《エクス・リブリス》とは、「蔵書票;〜の蔵書から」を意味します。独創的な世界の文学を厳選して贈るシリーズです。
❖ 最新刊 ❖
地図になかった世界
The Known World
エドワード・P・ジョーンズ
Edward P. Jones
小澤英実訳
南北戦争以前、「黒人に所有された黒人奴隷」たちを描いた歴史長篇。日々の暮らしの喜怒哀楽を静かに語り、胸を打つ。ピュリツァー賞ほか主要文学賞を独占した話題作。柴田元幸氏推薦!
❖ 好評既刊 ❖
ブエノスアイレス食堂
Manual Del Caníbal
カルロス・バルマセーダ
Carlos Balmaceda
柳原孝敦訳
故郷喪失者のイタリア人移民の苦難の歴史と、アルゼンチン軍事政権下の悲劇が交錯し、双子の料理人が残した指南書の驚嘆の運命、多彩な絶品料理、猟奇的事件を濃密に物語る異色作!

デニーロ・ゲーム
De Niro's Game
ラウィ・ハージ
Rawi Hage
中野学而訳
内戦下のベイルートで、過酷な日常を生きる少年バッサームと、「デニーロ」と呼ばれる幼なじみのジョルジュ、二人の友情の行方は? 国際IMPACダブリン文学賞受賞作。

イルストラード
Ilustrado
ミゲル・シフーコ
Miguel Syjuco
中野学而訳
巨匠作家が死体で発見され、未完の小説が消えた!? 助手ミゲルは真相を求めてフィリピンに赴くが、捜査は難航する……。注目の新人による、多数の声をちりばめた迷宮的な長篇。

ヴァレンタインズ
Ut og stjæle hester
オラフ・オラフソン
Olaf Olafsson
岩本正恵訳
「一月」から「十二月」まで、夫婦や恋人たちの愛と絆にひびが入る瞬間を鋭くとらえた、O・ヘンリー賞受賞作を含む12篇。現代アイスランド文学の旗手による、珠玉の第一短篇集。

兵士はどうやってグラモフォンを修理するか
Ut og stjæle hester
サーシャ・スタニシチ
Saša Stanišić
浅井晶子訳
1992年に勃発したボスニア紛争の前後、ひとりの少年の目を通して語られる小さな町とそこに暮らす人々の運命。実際に戦火を逃れて祖国を脱出し、ドイツ語で創作するボスニア出身の新星による傑作長編

馬を盗みに
Ut og stjæle hester
ペール・ペッテルソン
Per Petterson
西田英恵訳
「ぼくら、馬を盗みに行くんだ」1948年、スウェーデン国境に近いノルウェーの村で、父さんと過ごした15歳の夏。老境にさしかかった「わたし」の脳裏に少年時代の思い出がよみがえる。

昼の家、夜の家
DOM DZIENNY, DON NOCNY
オルガ・トカルチュク
Olga Tokarczuk
小椋彩訳
チェコとの国境地帯にある小さな町ノヴァ・ルダ。そこに移り住んだ語り手の紡ぐ夢、記憶、逸話、伝説……国境の揺れ動いてきた土地の記憶を伝える、新世代のポーランド人作家による傑作長編。

ウィルバーフォース氏のヴィンテージ・ワイン
The Irresistible Inheritance of Wilberforce
ポール・トーディ
Paul Torday
小竹由美子訳
『イエメンで鮭釣りを』に続くトーディの第二作!ボルドーワインの虜となった若き実業家の転落を、ユーモラスかつ苦味に満ちた語りで、四つの「ヴィンテージ(醸造年)」を遡りながら描き出す。

そんな日の雨傘に
Ein Regenschirm für diesen Tag
ヴィルヘルム・ゲナツィーノ
Wilhelm Genazino
鈴木仁子訳
靴の試し履きの仕事で、街を歩いて観察する中年男の独り言。関係した女性たち、子ども時代の光景……居心地の悪さと恥ずかしさ、滑稽で哀切に満ちた人生を描く。

野生の探偵たち
Los detectives
salvajes
ロベルト・ボラーニョ
Roberto Bolaño
柳原孝敦、松本健二訳
謎の女流詩人を探してメキシコ北部の砂漠に向かった詩人志望の若者たち、その足跡を証言する複数の人物。時代と大陸を越えて二人の詩人=探偵のたどり着く先は? 作家初の長編にして最高傑作。

煙の樹
Tree of Smoke
デニス・ジョンソン
Denis Johnson
藤井光訳
ベトナム戦争下、元米軍大佐サンズとその甥スキップによる情報作戦の成否は?『ジーザス・サン』の作家が到達した、「戦争と人間」の極限。山形浩生氏推薦!《全米図書賞》受賞作品。

青い野を歩く
Walk the Blue Fields
クレア・キーガン
Claire Keegan
岩本正恵訳
名もなき人びとの恋愛、不倫、小さな決断を描いた世界は、「アイリッシュ・バラッド」の味わいと、哀しみ、ユーモアが漂う。アイルランドの新世代による、傑作短篇集。小池昌代氏推薦!

悲しみを聴く石
Syngué sabour
アティーク・ラヒーミー
Atiq RAHIMI関口涼子訳
戦場から植物状態となって戻った男。コーランの祈りを唱えながら看病を続ける妻。やがて女は、快復の兆しを見せない夫に向かって、誰にも告げたことのない罪深い秘密を語り始める……。

ミスター・ピップ
Mister Pip
ロイド・ジョーンズ
Lloyd Jones
大友りお訳
島の少女マティルダは、白人の先生に導かれ、ディケンズの『大いなる遺産』を読み、その世界に魅せられる。忍び寄る独立抗争の影……最高潮に息をのむ展開と結末が! 英連邦作家賞受賞作品。

通話
Llamadas telefónicas
ロベルト・ボラーニョ
Roberto Bolaño
松本健二訳
スペインに亡命中のアルゼンチン人作家と〈僕〉との奇妙な友情を描く「センシニ」をはじめ、心を揺さぶる14の人生の物語。ラテンアメリカの新たな巨匠による、初期の傑作短編集。

イエメンで鮭釣りを
Salmon Fishing in the Yemen
ポール・トーディ
Paul Torday
小竹由美子訳
砂漠の国に鮭を放つ!? イギリス政府も巻きこんだ奇想天外な計画「イエメン鮭プロジェクト」の顛末はいかに……処女作にしてイギリスで40万部を記録したベストセラー長編。

