白水社 白水社
書籍の検索 →詳細検索はこちら
 
教科書検索はこちらから買い物カゴを開く
白水社 白水社 白水社
■ トップページ
■ 耳より情報 ■ 新刊情報 ■ おすすめ本 ■ 全集・シリーズ ■ 白水Uブックス ■ 文庫クセジュ ■ 語学書 ■ 雑誌『ふらんす』
■ 岸田國士戯曲賞 ■ パブリッシャーズ・レビュー ■ クラブ白水社 ■ メルマガ「月刊白水社」 ■ 教科書見本 ■ 連載・エッセイ ■ 書店様向けページ
岸田國士戯曲賞

第55回岸田國士戯曲賞選評(2011年)

受賞作品

『自慢の息子』
松井 周

懐疑する力――松井周   岩松了

 松井周『自慢の息子』ここに描かれているのは、単に、ひきこもりの息子とその母親との関係ではない。独自の手法は文字通り演劇的で、演劇なればこそ果たしうる作業を為した作品だ。
 劇の冒頭、母が"男"に告白する──亡き夫に「お前は要領を得ない喋り方をするから、うんうん頷いてればいいんだ」と万歩計を渡され、それを頭につけて頷きつづけ、人生に目標ができたと。その男は、いかがわしい商売をしながら、息子の作ったという国へ行くガイドをするのだが、そのいかがわしさが、いや実はこの男こそその亡き夫ではないのかという不穏なものを感じさせながら、劇は進む。そして実際、旅の途中に結婚することになるという展開は、繰り返される"人の愚行"を、そっけない事実として提示している。それにとどまらず、登場する人物が、例えば隣の女はホントに隣の女なのか、母のあの頃ではないのか、また良き人であるかの母と息子が実は犯罪にふちどられた二人であるのではないか、という風に、読む側(観る側)の懐疑心を刺激する力がある。
 その懐疑が先に言った"独自の手法"ということの根拠になるわけだが、演劇が、物語を疑い、それでも建てなおそうとする──人が一人そこに立ってしまったことで何が起こってしまうかを見つめる──作業であるならば、この作品には、明らかに、そこを見つめようとする姿勢がある。母親がイス(おそらくパイプ椅子)でねむりこみ、「よくねむれましたか」と起こされて、息子の国にたどりついたらしく、「夜汽車は年寄りにはこたえますね」と言う件など、人の無力と演劇の無力とを同時に感じさせるが、だからこそ許される演劇の無謀ではないのか。ここに演劇の可能性はあるにちがいない。
 今回は他に、ノゾエ征爾『春々』を評価した。なぜこれを書きたいかということが強く感じられる作品で、その頑なさも好感がもてたが、構造が荒っぽく、次作を待ちたいと思った。
 あと評価は低かったが江本純子『小さな恋のエロジー』随所に光るところがあり、そのスピード感も捨てがたい。観客をもっと遠方に想定すればいいのに、と思う。


もうひとつ力不足だが――   鴻上尚史

 ひりひりとした人間描写は、赤堀雅秋さんの魅力だと思う。新井秀子をいたぶる新井雅史のシーンなど、ぞくぞくと震える。けれど、今回の作品は、物語が構造的にもうひとつ立体化できてないように感じる。
 前川知大さんの作風は、まず素敵なアイデアがあって、その興味で観客を引っ張る。今回は、ドッペルゲンガーというアイデアが秀逸だが、それが物語全体の要素となっていない。自分が自分である意味を、もっとドッ
ペルゲンガーを中心に追求すれば、深い多層的な作品になったと思う。  ノゾエ征爾さんの『春々』は、家庭に声が入るというアイデアが秀逸で、家族とは家族が演じることで成立するのだ、という斬新な展開から始まる。
 が、そこから、このアイデア自体が膨らまないことがじつに惜しい。家族に陰のマイクで演出する吉岡先輩とは誰で、それは家族とどうつながり、吉岡先輩にとって家族とはなにか、という、知りたいこと、展開できることはたくさんあると思うのだが、他の登場人物がたくさん出てきて、他のドラマを演じていくことがもどかしい。
 このアイデアで、もっとこの家族に集中した話を作れば、面白いものになると思う。
 『自慢の息子』に関しては、ラストがじつに曖昧で納得できない。どうも、物語の終わらせ方が思わせぶりのわりには、じつは仕掛けとして完成してないのではないのかと思わせられる。
 ただ、エピソードとして語られる息子と母のケースはリアルで面白い。これらの小さな物語のように、本来の物語もリアルに最後まで追求すれば、もうひとつ面白い作品になったと感じられる。
 今回、受賞作としてはやや力不足かと感じたが、亡くなられた井上ひさしさんの「なるべく受賞作を。それが、作家を育てる力に」というモットーに背中を押された。松井さんの内省的な世界が、もうひとつリアルに世界と結びつけば、さらなる名作が生まれるのではないかと期待している。


