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岸田國士戯曲賞

第46回岸田國士戯曲賞選評(2002年)

該当作品なし

選評   岩松了

 マキノノゾミ氏『赤シャツ』を受賞とするか否かだけが問題になった。私自身『坊っちゃん』という小説を読んだ記憶もさだかでないくらいなので、幸いなことに、一本の戯曲として読んだわけだが、どうしても赤シャツが坊ちゃんや山嵐の生き方を「あんな風に生きることが出来たら」と思う根拠が納得出来なかった。その対立が描かれていないと思ったのだ。ということは、やはり原作で描かれている対立によりかかっていて、マキノ氏自身が「あんな風に生きることが出来たら」ということに対する執着もないまま、この作品を産みおとしてしまっているように感じた。執着という言葉を使ってしまったけれど、それはドラマの中盤から後半への緊張感を持続させる力のような気がする。緊張感という言葉を使ってしまったけれど、それは様々な要素がからみ合って流れる時間の謂で、『赤シャツ』の後半がどうしてもやせてゆく印象になるのは、つまるところ、この“執着”に起因するのだと私には思える。早い話が、赤シャツのような生き方のどこが悪いの? それ悩む必要ある? と言いたくなるのだ。
 中谷まゆみ氏『ペーパーマリッジ』は、ここにあるカラッとした明るさに捨てがたいものがあると思ったけれど、読み終わると何か全部を言葉で説明されたようで、それ以上のものを感じる余地が残されていないことに気づく。演劇の可能性、といえば大げさかもしれないが、つまるところ「わからないこと」に対する、これもそう、執着、それが、個人の思いを個人にとどまらせない力となってゆくのだと私は思う。構成などに心得たものを感じた分、ヘタすると“お説教くさい芝居”になりがちな危険を感じた。「言葉で説明出来ないこと」に果敢に挑んで欲しい。
 長谷川孝治氏『アザミ』は、主人公の平井のポーズに終始鼻もちならないものを感じついていけなかった。そんなことは風下でしゃべってくれ、と言いたくなった。人物をもっと離れて見て欲しい。「この人は東京に出てきた方がいいね」という井上ひさしさんの言葉、私もそう思う。


選評   太田省吾

 演劇のおもしろさというものはどういったものなのか。おおよそこのようなものだといった〈制度〉的なものがあること、あるいはそれを構成している要素をまったく欠いては成り立たないことは私もわかっているつもりである。
 しかし、〈制度〉を疑うことによって生れるなにものかがあり、それによってこれまで触れられていない現在に触れようとする欲望があり、それなしにおもしろさを構成しえないということもだれもが感じるところであり、それが作品をつくろうとする動機には内蔵されているということは信じられなくてはならないところだろう。
 私は、自分を脇において言うのだが、現在の演劇にはその力が極度に落ちているように感じられ、作品の構想や工夫が、つまり〈制度〉への疑いが微温のものとなっていることを感じる。強い言葉で言いかえれば、〈制度〉の絶対化、それへの平伏状態ということが感じられる。
 今回の候補作品にもそれを強く感じさせられ、平伏しない作家の衝動の生むおもしろさに出会えなかったという感想をもった。
 ただ一作、長谷川孝治氏の『アザミ』に、〈制度〉に顔をあげる姿勢を感じるものがあった。〈制度〉によっては触れられていない生の無根拠さに触れようとする動機が読みとれ、主人公とその下の世代のズレを描くことによって、とらえにくい〈現代感覚〉の複雑さ、奥行きをとらえようとする意欲を感じ、これを推そうと考えた。
 しかし、最後の数頁のところで、その推す力に萎えが生じ、それまでの巧みなせりふもレトリックに思えはじめた。
 この作品では、殺人や自己告白は基本的な美点を殺ぐ。作品としては殺人も自己告白も実はナシだったと、ドンデン返しさせるのだが、この作品にそのような手は似合わない。もちろん、ではどう幕をおろせばよかったか、私にわかるはずもないのだが。


