民地でも見られるように、おとなしく従えば保護するが、反抗すれば厳罰に処す、というやり方で、そのアメとムチは歴代台湾総督によって温度差はあれ、巧妙に使い分けられていた。<br>
　彼らの居住地は州には所属しているものの、漢人や「熟蕃」の住む行政区である街庄（町村）には属さない「蕃地」として線引きされていた。しかもそこには首長がいて役場があり、という一般の行政システムを導入せず、教育や行政事務のあれこれを、蕃地のあちこちに点々と派遣される警官（巡査）に一手に担わせたのである。彼らは子供たちにとって、日本語で各教科を教える「蕃童教育所の先生」であった。大日本帝国の植民地支配機構は、このように極端に人手を省いた簡易行政システムを用いて、どんなに山奥でも「天皇陛下の万世一系」を説き、「忠良なる帝国臣民」を育てていったのである。<br>
　この図の狭い範囲内にもララ山警官駐在所、ピヤサン警官駐在所、稜角警官駐在所、泰平警官駐在所、バットル警官駐在所などの文字が見えるが、これらがその拠点である。同じ×印の地図記号ではあっても、その意味するところは日本国内での警察署や駐在所とは異なっていた。<br>
　そんな政策が軌道に乗ってきたかに見えた昭和5年（1930）に起こった「霧社事件」は総督府に大きな衝撃を与え、蕃地政策の見直しを迫るものとなった。事件の背景には原住民<span class="text_s_gray">（＊）</span>文化を尊重しない「生活指導」があり、ある警察官がマヘボ社のリーダーを侮辱したことをきっかけに「蜂起」に膨れ上がり、多くの日本人が殺害されたものだ。もちろん総督府は直ちに陸軍部隊を派遣、タイヤル族は必死の抵抗もむなしく、日本人の数倍に上る人数が殺害された。<br>
　有名な原住民弾圧事件であるが、常に「駐在所」周辺が緊迫していたかといえば、そうでもないらしい。酒井充子さんが現地の人たちへの聞き取りをもとに構成した著作『台湾人生』（2010年文藝春秋刊）では、パイワン族の原住民であるタリグ・プジャズヤンさんによる次の言葉を書き留めている。<br>
　「日本人の警察は、原住民と同じような生活をして、原住民を嫌わないで、原住民風な身なりをして暮らしていた。そこまでやったんですよ。だから、親しまれたんですね。でも、原住民と警察の関係が良くないところもあった。霧社がそうだったんですね」<br>
　5万分の1地形図だともっと迫力があるが、これほどの山の奥にぽつんと一軒ある駐在所に日本人巡査が赴任して、日本風の生活を固守することなど到底不可能だろう。そうなると、どうしても「蕃地」の住民の助けを借りなければならないこともあるだろう。そうすれば普通は仲良くなる。戦前の警官はみんなオイコラと威張っていた、などという紋切り型の理解では歴史はわからない。かといって「台湾人はみんな親日的」などと無邪気に思い込むのはもっと愚かであるが。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_24b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map3/map3_24bs.jpg" border="0"></a><br>
図２　左：台湾仮製20万分１「台北」明治30年輯製　右：20万分１帝国図「台北」昭和9年製版</div>

<p style="line-height: 200%;">　次の２つの図は、左のモノクロが明治30年（1897）輯製、右は図１と同じ図だから昭和9年（1934）製版である。現在の桃園国際空港の南、桃園から淡水河の南に位置する三峡にかけての同じ地域だが、よく見比べると地名が変わっている。桃園は左図では桃仔園、三峡も三角湧といった。<br>
　実はこの地名変更、大正9年（1920）に台湾総督府令第47・48号によって台湾全土で一斉に実施された「上からの改称」で、現地固有の日本人にとって難しい漢字を簡単なものに改めた。もともとは原住民固有の言語から成る地名の音に漢字を当てたものが多かったのだが、これらを難解だとして、要するに日本人が読みやすく、呼びやすい地名に変えてしまったのである。これほど大規模に地名を同時改称したのは、世界的に見ても珍しいのではないだろうか。<br>