ジーザス・サン
Jesus' Son
デニス・ジョンソン
Denis Johnson
柴田元幸訳
緊急治療室でぶらぶらする俺、目にナイフが刺さった男。犯罪、麻薬、暴力……最果てでもがき、生きる、破滅的な人びと。悪夢なのか、覚めているのか? 乾いた語りが心を震わす短編。
「COYOTE」最新号にプラセンシア&藤井光
雑誌「COYOTE」最新号はメキシコ特集! ということで、「北へ行った者たちのことば チカーノ文学の現在」としてサルヴァドール・プラセンシアが大フィーチャーされています。彼の作品The People of Paper(小社より刊行予定)を翻訳中の藤井光さんがL.A.を訪れるなど、エクス・リブリスファンの方には見逃せない記事満載です!
関連リンク:都甲幸治&藤井光対談・プラセンシアについての言及部分
http://www.hakusuisha.co.jp/exlibris/2010/04/12/1202.html

■第7回配本『煙の樹』■2010.10.13
『煙の樹』刊行記念・現代米文学・俊英対談!(後編) 都甲幸治&藤井光、現代米文学の注目作家を語る【3】
都甲:それからもうひとつ考えるべきこととして、同時代性、同時性という問題があります。サブカルチャーの隆盛によって、世界中で同じ音楽を聴き、同じ映画を見ているという前提がある。その上で今、文学を書くというのはどういう意味があるのでしょうか。このことは日本でもアメリカでもヨーロッパでも中南米でも、誰もが思っているはずです。だからこそ「エクス・リブリス」シリーズにはロベルト・ボラーニョもアティーク・ラヒーミーも入ってくる。今、文学作品を創作する中で、社会や家族関係についてどう考えていくかは世界中の共通したテーマです。だからこそ、アメリカ文学研究が専門だからといって、日本文学や東欧文学に口を出さないというのはむしろ間違いと言えるでしょう。他の地域を研究している人たちからすれば、そういう態度はアメリカ帝国主義そのものに見えてしまうかもしれませんが(笑)。もっと色々、もっと誤解しながら読んで、不正解なことでもガンガン言わなければいけないんじゃないかと考えています。
藤井:それが実際にはいわゆる帝国主義と違うところは、世界をアメリカ色で塗りつぶすこととは真逆なこと、アメリカを世界色で塗りつぶすことであって、それこそがアメリカ文学のそもそもの強みだと思います。堅固なアメリカ的なものがあたかも存在するかのように考えるのではなく、次に何が飛び出すかわからないわくわくする感覚こそが、アメリカの一番よいところであるはずですよね。
都甲:現在の日本の状況では、マイノリティやエスニックと分類される文学と、ポール・オースターやドン・デリーロあたりのポストモダン系の文学とは研究している人が異なっていて、両者の交流もあまりない。でもポストモダン文学の研究者も中南米のマジックリアリズムを読むことはありますし、オースター自身がそもそもモーリス・ブランショの影響を受けています。現代に生きている以上、抱えている問題は同じなはずなんですよ。僕が専門にしているデリーロの小説『コズモポリス』では、若い大金持ちの金融ブローカーがマンハッタン島の朽ち果てた地区にリムジンで向かう。それは貧しいイタリア系移民の歴史を遡ることの比喩にもなっています。つまり『コズモポリス』はポストモダン文学であると同時にエスニック文学であり、世界文学であり、第三世界文学でもあるわけです。
藤井:主流と言われているオースターやデリーロやリチャード・パワーズといった作家たちからちょっと目先を変えるとなると、エスニック・マイノリティの方向になるという棲み分けがあって、あまりにきれいに分けられ過ぎていますよね。僕自身はひたすら、こんなの誰が読むんだというものだけを読み続けてきた人間でして、デリーロについても一作品だけ『ボティ・アーティスト』について書いたことはありますが、次はもう違うものをやりたいと思ってしまう。何かの、あるいはこの作家の専門、とは絶対言われたくない。多分性格なのだと思いますが(笑)、一作家・一作品について書いたらもういいかな、という気がしてしまって。アイデアが出にくくなって、気がついたら同じようなものについて書いていそうですし。
ジェシー・ボールという作家もぜひ紹介しておきたい。2009年刊のThe Way Through Doorsを読んで、これは面白いと思いまして。この作家のよいところは、まず見かけが怪しいこと(笑)。僕は作家に関しては風貌の怪しさを重視するので。まだ30ちょっとという年齢です。作品も壊れていて僕好みなんですよ。主人公の男がコネでどこかの街の調査官になる。調査官とは言っても、公園で犬を散歩させて、この公園には犬用の橋があるべきだと報告するような、変な仕事ばかりなんです。それがある日、女の子がタクシーに轢かれたところに居合わせて病院に連れて行くのですが、女の子は事故で過去の記憶を失っていた。それをよいことに彼女に勝手な名前を付け、自分の恋人だと嘘をついて連れて帰ってしまう。俺が一から君のことを教えてあげようと語り始めると、物語の中で全然関係のない話がどんどん膨らんで脱線していく。さらにその中でまた登場人物が話を始めて、また別の物語が繋がって……ようやく元々の調査官と彼女の話に戻りかけたかと思うと、またもや違う話が入ってくる。まるで物語の迷宮のようで、作風と作者の風貌があまりにも一致している。
都甲:ここまで登場したのは男性作家ばかりですが、女性作家はどうでしょう。ミランダ・ジュライはかなり気に入っているんですよ。短篇集No One Belongs Here More Than You (2007、『いちばんここに似合う人(仮題)』として新潮社より刊行予定、岸本佐知子訳)には、部屋の床の上で水泳レッスンをする話がありまして、床がドロドロに溶けたところを泳ぐときには、普通のプールよりかなり上半身の力が要るのだ……なんて具合なんです。いわゆる女性的な作品というイメージとは全然違う、おかしな方向に妄想が走っている作家です。柴田元幸さんが推しているジュディ・バドニッツもそうですね。『空中スキップ』は岸本佐知子さんが翻訳していますが、岸本さんのエッセイに近い感じの女性作家というのももっといるはずです。バドニッツの短篇にも面白いものがありますよね。妊娠したメキシコ女性が、子供をアメリカ人にするために何十回も国境を越えようとして失敗し、そのあいだに胎内で子供が育ち過ぎて、お母さんの皮膚からすぐ下まで、着ぐるみのような状態にまでなってしまう。それでもまだ生まれさせてもらえない、なんてね。おかしな作品ですが、越境、ポストモダン、人種的少数派といった諸要素が絡んできます。こういうのは、幻想的であり、なおかつ政治的な作品だと言えるでしょう。
藤井:僕は、ジェイン・アン・フィリップスのLark and Termite (2009)が、昨年読んだ小説の中で一番心に残っているんです。フィリップスは本来フォークナーの流れを汲んだ、主流といえる作風ですよね。それがこの作品ではまず朝鮮戦争からスタートするんです。出兵したアメリカ人伍長が現地の人を避難させているシーンがあるのですが、その中にはアルファベット化された現地の言葉が大量に出てくるんです。一応その英語の訳や意味も付記されていたり、流れの中で説明されたりしてはいますが、中には訳も説明もないものがあり、読者に違和感を感じさせる。さらに朝鮮半島の戦場と、アメリカの伍長の家族とがリンクするんです。機銃掃射にあって橋の下に命からがら逃げ込むと、外には死体の山が出来上がっていたというシーンから、ウェスト・ヴァージニアの十代の少年少女の話に転換する。すると、いわゆる知能の発達の遅れた男の子が近所のトンネルをふと覗き込むと、そこには死体の山が見えていた、という具合に繋がっていくんですよ。その幻想性にしても、異国の言葉が交差するところにしても、フィリップスのようにアメリカ文学の本流と言える位置で活動してきた作家が、60歳近くになってこのような新しい展開を見せたのは、これまでの作家も作風に少し疲れている部分があると同時に、新しい流れが来ていることを証明してもいるのでしょう。(了)