選評   岡部耕大

 今回は受賞作なしとなった。重苦しい雰囲気の選考風景であった。どの審査員も決定的に支持する作品がなかった。受賞作なしは12年振りとのことである。「それはそれで意味のあることではないか」とも考えた。岸田戯曲賞は演劇界への登竜門の意味を持つ賞である。破綻はあってもこれからを感じさせる戯曲を読みたかった。戯曲を書く意味とは人間への限りない賛歌であり、また人間への限りない挑戦と挑発ではないかと考える。バブル経済が破綻して以来、人間はどこか臆病になっていると思えて仕方がない。あるいは姑息、あるいは卑怯になっていると思えて仕方がない。毒が沈下した。そして、沈下した毒はそれこそ重苦しく人間を蝕んでいると思えて仕方がない。弾けるような人間が書けないものか。そんな苛立ちと焦燥感がある。
 ひとつひとつの作品に萌芽の予感はした。しかし、予め突破することを諦めている作品ばかりであった。好みからいえば和田憲明氏の『東亜悲恋』には心を動かされた。この作品の人間たちの心情はよくわかる。映像ならば成功した作品かもしれない。ただ、ラストの甘さは他の審査員も指摘された通りである。長谷川孝治氏の『アザミ』にも才を感じた。よくぞここまで告白したなといった才である。ただ、私生活的感想と嘆きしかなかったのかもしれない。強く支持をすることはためらわれた。後味の悪い選考会となってしまった。来年は全国の劇作家の作品が網羅され、より厳選された作品が議論の対象となることに期待するのみである。


選評   佐藤信

 今年は受賞作を選べなかった。選考会のあと、選考委員全員が、なんだか意気消沈して口数が少なくなってしまった。受賞作なしは何年ぶりだろうか。岸田戯曲賞の選考委員は全員が、かつてこの賞を受けた芝居書きによって成り立っている。批評家のような高みからではなく、おたがいに困難な状況を抱えながら戯曲を書いている仲間のひとりとして、なるべくならば「受賞作なし」は避けたいという暗黙の合意が、近年は出来ていたような気がする。だからなおのこと、どうしても受賞作を選べなかった今年の選考会は、苦い後味を残した。ぼくもそうだ。
 昨年が、とりわけ新作戯曲が不振の一年だったとも思われない。しかし、最終選考に残されて読んだ五作品に限っていえば、例年の水準にくらべて低調だったのは間違いない。どの作品についても、積極的に支持する委員の発言はなく、選考会そのものが伯仲した議論におよばない温度の低い経過に終始してしまった。
 ぼくは、五作品について、作者の才能や技巧の巧拙はともかく、戯曲という方法を通していまという時代になにを語りたいのか、という作者の姿勢そのものに疑問をもった。芝居は、いつの時代にも、自明なものではない。とりわけ、演劇創造の出発点となる戯曲には、作者一人一人によって考え抜かれたドラマツルギーの核が求められる。五作品からはそのオリジナルなドラマツルギーへの確信、比喩的に言えば、上演という「祭り」に招かれるべき「神」の姿を明確なかたちで発見できなかった。
 エンターテイメントであれ、実験作であれ、芝居によって来る決して少人数ではない人間の集まりの中心に戯曲はある。最終選考に残る技量をもった作者たちが、その自分の力の使い方、使う場所について、さらなる研鑽を積まれることをこころから期待する。


