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<title>連載・エッセイ</title>
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<title>■羅芳との出会い</title>
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<summary type="text/plain"> 　日本メディアの北京特派員にとって醍醐味はなんと言っても、秘密のベールで包まれ...</summary>
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<dc:subject>城山英巳「中国を読む」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/shiroyama.html"><img alt="中国を読む" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/shiroyama_title.jpg" border="0"></a></p>

<p style="line-height: 200%;">　日本メディアの北京特派員にとって醍醐味はなんと言っても、秘密のベールで包まれた中国共産党の内側をのぞき、暴くことだ。その中でも、５年に１回の共産党大会で決まる指導部の人事情報をつかむことが最大級の仕事になる。
　私も前回赴任（2002年6月〜07年10月）で２回の党大会取材を経験し、それに全力投球してきた。しかし今回の北京勤務ではどうも共産党の動向にさほど興味を持っていない。その理由は、前回勤務の最後に、河南省のエイズ問題を取材したからだ。共産党よりも、一党独裁体制下で抑圧されている庶民の実態により大きな関心を持つようになった。<br>
　河南省に羅芳という30代の目の不自由な女性がいる。若い頃、人民解放軍兵士と結婚したが、体調が良くないため解放軍部隊の病院で輸血を受ける。河南省の貧しい農村では1990年代末をピークに農民は血を売って生計を立てており、部隊の病院はＨＩＶに感染した安い血を高値で輸血していた。羅は最初、まさか自分がその血で感染したとは知らずに出産したが、産まれた赤ちゃんは１回も泣き声を上げることなく４日後に命絶えた。夫とも離婚。エイズが原因で光まで失った。中国社会の悲劇が凝縮された人生と言えた。<br>
　しかし羅芳は、軍部隊病院を相手に提訴を決断する。国家権力を相手にして勝訴は絶望的と思われたが、一審は勝訴。部隊病院は控訴したが、結局、08年の北京五輪を前に和解となり、羅は和解金を手に入れた。パラリンピックが開かれる北京に羅が抗議に行くことを共産党は恐れたのだった。<br>
　私は11年8月、北京に再赴任し、羅に連絡したら、「宝宝（赤ちゃん）が産まれた。今５カ月なの」と教えてくれた。その２カ月後、河南省を訪れたら、優しい旦那さんと元気な赤ちゃんに囲まれた羅の笑顔があった。「私がマッサージに行ったら、その時にマッサージしてくれたのが彼なの」と打ち明けた。<br>
　羅は台湾のＮＧＯの支援を得て、エイズで両親が亡くなったり、親から捨てられたりした子供のために孤児院を運営し、３カ月から13歳まで計35人の世話をしている。失明しても何事にも屈しない羅や、ＨＩＶに感染した子供を見て、共産党の裏側を取材しなければならないと改めて痛感した。</p>]]>

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<title>（四）「交代する」</title>
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<modified>2012-01-31T02:23:01Z</modified>
<issued>2012-01-31T02:22:20Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 　サッカーの試合を観ていると、途中で交代させられる選手がいる。監督の思惑も、選...</summary>
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<dc:subject>小池昌代「山姥の辞書」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/koike.html"><img alt="山姥の辞書" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/koike_title.jpg" border="0"></a></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　サッカーの試合を観ていると、途中で交代させられる選手がいる。監督の思惑も、選手の本音も、正確にはわからない。けれど下がる選手は、腐らず爽やかに、参入する選手の身体のどこかを、ぽんぽんとタッチして去る。あとは頼んだぜ。彼を迎え入れるのはベンチの人々だ。よくやった。活躍をねぎらい、こちらもぱんぱんと身体に触る。すると彼は、あっという間にオーラを落とし、ベンチへ溶け込み、応援する側へ。<br>
　わたしたちは、下がった選手に必要以上の同情を寄せない。彼のことをすぐに忘れ、観戦に熱中する。大事なのはチームの勝利。選手交代はチームという生き物がいきいきと呼吸するための細胞の新陳代謝なのだ。こうした交代劇には、観ていて目に心地よいリズムがあり、それで試合の流れが変わることも。<br>
　このあいだ、わたしは初めて、息子の所属するサッカーチームの応援に行った。途中で子供が下げられたので、そのときだけは試合よりベンチのほうがちょっと気になった。どんな気分でいるのかな。しかし気をもむのは親ばかりで、当人は応援に声を張り上げ、休憩時間に戻ってきた正選手たちに、飲物のボトルを投げてやったり。なんだ、いいヤツやってるじゃん。わたしはほっとした。そして思った。なるほど「交代」は、組織の新陳代謝のみならず、一人の人間にとっても、新陳代謝（成長）の機会になり得るのだなあと。<br>
　出突っ張りのスター選手にも苦しみはあろうが、わたし自身は、自分がそうだったからという理由で、下げられた選手のほうに感情移入しやすい。たとえば小学生のときのこんな思い出。わたしはハードルが得意で、学校の代表選手に選ばれた。なのに区大会当日、「補欠」を言い渡され、結局、ベンチをあたためることに。ついに出番はなく、一日が終わった。春なのに、太陽が照りつける夏のような日だった。<br>
　友人らがタイムを競いあうなか、わたしは誰からも忘れられ、膝を抱えていたが、誰だったか（それが誰であったか、どうしても思い出せないのだが）、あ、今日は控えなんだね、と声をかけてくれた。うん、と答えて狼狽した。そのときわたしは、自分を透明人間のように感じていたから、見える人もいるのかと驚きだった。身の置きどころが違うだけで、世界がこれほど違って見えるのかと、そのことにもまた衝撃があった。空は青く綺麗だった。あの一日のことは忘れられない。<br>
　現実社会においても、様々なところで交代要請劇が繰り広げられている。スポーツ選手のように爽やかにいかないのは、即、古いほうの引退を意味するから。力は込めるより抜くほうが、しがみつくより離れるほうが、うんと難しいのは誰でも知っている。半世紀以上を生きた人々は（わたし自身もそうだが）、ささやかなものであれ、既得特権を自己検証するべきかもしれない。蜂の唸り声のような、後続世代の苛立ちが聞こえないか。</p>]]>

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<title>第９回　児島康宏【グルジア語】</title>
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<modified>2012-01-31T02:19:49Z</modified>
<issued>2012-01-31T02:18:22Z</issued>
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<summary type="text/plain"> アイスクリーム店の手書きのメニュー 【主な使用地域】グルジア 【話者数】およそ...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>ことば紀行</dc:subject>
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<![CDATA[<div align="center"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/kotobakikou.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/kotobakikou/kotobakikou_title.jpg" alt="ことば紀行" border="0"></a>

<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/kotobakikou/kotobakikou09.jpg"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/kotobakikou/kotobakikou09s.jpg"></a><br><span text="text_s_gray">アイスクリーム店の手書きのメニュー</span></div></p>

<div class="plainbox">【主な使用地域】グルジア<br>
【話者数】およそ500万人<br>
【使用文字】グルジア文字<br>
【あいさつしてみよう】<img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/kotobakikou/kotobakikou09b.jpg"> gamarjoba!（ガマルジョバ）「こんにちは」</div>	

<p>　毎年4月14日は、「グルジア語の日」だ。この日グルジアでは、グルジア語に関連したシンポジウムや詩のコンテスト、民謡のコンサートなど、さまざまなイベントが催される。街中の看板などのグルジア語の間違いを集めた展覧会まで開かれたりして、なかなか楽しい一日だ。<br />
　この記念日は、1978年4月14日のできごとに由来する。当時のグルジアはソヴィエト連邦を構成する共和国の一つ。議会ではグルジアの新しい憲法が採択されようとしていたのだが、そのなかのある条項が大きな問題となった。<br><br />
　それまでの憲法にあった、「グルジア共和国の公用語はグルジア語である」という明確な規定がなくなっていたのである。その代わり、新しい憲法には、公共の場ではロシア語およびその他の言語が用いられるとだけ書かれていた。<br><br />
　そのことが明らかになると、人々は母語を守るべく立ち上がった。何千人もの人々が街頭に出て、大規模な抗議集会やデモが行なわれた。ソ連当局の方針に大衆が公然と異を唱えるのは、当時としてはきわめて異例のことである。武力によって弾圧される可能性も大いにあった。<br><br />
　当時のグルジア共産党の書記長は、後にソ連外相やグルジア大統領になったエドゥアルド・シェワルナゼ。当局との難しい交渉の末、シェワルナゼは決断する。憲法案は修正され、グルジア語の公用語としての地位は従来どおり保証されることになった。それを記念して制定されたのが「グルジア語の日」なのである。<br><br />
　グルジアの位置するカフカス地方は、交通の要衝として、古くからペルシアやアラブ、トルコ、ロシアなど数々の大国が支配してきた。グルジア語にはそれらの言語の語彙がたくさん入っている。そんな歴史のなかで、グルジアの人々は自分たちのことばをまさに命がけで守り抜いてきたのだ。<br><br />
　さて、グルジア語の日があるのならと思い立って調べてみると、ロシア語の日（6月6日）やフランス語の日（3月20日）、タイ語の日（7月29日）など、多くの国でそれぞれのことばの記念日がつくられているようだ。<br><br />
　翻って日本ではどうか。カレンダーをめくると毎日のようにいろいろな記念日が設けられているというのに、どうやら「日本語の日」はないようである。グルジア語の日の様子を眺めていると、一年に一回ぐらいは、普段なにげなく使っている日本語に思いを巡らせる日があっても悪くない、と思う。</p>

<div align="right">（東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所特任研究員）</div>]]>

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<title>第20回</title>
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<modified>2012-01-31T01:43:01Z</modified>
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<summary type="text/plain"> 　1970年代に神戸から出て６号で消えた伝説の雑誌が「ＳＵＢ」。北沢夏音『Ge...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>「愛書狂」岡崎武志</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/aisho.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/aisho_title.jpg" alt="愛書狂" border="0"></a></p>

<p>　1970年代に神戸から出て６号で消えた伝説の雑誌が「ＳＵＢ」。北沢夏音『Get back，ＳＵＢ！』（本の雑誌社）は、失われた雑誌にかかわった人々を追うノンフィクション。束も厚ければ、著者の思いも熱い本だった。「あとがき」が60ページ強！</p>

<p>　仲俣暁生『再起動せよと雑誌はいう』（京阪神エルマガジン社）は、いま出ている各種雑誌を片っ端からまな板に乗せて論評する。「冬の時代」と呼ばれる雑誌だが、どうあり続けるかを犀利な分析で問うている。</p>

<p>　『再起動せよと雑誌はいう』収録のコラムで、仲俣は「イマイチ元気がない雑誌が『本の特集』をやったら、危険なサイン」と言う。たしかに、書店や本の特集をする雑誌がこの数年目だっている。「雑誌というのは、外への世界への『窓』」だったはずなのに、内向きになるのを「危険」というのが仲俣の意見だ。</p>

<p>　62年生まれの北沢は、リアルタイムでは「ＳＵＢ」を知らない。古本屋で発見して衝撃を受け、追いかけ始めたのだ。『Get back，ＳＵＢ！』のなかで、「雑誌にとって一番大切なのはスピリットだと、ぼくは信じる」と書いている。大事なのはここだ、と線を引いた。</p>

<p>　「朝日新聞」（2011年11月23日）では、手作りによる少部数の小冊子「ＺＩＮＥ（ジン）」の流行を取り上げていた。「小さな声で伝える媒体。紙で作るところからも手紙に近い感覚」と、ＺＩＮＥ発行者の女性が発言している。小さいけれど手軽で自由。これぞ雑誌の「スピリット」ではないか。</p>]]>

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<title>岸本佐知子「イエス脳」</title>
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<modified>2012-01-31T01:37:34Z</modified>
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<summary type="text/plain">　小学校の六年間を除いて、幼稚園から大学まで、ずっとキリスト教系の学校だった。そ...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>特別寄稿</dc:subject>
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<![CDATA[<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　小学校の六年間を除いて、幼稚園から大学まで、ずっとキリスト教系の学校だった。そう言うととても信心深いように聞こえるが、幼稚園はカトリック、中高はプロテスタント、大学はまたカトリックで、信念がゼロだ。手近なところに通ったり、受験で引っかかったところに行った結果、こうなった。<br>
<img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/front/front159a.jpg" align="left">　だがカトリックでもプロテスタントでも、使う聖典は同じだった。日本聖書協会刊『聖書』。信心はなくとも、キリスト教系の学校に通っていれば、否応なしに聖書との付き合いは生じる。ことに私の通った中高一貫の女子校は、毎朝の礼拝に加えて各種行事や聖書の授業があり、このやたら分厚い書物を開く機会は多かった。<br>
　だが私たちは、不信心で俗にまみれた何も考えていない獣みたいな二十世紀の女子高生だったから、二千年も前に書かれた本の言葉は、ちっとも心に響いてこなかった。<br>
　そもそも登場する風物が古すぎて、しばしば理解不能だった。たとえば「からし種」。イエスはこの「からし種」がやたら好きで、善行を積むことの効能のたとえに「からし種を何倍にも増やす」とか言ったりするのだが、これがさっぱりイメージできない。私は鷹の爪の中にある、あの辛いつぶつぶを想像したが、それが増えてもべつに嬉しい感じはしなかった。別の友だちは鷹の爪そのものが何倍にも巨大化して真っ赤なラグビーボール大になる絵を想像して、「怖い」と言った。さらに別の友だちは黄色い練り辛子を思い描いてしまったため、「からしに種なんかないよね？」と言った。<br>
　ぶどう酒関連のたとえ話もピンと来なかった。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れれば破れてしまう」とか言われても、私たちは「へー、昔ってワインを革の袋なんかに入れてたんだ、ほほん」と鼻をほじりながら思うだけだった。天国の門は私たちに遠かった。<br>
　そういうことを差し引いても、イエスのたとえ話は釈然としないことが多かった。主人が召使を呼んでそれぞれにお金を預け、自分が旅に出ている間にしっかり保管しておくように言う。召使Ａは、その金を元手に商売をして何倍にも増やして主人に大変に褒められ、ほうびをもらう。ところが金をなくさないように大切に地面に埋めておいた召使Ｂは、主人にさんざん罵倒されたあげく追い出される。「およそ神の国とはそういうものである」。ひどいじゃないか。たしかに財産を増やせば手柄だが、逆に失敗して金を減らす危険性だってあったはずだ。そこへ行くと召使Ｂは、忠実なうえに元手も減らさなかったのに、なぜそんな目に合わされなければならないのか。無茶苦茶だ。<br>
　そもそもイエスの父であるところの神というのが無茶苦茶だった。ことに旧約聖書における神の無茶苦茶さは目に余るものがあった。何か気に入らないことがあるとすぐに洪水を起こしたり硫黄の雨を降らせたりするし、自分を心から信心する敬虔な善人に「お前の子供を生贄によこせ」とか言うし、約束を破った人間を塩の柱に変えるし、そのくせ自分は滅ぼさないと約束した町を平気で滅ぼすし。こんなのが父親だったら人類は当然ぐれる。<br>
　神も無茶だが王も無茶だった。たとえばヘロデ王。自分より偉い王が生まれたというお告げにびびって、国じゅうの幼児を皆殺しにした。ネブカドネザル王はもっとひどい。黄金の像を造らせ、「音楽が鳴ったらこの像の前にひれ伏さねばならない」と訳のわからぬお触れを出して、従わない者を炉に放り込んだ。悪夢を見たと言って国じゅうの賢者を呼び集めておきながら、「私の見た夢の解釈をしろ。ただし夢そのものは教えてやらん。お前ら当ててみろ」と無茶を言い、当てないと切り刻むと脅した（結局どちらの時も神にぎゃふんと言わされ、土下座して謝った）。ネブカドネザルは名前が可愛いので世界史で好きになったが、聖書を読んで嫌いになった。<br>
　だが民も民だった。神の使い二人がロトの家に宿泊していると、町の人々が家を大勢で取り囲んで「そいつらとヤらせろ」と迫る。ロトは代わりに自分の生娘二人を差し出そうとするが（それもひどい話だ）、「俺らは男とヤりたいんだ」と申し出を拒否。町はキレた神によって滅ぼされ、ロトと娘二人は命からがら逃げ出すが、娘たちは父親を酒で酔わせて犯し、父親の子をぼこぼこ産む。<img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/front/front159b.jpg" align="right"><br>
　でも二十世紀罰当たり女子高生の私たちは、そんな無茶で理解不能な聖書をけっこう面白がった。理解不能だからよけいに面白かった。何も考えずイエスの教えも受け取らないまま、「長血を患う」とか「遊女」とか「屠る」「地にこぼつ」「没薬」などの不思議な言葉を愛した。冗談を言ったあと、「聞く耳のある者は聞くがよい」と締めくくった。「廊下に二百デナリ落とした人ー」などと言った。「黙示録」をシュールなＳＦとして楽しんだ。聖書の中から「乳房」とか「肉の悦び」などの言葉を見つけてきては興奮した。イエスが生まれるまで父ヨセフは母マリアを「知る」ことをしなかった、という一節を読んで、「エロい！」とまた興奮した。何度でも言うが、天国の門は私たちに遠かった。<br>
　あれから数十年が過ぎ、私は俗世にまみれた何も考えない二十一世紀の中年になった。キリスト教徒にはならなかったし聖書のことももう考えない。それでも奇妙な分厚い書物の記憶は脳内深くに刻まれていて、今日もネットで服を買おうかどうしようか悩んでいたら、イエスがひょっこり顔を覗かせ、「着るもののことで思い煩ってはならない」と言って、すたこら逃げていった。<br>
<span class="text_s_gray">◇きしもと・さちこ＝一九六〇年生まれ。翻訳家。訳書に、Ｌ・デイヴィス『話の終わり』『ほとんど記憶のない女』、Ｍ・ジュライ『いちばんここに似合う人』、Ｎ・ベイカー『中二階』他多数。著書に、『気になる部分』、『ねにもつタイプ』（講談社エッセイ賞）がある。</span></p>]]>

