| 『まほろば』 蓬莱竜太 |
『幸せ最高ありがとうマジで!』 本谷有希子 |
| おもしろい場面 井上ひさし |
|
劇作家の大切な仕事の一つに、〈おもしろい場面を背負って登場する人物を用意すること〉というのがあります。おもしろい場面という言い方に抵抗があるならば、感動的な場面でも痛切な場面でもなんでもいい、とにかく劇作家は、その芝居の質を決める取って置きの場面を登場人物のだれかに内蔵させておいて、それを最良の間合いで表に出して客席を圧倒する。 |
| 言わせてください 岩松了 |
|
松井周『家族の肖像』:劇全体を覆う薄気味悪さ。演劇が時代をうつし出すというなら、これほど“今”をうつし出している作品もなかろうと思う。人物を遠景として見ることによって、つまりは人物たちがどこに位置しているかを描こうとする姿勢を保つことによって、何も声高に叫びはしないが無数の人物たちの声が聞こえてくる劇をつくりあげている。それはあらゆることが起こりうるという“予感に充ちた”人物たちの蠢きでもある。弁当をまわし食いするという怠惰とも貧しいとも言える行ないの中に、それでもくすぶる性的な衝動。かつての先生と教え子が再会するが、それはそれだけのことだというあっけなさは、劇が人の感情を拾おうとすることから陥る誤謬に注意を払う姿勢に他ならない。“残酷”の一言で人の世を裁断することがはばかられるほどに“あっけない人生”を描いて傑作。私は何のためらいもなく、この作品を授賞作として推したが、選考会に出席できず、書面で伝えるにとどまった。他の選考委員の賛同を得られなかったのが残念である。 |
| 蓬莱さんのうまさと、本谷さんの言語感覚 鴻上尚史 |
|
『まほろば』は、蓬莱竜太さんのうまさに唸った。宴会の準備のために箸を置きながら妊娠を告げ、さらには、共同体での序列の滑稽さを描くなど、じつにうまい。被爆のイメージが薄く挿入されているが、その部分は余計だと僕は感じた。 |
| 劇の言葉の迫真力 坂手洋二 |
|
加藤一浩『黙読』は「普通の演劇ならこうはしないだろうが自分はあえてこうするのだ」という「外し」技の自意識が透けて見えすぎている。 |
| 外界から遠く離れて 永井愛 |
|
大量殺戮だの、大量首切りだのの報道に日々接していると、最終候補作のほとんどが引きこもってゲームに興じているような、外界と切り結ぶ意思のないものに思えた。 |
| アウェイへ行って闘って来い! 野田秀樹 |
|
今年は、九本の候補作があった。すべてが、「家族」「人間関係」「愛情」でくくられる作品だった。この傾向が、「今」を象徴しているのであれば、面白いことなのだが、寧ろ、何も象徴していないかのように思える。だから、読んでいてもわくわくしない。 |
| コドモ身体からひろがる世界へ 宮沢章夫 |
|
あるダンス批評家が「コドモ身体」という言葉で肯定するのは、〈規律・訓練〉から解放された、いわば「非ダンス的、非演劇的」な身体が放つ特別な魅力だと理解できるけれど、タニノクロウ『星影のジュニア』に記されたト書きには、そのことが記されているようで印象に残った。『星影のジュニア』は「子供」が重要な役割で登場し、世界が「子供の視線」で描かれる。そして、戯曲に記される「演出上の注意」はこう指示する。 |