■第7回配本『煙の樹』■2010.04.12
『煙の樹』刊行記念・現代米文学・俊英対談!(後編) 都甲幸治&藤井光、現代米文学の注目作家を語る【2】
都甲:当たり前ですが英文科に入ると、アメリカ文学史を習うことになる。もちろんメルヴィルもトウェインもフォークナーも偉いですが、学校で習えないような作家たちが今、すごく面白いですね。さっきあげたハ・ジンなんて、よく作品をハッピーエンドにしちゃいますけれど、現代文学でそんな脳天気なことはまず禁止じゃないですか(笑)。「ニューヨークタイムズ」紙の書評でコルム・トビーンには、こういうのはバカのやることだ、とまで書かれてしまっています。でも多分、背景となっている文学の伝統が違うんですよ。我々も日本人でありながら、清く正しいアメリカ文学史、大きく括れば西洋の近代文学の枠組みで教育されているから、ハ・ジンのような作品は異常に見える。明らかに伝統が異なる人たちが、自分では近代文学にのっとっていると思いながら、微妙に不正解なものを書いている。それは本人もわかってやっているのかどうか、本当のところはわからないですけれども、読めば非常に面白かったりするんです。さらに合衆国にはイザベル・アジェンデやアリエル・ドーフマンのような作家もいますしね。
藤井:アラルコンにしてもハ・ジンにしても、自分の母国を相対化したものを書きますよね。こちらとしては勝手に、移住してきた人間が帰りたくても母国には帰れなくて、アメリカで文化の違いに苦労しながら成長して行く、という物語展開を期待するんですけれど、なぜか違うんですよね。母国・故国を題材にしていながら、それがノスタルジックにはならない。切っても切れない自分の一部なんだけれども、愛着というものとはまた違んですね。
最近の作家でもう一人、サルヴァドール・プラセンシアも、メキシコのグアダラハラ生まれで、祖国を5、6歳で離れているんですよ。現在はロサンゼルス在住です。愛着も懐古も自分の中に形成される前に移住していると、基本的な実体験はアメリカとかカナダでの生活のみということになる。すると彼の作品においては、幼少期の限定された、妙に身体に刻み込まれた形でしか残っていないメキシコ体験が総決算されることになり、幻想的な世界、妄想が入り込んでいる作風になるんですよ。The People of Paper (2005)という作品では、メキシコで暮らしていた主人公の男が、おねしょがひどくて、ついに奥さんが愛想を尽かして出て行ってしまう。仕方がないので娘を連れてアメリカに移住して、ロサンゼルス近郊のエル・モンテで生活を始めます。するとある日、上からのし掛かってくる存在がいることに気付く。土星が自分たちの生活を見通してコントロールしていたというんですよ(笑)。それで主人公が土星相手に戦争を始めるんですよ。有志を募って集団を作り、自分たちの生活のプライバシーや人生を選択する権利を守るために戦い始めるんです。そのうち登場人物の一人が、土星に辿り着く方法を見つけ出して行ってみると、土星というのは実は作者プラセンシア本人で、彼女に振られた腹いせにラブストーリーを書いて、その登場人物たちを思いのままにコントロールして憂さ晴らししていた。そんな無茶苦茶な話なんです。さらにそこに訳のわからないサブプロットが色々混ざり込んでくる。例えば、天才的折り紙職人が人生を賭けて作り上げた紙で作られた女性キャラクターいて、ハリウッドへ行って普通に恋愛経験をして、セックスするとあちこち紙がほつれてきて困ったという話。あるいは、あるプロレスラーが実はカトリックの聖人で、最後の試合で死んでしまったので列聖されるという話ですとか、メキシコ文化のようなものもごった煮で放り込んである。しかしそれはノスタルジーではなく、自分の妄想を膨らますための材料であるように思われるんですね。プラセンシアにとってのメキシコは、帰る場所ではなくて、あくまで肥やしとして自分の世界を広げて行くためのものなんですよ。
都甲:ロサンゼルスはラティーノの人口比率が多いですよね。ですからロサンゼルス自体がメキシコのようでもあり、アメリカのようでもある場所だと言える。もともとフォークナーを読んだガルシア=マルケスたちが中南米のマジックリアリズムを産み出し、さらにそれを読んだスティーヴ・エリクソンが北米マジックリアリズムを産み直した、という形での北と南の相互交流もありましたけれど、今は本の形だけでなく、現実に人間が動きながら書いている。単なる相互交流なんて甘いものではなくて、妄想も文化も土地も、人間の身体のレベルで混ざっていく。そういう中で文学が大きく変容しつつあることを感じます。
藤井:僕もロサンゼルスで、ここはカオスなんだと感じました。でも考えてみれば、僕がアメリカ文学の一番の強み、魅力として感じているのは、カオスを肥やしにした上での文学作品ということになる。妙に整然としているわけではなく、根底にカオスがあり、そこから次々に産み出されてくる禍々しくて毒気たっぷりの小説たちにすごく心を揺さぶられるんです。
都甲:そのカオスというのは、暴力的で、あまり頭のよくない感じの人が出て来ては問題のあることばかりやらかしてしまう、というカオスですよね。僕もロサンゼルスには三年ぐらい住んでいたことがあります。ありとあらゆる世界中の人たちがいて、たとえばエチオピア人街の横にはエリトリア人街があったりする。それはもう、一つの街であると同時に世界と言っていい。そんな中でみんなが挨拶を交わし一緒に生活しながら、さらに文化が混ざり合っていく。今までのアメリカ文学史はアイビーリーグなどの東部の大学に留学して学ぶ、ヨーロッパ型の整然とした文学史が正統でしたよね。そこを藤井さんは、カナダとロサンゼルスに行くという、古典的なアメリカ文学史から考えれば大間違いの選択をしておられる(笑)。でも僕は、アメリカ文学を学びにトロントに行く感覚というのは、実は大正解だと思っているんです。ハワイでもメキシコでもいい。アメリカを知るには微妙に不正解なところに行くというのがいいんじゃないですかね。
藤井:メキシコにも1年ぐらい行きたいなと思っているんですけれど(笑)。
都甲:メキシコは絶対面白そうですね。パコ・イグナシオ・タイボ二世は邦訳も2、3冊ありますが、スペインから来てメキシコで異邦人として暮らしながら、メキシコの腐敗を描いている。アメリカとメキシコを行き来しながら活動している人たちもいる。今までのアメリカ文学研究の弱さはそこだと思うんですよ。カナダから、あるいはメキシコ、ペルーから合衆国を見てみる視点も必要なんです。南北アメリカはある種の相互作用をしている不思議な混沌としたシステムだから、合衆国国内の文脈から、ちょっとずらしてみると多くのことがわかるはずなんですよ。
藤井:人の流れもそうですし、現代作家の作品を読んでいると、世界文学ではないけれど、アメリカ文学と言いながら、それこそアメリカ大陸文学とか、南北アメリカ大陸文学というくらい、そこまで広げて考えなければならない。そうなってくると限界がない。どこかで切ってしまってよいものとは思えなくなります。

