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岸田國士戯曲賞

第43回岸田國士戯曲賞選評(1999年)

受賞作品

『フローズン・ビーチ』
ケラリーノ・サンドロヴィッチ

「おめでとう」を云う資格   井上ひさし

 ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏に「おめでとう」と申し上げる資格を、わたしは完璧に欠いている。七人の選考委員のうち、氏の『フローズン・ビーチ』に×印をつけたのは、わたしだけだったからである。
 わたしが最後まで推しつづけたのは、『手の中の林檎』(内藤裕敬)で、
 一、登場人物一人一人が目覚めるたびごとに「局面」が変わる仕掛け。
 二、一人の俳優をのぞく全員が複数の役柄を演じる仕掛け。
 三、幕切れが、また幕明きに回帰して、劇世界が無限につづきそうに見せる仕掛け。
 ……こういう仕掛けこそ、演劇固有のもので、小説や音楽や映像などの、他の時間芸術では代替がきかないと見て、推しつづけたのである。
 もちろん、支持者が一人では最後まで保たない。また、選考委員会を構成する一員としては、いつまでも粘っているわけにも行かない。そこでお仕舞いは、ほとんど棄権、というような態度で、ごくごく消極的に、『フローズン・ビーチ』の受賞に賛意を表明した。
 どこがそんなに気に入らなかったのかといえば、台詞によるギャグ(笑わせる工夫)が陳腐でつまらないし、冒頭の受話器の置きっぱなしは演劇的に不自然だし、せっかくの双子の設定は燃焼不足で結局は意味がないし、後半は芝居というよりはヴァラエティショウだし……数え上げれば際限がなくなる。
 もっとも市子という人物はすごい。彼女は、一々、端倪すべからざる言動に出て劇を前進させる。このような人物を創造した才能の未来を信じよう。そう思って、しぶしぶ受賞に賛成……やっと、おめでとうを申し上げる資格ができたかもしれない。そこで、
「ケラリーノさん、おめでとう」


〈意味〉の尻尾   太田省吾

 これまで、演劇が人をひきつけてきた力は何だったのだろうと考えてみると、実にさまざまな側面が浮んでくる。人が集まることによる力、俳優の魅力……そして、その中心部分に戯曲の力があり、その戯曲の力とは、人間と社会との関係の〈意味〉を探りあてるという力であったのではなかっただろうか。
 そして、その〈意味〉の把え方に変更が起き、人間と社会との関係の〈意味〉は、社会的素材をあつかうことによって保証されないといった現われを生むようになった。
 〈素材〉として、思想的素材をあつかおうと、〈表現作法〉として風俗劇であれば、それは〈思想劇〉ではなく〈風俗劇〉である。あるいは、風俗的な〈素材〉をあつかおうが、〈表現作法〉によってはそれは〈思想劇〉でありうる。
 こういった考えにそって考えると、〈表現作法〉のもつ思想性が問われることになる。その〈思想性〉とは何をどうしようとしているものなのか。  これまでの演劇が、人間と社会との関係の〈意味〉を探ろうとしていたとすると、その〈意味〉を、候補作の作家たちはどう考えているのか。
 わたしには、それぞれの作家たちが、それぞれの場で、一定の安定した環境をもち、その中で演劇を考えている、といったように見えた。それを一言で言えば〈意味の尻尾〉と思えたのだ。
 〈意味〉を浅く見つもっているのではないか、〈意味〉とは、ほとんどつじつま合せのようにしか感じなかった。
 サンドロヴィッチ氏だけが、〈意味〉に対峙して、「神秘的なんだかくだらないんだか、なんかよくわからない」ものを書いている。
 そういうものを書ききって、よそ見をしない力は、ひとつの力だと感じた。


「悪意とこけ脅しとやさしさと」   岡部耕大

 今年は疲れた選考会であった。選考委員が強力に推薦する作品がなかったからである。ぼくは土田英生氏の『きゅうりの花』に惹かれた。なんでもない古めかしい作風を装ってはいるが、そこに氏の戦略を感じたからである。やさしさの中の悪意。これは劇作術としては高度なテクニックである。好きな作風であった。長谷川裕久氏の『花冠の大陸』も一気に読ませる戯曲であった。この戯曲には体臭がある。歴史の体臭である。歴史の体臭は薄暗いものである。薄暗さから遠く離れる時代には貴重な体臭である。演出によってまったく違った舞台になるはずである。筆力は相当なものである。鐘下辰男氏の『貪りと瞋りと愚かさと』を推薦したのはぼくと井上ひさし氏だけであった。それも消極的な推薦であった。なぜなのか。ひとつは氏の卜書きへの思い込みが激し過ぎるからである。当然であるが、戯曲は卜書きに頼って読むものである。 過剰な卜書きは読む人を構えさせる。こけ脅しには、すぐに萎縮する時代である。鐘下氏の卜書きは読む人を辟易とさせる。ここにも、やさしさの中の悪意がある。それは氏の人柄のよさでもある。登場人物も悪意に満ちた人間であるが、どこかにやさしさが滲んでいる。性格は悪いが人はいい人間なのである。人のいい人間には作為がない。「松竹新喜劇」である。鐘下氏は、悪意と毒で現代を抉る劇作家であるのかもしれない。しかし、それだけの人ではない。氏の人柄と、いま果敢に挑戦しているテーマとが馴染んだ作品が読みたい。氏が書く「人情劇」は充分に怖い「人情劇」のはずである。『悪意とこけ脅しとやさしさと』である。ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の『フローズン・ビーチ』については他の選考委員の評に委ねたい。ここにも「悪意とこけ脅しとやさしさ」とがあった。


