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岸田國士戯曲賞

第50回岸田國士戯曲賞選評(2006年)

受賞作品

『ぬけがら』
佃典彦
『愛の渦』
三浦大輔

趣向の勝利   井上ひさし

 劇作家が第一に心がけなければならぬのは、この、人間最古の表現形式である演劇に対して、愛と志があるかどうかを自問すること、そして同時に何か飛び切りの趣向を発明することである……と、評者は堅く信じている。愛と志は、作家それぞれに固有のものだから、ここでは問わないし、また問うこともできない。けれども趣向は別だ。趣向という言葉はいかにも軽そうに見える。評者にしても、かつて「芝居は趣向」と発言したために、ずいぶん損をした。そんな軽いことを口にする作家の作物など陸でもない、つまらないものにちがいないと、極めつけてくる人がまだまだ多いからだ。そこで、趣向をきちんと説明しながら、今回の受賞作二編をうんと誉めることにしよう。
 趣向とは意匠のことだ。俳諧でいえば句の構想、歌舞伎でいえば構想上の工夫、そして現在のわたしたちが心血を注いでいる戯曲でいえば、〈主題と渾然一体となって全編にみなぎり渡る舞台の上の知恵ある仕掛け。そのことによって観客に新しい体験をさせる手〉ということになる。それを欠くものは、もはや戯曲ではない。
 『ぬけがら』(佃典彦)についていえば、父親が父親から抜け出し脱皮して、しまいには六人になり、しかも脱皮するたびにその父親たちが若くなって行き、そのことによって戦後史を語るという知恵ある仕掛けが、この作品の趣向ということになる。つまり父親たちの戦後史の記憶(歴史)が、いま深刻な不安に慄いている息子を立ち直らせるという趣向である。その六人の父親たちの語る戦後史が、それぞれありきたりであることや、したがって息子の立ち直りの瞬間がご都合主義に陥っていることなど、欠点もないではないが、しかし趣向そのものは常に全編に燦然と輝いている。これは一つの偉業ではないか。
 『愛の渦』(三浦大輔)についていえば、二十世紀世界演劇の一方の主流をなしていた極端なリアリズム(ふつう、くそリアリズムと呼ばれる)で最先端の性風俗を活写したらどうなるかというのが、その趣向である。およそ小説や戯曲の値打ちは、自分と他人の関係をどれだけ深い機知をもって描けたかで決まるが、この作品はその「人間にとっての人間関係」をくそリアリズムに徹して精緻に描き切った。徹底したことによって、そのくそリアリズムを乗り越えて―通俗的なストーリーをもっと盛り込んでもらいたかったという微かな不満はあるけれども―とにかく現代人のいじらしいまでに矮小な自我を、人間に対する普遍的な愛にまで高めた。これまたすばらしい力業である。
 今回の候補作はいずれも佳編、しかし右の二作は、その趣向の深さと高さにおいて他を抜いていた。


最後三ツ巴になった   岩松了

 三浦大輔『愛の渦』には教えられることが多い。また考えさせられることも。或いはきわめて安易な発想のもとに生み出された戯曲では、と思ったりもするが、候補作を並べてみる時、結局際立っているのは、その微細にして冷静な人間の描写である。そこには人間の〝演技する必然〟が描かれている。他人の視線を浴びる生身の体が精神もろともくりかえす攻撃と防禦、そしてつまるところ無防備であるという人間の喜劇性。あらゆる登場人物を無防備たらしめているのは、外側に立てる人間などいないというこの作者の確たる演劇観である。そう考えていく時、果して安易な発想のみであったか、と思わずにはおれぬ。むしろ閉塞の演劇状況に対して苛々しくも、〝基本にかえろう〟と叫んでいるのではないかとも思えてくるのだ。それほどまでに虚飾のない会話劇だとも言える。なぜ男5と女5をあれほど粗雑に扱ったのか、という難くせはつけたくなるが。
 『愛の渦』と対極にあるのが佃典彦『ぬけがら』である。私はこの作品を積極的に推すことは出来なかった。父親がぬけがらになること自体は面白いとも面白くないとも言える。アイデアとはそんなもんだ。それぞれの父に昭和史を託しているところがいかにも浅いから、アイデアが面白くない方に傾く。だったらぬけがらになる予兆にドラマを見い出してくれよと言いたいが、すでに止まる気配はない。父5から父6へのぬけがらに「お」と私自身は止まったのだが。ラスト、ヘアピンでとめられた飛行機をもっと現実的に(つまり、ただの飛行機に)見る目さえあれば、ぬけがらの意味もかわってきたように私には思えた。
 長塚圭史『LAST SHOW ラストショウ』。導入の父親の恐怖がもっとつづけば、と思わずにはいられない。謎が謎でなくなってゆくのは父親の〝幼さ〟に原因しているように思われる。暴力に斜行していくのは同じ原因だ。舞台上で人肉食うより、何もしない方がよっぽど怖い場合だってある。観客は、与えられないものをこそ奪いとろうとするのではあるまいか。突出するものが大きいドラマだとは限らない。そのことを観客は知っているからだ。とはいえ、作者の利かん坊のような傍若無人と笑いに対する執着に独自のエネルギーを感じ、私は票を投じたのだが。