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<title>第18回　「苫屋の煙」たなびく漁村から350万都市へ ─ 横浜</title>
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<modified>2012-01-27T04:00:03Z</modified>
<issued>2012-01-27T03:00:41Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール ●森林太郎 ─ 鷗外作詞の横浜市歌 　横浜で小学生時代を過...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「日本を定点観測する」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map4.html"><img alt="日本を定点観測する" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/04/27/1000.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●森林太郎 ─ 鷗外作詞の横浜市歌</font><br>
　横浜で小学生時代を過ごした筆者は、森林太郎という名前をその頃に覚えた。40年ほど前の横浜市立小学校では、行事があると必ず歌った「横浜市歌」の作詞者だからである。作家・森鷗外としての作品を読んだのは、その後しばらく経ってからであった。物覚えの良い小学生は、文語体の歌詞で意味などわからなくても、誰もが丸覚えしてしまう。<br>
　歌詞の一節には「むかし思えば　とま屋の烟（けむり）　ちらりほらりと　立てりしところ」「今はもも舟　もも千舟（ちふね）」というのがあった。おそらく先生が解説してくれたのだと思うが、江戸末期までは鄙びた漁村で、浜辺の漁家の竈から烟が立ち上っていたのだが、開港してからは大いに発展して世界各国からの船で賑わうようになったと聞いて、郷土・横浜を誇りに思ったものである。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18as.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図１　1:20,000「横浜区」明治24年更改出版</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　明治24年（1891）といえば、安政6年（1859）の開港の年に生まれた人は数え10歳で維新を迎え、14歳で「陸蒸気」を目撃している。この図が出た頃には自分の子供にそれを話して聴かせる33歳のお父さんだったりするわけだから、まだまだ幕末の空気は薄れず各所に残っていたに違いない。<br>
　上端の海に突き出した神奈川砲台は、勝海舟の設計により伊予松山藩が築いたもので、開港翌年に完成した。図の時点でもまだその原形を保っている。記された「神奈川駅」の文字は今でいう鉄道駅ではなくて宿場のことだ。当時の駅は停車場もしくはステーション、訛ってステン所などと呼ばれており、駅が鉄道駅を意味するようになるのは、おおむね大正期に入ってからのことである。神奈川の宿場の家並みを抜けた東海道は内湾となった平沼の岸沿いに西へ向かっているが、その東海道をくぐったすぐ南西側に「停車場」とあるのが神奈川停車場。今の横浜駅より少し東京寄りに位置していた。<br>
　それより南は海を埋め立てた土地の上に線路が緩いカーブを描いている。線路の東側には、一帯の埋め立てを進めた高島嘉右衛門の名を記念した高島町が沿っており、埋立地にはかつての内湾（平沼）に通じる3か所の水路が切ってあった。それぞれの水路に架かるのは北側から月見橋、万里橋、富士見橋。遮る建物などまったくないから、夕暮れ時の汽車の窓から西側を眺めれば、平沼の水面の向こう、蘆荻の遙か彼方には日没前の富嶽のシルエット。それは見事なものだっただろう。<br>
　富士見橋の南側で西から合流してくる単線は程ヶ谷（現保土ヶ谷）を経て名古屋、大阪方面へ通じる鉄道（後の東海道本線）である。当初は東京〜大阪間を結ぶ鉄道の経路は東海道と中山道のどちらかが決まっておらず、結果的には横浜駅と程ヶ谷、戸塚方面をシンプルな線形で結んだため、横浜駅はご覧の通りスイッチバックの線形となった。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18bs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図２　1:20,000「神奈川」明治41年鉄道補入＋「横浜」明治39年測図</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　図１から15年程度しか経っていないのに、だいぶ埋立地が増えた。湾口には長い防波堤（掲載範囲外）も完成して国際貿易港としての体裁を着実に整えつつある。図１で広大な空地だった横浜駅東側の埋立地には横浜船渠会社、後の三菱重工業横浜造船所が進出した。海に向かって楕円形のような形の中を「煉瓦敷き」のように描かれているのがドックの地図記号だ。図１では空地の目立った高島町もだいぶ建物で埋まり、その中に見える発電所や工場の記号がなかなか興味深い。月見橋の南に２つ続いている、工場記号から煙が出たような記号は鋳造所、その下のは煙突記号と一緒だから火力発電所。万里橋の南側には普通の工場があり、その南に見える手鉤（フック）をイメージした記号は倉庫だ。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●「横浜スイッチバック」の解消と横浜駅の移転</font><br>
　東京〜神戸間の現東海道本線が全通したのは明治22年（1889）のことであるが、当初は図１の通りスイッチバックが必要なため、横浜駅で機関車を付け替えていた。しかし明治27年（1894）に勃発した日清戦争で迅速な兵員輸送の必要が生じてスイッチバックの解消が求められ、軍事予算で短絡線を建設した。これが現在に続く本線であるが、図２の当時は線路が三角形を成しており、普通列車は従来通り横浜へ立ち寄ってスイッチバック、急行列車と一部の長距離普通列車に限って短絡線を経由することになった。急行は程ヶ谷に停車し、横浜駅からはその急行に連絡する程ヶ谷行きの区間列車を走らせている。<br>
　明治34年（1901）には「三角地帯」の一辺に平沼駅が開業した。場所は現在の相模鉄道平沼橋駅あたりで、横浜旧市街に少しでも近い場所に、という配慮のようだ。しかし都心部までは2キロほどもあり、市電もない頃なので人力車か徒歩しかなかった。平沼駅ができると、急行列車は程ヶ谷の代わりに平沼に停車するようになったが、何かと不便なので大正4年（1915）8月15日には２代目の横浜駅が現在の地下鉄高島町駅付近に建設され、東海道本線の線路もそちらに立ち寄る形となった。初代の横浜駅は、この時に桜木町と改称されている。<br>
　2代目横浜駅は存在していた期間が短いため写真があまり残っていないが、横浜都市発展記念館のホームページに赤煉瓦らしい壁面をもつ瀟洒な印象の駅舎の写真が載っている。同館の<a href="http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/news.html" target="_blank">「掘り出し物ニュース」</a>によれば、軟弱地盤に対応するため直径約40センチのコンクリート杭が約1.5メートル間隔で打ち込まれていたという。松杭が主流だった当時では、きわめて早期のコンクリート杭の使用事例とのことだ。<br>
　横浜市電の前身である横浜電気鉄道が神奈川停車場前〜大江橋（桜木町駅前）間に開業するのは明治37年（1904）であるが、なぜか明治39年測図のこの図に載っていない。翌38年には京浜電気鉄道が川崎（現京急川崎）〜神奈川停車場前を開業しており、こちらの部分は「明治41年鉄道補入」なので描かれている。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18cs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図３　左から1:50,000「横浜」大正4年鉄道補描、大正11年修正、昭和7年修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　左の「大正4年鉄道補描」では同年に開業した2代目横浜駅が描かれている。東海道本線は従来の短絡線より海側へ迂回する形となり、ちょうど曲がり角の位置に横浜駅は設置された。開業前年の12月からは東海道本線に京浜電車（京浜東北線の前身）が走り始めている。初期トラブルが続出したため早々に運休、半年後に再開したのだが、京浜電気鉄道にとっては強力なライバル出現であった。神奈川駅前には京浜電気鉄道と横浜電気鉄道（後の市電）が向き合っているのがわかる。<br>
　まん中は大正11年（1922）修正で、海岸部の埋め立てがだいぶ進み、神奈川砲台の周囲も埋め立てられて見えなくなった。大正4年（1915）の時点では行き止まりだった高島貨物駅（横浜駅の海側）が延伸された形で、東海道貨物線が海沿いに描かれている。大正10年には横浜電気鉄道も市営となり、「横浜市電」がスタートした。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●関東大震災と3代目横浜駅</font><br>
　順調に発展する横浜であったが、大正12年（1923）の関東大震災では東京より建物の焼失率が高かった市街地と同様、横浜駅も大きな被害を受けた。駅舎が焼失したため仮駅舎で営業していたが、そもそも駅前広場や構内ともに横浜の都市規模にしては狭かったため、抜本的な改良をするため現在地に3代目横浜駅を昭和3年（1928）10月に完成させた。2代目は結局13年という短命に終わっている。<br>
　新しい横浜駅には同年東京横浜電鉄（現東急東横線）が5月、つまり国鉄よりひと足先に乗り入れ、その先の高島駅（後に本横浜と改称、その後は高島町駅と再改称）まで伸びた。それがちょうど2代目横浜駅の位置である。京浜電気鉄道も翌4年に新しい横浜駅（当初は仮駅）へ乗り入れ、神中鉄道（現相模鉄道）は左下の西横浜駅まで迫っている。右端は昭和7年修正版であるが、6年末に開業したばかりの横浜〜黄金町間の京浜電気鉄道の線路は描かれていない。図の翌年にあたる昭和8年（1933）には神中鉄道が待望の横浜駅乗り入れを実現させた。この時点で横浜駅付近の鉄道網の基本はほぼ完成している。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18d.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18ds.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図４　1:10,000「神奈川」昭和23年修正＋「横浜」昭和23年修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;">　戦後3年後の横浜駅周辺である。駅の西側に何もないのは空襲で焼けたからではなく、戦前から石炭や木材の置き場として使われているに過ぎなかったから。一帯は平沼の埋立地のうち最後まで水面が残っていたところで、利便性が高いわりに市街化が遅れたのは、分厚い沖積層の軟弱地盤であったことが影響したかもしれない。<br>
　空地に描かれたハンマーのような記号は鳶口を図案化した「材料貯蓄場」である。その周囲にある工場を見ても「練炭工場」や「神奈川木工場」「水槽木管工場」など、資材置き場を必要としそうなものばかり。戦後は米軍が接収して砂利置場にしたという。東口に描かれている大きな駅舎はタイル貼りの重厚な鉄筋コンクリート建築であったが、昭和50年代の駅ビル化に伴って惜しくも取り壊された。<br>
　当時も東横、京浜、相鉄などが集まる結節点ではあったものの、現在のように大規模店が建ち並ぶようなことはなく、買い物へ行くには都心部の伊勢佐木町などへ桜木町駅から歩くか、市電を利用して出かけるしかなかったのである。さらに海側には広大なヤードが広がる高島貨物駅。ここに限らず京浜間に広がる工業地帯にはいくつもの貨物専用線が枝葉を広げるように敷設され、工場専用線がそこから無数に伸びていた。鉄道貨物がまだまだ主流だった時代である。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●今も廃墟が残る京急平沼駅</font><br>
　横浜駅の南側に見える3本（実際には4線）の線路のうち西から2番目の線は、昭和6年（1931）に開業した旧京浜電気鉄道。戦時統合で東急だった時代を経て昭和23年からは京浜急行電鉄として独立している。その線が市電を跨いだ南側には矩形の駅記号があるものの駅名は記されていない。これは平沼駅で、戦時中の昭和18年（1943）に休止、翌年に廃止された。当時は政府の節電方針により駅間距離が近い区間の駅を間引きする政策が行なわれた結果で、廃止翌年の空襲で破壊されてしまった。屋根の骨組みは撤去されたものの、今もホームの残骸が残っている。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18e.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_18es.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図５　1:10,000「新子安」＋「関内」＋「三ツ沢」＋「保土ヶ谷」各平成17年修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●ドックと倉庫街の地区から「みなとみらい」へ</font><br>
　図４から57年が経過し、東口も西口もまったく変貌した。砂利置場は駅前広場となり、高島屋や岡田屋（現横浜モアーズ）などの百貨店に姿を変えた。昨今ではデパート衰退の波を受けて横浜三越がこの図が修正された平成17年（2005）に撤退しているが、駅の周辺が高度な商業集積地区であることに変わりはない。東口といえば、昭和40年代から50年代始めにかけて、長いこと人のあまり乗り降りしない旧駅舎と、昔から横浜の駅弁で知られるシウマイの崎陽軒、あとは何があったか記憶にない。15年ほども横浜市民であったにもかかわらず、要するに東口にはほとんど行かなかったのである。東口に発着していた市電も昭和46年（1971）に廃止され、代わりにそごうやルミネなど大規模店が進出して、こちらも賑やかになった。昭和40年代の横浜駅の乗降客数の伸びは急激で、たとえば相模鉄道の沿線に住んだ筆者が幼稚園から大学生までの間（昭和40〜53年）に、電車の連結両数は2両から10両に激増している。<br>
　昭和51年（1976）には横浜市営地下鉄（現在のブルーライン）が伊勢佐木長者町から横浜まで延伸、同60年には新横浜に達した。最近では平成16年（2004）に東横線の横浜〜桜木町間が廃止され、その代わりに横浜高速鉄道（みなとみらい線）が横浜〜元町・中華街間を開業、東横線が直通するようになった。これに伴って東横線の横浜駅は地下深くに移転となり、東海道本線を跨いでいたトラス橋も姿を消した。京浜東北線（根岸線）の線路の西側に白く長く続いているのは廃線跡で、少し膨らんだ部分が高島町駅の跡地である。<br>
　みなとみらい線が通る「みなとみらい21地区」は1.86平方キロに及ぶ広大なエリアで、廃止された旧国鉄高島貨物駅や三菱重工業横浜造船所の跡地などを含む敷地の再開発地区である。昭和58年（1983）に事業を着工し、70階建ての日本最高の超高層ビル「ランドマークタワー」や、国際会議場や大規模な展示場のあるパシフィコ横浜、横浜美術館などが次々と建設された。かつてクレーンが林立する造船所と工場、それに倉庫が占める「一般人立入禁止」の感が強かったエリアはまるっきり一新し、半世紀前の面影などどこにも見当たらなくなってしまった。筆者も横浜を離れて久しぶりにここを訪れた時、まさに「浦島太郎」の気分を味わったものである。</p>

<p class="text_s_gray" style="line-height: 200%;">〈参考にしたサイト〉<br>
　横浜都市発展記念館HP「掘り出し物ニュース」<br>
　　<a href="http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/news.html" target="_blank">http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/news.html</a></p>]]>

