|
『フローズン・ビーチ』 ケラリーノ・サンドロヴィッチ |
| 「おめでとう」を云う資格 井上ひさし |
|
ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏に「おめでとう」と申し上げる資格を、わたしは完璧に欠いている。七人の選考委員のうち、氏の『フローズン・ビーチ』に×印をつけたのは、わたしだけだったからである。 |
| 〈意味〉の尻尾 太田省吾 |
|
これまで、演劇が人をひきつけてきた力は何だったのだろうと考えてみると、実にさまざまな側面が浮んでくる。人が集まることによる力、俳優の魅力……そして、その中心部分に戯曲の力があり、その戯曲の力とは、人間と社会との関係の〈意味〉を探りあてるという力であったのではなかっただろうか。 |
| 「悪意とこけ脅しとやさしさと」 岡部耕大 |
|
今年は疲れた選考会であった。選考委員が強力に推薦する作品がなかったからである。ぼくは土田英生氏の『きゅうりの花』に惹かれた。なんでもない古めかしい作風を装ってはいるが、そこに氏の戦略を感じたからである。やさしさの中の悪意。これは劇作術としては高度なテクニックである。好きな作風であった。長谷川裕久氏の『花冠の大陸』も一気に読ませる戯曲であった。この戯曲には体臭がある。歴史の体臭である。歴史の体臭は薄暗いものである。薄暗さから遠く離れる時代には貴重な体臭である。演出によってまったく違った舞台になるはずである。筆力は相当なものである。鐘下辰男氏の『貪りと瞋りと愚かさと』を推薦したのはぼくと井上ひさし氏だけであった。それも消極的な推薦であった。なぜなのか。ひとつは氏の卜書きへの思い込みが激し過ぎるからである。当然であるが、戯曲は卜書きに頼って読むものである。 過剰な卜書きは読む人を構えさせる。こけ脅しには、すぐに萎縮する時代である。鐘下氏の卜書きは読む人を辟易とさせる。ここにも、やさしさの中の悪意がある。それは氏の人柄のよさでもある。登場人物も悪意に満ちた人間であるが、どこかにやさしさが滲んでいる。性格は悪いが人はいい人間なのである。人のいい人間には作為がない。「松竹新喜劇」である。鐘下氏は、悪意と毒で現代を抉る劇作家であるのかもしれない。しかし、それだけの人ではない。氏の人柄と、いま果敢に挑戦しているテーマとが馴染んだ作品が読みたい。氏が書く「人情劇」は充分に怖い「人情劇」のはずである。『悪意とこけ脅しとやさしさと』である。ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の『フローズン・ビーチ』については他の選考委員の評に委ねたい。ここにも「悪意とこけ脅しとやさしさ」とがあった。 |
| 「ケラさん、おめでとう」を言いながら 佐藤信 |
|
演劇といってもいいし芝居といってもいいのだけれど、ようするにぼくたちがかかわっているそのような分野を、ひとことで要約するのはなかなかむずかしい。けれども、「演劇とはなにか」「芝居とはなにか」についての一応の目安なしに、たとえば「いい戯曲」とか「面白い戯曲」とかの評価を下せるだろうか。人間の生身のからだと肉声をつかうぼくたちの表現は、それだけにときのうつろいの影響をまともに受ける。一年一度の選考会での討論はとても楽しいが、気がつくと、いつでも選者おのおのの芝居にたいするてんでな信仰告白の場になっている。頑固な異教徒同志がとりあえずの妥協点をさがすわけだから、まかり間違うと、異端の部分よりも、作者の演劇的良識というか、平均的な了解事項のほうに目がいってしまう。 |
| 二筋の道 竹内銃一郎 |
|
テーマを喪失した作家がたどる道は二筋あって、ひとつは、いきなりといった感じで、自らの作品の中で、世を憂い、あるいは、声高に天下国家を論じはじめる、名づけてマッチョ街道。もうひとつは、過ぎ去った時間や懐かしい場所に思いを馳せながら、ささいな日常をリ、ア、ル、に描くナイーブ街道。道は違えど、ともに、いわゆる共同体的感性というやつが落ちつく先になっている。ヤレヤレ。 |
| 正直で、クレバーな作品 野田秀樹 |
|
ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の『フローズン・ビーチ』これが一番面白かった。 |
| 「軽さ」と「こだわりのなさ」 別役実 |
|
今回私は、ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の『フローズン・ビーチ』を受賞作として推した。作者名とタイトルを目にすると、「どこの国のどんな作品か」と思うが、この作品の成立そのものがそのようなおもむきのもとにあり、その種の「軽さ」が、もしくは「こだわりのなさ」が、もう少し言えば、「いいかげんさ」が、イノチとなっているものと言えよう。 |