アイデアと筆力に一票   鴻上尚史

 『LAST SHOW ラストショウ』の水子の出現には感動した。選考会に参加する時点では、この作品の授賞を当然と考えた。けれど、議論を続けるうちに、強引な展開に、キズを感じるようになった。
 勝手に思えば、うまい俳優を得て作品を書くことのマイナス面と言えるのだろうか。上演を見ている限り、展開になんの破綻もないように感じた。けれど、活字で読めば、かなり、強引な展開を感じた。
 『ぬけがら』は、アイデアに感動した。ただし、このアイデアをもうひとつ、展開させるとかなりな傑作になったのではないかと感じた。
 特に、脱皮するきっかけが明確にあると、より、面白くなったと感じる。なんらかの理由が明確にあって、脱皮をすれば、より、父親の人生に感情移入できたと思う。また、若い母の登場の仕方が、とても、もったいないと感じた。けれど、世代の父親がずらっと並ぶというアイデアに、一票を投じた。
 『愛の渦』に関しては、とにかく、うまい。うまいけれど、世界としては、とても狭い。
 登場人物の中に、誰からも相手にされないおばちゃんやおじさんがいれば、より、面白くなっただろうと感じる。
 みんなが理性的で、お行儀がいいことが、リアルであっても、面白くない。作者は、とても誠実な人で、自分が書けることしか書かないのだと思うのだが、リアルなレベルで異物が登場すれば、もっと面白くなったと思う。ともあれ、その筆力に一票を投じた。
 その他の作品としては、『音楽劇 JAPANESE IDIOT』に可能性を感じた。ただし、後半の幼女にいたずらの展開がよく分からなかった。もっと堂々と、おばあちゃんの人生を展開した方が、より、素敵な作品になったと思う。とても惜しい作品だと感じた。
 『乱暴と待機』は、作者の若さに可能性を感じた。大きく育ってほしいと願う。


きっぱりとした決意で走りきる   坂手洋二

 選考会は激戦で、一筋縄ではゆかなかった。選考委員が持論を披露し、やがて幾ばくかの無念さとともに推薦作の弱点を呑んで一歩後退していくという展開だった。あるいはある瞬間、私たちは確実に、井上戯曲塾の生徒になっていた。
 振り返ってみると、やはりアイデアが重要だと思う。なるべく早い段階に於いて斬新なアイデアで人の心をつかみ、その期待を裏切ることなく丁寧に組み立てていった作品が支持を得た。
 最初、『ぬけがら』と、少し消極的にだが『乱暴と待機』を推した。『乱暴と待機』は、「ラブ・コメではないか」と言われてみれば、むしろそう見られもするだろうということ自体が「予定」されており、その独自の弾力性が作品の「強度」に向かわず、ごまかしを感じさせる結果になったかもしれない。どこか突き抜ける部分が必要だった。
 『ぬけがら』の「脱皮する父親」というアイデアとそれを定着させる手腕は評価されるべきだ。幾つかの選択の恣意性に理由が示されていないという欠点もある。だがこの戯曲では、視点となる四十歳の息子の感じている「空気」のほうに眼が向けられており、その構造が傷を埋めていった。
 『愛の渦』の、丁寧かつきびきびと出来事を追う展開は、ドライでいい。ところが終盤、スワッピングを目的に来たはずのカップルの造形と、店長と常連の女の関係で、急に古くさく感じられてしまう。「あえてそうしている」のだとすれば、それを証明する何かがほしかった。
 『LAST SHOW ラストショウ』で、父親が妊娠中の息子の妻の腹を殴り始めたときのインパクトは、新しいドラマを誕生させる可能性を孕んでいた。しかしその後の展開は「こんなこともありうる」という安直さに流れてしまったのではないか。
 『キャベツの類』の、キャベツの形状が脳に似ていると思えなくもないという素朴ゆえに説得力ある着眼はすばらしい。だからこそ「棺桶のような箱」「さきいか」等についても、なぜそのものでなければならなかったか納得させてほしかった。
 『風来坊雷神屋敷』は、「阿呆丸」という無垢の存在、「神との戦い」に注目した。しかしプロットは尻すぼみで、「提示」だけで終わってしまった。
 受賞二作の共通点は、「こんなこともありうる」という入り方であったとしても、その提示に責任を取り、最終的に「そうでなければならない」というきっぱりとした決意で走りきったところだろう。アイデアは、劇の構造そのものと相互に補完しあうよう配置されたとき、力を発揮するのだ。