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<title>第11回　ジャッキー・チェンの声</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2012/01/25/1650.html" />
<modified>2012-01-25T07:56:51Z</modified>
<issued>2012-01-25T07:50:57Z</issued>
<id>tag:www.hakusuisha.co.jp,2012:/essay//6.2883</id>
<created>2012-01-25T07:50:57Z</created>
<summary type="text/plain">    執筆者プロフィール 　テレビを、普段はあまり見ない。見たい番組が少ないと...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>温又柔「失われた『母国語』を求めて」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<div class="text_m"> <br>
<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/bokokugo.html"><img alt="失われた『母国語』を求めて" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bokokugo/bokokugo_title.jpg" border="0"></a><br /> 
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/09/09/1050.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　テレビを、普段はあまり見ない。見たい番組が少ないというのもあるが、どちらかといえば、見たくない番組が多いからなのかもしれない。それでも大晦日は家族で集まるとテレビを見ている。NHK紅白歌合戦は台湾でも生中継される。祖母が見たがる。いとこたちが見たがる。台湾でもみんなが「紅白（hong2 bai2）」を楽しみにしている。<br>
<br>
　　＊<br>
　　2011年12月31日第62回NHK紅白歌合戦にはジャッキー・チェンが出演していた。<br>
　ニホンノミナサン、と日本語で語りかけたあと、日本所有的朋友们你们好、と中国語に切り替えてから、コンニチハ、とジャッキーは言った。あとは中国語だった。<br>
　──今年3月、我看到日本地震灾区的画面、我心情可以说是无比的难受……<br>
　（今年3月、震災のニュースを見てこの上ない悲しい気持ちになりました……）<br>
<br>
　考えてみれば私は、台湾人の両親が「成龍　cheng2 long2」と呼ぶ香港の俳優が、日本ではジャッキー・チェンと呼ばれているのをはっきりと知る前から、『プロジェクトA』や『ポリスストーリー』の主人公が好きだった。母に言わせると「イイパー、イイパー（殴ってばっかり）」のジャッキー・チェンの映画は、子どもだった私の心を存分に弾ませた。ジャッキーの映画に夢中になったのは、私だけではない。子どもだけではない。ジャッキー・チェンは世界中を熱狂させた大スターなのだ。<br>
　そのジャッキーが言っている。<br>
　──希望我们在4月1号香港举办的那一场赈灾演唱会能够带给灾区所有朋友们一些安慰。<br>
　（4月1日に香港でチャリティーコンサートを開きました。被災地の皆さんの力になればと思います）。<br>
<br>
　同じ夜、紅白に出演したひとたちの多くも、それぞれの立場から、日本を、東北を、被災地を、応援したいという発言をしていた。しかし、彼らのメッセージとはうらはらに、彼らの言葉を聞けば聞くほど、テレビを見ている私の元気はなくなってゆく。<br>
　「歌うことで元気を届けたい」「日本を歌で元気にしたい」<br>
　こうした気持ちや発想それ自体は、何もまちがったものではない。むしろ、正しすぎるぐらい、正しい。でも、彼らの言葉が、歌が、どうしてだか心に響いてこないのだ。私には彼らが、自分たちが歌うためだけに歌っているように聞こえる。具体的なだれかを思って、ではなくて。本気で元気を届けたい、というよりも、元気を届けている自分を表現したい、という自意識のほうが上回っているように見える。それも、ゆるぎのない「正しさ」に思いきり寄り掛りながら。<br>
　震災後、「日本、がんばれ」「東北、がんばれ」といった言葉が盛んに飛び交うようになった。そのことに私は疑問を感じていた。気休めにしかならない「がんばれ」（あるいは気休めにもならない「がんばれ」）を安易な気持ちで言うのは、嫌でもがんばらざるを得ない状況に置かれたひとびとに対して、あまりにも無神経ではないか？……そうは思いつつも、被災地にいるひとびとや、放射能の影響でふるさとを離れなければならなくなったひとたちのことを思うと、思わず「がんばれ」と呟きたくなることがある。彼らのこれからが今よりもよくなるのを切に願いながら、何か言葉を、と思うとき、真っ先に浮かぶのが「がんばれ」なのである。<br>
　……ところで、そもそも、「がんばる」とは、「困難にめげないで我慢してやり抜く」という意味の言葉である。だから「がんばる」という言葉の命令形である「がんばれ」を、苦境に立つ他人に──それも自分は安全な位置にいながら、投げつけるのは、実はとても無責任なことなのだ。とはいえ、「がんばれ」という言葉ほど、自分とは直接関わりのない遠くにむかって放つのに便利な日本語もない。だからこそ震災後の日本には、「がんばれ」という言葉が蔓延するようになったのだろう。<br>
　「歌うことで元気を届けたい」「日本を歌で元気にしたい」……これらの言葉は、無責任に放たれる「がんばれ」ととてもよく似ていた。「がんばれ」という言葉が一見もっともらしいように、彼らのうたう歌はいかにもそれらしい。けれども、もっともらしさ以上の、何も感じさせない。テレビの前で白けた気持ちになる。<br>
　だからこそ、『猪苗代湖ズ』の箭内道彦さんが、司会者にマイクをむけられて、<br>
　「ぜんぜん終わっていない。悔しくてたまらない」<br>
　にこりともせずに言い放ったときはとてもショックだった。冷や水を浴びせられたような一瞬だった。震災にかかわる無責任なすべての言説に対する箭内さんの怒りを感じた。それでも、彼らのうたう『I love you & I need you ふくしま』は、怒りだけを感じさせるような歌ではなかった。力強くて、優しさにあふれる歌だった。<br>
　──I love you baby 浜通り　I need you baby 中通り<br>
　歌詞のテロップ、浜通り、という文字が胸に迫る。あの日以来、地震速報が流れるたびに目にしてきた地名である。数多くの余震の、震源地として広く知られるようになった地名。『猪苗代湖ズ』はその名を歌の中で呼びかける。<br>
　──I love you baby 浜通り……<br>
　シンプルな言葉である。ストレートな歌である。愛がある。歌うあいだじゅう、彼らの一人ひとりが福島のことを、心から思っているのがひしひしと感じられた。『猪苗代湖ズ』のメンバー全員が福島県出身であることは大きい。でもそれだけでは絶対にない。彼らは本気だった。本気で、福島から、福島のために、歌っていた。真剣だった。<br>
　「ぜんぜん終わっていない、悔しくてたまらない」<br>
　という箭内さんの言葉は、震災や放射能の影響から遠く離れた安全な位置で「がんばれ」と無責任に叫ぶことに対する痛烈な批判に聞こえた。テレビの前で目が覚める思いだった。肝心なのは、その一言がテレビで、それも年末の大舞台である紅白で放たれたことである。その当たり前の事実を、テレビで、しかも、紅白歌合戦という国民的番組で、訴えることができる人間はごく限られている。箭内さんの言葉を聞き、『I love you & I need you ふくしま』を聞き、「がんばれ」という言葉を安易に口にすることは無責任なことなのだと痛感した。テレビの前で大勢のひとがそう思ったはずだ。<br>
<br>
　＊<br>
　──我们中国、<br>
　と聞こえた瞬間どきっとして、急いで日本語字幕に目を走らせた。直訳では「私たち中国では」であるところが「中国では」となっている。消えてしまった「我们」を思いながら、私はふしぎな感慨を抱く。ジャッキー・チェンは中国語を喋る「中国人」なのだ。ジャッキーの映画は、いつも日本語吹き替え版で見ていた。だから台湾の映画館で見るジャッキー・チェンは、いつもと声がちがって、ふしぎだった。きっと台湾で育っていても私はジャッキーが好きだったと確信できる。でも、そのジャッキーは日本語を喋らない。そうなのだ。日本育ちの私は、石丸博也さんの声でないと、ジャッキーが喋っている気がしないのである。<br>
　そのジャッキー・チェンが、自分自身の声で話すのを、大晦日の夜見つめていた。<br>
　──我们中国有一句俗语叫做“寒冬过后总是春”。<br>
　（中国ではこんな言い方がある。“寒い冬のあとには必ず春がやってくる”）<br>
　──我知道、我相信你们一定能够重建更美好的家园。<br>
　（みなさんなら、もっと素晴らしい日本を再建できると信じています）<br>
　そう言うと、一呼吸おいてから、<br>
　「ニホン、ガンバッテ」<br>
　日本語を、言い添えた。<br>
　日本のために心を痛め、日本のために日本語でエールの言葉を結ぶジャッキーを見つめながら、私は、その直前にジャッキーが言っていた「你们」（あなたがた）、字幕では「みなさん」と訳されていた中国語の中に、自分も含まれていると感じた。<br>
　「ニホン、ガンバッテ」<br>
　聞きなれた石丸博也さんの声ではない。ほんもののジャッキーの声による日本語がずっしりと響く。<br>
　日本人が「がんばれ」と他人を応援するときに言うように、中国語では「加油jia1 you2」と言う。油を加える、と書いて、闘志を出す、という意味になるのだ……震災後、中国版ツイッターである「微博（wei1 bo2）」上では「日本加油」という言葉が溢れていた。日本を応援する気持ちを書き込む人が多かった。中国や台湾でも日本を応援したいと願うひとがたくさんいる。そのことは、日本人ではないけれど日本で生きている私にとっても、とても嬉しくなることだった。ところが、その中には日本に氾濫する「がんばれ」と同じようにごく軽い気持ちで何となく放たれた「加油」もあった。何語でも同じだ。言うだけなら簡単なのだ。<br>
　……日本の国民的番組に出演した「中国人」のジャッキー・チェンが、最後の一言を中国語を話すひとたちにとって言い慣れたはずの「加油」ではなく、あえて「ガンバッテ」とたどたどしい日本語で結んだとき、私は、「我們」（私たち）のことを、日本のことを、ジャッキーが心から思ってくれているのを感じた。日本語で言ったから伝わったのではない。日本語で言おうとしてくれたその気持ちが心からのものだったので伝わったのだと思う。<br>
　「がんばれ」。やりきれなさをこらえながら、何か言葉を、と思うとき真っ先に浮かんでしまうその言葉を、これからも安易に口にしてしまわないように気をつけたい。けれども、どうしてもつかいたくなったのなら、そのときは、その言葉が募るまでの心の動きをきちんと相手に感じてもらえるように言いたい。<br>
　ジャッキー・チェンの「ガンバッテ」がそうであったように。</p></div>]]>