許容範囲かどうか   坂手洋二

 今回は候補作の多くが「上演台本」「演出ノート」のように見受けられ、その弊害を感じた。メンバーの俳優陣を活かし、その居場所を設けるために書かれているのではないかと思われる節がある。抽象度の高い設定の戯曲が多く、シーンの中で一つの出来事を完結させているものは希れである。多くの場合、安直な飛躍を重ね、人物と出来事が投げ出されている。それが新しいとも思えない。
 受賞作は、正という息子が「王国」を作ったというセンターアイデア、首に万歩計をつける母というイメージは、悪くない。だが、男の「バカの一つ覚えみたいにね」で、受け方が違うのではないかという気がしてくる。誰かが「ぼけている」「おかしなことをする」ということがただ紹介され、そういう人だから何をしてもいいというエクスキューズとなっており、出来事はすべて「ためにする」、恣意的要素ばかりとなる。関係性のパイプであると自称する男もたいへん便利に登場する。彼がナレーター的に並べる話で何かが繋がったことになるのだろうか。男がなぜ正の母を釣り結婚するのか、なぜ兄が隣の女の養子になるのかという経緯も、「ゲームなので何でもできますからそうしてみました」ということ以上には、よくわからない。おたくで人形フェチであるという紋切り型、キリストになぞらえるといった手垢のついたイメージを「わざとですよ」と言い訳しながら並べ、豆腐の中のセミを誰かが当てて「マモリビト」になるという仕掛けも、自分で謎を提示して自分で解くマッチポンプである。逆に妹の「現実を受け入れられない」「自分を騙す」と説明するナマな言葉には興ざめさせられる。ラストのナイフも思わせぶりなだけである。「~のように」「~ような」という比喩も多すぎる。ちょっと風変わりな趣向の素材を羅列してみた、という以上のことがあるだろうか。「機械仕掛けのように」という、フィナーレのために用意された、劇構造との関連を持たないト書きの指定もいただけない。結局、それぞれの審査員にとってそれが許容範囲かどうか、好みかどうかというところに議論が回収されていった気がする。
 途中まで、上演を観ていた中津留章仁作品を推したが、戯曲としてあらためて読むと、すれすれの所を狙った部分は誤解されても仕方がないし、粗い面があることは否めない。新作に期待したい。