■第7回配本『煙の樹』■2010.04.12
『煙の樹』刊行記念・現代米文学・俊英対談!(後編) 都甲幸治&藤井光、現代米文学の注目作家を語る【1】
デニス・ジョンソン『煙の樹』は既にお読みいただいたでしょうか? 都甲幸治さんと藤井光さんの対談の後編は、お二人が注目する作家についてお送りいたします。
都甲幸治:先日、カレン・T・ヤマシタのCircle K Cycles (2001)という作品について調べていたら、セッシュウ・フォスターなど日系やアジア系でかっこいい作家がたくさんいることがわかりまして、ウェブで検索してみると、フォスターについて藤井さんが既に学会で発表していたとわかりました。僕が思いつくことは大体先回りしてやっているようなので、藤井さんにはいろいろ教えていただきたいのですが(笑)。
藤井光:昨年読んだ中では、ダニエル・アラルコンがツボだったんですよ。ペルーのリマ生まれで、幼い頃に移住してそのままアメリカで育った作家です。おそらく本人は英語・スペイン語両方で創作できるのでしょうが、英語版の方が先に出版されています。短篇集のWar by Candlelight (2005)が一番最初に出て、次に長篇のLost City Radio (2007)。それ以外にも非常に精力的に書いていまして、「ニューヨーカー」にも載ったことで注目を集めています。まだ32歳の作家なんです。僕が英語で論文を発表する場合は他の人に見てもらわないと絶対だめですが、アラルコンのようにごくナチュラルに複数言語で創作できるというのはすごいと思います。
都甲:うーん、そこはどうでしょうか。僕はジュノ・ディアスという作家を訳しているので(The Brief Wondrous Life of Oscar Wao (2007)は『オスカー・ワオの短く凄まじい人生(仮題)』として新潮社より刊行予定、都甲幸治・久保尚美訳)、彼のインタビューやエッセイも読んでいるのですが、彼がバイリンガルな、ある程度スペイン語が入ってくる小説を書くようになったのは、あるコンプレックスが原因だったそうなんです。彼がアメリカに移住したのは小学生のときで、発音が微妙に違うため、英語を喋ると周囲に冷やかされる。これでは英語は決して完全には自分の言語にはならないだろう、それならばスペイン語と混ざったスパングリッシュで勝負すれば、他の誰も敵わないだろうと思ったそうなんですよ。ディアス自身、もちろん英語でもスペイン語でも創作できるでしょうが、そのスペイン語は純粋なドミニカ共和国のスペイン語ではないし、英語もアメリカの標準的な英語ではない。白人の保守派の人間から見れば、そういうのは堕落した英語なのかもしれません。われわれもアメリカに行けばただの外国人ですから、移民たちの抱くある種の疎外感、どこにも属していない感覚、周りから押しつけられる偽物感には、僕自身すごく興味を惹かれます。僕も大人になってからアメリカに行ったせいかもしれませんが、彼らの悲しみや怒りにすごく共感できるんですよ。
外国出身でアメリカに渡り作家になった人の短篇を、大学の授業で今年読む予定なんです。「世界文学としてのアメリカ文学」というタイトルでね。ディアスやアレクサンダル・ヘモン、ウラジミール・ナボコフなど様々な作家を考えているんですけれど、アラルコンもいいかもしれないな。これらの作家には共通性と違いの両方があると思うんですよ。東アジアから来た人、中南米から来た人、東欧から来た人、あるいは西ヨーロッパでもアイルランド系の作家ですとかいろいろでしょう。英語圏から来た人と非英語圏、アジアから来た人の体験はまた違うだろうし。だからこそデニス・ジョンソンに関しても、標準的なアメリカ文学じゃないのでは、なんて強引なことを言ってみたくなります。
藤井:ジョンソンの、例えば『煙の樹』からアメリカ人以外しか出てこないシーンを全部抜き出してひとまとめにしたら、誰が書いたかわからない。絶対にアメリカ人が書いたとは思えないですよね。
都甲:ベトナム系のリン・ディンが書いていてもおかしくない。ただリン・ディンだと超短篇になってしまうかもしれないな。ジョンソン作品にはその土地で育った人々の厚い友情や、登場人物の二人が運命的に北と南に分かれてしまうなんてテーマが出てきて、まるで東映のヤクザ映画のようです(笑)、我々が慣れ親しんでいるアジア的な情念を感じさせる箇所は、読んでいて不思議な感じさえしますね。
藤井:それに、ベトナムの湿度の高さをうまく捉えますよね。匂いの違い、肌ざわりの違いを、リアルに再現できる。
都甲:アメリカに住んでいた頃は、僕は日系人文学やアジア系文学には全く興味がなかったんですよ。日系人の作品を読んでも、彼らはわれわれのことを仲間とは思っていないだろう、なんて考えていました。実際のところ、日系人の子は日本語なんて知らないし、取り立てて僕に親切にしてくれるわけでもない。それが、日本に帰って来てからはがぜん興味が出て来ました。日系ではありませんが、「新潮」の連載で取り上げたハ・ジンの短篇集A Good Fall (2009)なんて面白いですよ。それまで彼の作品の多くは中国が舞台で、一種英語で書かれた中国文学のようだったのに対して、この本ではアメリカの中国系コミュニティ、それも一世の人たちのコミュニティを描いています。そこにあるのは、中国に対する郷愁と、言論の自由もない祖国への怒りです。中国に怒ってはいるけれど、かといってアメリカ社会に溶けこめるかというとそうもいかない。もう帰れないが前にも進めないという人の話ばかりで、僕自身すでにアメリカから戻って来ているのに、彼らの姿はとても他人とは思えないんです。
藤井:僕はお話を聞いていてラウィ・ハージのDe Niro's Game (2006)(『デ・ニーロのゲーム(仮題)』として白水社より刊行予定、藤井光訳)を思い出しました。ハージは現在カナダに住んでいる作家ですが、元々レバノン出身なんですね。ベイルートに6歳くらいまで住んでいて、その後ニューヨークに渡り、モントリオールに移り住んでいます。ベイルートですと言語的にはアラビア語圏であり、文化的にはフランスの文化圏ですよね。そこからカナダに渡ったことでカナダ文学という扱いになるわけですけれど、内容にはカナダ文学の「カ」の字も出てこない。「カナダ」という単語が3回くらい出て来るだけです。ベイルートとパリが舞台の、内戦下における二人の少年の話がメインで。
都甲:カナダ文学というのはみんな見過ごしがちですけれど、すごく大事ですよ。アメリカの隣りにありながら猛烈にアメリカに対して批判的で、世界から移民を政策的に大量に受け入れている国です。各国から来た多くの人たちが、カナダとはどういう国なのかということさえよくわからないままに暮らしている。それは文学的にも不思議なトポスと言えるのではないかと思います。代表的な作家はマイケル・オンダーチェやバーラティ・ムーカジです。ムーカジの短篇 “The Management of Grief” なんて、カナダに住むインド系のおばちゃんたちが、飛行機が墜ちて乗っていた他の家族は既に死んでいるのに、それでもカナダ政府の係官に対して決して心を開かない、という状況を描いた素晴らしい小説です。色々な国の人々が集まっている状況を、マルチカルチャーでマルチリンガルと呼ぶのはお題目としては美しいけれど、一般の人が英語を習得して生活レベルで溶けこむのは並大抵なことじゃありません。作品中でも主人公の家族は死んでいるし、地域社会では孤立しているし、本当に切ないというか、ひりつくような感じがします。

