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岸田國士戯曲賞

第52回岸田國士戯曲賞選評(2008年)

受賞作品

『生きてるものはいないのか』
前田司郎

破天荒な快作   井上ひさし

 演劇的な仕掛けと構造──これがなければ、いかにその台詞が優れていても、どれほどその物語がおもしろくとも、それは演劇ではなく、たぶんそれは小説かなにか他のものにちがいない。これが評者が戯曲を読むときの最大の関心事である。
 『偏路』(本谷有希子)は、この作者にしては珍しく演劇的仕掛けを掛け損ねていた。才智と未来に富むこの作者の名誉のために言い直すなら、「ここにすべてを他人のせいにしてしまう人たちがいる。ところが劇の展開につれて、それまでとは一転して、彼らは責任を取ることを競い合う」という揺さぶりはすばらしいのだが、その秀抜な思いつきが意味の上だけで終始していて、舞台の上にはっきりと具体化していたとは言いがたい。揺さぶりが構造にまで達しなかった。
 事情は、『笑顔の砦』(タニノクロウ)でも同じだ。二つの部屋の同時進行という、良果(りょうか)の期待できる劇的仕掛けが用意されてはいたが、その発動が遅すぎた。発動までの舞台の「空気」を、作者は散文詩のような文体で懸命に表現しようと試みるが、それが生みだしたのは、残念ながら、劇の「空転」だけだった。痴呆症患者の老婆と、彼女を介護するふしぎな女の心理と行動には凄味があって、そこに紛れもなく作者の才能が現われていたが、とにかく仕掛けの時機が遅かった。
 散文詩や小説の地の文のような非演劇的言語にたよる癖は、『青ノ鳥』(矢内原美邦)にも現われていて、たとえば、次のようなト書きがしばしば出てくる。
 〈高校生のころ普通科に進学するか芸術科に進学するかで迷っていたとき、母親に「普通科がいいよね」とあっさりいわれて普通科に進学してしまった、あの頃の私を思い出してのダンス〉
 文としてたしかに成立しており、おもしろくないこともないが、これが果たして舞台で成立するだろうか。この戯曲には、「目の前には無限の未来があるが、その未来は無限に閉ざされている。すなわち世界はすでに終わっている」という卓抜で壮大な主題が仕掛けられており、一〇メートル四方のことにしか関心がないような最近の戯曲の風潮にうんざりしていたところだから大いに好感を抱いたが、巨(おお)きな世界を示すときは、簡潔に書くにかぎる。言葉の量が増すたびに肝心の「世界」が遠ざかって行くというところに、劇的文体のむずかしさがある。過剰な言葉がせっかくの主題をすっぽりと埋めてしまった。
 『Get Back!』(青木豪)には、冒頭の劇(はげ)しい場面に、劇の流れがどの時点でどのように追いつくかというおもしろい仕掛けが仕込まれている。しかしこの仕掛けは危険だ。よほどうまく企まないと、劇がちっとも前進しないからだ。しかも温(ぬる)い内容と台詞のせいで(それ自体は気持のいい温さなのだが)、冒頭の劇しい場面に追いつきかねている。劇の後半が冒頭の場面に追いつき、追い越してしまうという力感を持ち得ないと、この趣向は単なる「作者の思い出し作業」になってしまう。作者には、もっと自分の発想を大切にしてもらいたかった。
 『甘い丘』(桑原裕子)は、丘の上のサンダル工場の社員寮の四季を描きながら、「世界の変革は、まず自分のいる場所の変革から始まる」という主題を深めようとしている。まことに古典的な構造で、このところの演劇状況では、そのこと自体が演劇的仕掛けである。ときおり人物たちが激突して発熱し、対話にドライブがかかる場面もあって、作者が相当な演劇的膂力(りょりょく)の持ち主であることがよくわかる。さらにもう一つ、独創的な工夫が仕込まれていて、それは俳句教室の勉強の進み行きが、そのまま時間の経過を現わすという仕掛けだが、冬の季語を学ぶ場面で、師匠格の人物がこんなことを言う。
 〈(冬の季語は)その他にも○○や○○、いろいろあります。〉
 冬の季語などは調べればすぐわかることだし、わかればまたうまく使えるのに、○○で間に合わせるとは、怠惰というか、欲のない作者だ。こういう無欲さ(別名、甘さ)や、登場人物にむやみに難しい名前をつけてしまう強(こわ)ばりが退治できれば、作者の未来は明るいだろう。それだけの膂力のあるひとだ。
 『静物たちの遊泳』(山岡徳貴子)は、古びた団地の、小公園を挿(はさ)んで向かい合う部屋を合わせ鏡にして進行するという優れた仕掛けをもっている。台詞の文体も手堅く、さらに劇の進行につれてもう一つの仕掛けが現われてくるという工夫も魅力的だった。未読の読者のために、その工夫をここに書くことはできないのだが。
 『その夜の侍』(赤堀雅秋)には、いたるところに力がみなぎっている。登場人物たちの間に張り巡らされた「暴力をふるう/ふるわれる」という関係性の網もみごとな仕掛けだ。さらに舞台を自在に使ってやろうという演劇的な志にも敬意を抱いた。それでいて、簡単に「暗転」するところなどは、なかなか愛嬌のある戯曲でもある。
 『生きてるものはいないのか』(前田司郎)では、はるか遠景にあった一大怪事件が、近景にいる十八人の登場人物たちのところへ、ぐんぐん近づいてくるという律動的な仕掛けがすばらしい。しかもその接近は、登場人物たちの連続的な怪死事件によって観客に知らされ、結局、結尾(けつび)では全員が死んでしまうのだから、徹底しているというか、観客をばかにしているというか、とにかく破天荒な戯曲である。「舞台の上で登場人物はよく死ぬが、それを演じている俳優は決して死んではいない。そればかりかカーテンコールになると、嬉々として舞台に現われる」という演劇最大の約束事の一つを軽々と手玉にとったのは、天晴れである。この作者については「脱力系」という噂があるようだが、じつは相当にしたたかな、尖んがった力量(うで)のあるひとだ。選考会で議論するうちに、やはりこの舞台力学を玩具にした破天荒さを買うべきだと決めた。