緊張あってこその自由   永井愛

 変換ミスとは思えない誤字、作者にしか理解できないト書きがこれほど多い審査は初めてだった。戯曲は第三者による上演も想定して書かれるものであるはずだが、自分の現場でだけ通用すればいいと考える作者が増えたのだろうか。それとも、言葉を杜撰にしていることに気づかないほど、言葉に対する緊張感が薄れてしまったのか。最終候補作が九本もあったこと自体、絞り込みが難航したことを示していると思う。私も推せる作品がなく、最終選考もまた難航した。
 『小さな恋のエロジー』(江本純子)、『空洞メディアクリエイター』(竹内佑)、『スーパースター』(丸尾丸一郎)の暴れっぷりには、子どもが遊びまくっているような愛嬌がある。だが、無軌道が演劇的無軌道として成立するためには、どこかに軌道が必要だ。
 『砂町の王』(赤堀雅秋)は、活気を失った工場街の空気を見事にとらえている。だが、保険金殺人の話が主流になるにつれ、Vシネマ的犯罪劇に収縮してしまった。
 『絶滅のトリ』(田村孝裕)は、孤島に長期滞在する人々の集団心理に想像が及んでいないのではないか。私には、自宅から通勤する人々の人間関係とさして変わらないように思えた。だから、ラストの鳥殺しへの跳躍が苦しい。
 『プランクトンの踊り場』(前川知大)の上演では、ドッペルゲンガーで出現した自分の分身を同じ役者が演じたのだろうから、入れ替えの鮮やかさが客席を沸かせたかもしれない。だが戯曲では、分身が出現する心理的理由の方が問われる。そこが脆弱であるために、「ちょっと不思議な話」の域を出ていないと感じた。
 『convention hazard 奇行遊戯』(中津留章仁)は、戦争、外交、環境問題などを満載して進むスペクタクルで、このように壮大な芝居を仕組んだ作者の意欲を買う。前編の小さな集落における人間の愛憎関係は、大分言葉の魅力もあって引き込まれた。だが、後編の標準語のシーンになると台詞は杓子定規になり、展開も劇画調になってくる。主役の男は「日本は単一民族の国家」だと言い放ち、「支那事変」という呼称も抵抗なく使うが、彼の思想的背景からなのかと思うと、そうではないらしい。他にも突っ込みどころは随所にあり、作者はいささか不用意で、マッチョな男のドラマにスケールを与えるため、社会派的味つけをしたのではないかという疑いも生じた。この疑いを晴らしてほしい。中津留さんの今後に期待する。
 『春々』(ノゾエ征爾)は、ある家族の日常に、男の声が侵入してダメ出しをするというアイデアが面白い。そこに、別の話が同時進行するが、相乗効果を上げたとは思えない。主筋を追うという平凡に陥らないために、このような趣向に逃げたと思わせないよう、もうひと工夫してほしかった。
 『自慢の息子』(松井周)は、「わかる人だけわかってくれればいい」という信念に基づいて書かれたものだろう。その姿勢は立派だ。だが、それゆえに生じる緩みもある。引きこもってしまった者が、自分の部屋ではどこまでも自由でいられるように。
 自分を理解しないであろう他者に向かって、その共感を得ようと格闘してこそ、何を残し、何を捨て去らねばならないかが初めてわかり、私はこのような劇作家だと自分をさらす決意がつくのではないだろうか。多くはそこで足がすくみ、無惨な妥協の産物を見せてしまう。だが、たまには勝利を得る。それは保障された自由ではなく、闘い取った自由だ。松井さんの作品に気ままな緩みを感じてしまうのは、そこに闘い取った自由を見出しにくかったからだと思う。
 それでも最終投票で、『自慢の息子』の受賞に賛成した。受賞作を出さないことへのためらいがあった。これがよかったのか悪かったのか、考え続けることになるだろう。