　この時の改称で最も有名なのが打狗から高雄への改称だろう。打狗はもともと「竹林」を意味するマカタウ族の「タアカウ」という地名で、これに漢人が「打狗」の字を当てたものだが、犬を叩く意味をもつ用字は地名としてふさわしくない、ということから、タカオにいかにも日本語らしい「高雄」を当てた。戦後も現地読みでカオシュンと呼ばれながら続いている。<br>
　北回帰線のすぐ近くには打猫（台湾語読みでターニャオ、北京語でターミャオ）という地名もあったが、これも猫を叩くのではなく「民雄（たみお）」とされた。こちらも現在ミンションと呼ばれているので、途中に日本語が介在していることを知らなければ、なぜこの改称なのか理解できない。<br>
　台湾を貫く縦貫線の駅名だけでも、この大正9年10月1日に改称された駅は非常に多く、水返脚（すいへんきゃく）→汐止（しおどめ）、錫口（しゃくこう）→松山（まつやま）、田中央（でんちゅうおう）→田中（たなか）、湾裡（わんり）→善化（ぜんか）、阿公店（あこうてん）→岡山（おかやま）など30カ所以上に及んでいる。<br>
　これらの地名は現在、そのまま台湾語読みで使われているものもあれば、元に戻ったものもある。ちなみに冒頭にご紹介した原住民の言語をカタカナ地名にしたものを現在の地図で調べてみると、バロン社は巴陵、ソロ社は蘇楽、ブトノカン社は武道能敢、ララ山は拉拉山であった。少なくとも原住民の付けた地名の「音」は保たれているようだ。<br>
<br>
<span class="text_s_gray">＊「原住民」の用語について。日本では差別的語感もあり、一般に「先住民」と表現しますが、台湾で「先住民」といえば「以前は住んでいたが今はいない」というニュアンスがあり、公式に「原住民」が用いられていますので、本稿でもそれに従いました。</span></p>]]>

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<title>青柳いづみこ「ピアニストの読書術〜クセジュで読み解くドビュッシー」</title>
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<modified>2010-06-15T02:06:55Z</modified>
<issued>2010-06-15T01:46:43Z</issued>
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<created>2010-06-15T01:46:43Z</created>
<summary type="text/plain">　白水社の書籍の読者も、そして書き手も、きっと教養溢れる方々だろう。知識も話題も...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>特別寄稿</dc:subject>
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<![CDATA[<p style="line-height: 200%;">　白水社の書籍の読者も、そして書き手も、きっと教養溢れる方々だろう。知識も話題も豊富、学問の体系もきっちりおさえた上で縦横無尽な議論を展開させる。<br>
　その点で、私たち音楽家はとても弱いのだ。とくに日本の演奏家は。<br>
　ヨーロッパでは音楽学校は各種学校扱いである。中・高は一般の教育機関に通うし、大学も音楽とは別に登録する。でも、日本の音高・音大は一般科目も履修するシステムなので、かえって具合が悪い。専門分野や楽器の実技習得に精を出しすぎて、一般教養は手を抜きまくりだからだ。<br>