■第7回配本『煙の樹』■2010.04.12
『煙の樹』をめぐる冒険【3】藤井光
「そのブロック材は手みやげにするのか?」
「あなたにあげようと思って。"Writerʼs Block"(執筆スランプ)と書いておきました」
「そりゃいい。まさに今の俺のことだ」
ジョンソンは『煙の樹』に続く小説、"Nobody Move"の執筆を終えたばかりで、しばらくは何も書かないつもりでいるようでした。創作活動の集大成と言うべき『煙の樹』を終えて、連載の締め切りに追われながらさらに一冊書き上げた直後だけに、相当消耗していたのかもしれません(彼は腰痛に悩まされていましたが、これは大工仕事に張り切りすぎたことが原因だったようです)。
アイダホを去る前に一つだけ、ジョンソン本人の口から聞きたかったことがあります。『煙の樹』の舞台となるベトナムを始めとして、アメリカが関わる戦争を描くだけでなく、『ジーザス・サン』のジャンキーたちの世界など、彼の作品は「戦場」という言葉でしか表現できないような世界を創り上げています。僕はそのわけを尋ねてみました。ジョンソンの眼光は一瞬鋭くなりました。「創作とはそういうものだからだ」というのが彼の答えでした。アメリカ内外の戦場に身を投じ、その炎で自らを焦がすことによって、一つ一つの物語を生み出してきた、そんな誠実な作家ならではの言葉を反芻しつつ、アイダホからの帰途につきました。
そんなジョンソンが、自らの魂を奥底まで焦がして書き上げた小説が、『煙の樹』だということになるでしょう。彼の作品を読み終えたあとはいつも、何か言葉にできないような「体験」をしたという感覚があるのですが、この小説はその最たるものだと言えます。どの場面にも荒々しさとリリカルな感性がみなぎっていて、心底「しびれる」という感覚を絶えず味わうことができる小説です。『煙の樹』の登場人物の言葉に、「冒険とは終わってみるまでは楽しくないものだ」というものがありますが、この小説の翻訳という冒険は、最初から最後まで幸福感に満ちたものでした。物語に「しびれる」という感覚を翻訳でどこまで表現できたのか、僕には分かりませんが、少しでも多くの人にジョンソン・ワールドの目撃者となっていただけることを祈っています。(了)