深読みさせてくれ   野田秀樹

 候補作が九本という割には、労多くして実りが少ない年だった。
 前川知大氏や赤堀雅秋氏といった、数回候補になったことのある作家の作品も、とても大切な所が抜け落ちている。前川氏の「記憶」が芋虫の様な人間になり、その「記憶」から血が流れるというのは、鮮烈なイメージだったが、ここだけ、という印象が残った。人間がこだわり続けている「霊的」なものが、オカルト信仰のレベルと変わらない説明に聞こえてしまった。赤堀氏は、蟻地獄的な暴力をいつも見事に書いてきた人だが、今回は筋にとらわれ過ぎて「暴力そのものが、筋だった所から現れるわけではない」その本質を見失っている。二人ともに、才能のある人なので次回に期待したい。
 今年の作品群の中では、私は受賞作品の松井周氏の『自慢の息子』とノゾエ征爾氏の『春々』を面白く読んだ。
 松井氏は、すでに彼独特の作品の文体を獲得している作家で、いつもそこから自閉的な世界が見えてくる。今回は特に顕著で、「正の国」という自慢の息子の自閉の国を作り上げることで、「引きこもり」の世界を見せてくれた。マスターベーションを手伝おうとする母に見られるような、近親相姦的な母と息子の関係は、見事に現在を投影している。苦情係という設定も面白かった。蟬を神様に仕立て空虚な現代の儀式も見せてくれたし、エジプトの神話を勝手に深読みできる。近親相姦を感じさせる兄と妹は、北欧の神話(ジークフリートとブリュンヒルデ)も深読みさせる。近ごろの候補作には、作品を読みこんで深読みさせるものが少ない。松井氏のこれは、並列的に並べられたイメージの一つ一つが面白いので、こちら側に深読みの楽しみを残してくれる。取りだしてくる一つ一つのイメージが豊かだ。その中にあって、安もののオルゴールのイメージは、ありきたりで痩せている。それが機械仕掛けの人形のように動くラストシーンへつながっていったことが、これを受賞作として一番に推すことを私にためらわせた。着地に失敗しているように思えた。だが、作品全体としては、授賞に値する作品であることに異を唱えない。
 私が一番に推したのは、ノゾエ氏の作品である。松井氏とは全く違う陽気な文体である。が、イメージを並列させるという意味では近い。そして、その並列された三つの世界がどれも面白い。血で繋がった家族と、血では繋がっていない家族以上のヤクザ、そして積み上げられた椅子だけで関係をもつ男女──この三つの世界は、関連していないようで、最後は過不足なく収斂しているように思える。とりわけ私は、目の見えない老人が、話すことのできない老婆によって、老婆の死後に残された老婆の顔の彫刻を触る場面には、喪失した家族観の顔への手触りといった感動をさえ覚えた。もちろん、この作家は、人が安易に感動することに明らかに悪意を持ち、感動を否定するような距離感のある文体を使っている。にも拘らず、その失われた家族の顔のエピソードが、ラスト付近で、別の関係性の中で再び生まれることに、構成上の巧さも感じた。「家族」と「感動」という今最も安易に取り上げられているモチーフを、酔っ払いのキャンペーンガールも含めて、ひとつひとつのエピソードを痩せることなく絡ませて、「感動」とも「家族」とも距離感のある作品に仕立て上げたその手腕を評価したい。一番に推したが、他の選考委員の同意を得られなかった。