「ケラさん、おめでとう」を言いながら   佐藤信

 演劇といってもいいし芝居といってもいいのだけれど、ようするにぼくたちがかかわっているそのような分野を、ひとことで要約するのはなかなかむずかしい。けれども、「演劇とはなにか」「芝居とはなにか」についての一応の目安なしに、たとえば「いい戯曲」とか「面白い戯曲」とかの評価を下せるだろうか。人間の生身のからだと肉声をつかうぼくたちの表現は、それだけにときのうつろいの影響をまともに受ける。一年一度の選考会での討論はとても楽しいが、気がつくと、いつでも選者おのおのの芝居にたいするてんでな信仰告白の場になっている。頑固な異教徒同志がとりあえずの妥協点をさがすわけだから、まかり間違うと、異端の部分よりも、作者の演劇的良識というか、平均的な了解事項のほうに目がいってしまう。
 ケラリーノ・サンドロヴィッチは、うまい作者だと思う。そして、器用な作者でもある。 たとえば受賞作『フローズン・ビーチ』は、他の候補作、鐘下辰男の『貪りと瞋りと愚かさと』と、ほとんど同じ演劇的な素材(たぶん、主題もふくめて)によって組み立てられているようにぼくは読めた。ケラのうまさ、器用さは、『フローズン・ビーチ』と『貪りと瞋りと愚かさと』という題名ひとつをくらべてみただけでも一目瞭然だろう。それはそれでいいとして、また、ケラ自身の主観的な意図は鐘下とはまったく違っていただろうことを認めたうえで、それでもなお、『フローズン・ビーチ』という作品による今回の受賞が、ケラという作家の本質をきちんと評価できていたかという疑問は残る。
 まったく余計なお世話なのだが、ケラには、受賞のことなんか気にせずに、もっともっと好き勝手な方向へ突っ走ってもらいたい。演劇とか芝居とか、そんなもんどうだっていいじゃないか、と、平気で肩をおせる相手はそんなにたくさんいるわけじゃない。


二筋の道   竹内銃一郎

 テーマを喪失した作家がたどる道は二筋あって、ひとつは、いきなりといった感じで、自らの作品の中で、世を憂い、あるいは、声高に天下国家を論じはじめる、名づけてマッチョ街道。もうひとつは、過ぎ去った時間や懐かしい場所に思いを馳せながら、ささいな日常をリ、ア、ル、に描くナイーブ街道。道は違えど、ともに、いわゆる共同体的感性というやつが落ちつく先になっている。ヤレヤレ。
 確かに、かつてはこの国にも、「戦争」だの「貧困」だの「あからさまな不平等」だのといった、だれもが共有可能な大問題=テーマが、栓をひねれば蛇口から流れ出る水のように、容易に手にすることが出来る時代があったわけだが、むろん、そんな時代に生まれたからといって、彼や彼女が作家として幸福だったわけではあるまい。いつだって、作品は、世界とわたしはすれ違っているという作家の孤独の自覚から生まれてきたのだ。  などと書かずもがなのことを記したのは、最終候補六作の作家諸兄にある種の危機を感じたからだが、むろん、他人事ではありえない。
 受賞作となった『フローズン・ビーチ』は、ジャーナリスティックな感覚に溢れた作品である。ミステリー仕立ての趣向は小洒落ているし、時に怪しげな外国語も混入される機知にとんだ台詞の素早い応酬や、カニバビロンだのキリンの置物だのといったナンセンスな小道具がもたらすドタバタには、小手先の芸を超えたサエがあり、あけすけにセックスが語られながら卑猥さを感じさせないのも、実に今日的といえよう。けれども、野暮を承知で身も蓋もないことを書いてしまおう、ソレガドウシタ、と。この若い有能な作家にわたしが望むのは、例えば、宙に「ゆび」と書いてこと足りるナイーブな指先なんぞではなく、更になお、なにごとか延々と書き連ね続ける無謀な指先なのだ。そうだ、カフカならばきっとそうする。