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<title>最終回　エコール・ノルマル</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2012/01/17/1030.html" />
<modified>2012-01-18T08:27:00Z</modified>
<issued>2012-01-17T01:30:45Z</issued>
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<created>2012-01-17T01:30:45Z</created>
<summary type="text/plain"> 　2009年6月27日、私は、ニューヨークからパリに向かった。二日後に、私の博...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>村田奈々子「ギリシアの風」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/greece.html"><img alt="ギリシアの風" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece_title.jpg" border="0"></a></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　2009年6月27日、私は、ニューヨークからパリに向かった。二日後に、私の博士論文の口頭試問審査が、パリのエコール・ノルマル・シュペリユールで行なわれることになっていたからである。<br>
　日本語で高等師範学校と訳されるエコール・ノルマルは、フランスを代表する知識人を輩出した高等教育機関として知られている。哲学・思想家のジャン=ポール・サルトル、ミシェル・フーコー、文学者ロマン・ロラン、社会学者エミール・デュルケーム、ピエール・ブルデューといった、そうそうたる面々がここの卒業生に名をつらねている。<br>
　そのような伝統と格式を誇るエコール・ノルマルで、大学院での研究の集大成である博士論文の口頭試問を受けることになろうとは、私は夢にも思っていなかった。<br>
　アメリカの大学院で学んでいた私が、なぜ、フランスまで足を延ばすことになったのか。それは、私の指導教官であるキャサリン・フレミング先生が、そこにいたからである。私の所属していたニューヨーク大学に付属するヨーロッパ研究を目的とするラマルク研究所は、エコール・ノルマルと提携している。フレミング先生は、当時、ニューヨーク大学の代表としてパリに数年滞在していたのだった。<br>
　主査である指導教官と副査二名の先生の都合、そして私がアメリカに滞在できる残された日数を考慮した結果、パリに集合するのが一番いいだろうということになった。私の旅費は、大学側がすべて負担してくれた。リーマン・ショックの影響は、アメリカの高等教育機関にも徐々に及んでいたが、私はぎりぎりのところで、大学の潤沢な資金の恩恵に与った。<br>
　27日の早朝、シャルル・ド・ゴール空港に降り立った私は、バスでオペラ座前までいき、カフェで一息ついた。私にはフランス語を使ってみる心の余裕すらあった。その後、ホテルにチェック・インし、エコール・ノルマルの場所を確認しようと、地図を片手に出かけることにした。パリは、それまで何度か訪れたことがあった。ただし、いつも誰かと一緒で、ひとりでパリを歩くのは初めての経験だった。やがてウルム通りのエコール・ノルマルの門の前に到着した。よしよし、これで場所は大丈夫。門には守衛がいて、自由に出入りはできない様子だった。</p>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10f.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10fs.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">セーヌ川</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　私はそのままパリの街をあてもなく散歩した。セーヌ川の流れをぼんやり眺めながら、なんとも不思議な気持ちに襲われた。近代ギリシア史を研究している日本人が、アメリカで学ぶために太平洋を渡り、そして今、大西洋を越えてフランスにいる。これって一体、どういうことなんだろう…。これだけの環境に恵まれた自分は幸せなのか、それとも、ずいぶん遠回りをしたおバカさんなのか。いずれにしても、口頭試問が無事に終わったら、シャンゼリゼ通りの真ん中を、歌い踊りながら通り抜けてやる、なんて考えていた。シャンゼリゼ通りは、7月のパリ祭に向けて、観客席の準備が進んでいる最中だった。<br>
　パリ到着の2日目になると、前日までの余裕のある気持ちは消え失せて、さすがに緊張しはじめた。食べ物が喉を通らなくなった。論文を読み直しても、何も頭に入らない。アメリカの大学では、博士論文の口頭試問のことを「ディフェンス」という。つまり「防衛」だ。私の論文に対する審査員からの「攻撃」にたいして、有効に「防衛」しなくてはならない。いかにもアメリカ的な発想からくる表現だと思う。極度の緊張の中で、自分の論文を守ることができるのか。母語でない、英語という外国語で応答しなくてはならないことに、私は急に不安を覚えた。<br>
　私は、ホテルの部屋にこもって、テレビのスイッチをいれた。BBCのチャンネルにあわせた。今はフランス語を楽しむ時ではない。自分の耳を英語耳にしておこうという作戦だった。おりしも数日前に、歌手のマイケル・ジャクソンが不慮の死を遂げていた。BBCは彼の特集を流しつづけた。その晩、私は一睡もできずBBCを見続けた。私は、にわか仕立てのマイケル・ジャクソン通となった。</p>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10as.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">エコール・ノルマル</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　29日、ディフェンスの日。約束の時間の午後1時、エコール・ノルマルの門の前で待っていると、審査の先生方三人が一緒に歩いてくるのが見えた。フレミング先生が「ナナコォ〜！」と大きな声で手をふった。彼ら三人に同時に会うのは、2005年に博士論文執筆の資格をもらうため、ニューヨークで口頭試問を受けたとき以来だった。副査のひとり、コロンビア大学のヨーロッパ史・近代ギリシア史のマーク・マゾワー先生が「ナナコのおかげでパリに来られて、すごいラッキーだよ。いい季節だしね。ありがとう」と言った。もうひとりの副査、ニューヨーク大学のロシア・ソ連史のヤニス・コツォニス先生も「パリっていうんで、家族みんなできちゃったよ。夏休みが楽しくなった」と言って笑った。フレミング先生も「このメンバーで、パリって、なんだかいいよね」とご機嫌だった。緊張しきっていた私の気持ちが、少し和らいだ。<br>
　建物の入り口をくぐると、その奥に、緑豊かな、こじんまりとした中庭が見えた。そこでおしゃべりに興じている学生や、読書に没頭している学生たちの姿が見えた。<br>
　ディフェンスの会場は、建物の最上階の、屋根裏部屋のようなところだった。ディフェンスは、通常五人の審査員によっておこなわれる。ただ、私の場合は特例で、主査と副査以外のリーダーと呼ばれる審査員の二名は、ニューヨークから電話で参加することになっていた。<br>
　四角に並べられた机の、それぞれの一辺に、ひとりずつが座った。はじめに私が、自分の論文について簡単な説明をした。私の論文の題目は、邦訳すると『日本人党――ギリシアにおける改革の理念とポリティクス（1906―1908年）』となる。20世紀初頭の行き詰ったギリシア政界で、唯一改革の必要性を説いた、わずか七人の議員からなる小さな政党「日本人党」に焦点をあて、この党の結成から解体までの活動を扱った論文である。「日本人党」という名称には、この小さな政党が、日露戦争で大国ロシアを破った小国日本のように、ギリシアの政治に新しい風を入れてくれるだろうという、ギリシア国民の期待が込められていた。この党の改革運動は、結果的には実を結ばずに終わった。しかし、日本人党の活動の内容を具体的に跡づけることで、これまで「無気力」「無秩序」として片づけられていた20世紀初頭のギリシア政治に、十分改革の意志が存在したことを、私なりに新たに提示したつもりである。<br>
　先生方の質問が始まった。しばらくして答えにつまると、「英語で答えにくかったら、ギリシア語でもいいんだよ」と、フレミング先生がギリシア語で助け舟をだしてくれた。両親がギリシア人であるカナダ出身のコツォニス先生は当然のことながら、私たちはみな、ギリシア語で意志を疎通することができた。私はその言葉に甘えた。不思議なことだが、私はギリシア語を話すことで「ギリシア人になる」。英語を話すときより、ギリシア語を話しているときのほうが、ずっと気分が解放され、自分の考えをより的確に表した言葉が見つかるように感じる。他の先生方も、ギリシア語で話すときは、まじめな教授の顔が、地中海の「ギリシア人顔」に変わるように見えた。エコール・ノルマルの屋根裏部屋に、ギリシアの風が吹いた瞬間だった。私たちはやはり、ギリシアに愛着を感じて研究をしてきたのだという仲間意識を、共有できたようにも感じた。<br>
　いただいたコメントのなかには、私が考えもしなかった見方もあった。大変ためになったが、自分の研究の不備が次々と明らかにされていくようで、恥ずかしくもあった。<br>
　およそ2時間の質疑応答のあと、先生方は協議のために別室へ移った。私は屋根裏部屋に、ぽつんとひとり残された。斜めになった屋根の窓から、午後の強い日差しが入ってきた。15分ばかりして、先生方が部屋に戻ってきた。フレミング先生が「おめでとう。うまくディフェンスしたわね。合格よ。あなたが私の学生なのを本当にうれしく思うわ」と言った。私たちは抱き合った。他の先生も「おめでとう」と言って、握手してくれた。そのとき、私の頭のなかに浮かんできたのは、イギリスの首相チャーチルが、第二次世界大戦でイギリス国民を鼓舞するために行なった、有名な「ファイネスト・モーメント演説」の一節だった。私は思わず、This is the finest moment in my life. と言った。あとはお礼の言葉を述べるのが精いっぱいだった。</p>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10bs.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">ディフェンス終了後に先生方と記念撮影</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　エコール・ノルマルの門を出たところで、サイモンが待っていた。ニューヨーク大学大学院で一緒に学んだイギリス人の友人である。私より半年早くディフェンスを終え、ニューヨーク大学のパリ分校で、フランス史の非常勤講師をしていた。「おめでとう、ドクター・ナナコ！ エコール・ノルマルでディフェンスなんてすごい」と言って、ほっぺたをくっつけてきた。「ドクター」という響きが、なんだかくすぐったかった。彼は、私の英語の先生だった。博士課程在籍中、彼は、私が書いた英語の文章を、労をおしまず直してくれた。私たちは、彼のお気に入りの小さなレストランで、ワインで乾杯し、軽い食事をとった。私は、ようやく食欲がわいてくるのを感じていた。<br>
　シャンゼリゼ通りを歌って踊る計画は実現しなかった。サイモンと別れたあと、私は、自分が肉体的にも精神的にも疲れきっていることに、ようやく気付いたのである。博士号が取得できたのはうれしかったが、今、スタートに立ったばかりじゃないか、やるべきことはまだたくさん残っている、というプレッシャーも感じていた。私はホテルのベッドに倒れ込み、そのまま10時間以上眠り続けた。<br>
　翌日、私はローマに向かった。大学院で最も仲が良かった、イタリア人のエリザベタに会うためだった。彼女はまだ博士論文執筆中で、夏休みでローマの自宅に戻っていた。「ナナコ、おめでとう！ お祝いしよう」。エリザベタとその友人マリエッラ、そして私の三人は、家の冷蔵庫から、パン、レタス、モッツァレラチーズ、トマト、生ハムをとりだし、タッパーにつめて出かけた。アッピア街道を散策し、持ってきた材料でサンドイッチを作って食べた。このうえもなく美味しかった。「ナナコはいろんなところを旅してるけど、結局はここにくるのよ。『すべての道はローマに通じる』でしょ？」と、エリザベタはウインクした。夜は、カラカラ帝の浴場遺跡に設置された野外劇場で、上演中のバレエ『真夏の世の夢』を観た。文字通り、私は「夢」のなかにいた。</p>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10cs.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">アッピア街道を歩く</span></div>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10d.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10ds.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">エリザベタの別荘</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　次の日、キャンピングカーに乗って、ローマから80キロくらいのところに位置する、ウンブリア地方の小さな村の、彼女の別荘に出かけた。午後、小高い丘に建つ別荘からは、村の全景が見渡せた。エリザベタとマリエッラは、伸びきった庭の雑草を刈る作業をしていた。テラスにおかれたソファに寝そべり、うとうとしながら、私はいいようのない幸福感に満たされていた。遠回りかもしれないけれど、私は、これからも自分が選んできた道を歩いていくだろう。私の旅はローマでは終わらない。ギリシアに行こう。そこが私の原点なのだから。ギリシアの風に吹かれ、そこから私は再出発を切ろう。私は、ソファから身を起こし、草刈りをしていたエリザベタに向かって叫んだ。「私、明日にでもアテネに行かなきゃ！」エリザベタは、やっぱりね、というふうにほほ笑んだ。</p>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10e.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece10es.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">卒業式の日、ニューヨークのセントラル・パークで</span></div>]]>

</content>
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<title>第17回　浜沿いの農村から住宅地へ ─ 芦屋市</title>
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<modified>2012-01-13T03:01:17Z</modified>
<issued>2012-01-13T04:30:18Z</issued>
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<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール ●芦屋川をくぐる東海道本線 　兵庫県芦屋市。阪神間に位置す...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「地図で読む戦争の時代」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map4.html"><img alt="日本を定点観測する" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/04/27/1000.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●芦屋川をくぐる東海道本線</font><br>
　兵庫県芦屋市。阪神間に位置する人口約9万3千人の市で、関西を代表する「高級住宅地」として全国的に知られている。六甲山地から大阪湾に至る南北に細長い市域で、山地から急流で流れ下る芦屋川や宮川の流れが複合扇状地を形成し、特に芦屋川は天井川を成す。天井川とは扇状地上を流れる川に土砂が堆積するのに合わせて人工の堤防を築くために河床が上がり続け、結果的に河床が周囲より高くなってしまった、自然と人の合作による珍しい川である。<br>
　このため、明治7年（1874）に大阪〜神戸間に最初に開通した西日本初の鉄道（現東海道本線）は芦屋川を鉄橋で渡らず、トンネルでくぐることとなった。新橋〜横浜間の官営鉄道にはトンネルが1つもなかったので、この芦屋川を含め、住吉川、石屋川という天井川をそれぞれくぐる３つのトンネルこそが、日本初の鉄道トンネルである。最初は馬蹄形の坑口でいかにもトンネルらしい風情であったが、その後に複線化などにより普通の跨線橋のような形状になってしまい、往時の面影はない。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_17a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_17as.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図１　1:20,000「御影」明治43年測図＋「西ノ宮」明治42年測図</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●交通革命を起こした阪神電車</font><br>
　地形でまず印象的なのは南側に膨らんだ海岸線だろう。これは芦屋川の運んだ土砂が堆積して前進したものだ。等高線はこの芦屋川を中心に扇状地特有の同心円状を描いており、北へ行くほど等高線間隔が狭まっていることも、典型的な扇状地の地形を示している。当時の等高線は必ずしも正確とはいえないが、市街地に覆われた現在の地形図では容易に読み取れないので、この図に見える等高線はなかなか新鮮だ。<br>
　明治42年（1909）といえば国鉄各線に初めて「線路名称」が付けられた年にあたる。明治39年から40年にかけて鉄道国有法によって主だった幹線鉄道が買収され、それが一段落した時期だ。命名されたばかりの「東海道本線」の文字の左側に描かれたのが芦屋川をくぐるトンネルである。天井川は平常時は「水無川」の状態であることが多く、この図でも砂礫の広がる涸れ川を彷彿とさせる点々が印象的だ。芦屋駅はまだ見えないが、東海道本線の「道」の字のあたりに4年後の大正2年（1913）に設置されている。<br>
　明治27年（1894）の時刻表によれば、阪神間の官営鉄道は1日16往復、ほぼ1時間おきの運転であった。大阪〜神戸間の途中駅は神崎（現尼崎）、西ノ宮、住吉、三ノ宮の4駅のみで、所要時間は平均して1時間5分ほど。当時の阪神間の鉄道といえばまだ官営鉄道だけで、ことさら乗客誘致をしなくても、どんと構えていれば必要な人は乗ってくれる、結構な時代だった。<br>
　そんな状況を一変させたのが明治38年（1905）に登場した阪神電気鉄道である。大阪・梅田にほど近い出入橋から神戸（三ノ宮）まで、途中に停留場を31か所、ほぼ1キロ間隔でびっしり設置した。その停留場の場所も、駅が市街地から遠かった官営鉄道と違って、街道沿いの集落にこまめに設けたのである。電車の運転も頻繁に行なったので、フタを開けてみると阪神開業後の官営鉄道の乗客は、開業前に比べて約7割減という惨憺たる結果となった。これが阪神間の「電車競争」の幕開けである。<br>
　これまで何かと敷居が高かった汽車に対して、阪神電車は下駄履きで乗れる気安さがあったのだろう。「待たずに乗れる阪神電車」の勝ちである。これにより沿線住民は電車を使って大阪や神戸へ買い物や通勤などに出るという新しいライフスタイルを自らのものとし始めた。近代を迎えた阪神間の町村に出現した阪神電車は、潜在的な交通需要を見事に喚起したのである。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●村営遊園地にも阪神が補助金</font><br>
　武庫郡精道（せいどう）村、というのが当時の自治体名である（明治29年の郡統合以前は兎原郡）。この名前は現在も市の中心部に精道町の名で残っているが比較的新しい地名で、明治22年（1889）に行なわれた町村制で芦屋・三条・津知（つじ）・打出（うちで）の4村が合併した際、阪神芦屋駅の南東側にある精道小学校の名前から採ったものだ。いわゆる「対等合併」で新自治体名を決めるのが難しいのは今も昔も変わらない。<br>
　阪神芦屋駅の北側に見える「芦屋遊園」は精道村営の公園で、阪神電気鉄道が開通した翌年の明治39年（1906）、同社が打ち出した沿線の遊園地開発者に対する補助政策に基づいて手厚い補助が行なわれている。『民鉄経営の歴史と文化（西日本編）』の阪神を担当した小川功氏は、阪神が支出した休息所600円、ベンチ500円、ブランコ230円、木馬15円という補助金は、開発初年度にあたる明治40年度に精道村がこの公園に支出した金額が242円であったことを考えると相当なものだ、と指摘している。<br>
　阪神の線路の南側に太く描かれた少し屈曲した道は京都から西宮を経て下関に至る西国（さいごく）街道で、当時は新道だったらしく、阪神の北側の道には「旧国道」も見える。道に面した○印は精道村役場で、その隣が村名のもととなった精道小学校だ。学校は明治5年開校の長い歴史を持ち、現在もこの場所にある。<br>
　役場の街道をはさんだ斜向かいには現在の「針葉樹林」の記号があるが、当時の図式では樹林ではなく針葉独立樹。おそらく一本松か何かが立っていたのであろう。ついでながら樹林記号はそのすぐ北側に見える記号（下部が点々）である。ついでながら道路の少し南、芦屋川の左岸（東側）に見える＊印に似た記号は珍しい「風車」で、現在では浜芦屋町の住宅地であるが、当時はこれで粉でも挽いていたのだろうか。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_17b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_17bs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図２　1:10,000「芦屋」昭和27年修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●二階級特進で村から市へ</font><br>
　図１から昭和27年（1952）まで43年が経過した。大阪・神戸どちらの大都市にも近くて交通機関が発達し、しかも六甲山麓の白砂青松という絶好の風光が好まれて富豪の別荘地が建つようになり、大正から昭和の戦前にかけての人口増加は大きなものがあった。<br>
　村制施行から間もない明治24年（1891）に戸数677、人口は3,249人という小さな村だった精道村は芦屋駅開業翌年の大正3年（1914）に5,298人を数えている。しかしその後の人口増加は著しく、13年後の昭和2年（1927）には20,779人と4倍近く、昭和14年（1939）には39,752人とさらに倍増した。「二階級特進」で村から市制施行したのはその翌年のことだ。村から市へ「二階級特進」を遂げた自治体は珍しく、この他には長野県岡谷市（旧平野村）、山口県宇部市、長崎県佐世保市、最近の例では沖縄県豊見城（とみぐすく）市などごく少数である。<br>
　さて、この間に芦屋は浜辺の農村から阪神間を代表する住宅都市へと大きく変貌した。「日本一の高級住宅地」として知られる六麓荘町もこの間に誕生している。場所は地図の範囲を北に外れた山沿いで、もとは国有林だったところだ。そこを大阪の財界人が出資した「株式会社六麓荘」が昭和3年（1928）に開発を始めたもので、区画は最低でも300坪（約992平米）以上、大きな所では1000坪以上と実に広大であった。山林時代の松の木や渓流をそのまま利用し、また景観に配慮して電線の地中化を行なうなど画期的な住宅地として注目された（正式な六麓荘町の町名は昭和19年から）。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●阪神間3つ目の鉄道、「ガラアキ」の阪急</font><br>
　国鉄、阪神に続いて3つ目の鉄道（軌道）となる阪急が開通したのは大正9年（1920）のことで、その直前までは宝塚線系統のみで箕面有馬電気軌道と称していたのを、十三〜神戸（後の上筒井。現在の王子公園付近）間の開通を機に高速電気鉄道として旗幟を鮮明にし、これを機に社名も「阪神急行電鉄」と改めた。<br>
　こまめに駅を設けた阪神電気鉄道とは対照的に「高速」を売り物にして山の手を直線的に敷設されたため駅も少なく、精道村内に設置されたのは芦屋川駅のみであった。この駅は文字通り芦屋川の上にプラットホームが掛かっている。ただし高速はいいが国鉄北側の人家の疎らな区域を通るため乗客が少ないのが悩みの種であった。しかし転んでもただでは起きない阪急の総帥・小林一三、これを逆手にとって「綺麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい涼しい電車」という、いわば捨て身のキャッチコピーを披露した。有名なエピソードである。<br>
　図2は終戦から7年を経過した時点で、宅地化が大幅に進んだとはいえ、それでも一部に田んぼや畑も残り、芦屋川沿いの公園内の松林をはじめ、各住宅の間に雲形のような叢樹（庭木）記号が目立つのはやはりお屋敷町・芦屋ならではである。<br>
　国道2号・阪神国道には路面電車が見える。これは阪神電気鉄道国道線で、大阪の野田から神戸東口（後に東神戸）までの26kmという、路面電車としては長距離の路線で、昭和2年に阪神国道と同時に開通した。当初はあまりの幅員の広さに「飛行機でも飛ばすつもりか」と言われるほど「過剰投資」の印象だったようだが、その広い国道も戦後の高度成長期には急激な自動車の増加に追い付かず、最初から走っていたはずの国道電車も自動車の邪魔者と見なされ、結局は昭和50年（1975）に全廃されてしまう。<br>
　阪神本線の南側、精道小学校の前にはさらに広い幅の道路が一部完成しているが、これが現在の国道43号で、図１と比較すればかつての西国街道のルートに重なっていることがわかる。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_17c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_17cs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図３　1:10,000「芦屋」平成17年修正＋「西宮」平成17年修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●白砂青松の芦屋浜は埋め立てられて住宅地へ</font><br>
　図２では自然の砂浜が、図1の頃よりだいぶ減少したとはいえ残っていた。浜芦屋町、松浜町も文字通り浜のすぐ近くであったが、平成17年（2005）のこの図では芦屋市側の海岸線が前進して欄外に至り、もう見えない。以前は海だった新しい埋立地は緑町、若葉町、潮見町などと命名された。緑町と若葉町が昭和51年（1976）に町名ができているので、その少し前の埋め立てと思われる。南東のかつての浜には芦屋下水処理場と芦屋中央公園が見える。<br>
　その南側に位置する潮見町はさらに新しく、そのまた南側には運河（掲載範囲外）を挟んで陽光町、海洋町、南風町、涼風町などが平成10年代に誕生した。ヨットハーバーや人工砂浜などもあり、芦屋市の面積もここ20年あまりでだいぶ増加したようだ。神戸市側の深江南町の方はかろうじて海岸線こそ図２のままであるものの、対岸には埋立地の「東部内貿ふ頭」が目前に迫っており、昔ここから大阪湾を隔てて遙かに望めたはずの和泉山脈の眺めは、その埠頭の倉庫群に遮られてしまっている。<br>
　平成7年（1995）の阪神淡路大震災で芦屋市は、西隣の神戸市東灘区と同様に建物の倒壊など著しい被害を受けた。ブルーシートがあちこちに目立った街並みを見たのはつい最近のような気もするが、早くも17年が経過して一見したところ傷痕は目立たない。さらに震災後には市域が海面に大幅に広がった。<br>
　さて今後はどこまで「発展」したところで、海岸線の成長は止まるだろうか。</p>