演劇的な試みのいくつか   岩松了

 前田司郎氏の『生きてるものはいないのか』を授賞作に推すことにためらいをおぼえた。選考委員のほとんどが推したことを思えば、何が私をためらわせたのか、それを記すのが私の義務とこころえ、ここに書く。
 ある大学周辺、それぞれの状況に生きる者たちが不意に、あっけなく、次々に死んでゆく。それはそれでいい。では、生きている間の状況はその後どうなってゆくのだろう。何のために、何ゆえに、彼らの生を閉ざす必要があるのか。死ぬことで閉ざされた命の線、その空しい線こそは、あっけなく次々に死んでゆく者たちの(さらにはそれを演じる俳優たちの)立つ瀬ではないのかと私は考える。その生に対する思いの低温ぶりが前田氏の味といえば味なのかもしれないが、結果、軽々と虚構へ邁進する。その虚構に私は現実以上のものを感じない。これは私の独断になるし、余計なお世話というところだろうが、前田氏には自分の中の敵が必要なのではないか。シニカルに笑う自分に満足している姿ばかりが思い描かれてならない。せっかくの才能が、と思うしだいだ。
 赤堀雅秋氏の『その夜の侍』は、欲望と自己保身、人間の始源的な生理を扱う。被害者(の夫)が、復讐を予期させながら加害者を追いつめる。が、最後、なんとなく生きている加害者のしょうもない日々をつきつけるという無力感にたどりつく。両者のそのへだたり。人間同士のぶつかり合いを暴力的に描きながら、中心にそのへだたりを据えた点を私は評価する。木島という人物の暴力性。「黄色いソファあるといいね」の一言で表現される星と関の関係。コンビニの袋を投げ合う青年と英明の関係。キャッチボールをそれを見ている人間で表現するなど、優れた描写に満ちた力作だ。
 山岡徳貴子氏の『静物たちの遊泳』は、ものごとを決めかねる者たちの物語だ。それは優柔不断ということではなく、この具体的な世界にいる人間たちが、その具体に疑いをはさむという極めて演劇的な試みである。具体からはぐれてゆくことで見えてくる真実に目を向けようとしている。その姿勢を私は果敢であると思う。
 タニノクロウ氏の『笑顔の砦』における女の部屋、緻密なト書きで立ちのぼるエロティックな風景は、言葉ではなく行為が言葉以上のものを伝えうるのだという、これも演劇的な試みである。対比される男の部屋が稚拙なのが難点。