■第7回配本『煙の樹』■2010.03.19
『煙の樹』をめぐる冒険【2】藤井光
「ヒカルも可哀想にな。こんな仕事するとは思ってなかっただろ」
「僕はちょっと違う『共同作業』を予想していましたよ」
「これを経験したわけだから、正確で立派な翻訳になると思うぞ!」
翻訳者である僕は、当然ながら『煙の樹』や創作についての話を期待していたのですが、ジョンソンは僕に別の期待をしていたようです。山麓に位置する広大な敷地のあちこちに、今年やってくる知り合いのために丸太小屋が建てられていました。その内部にロフトを取り付けて寝泊まりしやすくする、というのが目下ジョンソンの最大の仕事でした。一足先にやってきたせいで、僕がその作業に駆り出されることになりました。キャビンのあちこちに巻き尺を当て、計算した長さに木材を切り取って、必要な用材を揃えました。
しかし午後になって、その木材を運び込んで打ちつけようとすると、あちこちで寸法が合いません。というより、計算が正確だったところはほぼ皆無でした。「はて」とジョンソンは考え込んでいました。「俺には計算違いの才能があるらしいな」そういえば、『煙の樹』のあちこちにも、人数や日数の計算ミスがあったような……(作者と相談のうえ、翻訳では訂正済みです)。そんな茶目っ気もまた、彼の小説におけるひねくれたユーモア精神に一役買っているようです。
ジョンソン本人の口から小説に関して多くは語られませんでした。しかし、ヒントは意外なところにあるもので、ジョンソン家で飼っている大型犬は「大佐」と呼ばれていました。そのいかめしい面構えと、妙に人懐っこい性格を見るにつけ、『煙の樹』の物語の中心となるフランシス・サンズ大佐に見えて仕方ありませんでした。戦争に人生のすべてを捧げる一方で、人を惹き付けてやまない魅力の持ち主であるサンズ大佐のキャラクターは、この犬がモデルだったようです。アイダホから帰ったあとは、サンズ大佐が出てくるたびに、その犬のことを常に思い浮かべながら翻訳していました。
ジョンソン家にやってきて二日目から、ゲストが次々に到着し始めます。「ヒカル、今日からはすごい変わり者と相部屋になるぞ」と言われて、誰が来るのかと思っていると、やってきたのはEli Horowitz 、文芸誌McSweeneyʼsの編集者でした。実際の彼は物静かで親切な人でした。しかし、口を開けば、作家の朗読と曲芸師が剣を飲み込むショーを合体させたときの話など、やはり変なエピソードが出てきます。そんな彼が号令をかける形で、若い作家や詩人が総掛かりで小屋を一つ建てることになり、僕もまたもやそこに駆り出されました。作家によっては、翻訳者や編集者は思わぬ仕事をせねばならないという教訓だろうと思いますが、Eliは嬉々として大工仕事に汗を流していました。

■第7回配本『煙の樹』■2010.03.19
『煙の樹』をめぐる冒険【1】藤井光
「遅れてしまってすまないね」
「いえいえ、気にしないでください」
「いや、申し訳ない。でもさ、ここまで三時間運転してきたんだよな」
「それはまた……」
2008年の夏、僕は『煙の樹』の原書を片手に、ワシントン州のスポケーン国際空港の到着ロビーをさまよっていました。しばらくすると、僕と同じくらいの背丈のずんぐりした男がやってきました。『煙の樹』の作者、デニス・ジョンソンです。写真で見た印象よりも気さくな、腰の低い雰囲気の人で、待ち合わせに数分遅れたことを気にしている様子でした。
ジョンソンの自宅はアイダホ州北部にあります。毎年夏、自宅に客を招いて、ジョンソン曰く「カオス週間」を開催しているとのことで、トロントにいた僕も招待されました。もちろん行きますよ、と返事したものの、車の運転ができない僕が、公共交通機関もないアイダホ州にたどり着く方法を見つけることは不可能でした。さてどうしようと思っていたところ、ジョンソン本人が「じゃあ俺が迎えに行ってやる」と言い出して、最寄りの空港であるスポケーンで待ち合わせとなりました。彼の家から、片道三時間です。翻訳者が初対面の作者をここまでこき使うのはどうかと思いましたが、他に手段もないので、お言葉に甘えてアイダホに連れていってもらいました。
アイダホは、ジョンソン的な土地です。1970年代に突然独立を宣言した先住民の居留地や、なぜか廃材で複葉機の実物大レプリカを見事に作り上げた人の家などを次々に通り過ぎていくにつれ、『ジーザス・サン』に登場したような、人生の「まっとうな」軌道から外れていくアウトロー的な人々は、この土地から着想を得たのかもしれないな、と感じました。しかし、ジョンソンに言わせれば、「こういう連中のおかげで、アイダホの物価は安くなっていたのに、最近はそうでもないんだよな」とのことです。どうやら、この程度の「カオス」では不満な様子でした。一度動き始めたらとことん限界まで突き進む、そんなキャラクターたちを描き続けてきた作家ならではの台詞かもしれません。

■第7回配本『煙の樹』■2010.03.19
『煙の樹』読者必携・登場人物相関図(訳者作製!)
『煙の樹』は登場人物が多い群像劇でありますが、訳者の藤井光さんがわかりやすい人物相関図を書いてくださいました!

これが手元にあると、読み進めるのが格段に楽になるはずです。プリントアウトしてご利用ください。
ファイルはB5サイズになっています。本に挟んでご利用になる場合は、65%縮小でプリントし、周りの余白を切り落とすとちょうどよいですよ。


■第7回配本『煙の樹』■2010.03.16
通信Vol.7ができました
「エクス・リブリス通信」Vol.7ができました。
訳者の藤井光さんによるデニス・ジョンソン訪問記「『煙の樹』をめぐる冒険」がメインとなっております(出版ダイジェストと同内容です)。
一部の書店さんでも配布いたしますが、下記のPDFダウンロードもどうぞご利用ください。
PDFのダウンロードはこちらから
B5用紙に両面印刷し、半分に折ってご覧ください。