<p class="text_s_gray" style="line-height: 200%;">〈参考文献〉<br>
　『民鉄経営の歴史と文化（西日本編）』平成7年（1995）古今書院　p.170</p>]]>

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<title>第21回　仲間</title>
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<modified>2012-01-11T03:19:30Z</modified>
<issued>2012-01-10T08:00:10Z</issued>
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<summary type="text/plain">    執筆者プロフィール  「なんかさ、いじめられてるみたいなのよ」 　寝室の...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>杉江由次「蹴球暮らし」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<div class="text_m"> 
<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/sugie.html"><img alt="蹴球暮らし" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/sugie_title.jpg" border="0"></a><br /> 
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/02/21/0959.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p> 

<p style="line-height: 200%;">「なんかさ、いじめられてるみたいなのよ」<br>
　寝室のドアの隙間から見える息子を指さしながら妻が小声で話しだしたのは、残業で遅く帰った夜のことだった。私は電子レンジの前に立って、肉じゃがとごはんが温まるのを待っていた。<br>
「そこのタイキくんにね、登校班のときに叩かれたり蹴られたりしているらしいの」<br>
　緑色に発光する数字が二桁から一桁になると私は二人の子どもが目を覚まさないよう「ストップ」ボタンを押した。温まったことを示す音楽は鳴り出さず、ピッという機械的な音をたててレンジは止まる。妻は真っ白い湯気を漂わせていた鍋から味噌汁をよそうと食卓の前に座った。私はいただきますと手を合わせると妻の話を聞きながら食事を始めた。<br>
　妻の話は息子が二軒隣に住むタイキくんにいじめられているらしいということだった。タイキくんは息子より２つ年上の３年生で、身体も大きく、いつも自転車のかごにサッカーボールを入れて、あちこち乗り回している活発な男の子だった。そのタイキくんが学校に登校する際に、息子の後ろに並び、ちょっかいを出しているというのだ。妻自身が見たわけではないのだが、近所のママ友だちが目撃し、忠告してくれたそうだ。<br>
「男の子にはよくあることだよ」<br>
「そうかもしれないけど……」<br>
　妻は手にしていたお茶に何度か息を吹きかけると、くちびるをおずおずとつけた。<br>
「明日登校班についていってみようかな」<br>
「やめとけって。そんなことしたってその日はしなくても、いなくなったらするだろう。それにもし本当にいじめられていたら告げ口したんだろって、もっといじめられるかもしれないぞ」<br>
「でも心配じゃん」<br>
「まあそうかもしれないけど、お姉ちゃんがいるんだから」<br>
「それが頼りにならないから心配しているのよ」<br>
　妻は大きくため息も漏らすと、息子と娘が寝ている寝室に入っていた。出てこないところをみると自分も布団に入ったのだろう。おそらく扉の向こうで、丸まって寝ている息子を抱きしめているはずだ。<br>
　食事を終え、妻がいれてくれたお茶に手を伸ばすとすっかり冷たくなっていた。私はそれを一気に飲み干した。<br>
<br>
　翌朝、登校前に歯を磨いている息子に私は単刀直入に訊ねてみた。<br>
「お前、いじめられているのか？」<br>
　口の周りに白い泡をたくさんつけた息子はそのまましゃべろうとして言葉にならず、慌ててコップの水で口をゆすぐと首を振って言い返してきた。<br>
「いじめられてなんかないよ」<br>
「でもタイキくんに叩かれたりしているんだろう？」<br>
「あれは遊びだよ」<br>
　息子はそう言うと洗面所から出て行こうとした。私はその小さな肩を掴み、息子と同じ目線になるまで腰を下ろすと、改めて問いただした。<br>
「本当だろうな？」<br>
「本当だよ。おれ、強いんだよ。いじめられたら変身するし」<br>
　いつの間にか息子は自分を指し示す言葉が「ぼく」から「おれ」に変わっていた。<br>
　息子の肩を離すと代わりに娘が歯磨きをしに洗面所に入ってきた。歯ブラシに歯磨き粉をつけている娘の髪の毛は、寝ぐせで外側に大きくカールしており、私はドライヤーの電源を入れながら今度は娘に訊ねる。<br>
「おい、登校班の時にあいつ、タイキくんに叩かれたり蹴られたりしているのか？」<br>
　娘は手にしていた歯ブラシを置くと、私の目を強くにらみ返してきた。<br>
「ママにも言ったけど、私は班長だから一番前を歩いているの。だから後ろで何が起きているのかよくわからないの」<br>
「それだって声は聞こえるだろうが」<br>
「そんなの聞こえないって。みんな大騒ぎできちんと歩かせるのだって大変なくらいなんだから」<br>
「それならそれでいいけど、なんかあったら守ってやれよ。お前はお姉ちゃんなんだから」<br>
　つい娘の言葉に反応して声が大きくなってしまったが、娘はその大きさに負けないほどの声で言い返してきた。<br>
「じゃあ私がいじめられたら誰が助けてくれるのよ。私にはお姉ちゃんもお兄ちゃんもいないのよ！」<br>
　洗面所のドアを乱暴に閉めると娘は息子に声をかけ、ランドセルを背負い、玄関から飛び出していった。<br>
　ゆっくりと閉まる玄関の隙間から、冷たい風が吹きつけてきた。<br>
<br>
　それからしばらくの間、息子の顔や身体に傷があると冷たい水をかけられたような気分になった。そのほとんどはサッカーの練習で転んだり、自分の不注意でできた傷だったが、それでも何度か訊かずにはいられなかった。息子はそのたびに何を訊いているんだと不思議そうな顔をして「何でもないよ」と答えた。<br>
　妻は私以上に心配し、何度か登校班の後を付けて学校まで行ったようだった。目の前で息子が蹴られたり、叩かれたりする姿を見かけたようだが、それが息子が言うように遊びなのかそれともいじめなのか判断がつかず、タイキくんにもタイキくんの親にも言い出せずにいるらしい。<br>
　私と妻の間で息子のことを話題にする回数は減っていった。出口のわからない迷路をさまよっているようだった。<br>
<br>
　それは風呂に長い間浸かっても結局指先まで暖まらない夜のことだった。<br>
　私は風呂から上がると発火装置の壊れた石油ストーブにマッチで火をつけた。ぼっと音がしてオレンジ色の炎が灯り、鼻の奥までマッチの匂いが染みこんできた。<br>
　ラップのかけられた夕食を電子レンジに突っ込んでいると、妻はその音で起きだしたのか、それとも私が帰ってくるのを待ち構えていたのか、寝室のドアをガラリと開けた。両肩を抱き込むように腕を回し、つけたばかりのストーブの前に立って話し始めた。<br>
「今日ね、サッカーの練習をするって公園に行ったのよ」<br>
　私は誰のことかわからず聞き返すと、息子のことだった。<br>
「そしたらタイキくんがいてさ、うちのボールを取って逃げまわりだしたの」<br>
　息子が背の高いタイキくんの伸ばした腕から必死にボールを返してもらおうとする姿が浮かんでくるようだった。<br>
「頭に来て文句を言おうと思ったんだけど、タイキくんのママがいたからなんとなく言い出しづらくて。そしたらね、ヤマトくんたちが来たの」<br>
「ヤマトくんって？」<br>
「サッカー少年団のキャプテンよ。ほらパパが試合を見に行ったときに浦和レッズの坪井に似てるって言ってた」<br>
　坪井に似た坊主頭のその子は、ディフェンスの中心で大きな声を出してチームメイトを鼓舞していた。そしてドリブルで侵入してきた相手フォワードに大きな身体をぶつけボールを奪っていた。確かにその腕には真っ赤なキャプテンマークが巻かれていたような気がする。<br>
「あの子、ヤマトくんっていうんだ？」<br>
「そうそう。ヤマトくんと一緒に5年生の少年団の子もたくさんいて、『お前、杉江の弟だろ』って話しかけてきてさ、それで、みんながタイキくんからボールを取り返してくれたのよ。それにね、こいつをいじめたら俺たちが許さない。俺たち少年団の仲間だからって」<br>
　お湯をわかすためストーブの上にヤカンを置くと、妻の目は赤く充血していた。<br>
「よく学年も離れているのに、うちのが少年団だってわかったね」<br>
「お姉ちゃんが同級生の男の子に頼んでたらしいのよ。弟がいじめられていたら助けてやってくれって」<br>
　玄関を飛び出していった娘の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。<br>
「それでさ、みんなでサッカーをやりだしたの。でもほら、うちのはまだ一年生で全然できないじゃん。そしたらヤマトくんが、おい、ここで蹴るんだぞとかヘディングはこうしろとか教えてくれてね。その姿をタイキくんがじっと見ているのよ。自分も教わりたくてしょうがないんじゃない。でも話しかけられなくて、もじもじしているの。いい気味って思っちゃった」<br>
「おとなげないなあ」<br>
　私が苦笑すると妻も笑って口を抑えた。<br>
「そしたらね、うちの子がタイキくんに一緒にやろうって誘ったの。それでみんなで……」<br>
　妻は言葉をつまらせ、目を何度も拭った。<br>
<br>
　小さな公園で、たくさんの子たちが、ふたつのベンチをゴールに見立て、サッカーを始めたらしい。<br>
　息子とタイキくんは同じチームで、笑いながらボールを追いかけていたという。</p>

<div align="center"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/12/21/1000.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/prev.jpg" border="0"></a>　<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/sugie.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/index.jpg" border="0"></a><!--　<a href=""><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/next.jpg" border="0"></a></div>--><br /> 
</div> ]]>