痛快でバカバカしい不条理演劇   鴻上尚史

 前田司郎さんの『生きてるものはいないのか』は、「死」ではなく「死に方」に関する見事な不条理演劇になっている。『ゴドーを待ちながら』が「待つ」ことを演劇化したものだとすれば、『生きてるものはいないのか』は「死に方」の見事な演劇化の例である。
 いっさいの叙情を排して、突然、まさに不条理に訪れる死に対して、死そのものではなく死に方に悩むのは、まさに我々の人生のバカバカしいまでの真実である。
 願わくば、うんと派手な演出でうんと派手なキャストで見てみたいものだ。そうしなければ、このバカバカしさは、人生を笑い飛ばす活力にはなりえない。ひとかけらの湿り気も、この作品の破壊力を弱め、凡庸なコントになってしまう。
 赤堀雅秋さんの『その夜の侍』は、木島の造形が深く、暴力を鮮やかに描き出している。また、木島を取り巻く、いわゆる下流の労働者のひりひりとした退屈と、それゆえに暴力に怯え、木島に従う人間たちの描写がリアルで唸らされる。
 ただ、男性の描写がどのキャクラターも深く、説得力を持つのに、女性の描写が類型的で、戯曲に登場する説得力がいまひとつだったことが惜しまれる。
 女性が登場しなければ、文句なく受賞する作品のレベルになっていたと思う。
 桑原裕子さんの『甘い丘』は、将来楽しみな力量を感じる。激しい労働の場所ではなく、もっと普通の場所の方が、このドラマにはあっていたのではないかと思う。
 本谷有希子さんの『偏路』は、去年の作品に引き続き、ドラマを展開する時に、少し杜撰な手続きの事件を起こしている。筆力も言語感覚も見事なだけに、それが惜しい。現場では気にならないのかもしれない。それが、作家と演出家を兼ねた人間のマイナスだろう。これはもちろん、他人事ではない。これは選評ではなく自戒の言葉。


決着の付け方   坂手洋二

 昨年に比べ、候補作の水準が上がっているとはいえない気がした。わかりやすそうな書き方をしているか、饒舌な作品が多かった。ほとんどの共通項として、決着の付け方が甘いか、あるいは曖昧な優しさのようなものに収斂していく感じがある。劇的な構築力で勝負することが避けられているのかもしれない。「外す」「ずらす」という視点は感じるが、それだけでは構造的な強さは出てこない。
 未知の作品が提示されるとき、それは何らかの「新しさ」を持っているべきだろう。どんなにオーソドックスに見えるものでも同様である。作者は最後までその「新しさ」の実質を求め続けるべきだし、途中ではぐれたと感じたら、全体を見直して出直す勇気が必要だ。
 予想通り、以下の三作品に議論が集中した。
『生きてるものはいないのか』(前田司郎)は、相変わらずの脱力系だが、作者の主観により牽引する手法を封印したことで、実力を証明したといえるかもしれない。「普通の芝居」になりすぎた気もして、かえって「主観の暴走系」の作品を懐かしく感じてしまうが、つねに読む者に微妙な判断を迫るこの才能を、今度こそ認めることになった。
 『静物たちの遊泳』(山岡徳貴子)は、同じような棟が向き合った団地の世界を描く視点に魅力がある。わざと不親切に書いてあるようなト書き等も、なぜそうなのかについては納得できる。ただ、若い女が老女を演じる仕掛けなど、野心が空回りしている面がある。団地の空間には、ただそこにいるだけで時空を歪ませる領域があるというその直感を、作者自らがもっと信じてほしいという気がした。
 『その夜の侍』(赤堀雅秋)は、出だしから八割くらいまで、ほぼ順調である。妻の残した留守番電話の録音を繰り返し聴く沈黙の場面をはじめ、無為なお喋りの多い他の候補作と一線を画している。女性の造形など躓(つまず)いてしまう面もあるが、群れる男たちの相互依存の描写など、実力は歴然としている。ただ、核心ともいうべき被害者と加害者の直接対決では、包丁を捨てて「他愛のない話がしたい」となってしまう。そのくせ殴り合いはするのである。相手が数日間に食べたものを列挙してみせるというのも、展開に見合っているだろうか。あと一歩の詰めの甘さが残念である。