選評   竹内銃一郎

 五本の候補作の中で、論ずるにたるのは、マキノさんの『赤シャツ』だけであるように思われた。 この作者の作品は、これまでも幾つか読んでいる。どれも、澱みなく物語は流れ、登場人物の骨格もまことに平明で、読者・観客を楽しませるツボがしっかり押さえられたものであった。けれど、その澱みのなさ、平明さがわたしにはいささか退屈に思われ、また、読者・観客へのサービスに走りすぎて、いわゆるウソが際立ち、鼻白むこともしばしばであったと記憶する。
 今回の作品は、題名からも推察出来るように、漱石の『坊っちゃん』を赤シャツの目から見た、いうなれば「裏坊っちゃん」である。この目のつけどころがよい。物語の狂言回しに使っている、おそらく『坊っちゃん』のキヨをモデルにしたであろうウシなる女性をはじめとして、いずれの登場人物たちも、原本からうまく膨らませて巧みに描かれている。なにより、陰湿な策謀家のように思われた赤シャツが、実は、優柔不断ではあるが屈折したインテリで、物事の道理をわきまえぬ直情径行型の坊っちゃん・山嵐のために、あらぬ誤解や被害を被ってしまっている、という逆転の構図は抜群であると思われた。
 けれど、この最大の勘どころが、終盤に至って怪しくなってしまう。なぜか、赤シャツは、自らを否定し、坊っちゃん的なる人物が生きにくい時代・社会を批判し始めるのだ。作者の腰砕けとも思える。この従来の〈常識〉との妥協は、不可解といわざるをえない。更にひとこと。せっかく『坊っちゃん』を扱うのであれば、作者のユニークな「漱石論」の提示もほしいところである。
 最後に、他の四作品の感想も記しておこう。「厚顔無恥な作者の吐瀉物」「歴史観の欠如」「素人以下」「物語の背景は分かった。それで?」。不作というより、不毛、いや、頽廃だの荒廃だのといったことばが相応しい、今年の候補作。いつになく静かな寂しい選考会であった。