正直で、クレバーな作品   野田秀樹

 ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の『フローズン・ビーチ』これが一番面白かった。
 今のむかつくという気分に、あっけらかんと正直であり、なおクレバーな作品である。特に前半が優れている。市子というキャラクターはこれまでの日本の戯曲のなかには出てきたことのない新しい狂人である。狂人の発明は、それだけで才能に値する。作品全体にも、その市子的な空気が支配している。殺意に満ち溢れているのに、結局最後までたった一つの事故死があるだけで誰も殺されはしない。そこが今の日本の、そこら中にみなぎる「くそっ、死ね!」とか「殺す!」といったコトバの気分を代表するもので面白かった。二年前の松尾スズキの作品のような疾走感はないが、現場で演劇に向き合っている戯曲だと感じた。これを推した。
 内藤裕敬氏の『手の中の林檎』も面白かった。
 「バブル」がはじけて日本人のとった態度、誰かが何とかしてくれるだろう、悪いのは俺じゃないといった気分、その責任を他者に先送りしていく日本人の体質がとてもよく書けている。しかも物語を進めていく道具立ては、二日酔いとコーヒー豆だけである。それでいてこれだけ引っぱれる面白さ。惜しむらくは最後だ。「日の本」などというコトバを出した辺りから、ちゃちくなった。
 長谷川裕久氏の『花冠の大陸』は、途中から力業で結構引っぱってくれる。近頃流行の安易で決して破綻しない作りのものからすると、ああこれが戯曲というものなのだ。その力なのだ。と少しばかり嬉しくさせてくれた。いい台詞も一杯あるのだけれど、構成同様まわりっくどさ、過ぎる説明、資料の使い方の安易さが、もうひとつだった。
 鐘下辰男氏の『貪りと瞋りと愚かさと』
 この人のはいつ読んでもとてもイヤーな感じになる。いつもじぶんを正しい所に置いて、他人をやっつける。ニュースステーションのようで私はダメだ。エリートはすべてしょうもない奴、日本兵はすべて悪い奴、常にステレオタイプだ。「ベトコンを扱う米兵のように」という要らぬ形容の卜書きに作家の創作の姿勢が現れている。
 岩崎正裕氏の『それを夢と知らない』と土田英生氏の『きゅうりの花』この二作は続けて読んでも、人物が繋がって見える。その事からも、近頃流行、このところ毎年現れる作風であることが分かる。テープレコーダーを日常のどこかに置いて再現すれば彼らの書かんとするものはできるのではないかと勘繰ってしまう。
 「戯曲は文学」そう考えるのはよろしいけれども、そこに安住してただ、だらだらと書くのはちょっと違う。制限された舞台の時間や空間を意識した方が、つまり戯曲の外部を意識した方が面白いものができる。
 すべての謎が、すぐ目の前で明かされてしまうので、物語が奥へ入っていかない。
 土田氏の作品は「嘘つきではない」と感じさせる確かさもあるし、品性とでも呼べばいいのか、そういうモノは感じる。それでも、テレビの脚本と戯曲の中間だ。大げさに書けというのではない。ただ「劇的」ということに意識がないというか、興味を失してしまっている。そんな作家の一群に思われる。


「軽さ」と「こだわりのなさ」   別役実

 今回私は、ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の『フローズン・ビーチ』を受賞作として推した。作者名とタイトルを目にすると、「どこの国のどんな作品か」と思うが、この作品の成立そのものがそのようなおもむきのもとにあり、その種の「軽さ」が、もしくは「こだわりのなさ」が、もう少し言えば、「いいかげんさ」が、イノチとなっているものと言えよう。
 登場する五人の若い女性は一応日本人であるが、舞台は「カリブ海と大西洋の間の小さな島の三階建ての別荘」ということになっている。いわば「日本の現実」を遠くに見やるレジャー・ランドであり、そのレジャー感覚に拠って、一九八七年から二〇〇三年までの、つまり「バブル期」からその崩壊までの過程を、軽やかに辿ってみせようとするものだ。
 この構図は悪くない。「日本的現実」は、「ビート・たけし事件」にせよ、「村上春樹」にせよ、「オウム事件」にせよ、あからさまに通俗的な手つきで扱われるのだが、そこがレジャー・ランドであるということで、日に光るガラスの破片のように、粒立って見える。そしてまた、採用されたそれらひとつひとつが、全過程を的確に構造化しているとは言えないのだが、それをそうした五人の女性の、時代感覚を辿るには、それなりの説得力を持っているのである。
 もちろん、問題もある。私見によれば、一九八七年から二〇〇三年までという、十六年間のくくりとり方は長すぎるように思われ(或いは、もっと長く三十年くらいにすべきか)それによって五人の女性の、時代を辿った感覚のダイナミズムが、やや弛緩している気がした。そしてまた、これは多くの選考委員も指摘していることだが、前半の書き方と後半の書き方に、違いがある。たとえば前半の、双子の仕掛けが、その場だけのものになってしまっていたりするのである。


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