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『アテルイ』 中島かずき |
| 貪欲なところが上々吉 井上ひさし |
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ドタバタ笑劇のギャグ(笑わせる工夫)、演劇論的なギャグ、シェイクスピアの史劇のような構えの大きさ、太宰治の『走れメロス』を映したような友情論、そして国家共同幻想論の入門知識などのごった煮を食べたような気分になるのが、『アテルイ』(中島かずき)である。もちろん、「ただの寄せ集めではないか」と不平をいっているのではない。逆に、作者の貪欲さにほとんど感動したのだ。 |
| 『アテルイ』を推す 岩松了 |
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長塚圭史『マイ・ロックンロール・スター』:西谷という人物をもっと多面的に視て欲しい。まわりの人物との関係が単調すぎ。だからストーリー以上のドラマが生まれてこない。亀やハムスターなど、ネタどまりになっているのが惜しい。 |
| 意識化の欠乏 太田 省吾 |
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私は受賞ナシと考えていた。選考委員の意見からも、〈コレハどうしても〉と強く推す言葉は聞かれなかったし、したがって受賞ナシの考えを積極的に覆すこともできずに選考を了えた。 |
| 例えば、三好十郎のように 岡部耕大 |
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今年も議論が白熱した。「特出した戯曲がない」というのが選考委員全員の意見であった。 わたしは蟷螂襲氏の『前髪に虹がかかった』を推薦した。言葉の遊びや風景が懐かしかったからである。もう、古いとか新しいとかで戯曲を議論すべきではないと考えたからである。ただ、この戯曲は新しがろうとしたばっかりに折角のテーマを分散させた。「アングラの行き着く果て」といった選者もいたが、わたしはそうは考えなかった。出発はどこから出発してもいい。その書き手の素直な素材に辿り着くことが大切であると考える。この戯曲を読み辛くしているのは舞台設定と役名である。もっと素直に書いてよかった。その意味ではこの書き手は「人情物」を堂々と書けばいい。物を書くというのはなにかに拘ることだともいえる。故郷や人間や時代や思想。どこかに拘って物を書く。 長塚圭史氏の『マイ・ロックンロール・スター』は読み応えがあった。言語感覚が豊かである。しかし、ラストの20ページぐらいは頂けない。あれをやってはいけない。折角の氏のセンスがナンセンスになったのではないか。 |
| アングラ演劇の「なれの果て」 佐藤信 |
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今回も、選考会での激論の対象になるような候補作はなかった。もしかしたら選ぶ側であるこちらの感性と現在の演劇のありようとのズレが、もはや並大抵の理屈ではどうにもならないところに来ているのかも知れない。 |
| 事件と問題 竹内銃一郎 |
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今年も該当作ナシでいいのではないか。そして、二年続けて受賞作を出せなかった責任をとって、選考委員は総退陣する。たまにはこれくらいの〈事件〉や〈問題〉を起こしても、などと不謹慎な思いを抱えながら、選考の場に赴いた。 |
| 日本の漫豪 野田秀樹 |
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われわれより少し上の世代あたりから、漫画というものを、とてもよく読むようになった。日本の漫画は今や世界的に見ても大きな力を持つ文化だ。当然、その影響力は日本のあらゆる文化におよんでいる。小学生の展覧会の絵などを見ても、およそわれわれの時代には許されなかったお目々パッチリの絵が並んでいる。文学然り、そして日本の戯曲においても、もはや漫画の影響力は否定しがたい。 |