</content>
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<title>第10回　それでも「選挙」に行く　台湾大統領選挙を控えて（２）</title>
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<modified>2012-01-06T06:41:35Z</modified>
<issued>2012-01-06T07:00:14Z</issued>
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<summary type="text/plain">    執筆者プロフィール 　台北にいる父から電話がかかってきた。パパ元気？　と...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>温又柔「失われた『母国語』を求めて」</dc:subject>
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<![CDATA[<div class="text_m"> <br>
<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/bokokugo.html"><img alt="失われた『母国語』を求めて" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bokokugo/bokokugo_title.jpg" border="0"></a><br /> 
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/09/09/1050.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　台北にいる父から電話がかかってきた。パパ元気？　と私は声を弾ませた。ところが受話器のむこうで、忙しい？　とたずねる父の声がいつものように陽気ではなかった。私はとっさに祖母の身に何かあったのではと不安になる。それで早口で、いつもどおりヒマだよ、と答える。父は少し笑った。それから覚悟を決めたのか、訥々と話しだす。<br>
　──きみは、選挙できない。役所から通知来た。きみは、この二年、台湾に入国していない。だから今回、選挙ができない。<br>
　長いこと東京を離れている父の話す日本語に、私はただ耳を澄ます。<br>
　──アイー（母の妹）やアキン（母の弟嫁）が区役所に電話して聞いた。でも、今回はできない。まにあわない。きみは、選挙……投票できない。<br>
　話しているうちに父は、「投票」という日本語を思い出したのだろう。受話器のむこうで、父が明るい声をつくるのが聞こえる。<br>
　──……投票できない。でも、台湾の選挙、おもしろい。パパ、毎日、ニュースを見ている。きみの目的は、投票じゃない。選挙を見る。だから、きみが台湾来るのをパパは待っている。<br>
<br>
　数日前、私は母と口論した。<br>
　口論というよりは、一方的に感情的になる私を母がたしなめた、というほうが正しいかもしれない。<br>
　母は切り出した（実際は、中国語、台湾語、日本語が入り乱れてますが便宜上、日本語に統一しています）。<br>
　──まあ、あの時期は混むからね。あなたも忙しいなら無理に行かなくていいから。<br>
　一瞬、母が何を言っているのかわからなかった。母は言い直す。<br>
　──それにね、あなた一人ぐらいが投票したところ、あんまり関係ないんだから……<br>
　私はかっとなって母を遮った。<br>
　──わたしは絶対に選挙するの！<br>
　選挙する。施政者（！）でもあるまいし、奇妙な日本語を口走ったものである。しかしこのときの私は過剰に昂奮していた。<br>
　──混んでたって何だって、わたしは台湾に行く。そして選挙する。<br>
　私の異様な剣幕に、母が目をまるくしている。ややあって、<br>
　──わかったから、そんなに昂奮しないでよ。<br>
　母は明らかに呆れていた。私は押し黙った。母には言えなかった。<br>
　（わたしだって、一度ぐらい、投票してみたい）<br>
　なぜか、それを母そして父に言うのは、ひどく申し訳ないような気がしていたのだ。<br>
　母があくまでも冷静なので、ひとり昂奮したことが急に恥ずかしくなってくる。私はわざとそっぽ向いて、<br>
　──とにかく、選挙には、台湾には行くからね。<br>
　ハイハイ、と言ったあと、母は思い出したように、<br>
　──それで、選挙はいつなんだっけ？<br>
　まったく、なんて呑気なのだろう。私はじれったさをこらえながら、<br>
　──一月十四日だってば、ママ。<br>
<br>
　母は、私とのこのやりとりを父に話したのだろう。<br>
　私が、だれかを選びたい、という以上に、投票をしたい、台湾で行われる大統領選挙をじかに見たい、と感じていることを受話器の向こうの父は十分に知っている気配だった。<br>
　選挙できない、投票できない、でも来る価値はある、来ればいい……そう話す父のそばには、母もいるはずだった。母は、祖母を見舞うため──正確には、数年前から車椅子がなければどこにも行けない祖母の介護に明け暮れるアイー（叔母）を手伝うため──に里帰り中だった。<br>
　案の定、話し終えると父は言った。ママに変わるね。<br>
　──もしもし、おねえちゃん？<br>
　母の声が聞こえたとたん何かこみあげてくるものがあった。父には隠しとおせたのに、母にはあっさり見抜かれ（聞き抜かれ？）てしまう。母の明るい声が私をなぐさめる。<br>
　──不哭,不哭!<br>
　（泣かないの！）<br>
<br>
　両親との電話を切ったあと、ここぞとばかりに泣きじゃくってみた。へんな感じだった。言ってみれば、子どもが欲しかったおもちゃをあと一歩のところで手にすることができなかったときのような気分。<br>
　そもそも、どの候補に投じるかも決めかねていたのだ。母の言うとおり、私が投票してもしなくても、大して影響はないだろう。私の一票は、２３００万人分の１、でしかないのだから。<br>
　しかし。<br>
　２３００万人分の１でもよかった。あるいは、１億２千万分の１、極端に言えば、１３億分の１だとしてもかまわない。<br>
自分にも、投票の権利がある。そのことが、ただ、うれしかったのだ……涙まみれの顔を拭いながら私は溜め息をつく。<br>
　──四年後にはね！<br>
　父も母も、落胆する私を励ますつもりなのかそう言っていた。そうなのだ。私は別に、台湾での選挙権（投票権）を永遠に失ったわけではない。投票できないのはあくまでも今回限りなのだという。<br>
　私（たち一家）の「本籍」は、叔父の家にある。選挙が近づくと、叔父の家には、成人家族の分だけ、「選舉委員會投票通知單」が続々届く。<br>
　四年前、自分の元にも届いたそれを、私は大切に手帖にしまっておいた。考えてみれば、八年前にも同じものが届いていたはずなのだ。けれども、八年前の私──二十三歳の私──は、自分が、台湾人である、ということを、あまり意識していなかった。むしろ、自分が、日本人ではない、ということを、（やっと）真剣に考え始めていた時期だった。<br>
　なぜ私は日本人ではないのだろう。<br>
　なぜ私は日本では日本人とみなされないのだろう。<br>
　なぜ私は自分は日本人であると堂々名乗ることをためらうのだろう。<br>
　……ひねもす、そんなことばかりぐるぐると考えていた。腹のうちで渦巻くものが沸点までのぼりつめて、カッとなることもしょっちゅうだった。考えあぐねた末、私は日本人だ、とあえて名乗ってみたりもした。ほんものの日本人なら自分を日本人と名乗るのにこんなに挑発的であるはずがない、とぼんやり思いながら。もしも、私が育ったのがこの日本ではなく、別の国であったのなら……そうすれば、少しは（よくもわるくも）違っていたのだろうか？<br>
　そんなときだった。父から、台湾大統領選挙の「選舉委員會投票通知單」を渡されたのである。私は二十七歳になっていた。思えばそのときから私は、<br>
　（台湾人の将来は、台湾人が決める）。<br>
　いっぱしの「台湾人」になったつもりで２０１２年の大統領選挙を夢見ていたのだ。<br>
<br>
　──臺端因出境迄今滿兩年,本所已依戶籍法第16條第3項及第42條規定逕為辦理戶籍選出登記完竣,特此通知……<br>
　昨年末、「選舉委員會投票通知單」の代わりに私宛に送付された書類である。<br>
　要するに父の言っていたとおり、「国民」といえども既に二年以上も台湾に入国していない私には投票の権利がない、ということなのだった。<br>
　納得できない理由ではまったくない。むしろ、当然そうあるべきだろうと思う。<br>
　逆に言えば、四年後の大統領選挙に参加したいのなら二年ごとにほんの一度でも台湾に行けばよいのだから。「国民」の選挙権って強固だ。<br>
　……あるうしろめたさが、とうとうはっきりと姿をあらわす。<br>
　台湾に住んでいない私が、中華民国籍所持者というだけで台湾の大統領を選べる権利を持っているのは、本当に「正しい」ことなのだろうか、と。実は、生まれて初めて投票をしてやるのだ、という昂奮に浸ろうとするたび、そのうしろめたさが影を落とした。<br>
　たとえば、東京都知事選挙のときに私が口惜しく感じていたように、台湾でも、自分は台湾人ではないということを選挙のたびに痛感させられるひとたちが、必ずいるはずなのだ。<br>
　台湾で生まれ、育ち、生きている。教育をうけ、働き、生活を営む。中華民国籍は持っていなくても、私よりもずっと「台湾人らしい」ひとたち。<br>
　「国民」とはいえど、国内に住んでいない私なんかよりも、そういったひとたちのほうがよっぽど、台湾の「大統領」を選ぶ権利があるはずなのではないか。<br>
　そうも思っていた。<br>
　──生まれて初めて、投票ができる。<br>
　……とはいえ、自分よりもずっと、台湾の現実が肌身に迫る人たちの存在を忘れてはならない。それを覚えておくことが、投票する際の最低限のモラルであると自分に言い聞かせていた。<br>
　「国」って、何？<br>
　「国民」って、だれ？<br>
　「選挙」は、何のために、だれのために行われるの？<br>
　はて。私は、一体、だれに向かって問いただしたいのか。いずれにしろ私は、一月十四日、台湾に行く。</p></div>]]>

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<title>第16回　鉄道聯隊の村から交通の要衝へ ─ 習志野</title>
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<modified>2011-12-22T06:42:47Z</modified>
<issued>2011-12-22T01:00:06Z</issued>
<id>tag:www.hakusuisha.co.jp,2011:/essay//6.2847</id>
<created>2011-12-22T01:00:06Z</created>
<summary type="text/plain"> 執筆者プロフィール 図１　1:20,000「習志野」明治43年改版 ●鉄道聯隊...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>今尾恵介「日本を定点観測する」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/map4.html"><img alt="日本を定点観測する" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_title.jpg" border="0"></a><br />
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/04/27/1000.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_16a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_16as.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図１　1:20,000「習志野」明治43年改版</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●鉄道聯隊が来た村</font><br>
　明治43年（1910）、今から約100年前の千葉県習志野市、当時の千葉郡津田沼町である。線路の南側に沿った生垣（記号でわかる）の南には土塁で囲まれた「鉄道兵営」。陸軍の鉄道聯隊（れんたい）だ。この珍しい聯隊は日清戦争が終わった翌年の明治29年（1896）に鉄道大隊として発足した。戦地で物資や兵員を輸送するために迅速に鉄道を敷設し、それを運用するための訓練を積む部隊である。現在ならたとえば被災地での輸送に最も先決とされるのは道路整備であるが、当時は陸上で大量輸送する場合、まずは鉄道を敷くことであった。<br>
　日露戦争を経て明治40年（1907）に、鉄道大隊は規模を拡大して近衛師団管下の鉄道聯隊となる。当初は東京市牛込区にあったが、中野を経てその頃に津田沼町に移転した。第一次世界大戦のシベリア出兵の際には聯隊の拡充が決まり、大正7年（1918）に第一鉄道聯隊・第二鉄道聯隊に分けられた。このうち第一は現在の東千葉駅付近に、第二がこの津田沼駅前に置かれている。この交通の便の良さは、逆に駅の周辺にいかに人家が少なかったかの証明だ。図はまだ第一・第二に分かれる以前の「鉄道聯隊」時代で、線路を挟んで北側に見える「材料廠倉庫」もやはり鉄道聯隊のものである。M型の印が「陸軍」を、鍵穴の見える錠前の記号が「倉庫」を示している。今はイオンの巨大ショッピングセンターになっている場所だ。<br>
　特殊技能を持つ珍しい聯隊であったがゆえに、大正12年（1923）に関東大震災で鉄道が各所で深刻な被害を被った際、その復旧工事には本領を発揮した。また、地方で鉄道や軌道を敷設する場合に、一般の建設会社へ頼むより聯隊に頼めば割安に建設してくれたというから、役に立つ部隊だったようである。<br>
　実際に聯隊が工事を手がけた路線は小湊鐵道など千葉県内が多いが、西武鉄道村山線（現新宿線の一部）や福島電気鉄道（後の福島交通）の改軌工事などを請け負った。建設業者にしてみれば「民業圧迫」の困った存在だったかもしれない。なお、第三聯隊以降は昭和9年（1934）以降になってほぼ外地に置かれており、このうち第五聯隊はタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設にあたったことで知られる。<br>
　図上では明治41年（1908）に複線化されたばかりの総武本線から分かれていく線路に「軍用鉄道線」とあるのが聯隊の演習線だ。記号は普通の鉄道とは違って白い部分が長い「ハタザオ線」で、当時の地形図図式では「軽便鉄道」を示す。軌間は600ミリと通常の軽便鉄道（ふつう762ミリ）よりさらに小さな規格であった。ここから東へ行った図の範囲外には、東西に長いたくさんのバラックが「無数に」と称しても過言ではないほどたくさん描かれており、「元俘虜収容所」の文字。元とあるのは日露戦争のロシア人捕虜を一時期収容したことによる。おそらくまだ戦争の記憶が生々しかった時期であろう。その「勝ち戦」に乗じて韓国を併合したのが、図の明治43年のことである。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●津田沼は合成地名</font><br>
　総武本線の前身である総武鉄道がこの地に開通したのは明治27年（1884）と古い。同鉄道の最初の開業区間は市川〜佐倉間の39.9キロで、途中駅はわずか船橋と千葉だけであった。その年のうちに幕張と四街道、翌28年には中山（現下総中山）と津田沼の各駅が加わっている。津田沼の名は当然ながら地元の津田沼村から採られた駅名である。<br>
　津田沼村は町村制が施行された明治22年（1889）に谷津村・久々田村・鷺沼村・大久保新田・藤崎村の5村が合併した際、前3者の末尾の字を並べたもので、明治町村制では非常に多く見られた「合成地名」である。だからもし明治22年以前に駅ができたとすれば、駅の所在地は大字谷津に所属していたから、おそらく谷津駅になっていたのではないだろうか。<br>
　合併に採用された3つの村はいずれも海岸に面しており、その海沿いをつなぐのが千葉街道、現在の国道14号である。海の中に砂地の点々が施された表現は「干潟」を示しており、この一帯の干潟がいかに広大であったかがわかる。「東京湾」の文字がある干潟の間に開けている川状のものは干潮時に現われる澪（みお）。<br>
　干潟の点々とは別に、浜の埋立地に細かい砂目の点々で覆われた区画は塩田で、塩業調査所津田沼試験場が見える。すでに塩の専売が行なわれて専売局の管轄になっており、いくつかの建物の下に見える＊印のような記号は「風車」である。この試験場では「カナワ式製塩法」が行なわれていたそうで、風車はそれに関するものだろうか。<br>
　久々田（図上の表記は久久田）に見えるの○印は津田沼町役場で、町制施行は明治36年（1903）のことだ。中心部であったにもかかわらず、久々田の地名は津田沼町が習志野市になった際に「津田沼」と改められている。旧自治体名を保存するためか、それとも慣れ親しんだ津田沼駅の名に合わせたのかわからないが、江戸時代以前から続いてきた久々田の地名は消滅してしまった。「クグタ」という地名の由来にはいくつかあるようで、水田にクコがたくさん生えていたから、といった説があるようだが、決め手はなさそうだ。鳴き砂にちなむとされる「クグ」のつく地名は宮城県の十八成浜（くぐなりはま）など全国にいくつかあるので、それと関係があるのかもしれない。<br>
　総武本線の線路と斜めに交差する直線道路は東金街道である。この道は地形に起伏のある日本には珍しい昔からの直線道路で、徳川家康が東金周辺での鷹狩りに向かうための道路として佐倉藩主土居利勝に命じ、慶長19年（1614）に完成したものだ。将軍の「御成」は11回にも及んだこともあり、別名・御成街道とも称する。突貫工事で一夜にして完成させたと伝えられているが、いくらなんでも1日では到底無理だろうから、おそらく、美濃・墨俣（すのまた）の一夜城と同様の誇張表現だ。<br>
　地形的に見て、この区間は下総台地の平坦面が目立ち、北部や西部ほど台地の開析（浸食）が進んでいないため、これほどの一直線が可能だったのだろう。ついでながら、津田沼駅から東金街道を結ぶ道沿いには駅前商店街と思われる集落が発達している。交差点に見える、軍刀と拳銃を交差させた記号は「憲兵隊」。建物そのものは小さいが、土塁に囲まれていたようだ。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_16b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_16bs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図２　1:10,000「津田沼」昭和36年資料修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●鉄道聯隊の演習線は新京成線に</font><br>
　聯隊の演習線は当然ながら昭和20年（1945）の終戦とともにその使命を終える。この線路は北へ進むと鎌ヶ谷、初富や五香を経由し、「演習線ならでは」の屈曲を続けながら松戸駅東方の台地上まで続いていた。『民鉄経営の歴史と文化』（古今書院）で新京成電鉄を担当執筆した山田俊明氏が、同電鉄の設立の事情などについて詳しく記しているが、これによれば終戦当時の演習線は戦争中に一部のレールが撤去されるなどして荒廃していたという。他の軍施設と同様に連合軍総司令部（ＧＨＱ）の管理下に置かれたが、地域の戦後の発展を見越してこの線路敷を利用しようと動いたのが西武鉄道（当時は西武農業鉄道）と京成電鉄であった。<br>
　結局は京成が昭和21年（1946）3月に演習線の使用許可を得て、6月には別会社の新京成電鉄を設立、翌22年12月27日には早くも新津田沼〜薬園台間を部分開業している。新津田沼駅は現在地より西側の、国鉄津田沼駅のすぐ近くに設けられた。当初は国鉄と同じ軌間1067ミリの狭軌を採用していたので、京成津田沼駅と結ぶことは考えていなかったのかもしれない。<br>
　その後小刻みに延伸が繰り返され、昭和24年（1949）10月には鎌ヶ谷初富（現初富）までが開通する。前掲書によれば、当時の新京成線は、京成から譲り受けた木造電車1両が畑の中をトコトコ走るのどかなローカル線であったそうで、新津田沼駅から電車は25分間隔で運転され、1本おきに習志野止まりが入ったので、終点までの電車は50分間隔であった。<br>
　その後は京成津田沼へ直結するため、昭和28年（1953）に新津田沼駅を東へ移設した。新しい新津田沼駅は現在地ではなく、図で「新京成電鉄」とある線路上の藤崎台駅の位置である。路線変更により従来の新津田沼駅とその前後の線路は廃止されたのだが、国鉄津田沼駅が遠くなって不便なので昭和36年（1961）に旧線を復活させ、旧位置に近い所に3代目新津田沼駅を作る。これに伴って2代目新津田沼駅は「藤崎台」と改められた。これが図２の状態だ。<br>
　松戸方面からの列車は、朝夕は新津田沼に直通、日中は新津田沼行きと京成津田沼行きを交互に運転した。各列車は前原で別方向への区間列車に接続するダイヤであった。新津田沼駅と藤崎台駅は構内側線でループ状につながっているのが鉄道模型のレイアウトのようで面白い。その構内側線と総武本線の間に挟まれて（工高）と注記のあるのが県立千葉工業高校である。旧制県立千葉工業学校の検見川校舎が空襲で焼け、戦後の昭和21年（1946）になって鉄道第二聯隊の線路の北側の建物に移転したものだ。</p>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●千葉工業高校の移転とＳカーブの出現</font><br>
　千葉工業高校は昭和42年（1967）に現在地の蘇我へ移転するが、その翌年に新京成電鉄の路線が現在のように変更された。やはり2系統の電車運転はわかりにくく不便であったのだろう。結局は3代目新津田沼駅を東寄りの現在地に移設して藤崎台経由の線を廃止し、新津田沼を経由しながら京成津田沼に結びつける要求に応えたため、世にも珍しいアクロバティックなＳ字線形が誕生した。半径140ｍの急カーブが連続し、電車はこの間をゆっくり進む。線路は前年までここにあった千葉工業高校の敷地を通過している。<br>
　国鉄津田沼駅の南側、かつて鉄道聯隊の兵舎が並んでいた場所には千葉工業大学が見える。この大学は昭和17年（1942）に興亜工業大学として玉川学園内（現町田市）に創立、君津を経て昭和25年に津田沼へ移ってきた。図２の段階では明らかに鉄道聯隊の兵舎をそのまま使っている部分が見られる。もちろんその後は校舎も新しくなったが、門は第二聯隊の煉瓦積みの重厚なものをそのまま使っており、最近になって国の登録有形文化財になった。門は「千葉工業大学」の文字の右上に小さく見える一対の四角形の記号がそれである。<br>
　海岸には谷津遊園が見える。ジェットコースターの線路は一部海にかかっている。干潮時には砂浜が広がるところで、潮干狩りをする人たちを見下ろしながら子供たちは絶叫を上げていたのだろう。この頃に小学4年生だった子供は、今年あたりが定年だ。この遊園地は図１で「塩業調査所津田沼試験場」だった場所にあたり、谷津遊園の駅前から正門までは遊園地の小さな「門前町」が続いている。</p>