恐るべきワンアイデア   永井愛

 全候補作を読み終えて、「今年は前田さんだ」と確信した。他の候補作が時に苦しげな素顔を覗かせるのに対し、『生きてるものはいないのか』は、ポーカーフェイスを崩さぬまま、ひょうひょうと走り抜けた。
 登場人物がただ次々と死んでゆく。ひねりも伏線もない、恐るべきワンアイデアなのだが、「よけいなことしなくてよかったね」と、むしろこれを讃えたい。そのお陰でこの作品は、一筆絵のようにさらりと「生」の輪郭をかすめ取った。この作品が求めたのは、累積する死ではなく、死によってしか確かめ得ない「生きていた」ことの軽さ。あまりにも不確かな「生」の実感だろう。そこに、いやぁな今日的リアリティーを感じてしまい、とぼけた台詞に笑ってしまい、選考会で「騙されるな」と言う声が聞こえた時にはもう遅かった。
 逆に言えば、他の候補作に私は騙してもらえなかった。確かに、『その夜の侍』(赤堀雅秋)の暴力描写は迫真の筆致である。が、暴力シーンを離れると、とたんに吸引力が衰える。特に女性登場人物たちが、どうしてここまで男性に奉仕的なのかが不可解だ。暴力描写への突出した関心が、女性への想像力をせばめているのだとしたら、赤堀さんには、そんな地点にとどまってほしくない。
 『静物たちの遊泳』(山岡徳貴子)を高く評価する意見もあったが、私にとっては、狭い所に閉じこめられたように息苦しい作品だった。これは登場人物たちの閉塞的な状況のせいと言うより、この戯曲にちりばめられた隠喩が思わせぶりな不発弾に終わってしまったからではないだろうか。
 「笑顔の砦」(タニノクロウ)、「青ノ鳥」(矢内原美邦)には、芝居を遠くに連れ出そうとする意欲が感じられた。構成や台詞には、まだこれからという感が強いが、チマチマとした小細工で劇を転がすことに習熟するより、まずは遠くを見据えてドンと立つ姿がいい。


『平凡より非凡がC'EST BON』   野田秀樹

 受賞した前田司郎氏は、去年、一昨年と三年続けていいものを書いている。何よりもこの作家が非凡なのは、とぼけているところだ。
 題名の『生きてるものはいないのか』と言いたくなる様な、一群の情けない若者達が、大学病院という沢山の「死」=「この世の終わり」がある場所で、他者の「死」に鈍感に生きている。が、その若者達に外部からまことに不条理な形で自分の「死」が近づいてくる。それが、どういうことで、どういうものなのかもわからないでいる。自分の「死」にさえも、鈍感なまま次々と、とぼけた風に死んでいく。そして、本当に『生きてるものはいないのか』という事態が起こる。題名は、ダブルミーニングになって「この世の終わり」として還ってくる。ポスト・アポカリプティックな(ポスト黙示録的)作品である。そのイメージは、さながら自分の尻尾を自分で食べている蛇だ。
 前田氏の一昨年の作品は、言葉だけでそのウロボロスの蛇を出してきたと記憶する。今回は、それを見事にイメージ化することに成功している。そして人々を深刻に死んではいかせない姿は、この作家のとぼけの真骨頂である。非凡なとぼけ方である。
 この作品を、一番に推した。受賞おめでとう。
 赤堀雅秋氏の『その夜の侍』も面白かった。
 この作品をよく見せる仕掛けは、黒澤明の『七人の侍』の百姓のイメージを喚起させることにある。
 雨の日の決闘もそうであろうし、「暴力」に対峙する「平凡」という言葉も、それが、あの百姓のイメージなのだろう。ただ、この作家の言う「命がけで守ろうとする平凡」は、あの百姓たちが命がけで守ろうとした「平凡」にまで行き着いているのだろうか。そうでなければ、ただ「平凡」を正論にしようとする、近頃の一群の作家たち同様、作家なんかやめて、その他愛ない平凡とともに日常に埋没していろと毒づきたくなる。むしろ、この作家が「非凡」なのは、いつも「怖いやつ」がでてくるところだ。そして、恐怖は怖がる奴によって作られるという、人間の「恐怖心」の生態をまざまざと、この作家ならではという見事な筆致で描いてみせる。そこが優れているだけに、その「怖いやつ」が最後の最後で腰砕けになったのが惜しい。まことに惜しい作品だ。