いまこそ書かれるべき、戯曲としての上演台本   宮沢章夫

 例年に比べて困難な選考だった。それを裏付けるように、受賞に向けられた、決定的な言葉、つまり誰もが納得する決め手がどの作品にも存在しなかった。皆がおしなべて推すという作品はなく、これほど推挙する作品が分散する選考もこの数年では稀だ。一人が推せばそれを否定する言葉が返され、ではそれを説得するに足る論理が支持する側にあるかといえば誰もが口ごもる。だからこうして選評を書くのにも言葉がうまく出ないもどかしさを感じる。
 そのなかで、私が推したのは、ノゾエ征爾『春々』と、松井周『自慢の息子』だ。二つの戯曲に刺激されたが、もの足りなさを感じていたのも正直な気持ちだ。
 ところで、作品評から離れ唐突なことを書くようで申し訳ないが、岸田國士戯曲賞は文字通り「戯曲」の賞だ。たとえ、その上演を知っていたとしても──ほかの選考委員がどう考えているかわからないが──、あくまでテキストと対面することが選考の基準だと私は考える。または、選考委員は皆、そこに書かれたものを読んで舞台での「演出」を、あるいは舞台の様子をある程度、想像することができるだけの経験(読むこと、観ることに実作者としての経験)を持っている。それは逆に言うなら、舞台を観てしまったことによって、もっとべつの要素に影響され本質を見逃すことでもある。だから、あくまでテキストにこだわり、テキストの細部から作品を判断する。そんなふうに書き、そこだけ取り出して語れば、かつて否定された「戯曲」を中心とした演劇における文学主義のように受け取られるだろう。しかし、そうした「戯曲」の特別性が問われてからすでに五十年近くが過ぎている。戯曲の優位性を問題にするような議論もいまでは存在しない(だから逆に、その文脈で過去に否定されたはずのある時代の日本の戯曲も再上演が盛んに行われる)。つまりもうそんなこと(=戯曲中心主義の否定)など自明だと誰もが了解したうえで演劇は作られている。むしろ「演劇を更新する運動」そのもの、あるいは「ドラマツルギー」という言葉がいまでは過去のものであるかのように。
 ではいま、「上演」とはべつに「戯曲」の質を問う傾向は単なる反動だろうか。あるいは一方で、演劇において「戯曲」という文学形式が否定された歴史など忘れ去られているようにも見える。六〇年代の、歴史的な戯曲の問い直しという運動を経験してもいまだになぜ、「戯曲」がそれほど意味を持つのか、演劇のなかで「戯曲賞」がなぜこれほど権威を持つのか。単純な理由だ。それを「権威」だと思う人がいるから、それは「権威」になるだけのことだ。そうした構造と、「戯曲」そのものについて多くの過去の演劇人(たとえばその一人が寺山修司だが)が問いを発し異議を唱えながら、こうして「戯曲の価値」がいまに至っても続いてきたことは無縁ではない。簡単に(いや、乱暴に)言ってしまえば、やはり演劇は「戯曲」だったからだ。「新しい演劇の仕組み(=ドラマツルギー)」はテキストのレベルでなければわからない。そのことはいま省みても意味のあることであり、〈反戯曲〉もまた、歴史的な存在でしかなかった。すべては当たり前になってしまった。「身体」か「言葉」かという二分法もどうでもよくなった。よく言われる「総合芸術」という言葉もひどく曖昧だ。さらに乱暴な言い方をすれば、「総合」だからなおさら要素が分散し劇の構造をはっきり把握することなどできなかった。
 そして、演劇を冷静に「読む」ことは演劇を問い直すまたべつの「演劇的な行為」になる。
 つまり「読む」ことでしかわからない「演劇の価値」だ。一方に戯曲を発表する場所と、それを議論する場がほとんどない現状があり、戯曲(=テキスト)と対面する〈演劇の空間〉として岸田戯曲賞の選考という特別な場所がある。それはきわめて特別な意味だ。だからこそ選考委員はただ読むことによって作品と対峙せざるをえない。
 今回の選考は困難だった。
 決め手となる言葉が語られなかった。
 テキストと対峙した結果がそれだ。