■第7回配本『煙の樹』■2010.03.12
『煙の樹』刊行記念・現代米文学・俊英対談!(前編) 都甲幸治&藤井光、『煙の樹』とジョンソンを語る【2】
都甲:ディスコミュニケーションというか、恋愛も含めて大事なところで言葉が通じなかったり、わかり合えなかったり。いつも人々の心が擦れ違い、まったくうまく行かない。
原文には複数の言語が出てきますが、翻訳が大変だったのでは? そもそもベトナム語の名前や地名もありますし、本文中に平気でフランス語が出て来ますよね。
藤井:フランス語のアルトー等の文章があり、その下に英訳が載っているんですが、ジョンソン本人に聞いて「日本語だけにしてくれたらいい」という言質を取りつけました。
都甲:僕はドミニカ出身の作家ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を訳しているんですが、本文中にはスペイン語と英語が出てきます。すべてを日本語にするとわかりやすくなりすぎて、登場人物同士もお互いに何を言っているかわからない、というコミュニケーションの途切れた感じがなくなってしまう。
藤井:マルチリンガルなものはなかなか翻訳が難しいですよね。ディアスもそうですが、英語圏の読者もスペイン語が出て来た時点で、一瞬なんだこれは、と思うわけじゃないですか。綴りが似ているからなんとなくわかるものもあるでしょうが、絶対完全には理解できない、その違和感を残したいですよね。
都甲:しかもスペイン語圏はすべて同じスペイン語かと思ったら、国ごとにだいぶ違うんですね。村上春樹作品を英訳したアルフレッド・バーンバウムはスペイン語圏育ちなので、ディアスのスペイン語も見てやるよ、なんて以前言ってくれましたが、実はドミニカのスペイン語はドミニカ出身の人に聞かないと分からない部分も多いんですよ。
ジョンソンはベトナムがひとつの世界ではないことも、うまく表していますね。北と南では歴史的にも違う国だったわけですし、土の色だって赤いところと黒いところではまったく異なる。さらには中国人がたくさんいるし、山岳民族の言葉もわからない。政治的立場だって、軍人か民間人かゲリラかで違う上に、言語的にも文化的にも分断されている。そんな中をアメリカ人が彷徨う。誰を信用していいのかわからないが、誰も信用しなければ発狂するしかないんです。ジョンソンは本書で、西洋人の目を通してオリエンタリズム批判をやる、という不思議な作業をしていますよね。
藤井:これは本人が幼少期をアジアで過ごしているというのが大きいのではないでしょうか。東京にいた頃の記憶も割とはっきり覚えていて、当時は女性は着物だったとか、ラムネの瓶が大好きだったとか話していました。冒頭にも横須賀と横浜が出て来ますし。10歳くらいで東京からマニラに行ってるんですが、結構悪かったみたいですね。僕が行ったときはドラッグは全部絶っていましたけれど。
都甲:スチュアート・ダイベックが2008年に来日したとき、ジョンソンと大学で同僚だったという話になったんですよ。「全米図書賞も獲って、本当にあいつは才能があって凄い奴だ」とダイベックが言うので僕は「全く同意するけれども、僕はああいう人は近所に住んでいて欲しくない」とこたえると、「今はドラッグもやめて大分真面目になったから大丈夫」と(笑)。お互いかなり尊敬し合っているようで、ダイベックも嬉しそうに話していました。
藤井:奥さんの管理下で見事に更正したようですが、それでもやっぱりあの人の隣には住みたくないかな(笑)。あまりに生活能力がないんですよ。お金なんて使い始めると止まらない。まさに創作と同じ生き方をしているんだと思うんですが、何かやり始めると止まらない、ずっとそのまま突っ走って行く。
都甲:もしかしたら『煙の樹』も、どうにか25年かけてまとめただけで、本当は草稿が膨大な量、10倍ほどもあるのかもしれないですね。
藤井:あり得ますね。プロットとは直接関係のないようなシーンの描写ですとか、プロット上から見たら脱線と思われる箇所が結構あるじゃないですか。それが魅力でもあるんですけれど、ひょっとしたらそこからもっと脱線して行けた可能性もありますね。
都甲:あるいは、その25年間に書いた多くの作品は、『煙の樹』の脱線から生まれたとも考えられませんか? 短篇や中篇が多いし、なんとなく雰囲気が共通している気もする。『煙の樹』が一本の軸になって、色々な作品を産んでいった……単に僕の妄想なんですが(笑)。
藤井:登場人物も重なっていますしね。Fiscadoroだったら、『煙の樹』の19XX年・後日譚という形で登場していても全然おかしくない。
都甲:3~4年前に大学院の授業でFiscadoroを取り上げたんですが、みんな、なんだかよくわからないけどすごく面白いねと言っていました。邦訳がないのが不思議なくらい。『ジーザス・サン』は映画化もされ、女優としてミランダ・ジュライが出ていたりして、アメリカではジョンソンは読者に愛され尊敬もされている作家なのに、どうして日本語訳が出なかったのかな。ようやく「エクス・リブリス」シリーズで二冊出ましたが、今後も続いてほしいですね。
都甲幸治(とこう こうじ)
藤井光(ふじい ひかる)
■第7回配本『煙の樹』■2010.03.02
『煙の樹』刊行記念・現代米文学・俊英対談!(前編) 都甲幸治&藤井光、『煙の樹』とジョンソンを語る【1】
遂に刊行されたデニス・ジョンソン『煙の樹』は、邦訳で600ページを超える、手応え十分すぎる大作です。そこで、最先端の世界文学ならこの方々に訊くべし!ということでお二人の文学者をお招きいたしました。ブコウスキーをはじめとする多くの翻訳と著書『偽アメリカ文学の誕生』でおなじみの都甲幸治さん、本作が初の翻訳書となる藤井光さんです。まずは『煙の樹』とデニス・ジョンソンについてお話しいただいた前編をお送りいたします。
藤井光:『煙の樹』を訳すことになって最初にびっくりするのは、この分量ですね。僕は短篇集の『ジーザス・サン』からデニス・ジョンソンに入っているもので。『ジーザス・サン』の場合は、ジョンソンの世界が、ものすごく切り詰められた、研ぎに研いだナイフの切っ先のような感じで提出されていて、読者に対して絶えず斬りつけてくるような作品だったわけですよね。それに比べると『煙の樹』はもっとゆったりとした、ある種の大河小説のようだと言える。ただ、物語としてはものすごくスローなんですけれど、その流れに身を任せて油断していると、いきなり斬りつけてくる『ジーザス・サン』から受け継がれた鋭さもある。そうして絶えず、ちょっとぼーっとしかけたら目をパーンと覚まされるというのを繰り返していくうちに、気がついたら物語に乗せられて最後まで行ってしまう。分量は途中から気にならなくなっていき……僕がジョンソン・マニアだからかもしれませんが、まだまだ訳していけるなと思いました(笑)。
ジョンソンは、短篇の場合特にそうですが、ストーリーとしてここで盛り上げてここで締めるというような起承転結をあまり気にしません。本能的な作家なんだろうと思います。『煙の樹』もスピードの緩急を繰りかえしてうねりを生み出している。そういう語り口が、いちばんすごいなと思ったところですね。
内容的にはジョンソン・ワールドをフルパワーで展開していて、ちょっと病んだ人間の病みっぷりが加速していくところが、今回は戦争というテーマの下でさらに全面展開されている。本当にこの作家は容赦しない、極限まで行くのが持ち味ですね。極限の状況を目指す強靱さもすみずみまで染み渡っていて、そこが本作の強さであると思います。
都甲幸治:なんと言っても戦闘シーンはすごいですよね。迫撃砲を受けて山を逃げ回ったり、友軍の照明弾が腹に入ってしまい廃人同様になったり。一方で、間に普通の小説っぽい部分もあります。『ジーザス・サン』は全ての文章、行、ディテール、展開が尋常ではなくて、たとえばごく短い短篇のなかで急に季節すら変わってしまうことがあった。雪が降ってきたと思ったら実は野外映画館のスクリーンの像だったとか。結末も訳がわからない。それを延々長篇でやられると読んでいて辛いんでしょうが、『煙の樹』ではある程度普通に読める部分と、密度の上がる激しい部分とが交互に出てくる。ベトナム戦争については過去にも、『ジーザス・サン』で徴兵されベトナムに行くところを逃げる話があったり、Fiskadoroではベトナムをヘリコプターで脱出した老婆が、隔離された架空のカリブ海世界の女王になったりしていましたから、ジョンソン作品の裏にはいつもベトナムや暴力といった力が働いているんだなと思ってきました。しかし『煙の樹』で彼がここまであからさまにこだわりを出してきたのには、半ば驚き、半ば納得といったところです。
藤井:ジョンソンは『煙の樹』を1982年頃から断片的に書き始め、刊行の7~8年前から本格的にまとめ始めた。長い間自分の頭の中の片隅に常にあり続けたものを、最後に改めてまとめ直したという、彼にとって総決算的な作品と言えるのでしょう。
都甲:彼が60年の人生で考えて続けてきたことが裏にあるので、内容はまったくブレていませんよね。それはおそらく、正確には自分はアメリカ人ではない、ベルリンで生まれ幼少期は東京やフィリピンで過ごした、アジア人かつアメリカ人である、という彼の経歴から来ているのではないかと思います。だからアメリカの大義について書くにしても深みがあるし、共産主義と仏教の入り混じった、ベトナム人の不思議な世界観も描ける。藤井さんは「訳者あとがき」でティム・オブライエンとの違いについて言及していましたよね。
藤井:オブライエンの場合はアメリカ側に立って戦った自分の視点だけからしか物語を書けないと明言して、自ら限定していますよね。ジョンソンはベトナム人登場人物の心理描写にもものすごく説得力があって作り物っぽくないですし、アメリカの大義を信じて戦争に突入していく登場人物をカリカチュア的に描写できるのも、相対化できる立場ならではの特権であると思います。
都甲:右翼、保守、軍人、白人、男性……アカデミックな世界でしたら、もはやそういう人々から文化の中心は別に移っている、と簡単に語られてしまうのでしょうが、現実にはたくさんいる彼らの抱く哀しみもよく出てますよね。
藤井:自分の大義を信じて勇ましく突っ走って行くけれどツルッと足下を滑べらせてしまう、そんなオチのつけ方も散見されて、独特のユーモア感覚がありますね。
都甲:共産主義から自由主義を守るとか、祖国のために戦う、といったシンプルな大義がベトナムではまったく通用しない。熱帯では大義も溶けてしまうんです。味方だと思っていた人が実は全員二重スパイだったりとか。周囲の誰もどの立場かわからないし、いったい何を守っているのかもわからない。そういう中で全てがないまぜになり滑っていく。それを悲しむでもなく、ジョンソンはユーモアを交えて描いている。主人公が暗殺されそうになっているのに、逆に暗殺者をどうやって殺すかをずっと練習するシーンなんて読むと、ジョンソンは太々しいというか、大した作家ですよね。
藤井:視点が冷めているところがあちらこちらで見受けられますね。そういう場面でユーモアをすっと出せるというのは、本人の資質でもあるんですが、登場人物たちの思いこみに対して共感しすぎていないということもあります。
都甲:ジョンソンには実際のベトナム体験はありませんよね。オブライエンなら実際に行った人が語る、というノンフィクションのふりをしながら、それをどうフィクションにもっていくかという話になるけれども、ジョンソンの場合、同時代にフィリピンや日本に住み、ベトナムに行く兵士の姿をじかに見ていながら、自分では戦っていない。
藤井:1948年生まれですから年代的には行っていてもおかしくないのですが、行っていないことで逆に、自分の直接体験に囚われすぎることがなく、少し冷めた視点で少し距離を置いた物語の作り方が出来るのかなという気もします。登場人物はフランス人もアメリカ人も、ベトナムで哲学的な妄想を勝手に膨らませていますよね。本人たちにとっては結構深刻なんですけれど、ベトナム人たちからすると理解できない世界しょうね。