ノイズに充ちた戯曲が読みたい   宮沢章夫

 はじめ、本谷有希子の『偏路』と、矢内原美邦の『青ノ鳥』の二作を推すことで、なにか議論が生まれないかと考えた。なぜなら、二人の視点の位置がまったく異なり、作家性のちがいというより、二つの作品を読むことで、現在をわかつ、ある「傾向」を内包している戯曲の姿が、その「分岐」を代表していると感じて興味深かったからだ。
 戯曲を読んでもそれが伝わってくる『青ノ鳥』のスタイリッシュさは、その表現の速度に表れている。速度はいかにも映像的な編集の技術を彷彿させ現在的だ。それとは異なり、『偏路』の全体に漂うのは、地方の家庭にある拭いがたい泥臭さと、それを嫌悪する主人公の醒めた視線の、きわめて湿度の高い姿だ。主人公が、親戚に対して嫌悪し、地方のぬるさに安住する姿を「浅い」と口にするとき、そう口にする姿もまたひどく浅薄だが、いわば、その浅薄さは、現実と対峙する意識にある誤解だ。誤解を生むのはある種のルサンチマンだろう。『青ノ鳥』にはそうしたものはまったく感じられない。現実や人のいやな部分などおかまいなしだ。二人が見ている社会や現実が異なる姿をしているのではない。見えているものはきっとよく似ているだろう。なにしろ、現実はたしかにそこにある。つまり、どちらを表現するか、内容とともに方法の選択によって二人を分岐した。それが視線の位置のちがいになる。深い部分でその道が分かれている。
 これはべつに二人のことを書いているだけではない。候補作の全体が、あるいはいま、上演される多くの舞台についてそうした印象を持つ。
 けれど、『青ノ鳥』は戯曲としていかにも稚拙である。戯曲を書くということへの無知も感じられ、その幼さはごく素朴なテーマにもある。だから強く推すことにはためらいがあったし、『偏路』もまた、作者らしいうまさと人を表現する深さが随所にあって感服するが、ディテールに疑問を抱く。事件を発生させてドラマを展開しようとしたとき、たとえば兄が、妹の銀行口座から四百万円を引き下ろすというのは作者にとっては都合がよすぎる。それほどの預金を、本人でない者が引き出そうとしたら、銀行はまず本人に確認し、簡単に引き出させることなどありえない。
 だから、人を低い位置からの視線で描こうとする傾向を持つ作品として、赤堀雅秋の『その夜の侍』、タニノクロウ『笑顔の砦』、山岡徳貴子『静物たちの遊泳』というそれぞれ魅力的な作品のなかから、私は『静物たちの遊泳』を推した。
 『静物たちの遊泳』にはひとつの企みがある。「若い女」としてト書きに書かれた女が、読み進めるうち、老婆だということがわかる演劇的な仕掛けだ。たしかに、「では、なぜそんな仕掛けが必要だったのか」という選考委員から疑問が出たのももっともだが、そのことによって、「若い女」という身体がより魅力を持つのではないか。それは「老婆」として簡単に片付けられるかもしれない身体の枷(かせ)を、「老婆」にもまた過去があり、「老婆」の時間を表現していると読める。あるいは、「若い女の身体」というだけで魅力的であるという、つまらない先入観を持つ視線、一般的に流布するそうした視線に対する、女性作家ならではの対抗になる。そして、きわめて日常的なディテールのなかに必死に生きる、つまらない人々の姿が執拗に描かれることにも好感を持った。
 前田司郎の『生きてるものはいないのか』は不条理劇だった。ベケットの言語からも、別役実の言語からも逃れえた不条理劇であることを評価し、過去に読んだ作品より質的に落ちるとはいえ、その受賞に異論はなかった。たしかに選考委員の一人が、「騙されたくない」と言う気持ちはわからないでもないほど、相変わらずいいかげんな書き方はされている。私も同感だが、いくつかの場面における前田司郎らしい言葉と状況の魅力は抜群だ。声に出して笑った。
 それにしても、どの作品も読みやすかった。わかりやすい書き方がされているという全体に対する感想も審査の段階で出たが、それはおそらく、あまりいいことではない。単純化され、見事に書かれてよく磨かれた作品たちは、だからこそこちらを刺激するものに乏しかったかもしれない。ごつごつとした、ノイズに充ちた戯曲を読みたかった。


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