選評   野田秀樹

 今年は、漫画に強く影響された作品がでてこなかった代わりに、テレビの脚本に近いようなものが、いくつかありました。ここ数年、演劇空間のダイナミズムを意識した作品が激減していると思います。
 その中で、『火計り』は、欠点もありますが、スケール感があって、昨今のちまちましたものに比べると、演劇的であるし、読む者に、空間の想像力を駆りたてる作品だと思いました。出だしは些か、薩摩焼きの歴史の勉強でもしているようで、或いは、観光ガイドの話を聞いているようで、ちょいと閉口しました。これらは、この作家の言葉がこなれていないからだと思います。その意味で、この作家が若ければ、数を書けば、必ず面白くなると思います。時々、新劇がもつ悪しきお仕着せ、すなわち、(36頁の一同爆笑、一同苦笑といった)たいしておかしくもない事を役者にやらせて爆笑などと平気で書く作家の怠慢もみられます。だが、23頁の「朝鮮の火」とか47頁の「俺達も重しってわけか」といったハッとさせる台詞もあります。構造的にも、近頃の作品のように説明的、或いはステレオタイプ的でなく、何と何がどう繋がっていくのか分からないスリリングさもありました。特に中盤、42頁から64頁までの三つの時代を通っていく作り方は面白く感じました。演出家の食指が動く描き方です。欠点はあるけれども、近頃の作品に見られないダイナミズムを感じました。日本が侵略した朝鮮という、ともすれば陰惨でありきたりのものになってしまう題材がお仕着せではない、モノを作る人間の目から捉えられているのも、私がこの作品を推すもう一つの理由です。
 これに比べて、同じように韓国と日本の問題を取り上げている『東亜悲恋』は、極めてステレオタイプのテレビドラマを見ているようで、ああこうなるね、こうなるねといった予定調和型でした。特に、53頁の日本人が韓国人に謝罪をするという下りは、「演劇を使った主義主張」であり、とすれば、その主義主張に賛同できない者は、もはやこの芝居を見ることが出来なくなる。そう思うのです。私は、寧ろ逆に「主義主張を使った演劇」であって欲しいと思います。それであれば、その主義主張の好き嫌いを越えて芝居を見ることが出来ると思います。つまり、かつて演劇を使ってマルクス主義を唱えた芝居は、マルクス主義者以外は見ることが出来なかった。それが日本の演劇を不幸にした時代があったと思うのです。しかし、マルクス主義を使った演劇であれば、われわれは、好き嫌い関係なく、芝居さえ面白ければ見ることが出来ると思うのです。それは兎も角もこの『東亜悲恋』には、二つの時間が流れていて、まあ、十年前の話の方は辛うじて安っぽいメロドラマとして成立していますが、現在の話の方には全く魅力がない。人をただ泣かせようとするセンチメンタリズムが、作品全体を支配しています。きっとそれは、この作家が嫌うであろうナショナリズムに実は直結する情緒だと思います。
 同じくテレビドラマの脚本のようだと思ったのが『ペーパーマリッジ』でした。題名からして既にお洒落に出来ていて、展開もお洒落です。偽装結婚という言葉が、あれ?という感じで使われて、ペーパーマリッジという題名と共に謎を残す。一度は、なあんだ同性愛者ってことかと、がっかりもしましたが、母親の存在がふたたび謎をつくってくれます。ただ、この作品が先へ先へと引っ張っていく謎は、『火計り』のそれに比べると演劇的な謎ではありません。謎が解かれるとただそれだけです。言ってみれば、テレビドラマが、視聴者を引っ張るためにわざと作るだけの謎です。種明かしすれば、同性愛者であったり出会い系メールであったり、とても短絡的です。それは、32頁の肉親(父)の死への件りに現れています。だから、結局その話題をやめてスイカを食って種を飛ばす。この光景は昨今のテレビドラマそのものです。
 只、最後の母娘喧嘩には、男の作家ではここまでは描けない生々しいリアルさがあって面白く思いました。そして、最後の物語の終わらせ方を、ドアノブが取れてしまう所へもっていった、それこそが、この作品が持つお洒落感を象徴していると思います。そこをどう見るかでしょう。来週も続くテレビ番組の終わりのようでもあります。結局、その時間を掛けても何ひとつ抱えている問題は先へ進まなかった。そうとるか、それともこのお洒落感は、三谷幸喜などの作品にも通じる、ひとつの芝居のありようなのだと思うかです。
 『アザミ』は、寺山よりも凄い童話を書く作家(38頁)というはったりをかまして、しかも実際に、その童話を後半の中心に持っていった。これに尽きると思います。おそらく、その童話にそれだけの力があり説得力があれば、この作品は成功しています。けれども、それがなかったわけだから、これは失敗作でしょう。最初の退屈さから、とつぜん若い二人の結婚話に入った瞬間や、若い男が、ストーカーであったと分かった瞬間など、あ、おもしろいかな?と引っかかるところもあります。テレビ派とは違う演劇だけが持つ荒っぽさも時々見られます。けれども、おおむねは取り上げる素材が、古い文学青年が自慢げに話していたような、宇宙の果てとかフロイトとか秀吉とかカフカとかであって、きっとこの作家は、よくいる、自分の話がまだ面白いと思っている面白くない人なんだろうなあと思ってしまう。芝居の最後の方は、私小説的な吐きもの、すなわち演劇人にありがちな、酔っぱらって管を巻いてげろを吐いている。そんな感じを抱きました。というのは、最後まで平井とふゆの愛の形が作品の中では描かれていないからです。それは、きっと作家の私生活での出来事ではないのか、とさえ思ってしまうのです。すなわち、こちらにすれば、どうでもいいのです。
 『赤シャツ』は、ギルデンスターンとローゼンクランツのような狙いだとは思います。裏から読んだ「坊っちゃん」ということは歴然としています。そして、この作品では、裏から読んできたときに、人間の「誤解」というものが重要な形で現れます。確かに「誤解」は、喜劇の基本でもあるし、また悲劇の本道でもある気がします。シェイクスピアはもちろん、古今東西ありとあらゆる誤解のドラマがあったと思います。ただ、この戯曲は、その誤解を作品の中で消化するものでなく、誰もが坊っちゃんを読んでいるという前提で作られています。すなわち、この戯曲が取り扱っている「誤解」は、日本人なら誰もが知っている小説の「誤読」と言った形での誤解です。問題は、このように誤読しなければならない「作家の理由」が見あたらないことなのです。だから何故、野だいこは、野だいこのままで、赤シャツだけが、弁護されるような誤読の意味があるのだろうと考えさせられます。それは、徴兵拒否なのだろうか、弱い男ということなのだろうか、作品の中では最後に「今時古賀君や堀田君や坊っちゃん先生のような人間は珍しくてなかなか代わりが見あたらないが、僕のような当世流円滑紳士などはなどは、その気になればいくらでも代わりがいるということなのだろう……」と説明はしているが、腑に落ちない。明らかにつけたしのようだ。巨人引力などという言葉も使っているが、これが象徴するものも怪しい。結局、この作品はいい役者といい演出家に出会うことによって、作家の誤読の理由が初めて見つかる。そうした可能性を秘めた戯曲だと思います。


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