■第7回配本『煙の樹』■2010.03.02
《エクス・リブリス》
の特色
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欧米はもとより、ラテンアメリカ、ロシア、東欧、アジア、オセアニア、アフリカまで、まさに「世界の文学」を幅広く紹介していきます。
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頭角を現し、注目を集めている新人、気鋭から、隠れた名作家まで、今こそ読んで新しい、ユニークで意欲的な作品を厳選します。
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柴田元幸、岸本佐知子、岩本正恵、野崎歓、鈴木仁子、沼野恭子ら第一線の翻訳家をはじめ、藤井光(アメリカ文学)、渋谷豊(フランス文学)、松本健二(ラテンアメリカ文学)ら新進翻訳家を積極的に起用します。
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装丁家、緒方修一による、各作品にふさわしい清新なデザイン、瀟洒な造本、読みやすい本文レイアウトでお届けします。
推薦のことば
「期待の現代文学」
柴田元幸
世界のいろんな場所で、日々いろんないい小説が書かれ、出版されている。だから、「この本をぜひ出したい」という編集者がいて、「この本をぜひ訳したい」という翻訳者がいて、その情熱を共有する人間が周りに何人かいれば、とてもいい現代文学のシリーズが出来ると思うし、事実このシリーズ、かなりそうなりつつあります。

「太陽との距離」
古川日出男
世界には中心はない。ある偉大な作家がAという地域にいても、Aこそが核だ、とは断言できない。ある革新的な作品がBという国(の言語)で書かれていても、Bの国語こそが今後の文学の核となる言語だ、とは判断できない。だが地球上のどんな場所も、太陽とは等距離だ。それを理解した新しい“本”だけが、ここに世界文学として届けられるだろう。

「本を片手に旅するように」
桜庭一樹
飛行機に乗ったら世界が、「おぉ!」ぎゅんと狭くなるように。タイムマシンに乗ったら、「あれ?」過去がもうすぐ外に在るように。「エクス・リブリス」の本たちが思わぬ空間と時間に連れてってくれるとよい。あてもなく旅をするように、気楽に、刺激的に世界文学を読み続けることができたらそれだけで幸せです。
今後のラインナップ
カルロス・バルマセダ
柳原孝敦訳
『ブエノスアイレス食堂』
(アルゼンチン)
第17回配本・2011年10月上旬刊行予定
エドワード・P・ジョーンズ
小澤英実訳
『地図にない世界』
(アメリカ)
蘇童
飯塚容訳
『河岸』
(中国)
アルベルト・ルイ・サンチェス
斉藤文子訳
『空気の名前』
(メキシコ)
ジョー・ブレイナード
小林久美子訳
『ぼくは覚えている』
(アメリカ)
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