　私が通った芸大付属高校というのは白水社と同じお茶の水にある。というか、以前はあった。芸大の前身である東京音楽学校のお茶の水分教場の校舎を転用したらしい。授業は午前中だけ。科目はいちおうそろっているが、数学の授業なんてチンプンカンプン。先生もあきらめていて、「今度の試験には教科書のこの問題とこの問題が出ますよ、さあ皆さん数式と答を書きましょう」てな具合。試験のときは教室中を教科書が回っていて、先生は見て見ぬふり。それでも半分しかとれなかったのだから、いったいどういう頭なんだろう。<br>
　芸大の入試は国語・算数・社会の3枚で合計100点をとればよいと言われていた。社会の設問は「ヘレニズム文化について書け」というもので、白紙で出したおぼえがある。<br>
　そんな教養欠落者が曲がりなりにもドビュッシーで博士ロンブンなるものを書いたのだから、文庫クセジュにはすこぶる恩恵を被っている。<br>
　たとえば、ジョルジュ・ブルジャン『パリ・コミューン』。1870年に勃発した普仏戦争がドビュッシーの人生を大きく変えた。パリ包囲で職を失った父親は、蜂起に際してコミューン側の兵士として戦い、イッシー砦で捕らえられたと伝記には書いてある。政治音痴の私としては、さっそく本書を買いに本屋さんに走ったものだ。<br>
　そして、モーリス・セリュラス『印象派』。ドビュッシーは一般的に印象派音楽の創始者と言われているものの、どうも違うなぁというのが私の直感だったのだが、読んでみたらルノワールもルドンも、そして本家本元のモネ自身も、「私は印象派なんつーもんじゃない」と怒っていたのでおもしろかった。<br>
　怒っているのはドビュッシーだって同じだ。彼はグロテスクの美が好みで、モネではなくモローの絵、ルドンやゴヤの版画も大好きだったし、Ｅ.Ｔ.Ａ.ホフマンやエドガー・ポーの怪奇小説も愛読し、ポーではオペラ化も考えたほどだから、幻想文学と美術を総括したルイ・ヴァックス『幻想の美学』は座右の書となった。<br>
　お勉強が中学どまりでは当然フランス文学史についての基礎知識も皆無。ドビュッシーはマラルメの火曜会に出席した唯一の音楽家で、周辺の文士たちとも交流があったし、象徴派の機関紙も定期講読し、大詩人からマイナー詩人まで、あらゆるテクストにもとづく歌曲を作曲しているので、ルネ・ラルウ『フランス詩の歩み』やアルベール＝マリ・シュミット『象徴主義』にはホント、お世話になった。<br>
　しかし、一番お世話になったのは、一連のオカルト関係書だろう。クセジュはこの分野が「とても」充実しているのだ！　何しろドビュッシーは19世紀末のオカルト雑誌を定期講読し、オカルティストのたまり場「独立芸術書房」に入り浸り、店主からヘルメス学に精通しているとお墨付きをもらったり、テンプル騎士団に派生した「シオンの修道院派」という秘密結社の親玉だという説もあるぐらいだから、セルジュ・ユタン『秘密結社』『錬金術』、リュック・ブノワ『秘儀伝授 —エゾテリスムの世界』、ポール・クーデール『占星術』などを読みあさって基本的な知識を得た。<br>
　そしてもちろん、クセジュの音楽部門も。ドビュッシーはパレストリーナやラッススなどルネサンスの音楽、クープランやラモーなど18世紀ロココの音楽を深く愛して作曲のよりどころとした。彼が教会旋法をアレンジして編み出したさまざまな旋法は、20世紀音楽に多大な影響を及ぼしている。そんなわけで、パイヤール『フランス古典音楽』やオリヴィエ・アラン『和声の歴史』にも虎の巻として大活躍してもらった。<br>
　ざっとこんなふうに、文庫クセジュがなかったら、私はドビュッシー屋として初めの一歩すら踏み出すことができなかったに違いない。</p>

<p><span class="text_s_gray">▼（あおやぎ・いづみこ）ピアニスト・文筆家。演奏と執筆を両立させる希有な存在。これまでに7枚のCDが『レコード芸術』誌で特選盤となるほか、<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=72093">『翼のはえた指　評伝安川加壽子』</a>で吉田秀和賞、『青柳瑞穂の生涯』で日本エッセイスト・クラブ賞、『六本指のゴルトベルク』で講談社エッセイ賞を受賞。</span></p>]]>

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