<div align="center">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_16c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/map4/map4_16cs.jpg" border="0"></a><br>
<span class="text_s_gray">図３　1:10,000「津田沼」平成19年修正</span></div>

<p style="line-height: 200%;"><font color="#003399">●商業集積が進む津田沼駅前</font><br>
　図２から46年経った平成19年（2007）である。津田沼駅の周辺にはいくつもの大規模小売店が進出した。北口にはイオンモール津田沼とイトーヨーカドーが新津田沼駅を挟んで向かい合い、乗降客数が1日20万人を超えるＪＲ津田沼駅の北口にはパルコ、南口にはモリシア津田沼とユザワヤなど大規模店舗が並び、おびただしい数の人を集めている。<br>
　ついでながらＪＲの津田沼駅北口は駅前広場の一部が船橋市（前原）にかかっていて、図の範囲外であるが、その北側にある新京成電鉄の習志野駅、北習志野駅などいずれも船橋市内だ。市の名前を冠する駅が隣市に２つもあるのは珍しいが（市内には遅ればせながら昭和61年に京葉線新習志野駅が開業）、下総台地に設けられた広大な陸軍の演習場を明治天皇が「習志野」と命名した、という経緯と、その広大な習志野の多くを占めていた千葉郡二宮町が、津田沼町が構想していた「大習志野市」の期待を裏切って船橋市と合併してしまったのが原因のようだ。今の習志野市は習志野の東の一部分（東習志野）だけ市域に抱え、かろうじて面目を保っている。<br>
　谷津遊園はといえば、京成電鉄が成田空港の開港延期で経営が悪化した影響で昭和57年（1982）に閉鎖され、跡地は団地となった（バラ園は市営で存続）。その後に遊園の正門前の空を覆う形で建設された京葉道路は日夜多くの自動車が行き交っており、さらに以前は海だった沖合にはもっと広い東関東自動車道と湾岸道路もできた。どこまでも続いていた広大な干潟はその大半が埋め立てられ、ごく一部だけの貴重な生き残りが「谷津干潟」として保存されている。<br>
　軍の演習場に由来する習志野という地名と、実体としての鉄道聯隊跡地とその演習線に由来する新京成電鉄。「軍郷」の名残を各所に色濃く留める町である。</p>

<p class="text_s_gray" style="line-height: 200%;">〈参考文献〉<br>
　『鉄道廃線跡を歩くX』宮脇俊三編著、JTBパブリッシング2003年より「陸軍鉄道連隊」（岡本憲之）<br>
　『民鉄経営の歴史と文化』青木栄一・老川慶喜・野田正穂編、古今書院1992年より「新京成電鉄」（山田俊明）<br>
　『地形図でたどる鉄道史』今尾恵介、JTBパブリッシング2000年</p>]]>

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<title>第９回　私の「愛国心」　台湾大統領選挙を控えて（１）</title>
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<modified>2011-12-21T06:44:22Z</modified>
<issued>2011-12-21T07:00:18Z</issued>
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<summary type="text/plain">    執筆者プロフィール 愛国心はろくでなしの最後の砦 　　　（サミュエル・ジ...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>温又柔「失われた『母国語』を求めて」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<div class="text_m"> <br>
<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/bokokugo.html"><img alt="失われた『母国語』を求めて" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/bokokugo/bokokugo_title.jpg" border="0"></a><br /> 
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/09/09/1050.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif; padding: 50px; font: #666666;">愛国心はろくでなしの最後の砦<br>
　　　（サミュエル・ジョンソン）</p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　二十代の半ば頃は、しょっちゅう、喧嘩をしていた。もちろん殴り合いをするわけではない。全身で口論するのである。もっとも私自身は、毎回「議論」のつもりであったのだが。今思えば何とも不恰好でちっとも自慢にならないのだが、当時は、闘わなきゃ、とむやみやたらに粋がっていた。相手が、正しいと思い込んでいることが、ちっとも正しくはないんだということを、声を荒げたり、眉を吊り上げたり、ときには泣きわめいたりしながら訴えていた。そういう訴え方は、相手の心をくすぐらないどころか、かえっていっそう頑なにしてしまうというのを全然わかっていなかった。ちがう、と感じたとたん、わめかずにはいられなかったのだ。張り詰めるものがあった。伝えたい気持ちが昂じすぎて、どんどん伝わらなくなることばかりだった。<br>
　もう、五、六年も前のことである。<br>
<br>
　先日のことである。<br>
　──で、あなたはいったい、どっちを支持するの？<br>
　私は焦った。何か反応しなければいけない。そう思いつつも、言葉がうまく言葉にならない。相手は私の反応を待たずに、半ば嬉々としながら語りだす。<br>
　──ぼくはね、台湾には独立してほしいから、断然、蔡英文派なんだ。<br>
　自分の動悸が急激に速まるのを感じた。相手は、来月行われる台湾の大統領選挙について意見をたずねてきたのである。頭ではなく、体のほうが私は素直だった。噛んだ唇が震えていた。<br>
（何か反応しなければ、何か反応しなければ……）<br>
　相手は、台湾好きの日本人だった。台湾人である私よりもずっと、台湾に詳しい。わるいひとではない。むしろ、よく気の利く人で話題も豊富だ。<br>
　──どっちを支持するの？<br>
　無邪気な質問の前に沈黙していると、<br>
　──えっ。『海角七号』をまだ観ていないの？　あなたホントに台湾人？<br>
　二年前、別のひとからそう言われたときのことが蘇ってくる。<br>
（あなたホントに台湾人？）<br>
　よほど深く突き刺さったのか、その一言を私はあとあと引きずった。おかげで、いまだに『海角七号』を観ていない。意地になっている。<br>
　どうも私は、台湾を贔屓してくださる日本人に弱いらしい。何故なら、必ずと言っていいほど、お相手は私以上に台湾の事情に詳しい。台湾を取り巻くあらゆる状況を我がことのように心配している。台湾に愛着を感じている。<br>
　──へえ、あなた、台湾人なんですってね。<br>
　そういうひとからこんなふうに言われると、私はとっさに身構える。台湾人のくせに台湾のことを何にも知らないのか、と思われるのではないかと不安になるのだ。もちろん私は台湾のことを何にも知らないわけではない（はずだ）。しかし、台湾人のわりには知らないのではないか、という気持ちがどこかにある。つまり、ほかならない私自身が、自分は台湾人なのにこの歳になるまで台湾のことをよく知らずに来てしまった、という事実に対して奇妙な劣等感を抱いている。それで、いまだに初対面のひとから、台湾大好きなんですよ、と言われるとつい警戒心を働かせてしまう。<br>
　最も苦痛なのは、<br>
　──自分は日本を愛しています。<br>
と、熱っぽく語る「日本人」が、それとまったく同じ口ぶりで、<br>
　──自分は台湾を愛しています。<br>
と語るのを聞かされるときである。鬱々とする。あえて、声高に宣言しなければならない「愛」ほど薄っぺらなものはない。しかし、薄っぺらであるからこそ声も高らかに触れ回らなければならないのだろうなとも思う。<br>
<br>
　……先の知人が、選挙の話題を続けている。<br>
　──震災のための義捐金にはホントに泣かされたね。あんなにも日本を愛してくれているんだもん。台湾は、中国なんかとは全然ちがう。だからこそぼくは蔡英文を……<br>
　……台湾は日本人のために存在しているわけではない……という言葉が喉元までこみあがる。動悸は激しくなる一方だった。私はとうとう相手を遮った。<br>
　──投票には行きます。でも、それ以上はあなたと話したくありません。<br>
　声が震えていないか心配だった。一瞬のまのあと、ははは、と相手は笑った。きっと私は大人げなくむっとしていたのにちがいない。とりなすように相手は言う。<br>
　──わかりましたよ。この話題はもうやめましょう。<br>
　きっとこのひとは、私が国民党の馬英九に入れると予想したのだろう。民進党の蔡英文ではなく。<br>
　でも、そうではない。誰に投票するのか。それを明かしたくないのではない。私があなたと話したくないのは、そういう理由ではない。ちがう、それはちがう、と叫びたくなる。しかし……<br>
（きっと、わかってもらえない）。<br>
　五、六年前なら、あやうく喧嘩になるところだったろう。しかし今の私は、どうとしてでもわからせてやろう、とは思えない。不毛な闘いに労力を費やしたくないのだ。私はそっぽを向いた。<br>
（私はあなたとはちがう。私は実際に台湾で投票ができるんだから）<br>
　たとえ、あなたが私以上に台湾を「愛して」いようとも、日本人であるあなたには投票の権利がない。投票の権利は愛情や愛着とひきかえに獲得できないのだ。<br>
　それは、危うい優越感だった。あっけなく劣等感に裏返る。<br>
（その証に、私はいつまでたっても日本では……）<br>
　帰化でもしない限り、私が日本で選挙に参加することはないだろう（外国人参政権が認められる場合をのぞいて）。<br>
（投票には行く。私だって、一生に一度ぐらい投票してみたい）<br>
　胸のうちで、何度もなんども呟く。<br>
（私だって投票してみたい）　<br>
　……今年の四月、東京都知事選挙があったのがまだ記憶に新しい。東日本大震災の余震が続いていた。投票日、私はちょうど上野に出かける用事があった。花見客で賑わう上野公園を急ぎ足で横切りながら、意識せずにはいられなかった。<br>
　──このひとたち、ちゃんと選挙に行ったのかな？<br>
　都知事選挙の投票日、私は「日本人」に対してひどく攻撃的だった。いや、選挙の結果と投票率を知ったその翌日のほうがひどかった。おそらく私が一票投じていたとしても、結果は同じだったろう。それでも、そうだとしたら、もっと気分は違っていたはずだ。そうだ。選挙があるたびに私は、自分が「日本人」ではないということを痛感する。<br>
<br>
　では、台湾では？<br>
　私が、台湾でなら自分にも投票の権利があると知ったのは、前回の大統領選の直後だった。つまり、もう四年前のことになる。<br>
　それが、薄い桃色の紙であったのをはっきりと覚えている。台北から東京の家に戻ってきた父が、<br>
　──きみの分。<br>
　そう言って手渡してくれた。視線を落とすと繁体字が連なっていた。<br>
　──選舉委員會投票通知單<br>
　私は驚いて父を見上げた。<br>
　──これ何？<br>
　──投票通知。きみのだよ。<br>
　知らず知らずのうちに、鼓動が速くなる。<br>
　──私にも選挙権があるの？<br>
　私の反応が可笑しいのか、父はやさしく笑った。<br>
　──ある。だって、きみは台湾の国民だもの。<br>
　私は言葉がなかった。自分にも選挙権がある。その事実に、瞬時になじめなかったのだ。欲しいとは願いつつも、実際に手に入れるのは不可能だろうと早々に諦めて押し殺した夢が、突然叶ったのである。<br>
　──ただし、總統選だけ。きみは住民票がないから、市長選や立法院のほうはない。<br>
　父の言葉はもはや頭に入らなかった。生まれて初めて手にする「投票通知表」に見入りながら私はひたすら昂奮していた。<br>
（私にも選挙権がある）。<br>
<br>
　あれから、ついに四年が経つ。<br>
　──台湾の将来は台湾人が決める。<br>
　私の本籍は、台湾にある。<br>
　私の国籍は、台湾である。<br>
　今、手元にある私のパスポートを見ると、日本人が所有するパスポートなら「日本国旅券」とある位置に、<br>
　──中華民國 ＲＥＰＵＢＬＩＣ　ＯＦ　ＣＨＩＮＡ<br>
　と刻まれている。<br>
　日本のパスポートなら、「JAPAN PASSPORT」とある箇所に、<br>
　──TAIWAN 護照 PASSPORT<br>
とある。<br>
（私にも選挙権がある）。<br>
　胸が高鳴る。誰かを選びたい、という以上に、投票がしてみたいと思う気持ちがうわまわっているのは、不純だろうか。もちろん台湾は、私の生まれた「国」だ。両親が生まれ育ち、祖母やおじにおば、親戚たちのいる「国」だ。その「国」の大統領を選ぶ。遊び半分の気持ちではない。真剣なのだ。<br>
　……これが、「愛国心」なのだろうか？</p></div>]]>

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<title>第20回　トレセン</title>
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<modified>2012-01-11T03:26:43Z</modified>
<issued>2011-12-21T01:00:55Z</issued>
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<summary type="text/plain">  執筆者プロフィール  　黄色や青や白黒のストライプなどいつもは対戦相手のユニ...</summary>
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<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
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<dc:subject>杉江由次「蹴球暮らし」</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/sugie.html"><img alt="蹴球暮らし" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/sugie_title.jpg" border="0"></a><br /> 
<div align="right"><span class="text_s_gray"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/02/21/0959.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/imgs/mark_arrow.gif" width="11" height="11" border="0" />執筆者プロフィール</a></span></div></p> 