後味の良さと悪さと   永井愛

 佃典彦さんの『ぬけがら』は積極的に、三浦大輔さんの『愛の渦』は消極的に推した。
 『ぬけがら』は、年老いた父親が脱皮を繰り返し、ついには息子よりも若くなってしまうという着想が卓抜だ。その果てに、息子は「ぬけがら」となった八十代から二十代の父六人に、ああだこうだと言われながら、一緒に冷や麦をすすることになる。老いた父に混在する記憶と、中年の息子を取り巻く悲劇を、爆笑の仕掛けで展開させた作者の力量に感心する。ベタつかない台詞もいい。それだけに、より深い作品にもできただろうという思いも残る。各年代において、父がどんな生き方をしたのかがもっと掘り下げられていたなら、「年下」となった父と息子に新たな関係が生じたなら、それらのすべてが息子の現在に影響したなら……などと、つい欲深くなってしまう。しかし、あらゆる引き算をした上でなお、この作品は爽快だ。この作品の後味の良さは、ほのかな希望を感じさせたラストにあるのではなく、このような着想を得るに至った劇作の姿勢そのものにあると思う。
 後味の悪さで言えば、『愛の渦』が一番だろう。「乱交パーティー」のナマ写真につい見入ってしまったようなバツの悪ささえ感じさせる。だが、直接的には描かれない「乱交」を見入った気分にさせたのは、作者の精緻な筆力に他ならない。コントラストの妙も巧みだ。「みだら」とされることを禁欲的なまでに抑えた筆致で描いたこと。セックスには大胆なはずの参加者たちが、会話において最も羞恥心を発揮する様子。コントラストは際物になりかねないこの題材に、ギリギリの知的輪郭を与えている。
 長塚圭史さんの『LAST SHOW ラストショウ』、本谷有希子さんの『乱暴と待機』も興味深く読んだが、前者では父親の、後者では山根という男の、「復讐」の理由が腑に落ちなかった。そもそも種明かしをするような律儀さは、両氏の作品スケールを損なってしまうような気がしてならない。