 さて、私が推したノゾエ作品について、その作者の過去の戯曲について私はまったく無知だ。ただ『春々』だけを読んで好ましいと思ったのは、〈演劇という制度〉に対する作者のふざけた態度をそこに読みとることができ、おそらくそれを基底にして他の作品にも取り組んでいる作家の姿が想像できるからだ。それは冒険であり、異なる演劇への試みである。舞台だけを観たらそれはにぎやかな演劇の祝祭性にしか見えないかもしれない。言葉のはしばしに、作者の逸脱する精神とシニカルさ、イロニーが横溢しており、ある家族の日常に、メタレベルに立ってマイクから聞こえる声だけで語りかけ「家族の再生」を指示する主人公とおぼしき徳仁の存在が、劇の構造をなす。それに付随していくつものエピソードがあり、徳仁の兄、仁が、「女性物の洋服屋」に行き、店にある商品を身につけ「俺は草食系じゃねえ」と叫んで去って行くといったナンセンス、そして、キャンペーンガールの不可解な存在のどれもこれもが、一言でまとめるなら、ふざけているのだ。しかも面白い。劇を豊かにする。それを容認できるか。評価できるか。しかし、前回候補にあがった、岡崎芸術座の神里雄大にもあった、そうした意識的に〈制度〉から逸脱する「ふざけた態度」と異なるのは、それらが散逸的に仕掛けられた趣向に読めることだった。〈趣向〉を否定するのではない。けれどそうした巧みさだけで演劇は成立するのだろうか。登場人物のほとんどが(キャンペーンガールはあきらかにちがうものの)名前を持っていながら、椅子に閉じ込められた女と、それを救おうとする男は、文字通り、「男」と「女」という表記のされかたをし、そこだけが不条理劇めいた描かれ方だ。つまり、「不条理劇」もまたひとつの趣向として仕掛けられたと読むしかなく、作品全体、戯曲に(演劇に)取り組む態度に特別な「企み」を感じることにもの足りなさを感じる。
 では、松井周の『自慢の息子』はどうだったか。
 ここで作られた小宇宙を一般的に流布する「ひきこもり」といった言葉でまとめると、きわめてわかりやすい作品になる。けれど読む者の理解を捩じれさせ、難解にするのは、詰まるところ作品によって「ひきこもり」と、それにまつわる個人の〈内的な世界〉が肯定されているからだ。誰もが了解できるのがわかりやすいドラマツルギーなら、むしろ社会的に問題視される傾向をなんらかの形で否定し、そこから脱出し、脱出が主体の成長に通じるのが健全なドラマになる。そうしたあたりまえから逃れるだけでなく、より過剰で醜悪にするところに松井周の個性がある。いや、それは松井に特別な傾向ではなく、むしろ現在そのものだ。主人公の名前を冠した「正の国」という内省的な小宇宙は単に病的な日常性を帯びた装置である。けれど、どんなに不健康な宇宙としての日常性であろうと、基底においてはそれを肯定して描こうとする。いや、すべての日常が肯定されるのは、たとえばチェルフィッチュの岡田利規の劇作にも通じる(岡田自身がそのようにインタビューに応えている)、いまやこの国の多くの演劇に見られる一般的な傾向だ。
 そして『自慢の息子』をはじめ、松井作品を理解するには、ガラスの破片を目にあてたときの、向こうの歪んだ風景を見るような目眩を評価できるかに関わる。日常は歪んでいる。その歪みを肯定し評価できるか。
 昨年の候補作『あの人の世界』でも感じたのは変性意識への志向だが、それがより強まり、そのことによって萎縮する表現を突破しようと試みる。松井周の資質としての表現への突破の方法だ。だから、布を使うことで舞台の造形を可塑化するとき、その可塑性は意識が歪むことのアナロジーと考えられる。主人公とおぼしい「正」と「ぬいぐるみ」の関係というモチーフ、あるいは母親との関係は、ひどくわかりやすく幼児性を象徴しているかのようだが、もっと言うなら、それは絵に描いたような「狂気」だ。ここで語られるべき世界が狂気と聖性による、いわば人の歴史の造形を描いていると考えれば、「隣の女」のような登場人物によって「日常」を強調されながら、日常の裂け目から溢れ出すきわめて大きな神話的世界はひどくグロテスクにならざるをえない。なぜなら、狂気があるからこそ、はじめて聖性がくっきり表現されるからだ。
 だが、戯曲はそれを説得できていただろうか。もちろん、わかりやすいドラマである必要はない。なにかよくわからない世界の造形が、演劇的な迫力で読む者を圧倒したときこれは成功するだろう。私が本作を推したのは、なにもその世界と歪んだ小宇宙を好む読みができたという趣味だけの理由ではない。それはつまり、わかるか、わからないかのちがいだ。その「わかる」を説得する言葉が、戯曲に不足していた。たとえそれを推す者が代弁したところで作品以上のことはなにもできない。
 おそらく戯曲との対面とはそのようなことを言うのだろう。誤字や脱字が気になるのは「書かれたもの」としてごく基本的な瑕疵だし、たとえばト書きがひどく雑に書かれている作品も多かった。そんなことは舞台の評価と関係がないだろうか。戯曲に誤りがあったところで意味がないだろうか。いやしかし、テキストに接する演劇体験は、より深い演劇そのものへの読みだとあらためて確認したい。本質に触れる行為だ。だから困難な選考になった。読むことではっとさせてくれる鮮やかさと鋭さ、つまり〈演劇的な新しい仕組みへの企み〉がどこか薄かったからだ。


↑ページのトップへ