<p style="line-height: 200%;">　黄色や青や白黒のストライプなどいつもは対戦相手のユニフォーム姿の子どもたちが一箇所に集まり、真剣な表情でコーチを見つめていた。ネットで囲まれた広大なグラウンドの外にいる私のところまでその会話の内容は聞こえてこない。おそらくチームでやっている練習より高度なメニューが組まれているのだろう。子供たちは一言も聞き漏らすまいと静かに首を立てに振っていた。<br>
　各地区ごとに集められた埼玉県の小学5年生女子が、地区の代表チームを結成し大会を行う。通称トレセンと呼ばれるシステムの一環で、地区、県、関東、全国と優秀な子を集め、指導していくシステムだ。<br>
　私がコーチをしているキッカーズから3人の子どもたちがトレセンの招集を受けた。ひとりはすでに6年生を押しのけレギュラーになっているマイちゃん、もうひとりは幼稚園のときからサッカーを習っているルナちゃん、そしてなぜか私の娘も呼ばれたのだった。<br>
　時折冷たい風が吹きつけ、グラウンドに落ち葉が舞う。緑色の人工芝の上にキッカーズのオレンジ色のユニフォームを着た三人が立っている。私の娘が一番小さく見えた。<br>
　コーチの指示が終わると、子供たちは一斉にそれぞれのポジションに散らばっていった。ホイッスルの合図で、ボールが蹴り出され、蹴ると同時に別のポジションに移り、またワンタッチでボールを戻す。最初の何回かは戸惑いミスを繰り返していたが、そのたびにコーチが止めて、ニ、三言説明すると、そのあとは自然に動けるようになっていた。<br>
　試合は午後から行われる予定で、午前中は各地区ごとの指導の時間に充てられていた。<br>
　時計を見るとまだ試合までに相当時間があった。指導はすべてトレセンのコーチが行うため、私にはやることがない。一緒に来ていたマイちゃんのパパに声をかけると、私はトレーニングシューズからランニングシューズに履き替え、グラウンドの前の通りに出た。屈伸を繰り返し、アキレス腱を丹念に伸ばす。近くに黒々とした山が見え、小高い丘の向こうには小川が流れているようだった。そこは私が住む浦和から2時間近く離れた町だった。<br>
　ずいぶん遠くまで来たもんだ。<br>
　ストップウォッチをスタートさせると地面を大きく蹴って走り出す。街道には陽の光を浴びて黄金色に輝く柿が、枝をしならせるようにして実っていた。<br>
<br>
　監督から「トレセン招集」と名付けられたメールが届いたのは2週間ほど前のことだった。タイトルを見て、私には関係ないものだろうとそのまま削除しそうになったのだが、もしやコーチの引率が必要なのかと本文を読みだし驚いたのだった。<br>
　そこには来年に向け5年生の地区選抜メンバーを招集すると書かれており、そのメンバーになぜか私の娘の名前が入っていた。この夏、ずいぶん成長したとはいえ、まだとてもそこまでの選手ではない。ゴールすら一度も決めていないのだ。うれしいけれど戸惑いのほうが大きく、何かの間違いではないかと監督に電話をかけると「先月やった合同練習会でトレセンのコーチが決めたものだから。おめでとう」と私以上に喜んでいた。<br>
　そういえば一ヶ月程前、地区の8チームの5年生が集められ、練習会が行われたのだ。そこではリフティングやパスなど基礎的な練習が行われ、最後は4チームに分かれて試合となった。グラウンドの片隅では見慣れぬ指導者がクリップボードを片手にメモを取っていた。説明では60人ほどいる子どもたちから20人ほどのメンバーが選ばれ、地区のチームを結成するということだった。<br>
　私は監督のメールに添付されていたトレセンからの手紙をプリントアウトすると娘に渡した。<br>
「おめでとう」<br>
「えっ？」<br>
「トレセンだって」<br>
「マジ？　ウソ？　意味分かんない」<br>
　娘は、私以上に信じられない様子で手紙を受け取ると、真剣な表情で読み進んでいった。<br>
「マイとかルナはわかるけどなんで私？」<br>
「なんでだろうね」<br>
「どうしよう？」<br>
「どうしようって言ったってしょうがないだろう。突然サッカーが上手くなるわけじゃないんだし、ダメなら落とされるだけだよ」<br>
　落とされるという言葉に敏感に反応するかと思ったが、娘は違う意味で捉えたようだった。<br>
「そっか。よく見たら私の名前が一番最後にあるじゃん。おまけだね。人生一度のトレセン」<br>
「とにかく大きい声を出せばいいんだよ」<br>
「パパはいつもそればっかりだね」<br>
　二人で顔を合わせて笑い合うと、娘はトレセンからの手紙を大切そうに机にしまった。<br>
<br>
　ランニングを終えて、グラウンドに戻るとちょうど午前の練習が終わったところだった。子どもたちが戻ってきて、お弁当を食べようとシートを広げている。いつもは全部広げないと全員が座り切らないシートも、この日は3人だけだからほとんど畳んだままで十分だった。慣れない練習から解放された3人はおしゃべりが止まらない。<br>
「超むずくない？」<br>
「うん。でも面白いね」<br>
「みんな、うまいよ」<br>
　お弁当の包みを開けようとしているとトレセンのコーチから呼び出しがかかる。<br>
「午後の試合で使うユニフォームを配るから集合してください」<br>
　脱いでいたスパイクを慌てて履き直すと駆け出していった。コーチが所属するチーム名と名前を一人ずつ読み上げ、赤いユニフォームを手渡していく。<br>
　見たことのないユニフォームを手にした子どもたちは、すぐ袋から取り出し、着替え始めた。<br>
「あっ、私、8番だ」<br>
　娘はその思ったよりも若い番号に驚きの声をあげ、他の子どもたちと番号を照らしあわせていった。てっきり所属チームごとに番号が振り分けられているのかと思ったが、そうではないようだった。マイちゃんは7番で、ルナちゃんは１６番だった。<br>
「ねえ、パパ、写真撮ってよ」<br>
　最近はカメラを向けると両手で顔を隠す娘が、珍しく自分から写真を撮って欲しいと言い出した。カバンからカメラを取り出し、三人を並ばせ、シャッターボタンを押す。２枚目はそれぞれ一人づつ立たせて撮る。最後に撮った娘の姿の向こうには、雲ひとつない空がどこまでも広がっていた。<br>
<br>
　トレセンのコーチにユニフォームを返し、ベンチコートを着て車に乗ると、娘はすぐに寝息を立てて眠ってしまった。時折傾いてくる頭が、運転している私の腕にのしかかってくる。信号で停まった時、助手席のシートを倒し、横になれるようにしてやると本格的に眠り始めた。<br>
　午前中、私がランニングした道は車で行くとあっという間だった。道が混みだすこの時間帯では、おそらく家に着くまでにたっぷり３時間はかかるだろう。その頃には妻や息子はとっくに夕食を終えているはずだ。<br>
　娘は3試合中2試合に出場し、周りの上手さに引き立てられるように安定したプレイを見せた。トレセンのコーチがポジションを訊ねると誰よりも早く手を上げ「左のDF」と答えていた。試合が始まれば大きな声を出し、味方と連携し、失点を０に抑えた。<br>
　３試合が終わり、表彰式が行われた。その中心には娘が所属するチームがおり、いつの間に仲良くなったのか、隣町のチームの子と手をつなぎ、「優勝」と書かれた賞状を手にしていた。<br>
<br>
　車は予想していたとおり渋滞につかまり、大きな交差点を前にしてほとんど進まなくなってしまった。<br>
　そこは娘がいなければ、おそらく一生通ることのない道だった。交差点だけではない。トレセンのグラウンドも娘がいなければ足を踏み入れることがなかった場所だろう。もしかするとまだこれからも、私の知らない場所へ娘は連れて行ってくれるかもしれない。<br>
　車がゆっくり動き出し、交差点を越える。しかし、その先にもずっと赤いテールランプが連なっている。<br>
　私は明日、会社に行ったら同僚に今日の日の出来事を誇らしげに話すだろう。同僚たちはおそらく、トレセンの意味がわからないだろうから、選抜チームと言い替えたほうが伝わりやすいかもしれない。いや代表チームのほうがカッコイイだろう。そこまで考えたとき私は、まるで後ろから車で衝突されたかのような衝撃を受ける。<br>
　私の両親は、私のことを誇らしく思ったことがあっただろうか。<br>
　職場の人たちに自慢気に話したことがあっただろうか。<br>
　町工場を経営する父親の会社は12時になると大きな音が鳴り、誰もが一斉に手を休め身体を大きく伸ばす。旋盤やフライス盤など工作機械で真っ黒に汚れた手を工業用石鹸で洗うと、コンビニにお弁当を買いに行った人や家から持ってきたお弁当を手にした人たちが休憩室に集まってくる。<br>
　私の父親は母親が作ったお弁当を大切そうにカバンから取り出すはずだ。以前は新聞紙で包まれていたお弁当だが、今はランチョンマットに包まれている。父親や従業員にお茶を淹れるのは、経理を担当している母親の役割で、給湯室で人数分の湯のみを用意すると、こぼれないようにゆっくり注ぐ。<br>
　休憩室では、昨日見たテレビの話や野球の結果、誰かの家庭の話が話題になることが多いけれど、そこで私のことを自慢する父親の姿を思い浮かべることは難しかった。<br>
　中学のサッカー部ではずっと補欠で、チームは県大会まで進出したが賞状やメダルを補欠がもらうことはなかった。サッカーだけでなく、誰かから表彰されるようなこともなかった。<br>
　私は両親をどこかへ連れていくことができなかったのだ。<br>
<br>
　渋滞の原因は大きなショッピングモールだったようで、それを過ぎると車は勢い良く走り始めた。日はとっくに暮れ、ショッピングモールを囲むようにして出来た商店街を過ぎると、道路は街路灯では寂しいくらい暗かった。ハンドルの横に付いているスイッチをひねり、ライトを付ける。<br>
　娘は熟睡している様子で、小さくいびきを立てていた。私は大きなカーブをゆっくりブレーキを踏んで曲がっていった。</p>

<div align="center"><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/11/21/1500.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/prev.jpg" border="0"></a>　<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/sugie.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/index.jpg" border="0"></a>　<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2012/01/10/1700.html"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/sugie/next.jpg" border="0"></a></div><br /> 
</div> ]]>

</content>
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<title>第９回　スミルナに日本船はいたのか</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2011/12/16/1600.html" />
<modified>2011-12-19T05:07:31Z</modified>
<issued>2011-12-16T07:00:47Z</issued>
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<created>2011-12-16T07:00:47Z</created>
<summary type="text/plain"> 　『文藝春秋』（2004年11月号）に、私はエッセイを寄稿した。日本人とギリシ...</summary>
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<name>senden_3</name>

<email>kobayashi@hakusuisha.co.jp</email>
</author>
<dc:subject>村田奈々子「ギリシアの風」</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/greece.html"><img alt="ギリシアの風" src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece_title.jpg" border="0"></a></p>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　『文藝春秋』（2004年11月号）に、私はエッセイを寄稿した。日本人とギリシア人のあいだにおこった、ひとつの出来事について書いた。<br>
　第一次世界大戦終結直後の1919年、ギリシアは、オスマン帝国領の小アジア西海岸の都市スミルナ（イズミール）に軍を進駐させた。1830年に独立国家を形成して以来、目標としてきた「メガリ・イデア」――国境外のギリシア人を包摂し、コンスタンティノープルを首都とするビザンツ帝国を再興する夢――を実現させるためだった。やがて、崩壊寸前のオスマン帝国政府に見切りをつけた軍人、ムスタファ・ケマル率いるトルコ革命政府軍と、ギリシア軍の間で戦争がはじまった。1922年8月、ギリシア軍は大敗を喫した。<br>
　トルコ・ナショナリズムの嵐が吹き荒れるなか、ギリシア支配領域の最後の砦であったスミルナには、小アジアのギリシア人が、身の安全を守るために、続々と逃げ込んできた。そのスミルナも、9月にはトルコ軍の手におちた。トルコ軍は、ギリシア人やアルメニア人を虐殺した。街は炎につつまれ、残されたギリシア人たちは、港に追い詰められた。途方に暮れて泣き叫ぶ者。火災からの熱風と、トルコ人の暴力から逃れようと、海に飛び込む者。港はパニック状態に陥った。<br>
　当時スミルナは、東地中海の一大貿易都市で、数多くのヨーロッパ人がこの街に暮らしていた。イギリス、フランス、イタリア、そしてアメリカの船が、自国民の脱出を優先させるなか、日本の船が、絶望のどん底にあったギリシア人に、援助の手をさしのべた。船員たちは積荷を海中に捨ててスペースを確保し、最も近いギリシア領の島まで、人々を送り届けたのである。<br>
　私ははじめ、ギリシア系アメリカ人作家ジェフリー・ユージニデスの小説『ミドルセックス』で、この出来事を知った。史実とは信じ得ぬまま、調べてみることにした。すると、当時の『ニューヨーク・タイムズ』紙にも、ギリシア人を救出した日本船の記事が見つかった。日本船に助けられたというギリシア人の証言を記載した研究書もあった。<br>
　私は、ますます興味を募らせた。とはいえ、この日本船の正体は簡単にはわからなかった。手にし得た資料のどこにも、船名の記載はなかった。当時の日本の新聞も調べてみた。スミルナについての記事はあったが、日本船に言及したものはなかった。日本郵船に勤める友人や、防衛庁の知人を介して、1922年当時、日本の船がスミルナに碇泊していた形跡がないか、調べてもらった。成果はなかった。</p>

<div align="left">
<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece09a.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece09as.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">スミルナについての当時の読賣新聞の記事</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　ギリシア人研究者のなかには、1922年9月、スミルナに日本船が存在したことを否定する者もいる。日本船によるギリシア人救出劇は、当時、スミルナから脱出したギリシア人たちが作り出した、「神話」にすぎないというのである。<br>
　1922年のトルコ軍のスミルナ入城と、それに続く惨状を目撃した、在スミルナ・アメリカ総領事ジョージ・ホートンという人物がいる。彼は、そのときの状況を、『アジアの崩壊』（<i>The Blight of Asia</i>）という本にまとめた。これは、貴重な一次史料である。ただしこの本に、日本船についての記載はない。<br>
　2010年、ギリシアに滞在していたとき、イギリスの友人の仲介で、ホートン氏の娘ナンシーに会う機会に恵まれた。ナンシーは、アテネ郊外の海岸沿いの一軒家に、お手伝いさんとともに暮らしていた。親ギリシア主義者だった父親の影響もあってか、アメリカに家があるにもかかわらず、余生はギリシアで送っていた。本には記されていないなんらかの事実を、ナンシーは聞き伝えているかもしれない。私は、期待をふくらませた。</p>

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<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece09b.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece09bs.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">アテネのナンシーの家で </span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　ナンシーは、英語もギリシア語も、流暢に話した。ただし、話の中身はかなり曖昧だった。彼女はすでに90歳を超えている。自分自身の体験ではない、遥か昔のことを思い出すことが、いかに難しいかは、容易に想像がつく。スミルナの出来事は、父の著書にすべて書いてある。それが彼女の答えだった。私は、そこに書かれていないことが知りたかった。<br>
　彼女の証言を曖昧にしている、ほかの要因もあった。彼女は、父親の代理として、小アジア出身者のギリシア人協会などが主催する会に、しばしば招待されていた。そこで、在アテネ・日本大使館職員と顔を合わせ、日本船のことを耳にしていたのである。父親が実際話したことなのか、あるいは、あとから聞き知ったことなのか、彼女は混乱しているように思われた。しかも、ナンシーと私の会話に、お手伝いさんが頻繁に口を挟んできた。「日本船はいたんですよね？」「お父さんはそれを見たんですよね？」<br>
　こんな調子では、客観的な証言は得られない。私は観念した。私の個人的な興味のため、同じ質問を繰り返して、ナンシーを疲れさせるのも気がひけた。聞き取り調査に基づく、オーラル・ヒストリーというものの難しさを、わずかばかりうかがい知る思いだった。<br>
　アメリカの自宅には、父親が遺したたくさんの文書がある。だが、それを読んだことはないと、ナンシーは言った。アメリカに行きたいとは思うものの、長旅を考えると実行には移せない、とも言った。「アメリカの自宅の鍵を私に託してください。アメリカに行って、私が、お父さんの書いたものを調べますから」。冗談まじりに、私は言った。内心は本気だった。もちろん、初対面の私に鍵を渡してくれることなど、あるはずがないと、十分承知していたのだが。<br>
　最近、当時のギリシアの新聞を何気なく見ていたら、ギリシア人を救った日本船の船名が眼にとびこんできた。Τόκεϊ-μαρουと書かれてあった。「トーケイ・マル」と読める。あるいは、外国語の聞き取りにありがちな間違いで、「トーカイ・マル」なのかもしれない。いずれにしても、初めてスミルナの日本船の船名に出合ったのである。もちろん、この船名が正しいという保証もない。</p>

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<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece09c.jpg" target="_blank"><img src="http://www.hakusuisha.co.jp/essay/imgs/greece/greece09cs.jpg" style="border: solid #999999 1px; padding:2px;"></a><br><span class="text_s_gray">ギリシア人を救出した日本船についてのギリシアの新聞の記事<br>見出しの3段目に「日本人の勇敢な態度」とある。</span></div>

<p style="line-height: 200%; font-family: serif;">　1922年9月、スミルナに日本船は碇泊していたと、私は信じている。そうでなければ、どうして『ニューヨーク・タイムズ』紙やギリシアの新聞が、ギリシアと関係の薄い日本船のエピソードを記事に「でっちあげる」だろうか。当時の生存者にしても、わざわざ「日本船」に助けられたと嘘をついたところで、何の得るところもなかったはずである。<br>
　果たして、日本船の正体をつきとめることができるのか。1922年のスミルナ炎上とともに、紀元前にはじまる、小アジアのギリシア世界の三千年の歴史は、幕を閉じた。その最後の瞬間に、日本人が立ち会っていたとするなら、その事実を、確かな史料的裏付けとともに、文章として残したい。それが、近現代ギリシア史家としての、私の密かな願いである。</p>]]>

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