『演劇的か、それとも、そんなことはどうでもいいのか、それが問題だ』   野田秀樹

 私は、前田司郎氏の『キャベツの類』と長塚圭史氏の『LAST SHOW ラストショウ』を推した。
 『キャベツの類』は、とぼけた味が秀逸である。使われているイメージはまことに演劇的である。直接には神を最後まで名乗らずに、神話の世界が構築されている。空間と役者の肉体を意識した台詞が巧妙である。戯画的笑いを羅列するハヤリの作風に阿ることなく、演劇ができることの面白さを知っている作家である。「記憶」の扱い方が安易だったことが、他の選考委員の反対理由になった。私は、そこに目を瞑ってもこの作品は受賞に値するものだったと今でも思っている。
 『LAST SHOW ラストショウ』は、そういう意味でハヤリの作風ということになるのかもしれない。乱暴な言い方をすれば、漫画の噴出しのような台詞である。だが、というべきか、だからというべきか、光る台詞が多い、そして上手い。構成的にも、出現した《父》の妊婦への暴力はドキッとさせられた。私は、この作家が、今時の日本では、切実な姿として語られない《切実な父》というものを、切実に語り続けようとするその姿勢を買う。
 受賞作の三浦大輔氏の『愛の渦』は、一番すんなりと興味深く読み続けることができた。台詞は面白い。構成的にも破綻が無い。だが私は、このスキャンダラスであり続けることだけで、人間の興味を惹くというスタイルに、ちょっとだけ、まだ考えさせてくれという思いが強い。スキャンダラスなものというのは、演劇が持つ一つの属性には違いない。だがテレビや昨今のインターネットが生み出している性風俗を中心としたスキャンダライゼイションは、われわれが今失敗しようとしている大消費文化の一環に過ぎないのではないか。タブーを犯しているように見えて一番安全な社会との距離のとり方のように私には見えるのだ。五年前なら、真っ先にこの作品を推した気がする。だが今は、私の判断にご猶予をいただきたい。受賞そのものには反対しない。
 もう一本の受賞作、佃典彦氏の『ぬけがら』は、始まりのイメージはすばらしかった。ぬけがらの《父親》が舞台にあふれている。演劇的である。それだけで詩である。ただ、このイメージだけで最後まで引っ張っていくには、あまりに弱い。この作家にとって、《戦争》や《父》はどのくらい切実なものなのだろう。最後、ヘアピンの奇跡という言葉で、生き残った特攻隊員を語るところに、私は安易さを感じる。ヘアピンというモノに、作品の最後の一点を賭けたのだとしたら、作家はその《ヘアピン》に徹底的にこだわるものではないのか。あまりにも唐突で説明的に出現している。そこが、私の不満である。演劇的に。


「現代口語演劇」の保守化をまぬがれて   宮沢章夫

 九〇年代の半ば、「現代口語演劇」という言葉が生まれた。もちろん大きな意義はあったし、そこからまた演劇の議論が生まれたといまでも考えるが、それと同時に、「現代口語演劇」の持つ危うさや脆さもまた、あらわになっている印象がある。
 もちろん、演劇についての疑いのなかから「現代口語演劇」は登場した。それが形骸したスタイルでしかなくなると、「現代口語」は、それに見合った俳優のからだ、あるいは、戯曲によって描かれる世界が、ややもすると矮小化する。それは保守化である。よほど演劇について意識的でなければ、「現代口語演劇」は保守性を帯びるが、あらかじめその表現スタイルが内包していたものだ。
 まず私が、前田司郎氏の『キャベツの類』を推したのは、一見すると、なんでもない書き方をしながら、きわめて大きな世界をとらえていると読めたからだ。これもまた、「現代口語」によって書かれた戯曲だと考えられる。しかし、その保守化という隘路からまぬがれているのは、演劇への意識のありかただ。疑いがそこにはある。けれど、なんでもないように書く。いま、この状況のなかで、演劇をする姿がその戯曲にあらわれ、そのたたずまいがとても好ましく感じられた。たしかに、ほかの選考委員が指摘した戯曲としていくつかの瑕疵はあったにしても、なんでもないかのような言葉のなかに、現在があり、そして、べつの方が評価したような神話的世界がそこに広がっている。
 そして、三浦大輔氏の『愛の渦』だ。
 ほんとうに面白かった。「乱交パーティー」というきわめてスキャンダラスな素材を扱うことで、その側面ばかりに目をとられてしまうが、その書き方の、緻密さや、ひとつひとつの行為をていねいに表現してゆく筆致が、素材と奇妙な対照をなして興味深かった。登場するのは、ぱっと見には、ろくでもない人物ばかりだ。だが、そうしたグロテスクな人間関係が苦い喜劇になっている。男の携帯電話から、パーティーに参加した女の履歴を消させるだけという一連の行為を作家が執拗に描くとき、そのどうでもいいような手続きがきわめて現実的で、人はこうした、どうでもいい行為の連続のなかに生きているのを、読む者は知る。やはり苦い喜劇だ。
 全体的には僅差だったと思う。長塚圭史氏の『LAST SHOW ラストショウ』における、義理の父親が、妊娠しているかもしれない嫁の腹を殴るという場面の、衝撃と鮮やかさは見事だった。そこまでに至る書き方はうまいとしかいいようがない。
 最初に書いたように、演劇に意識的でありつつ、けれど、「現代口語演劇」の陥穽や隘路から抜け出し、保守化からまぬがれている作品に私は興味を持った。それが現在なのだと考える。


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