木村護郎クリストフ「未来にさかのぼるヨーロッパ ―ドイツ・ポーランド国境から―」


スウビツェから見た国境の橋とフランクフルト

 

 国境の橋をこえると異なる言語を話す人々が住む国がある ― 日本に住む私たちにはあまり実感がわかないが、これがオーダー・ナイセ川に沿ったドイツ・ポーランド国境の状況である。1945年、ポツダム会談によって決定されたこの国境は、ヨーロッパで最も言語的に断絶された国境といわれた。第二次世界大戦前の国境はもっと東にあったため、川の西側のドイツ側の住民は突如自分たちの町にやってきた国境に直面することになった。一方、川の東側のドイツ人はドイツ領内に避難ないし追放され、跡地には、戦後ソ連領とされた旧ポーランド東部から追放され、あるいは他地域から移住してきたポーランド人が新たに住むことになった。戦後、社会主義国同士として表面的には友好関係にあったが、市民同士の自由な交流が生まれる状況ではなかった。それが1990年代以降、徐々に変わっていく。
 ポーランドのヨーロッパ連合加盟(2004年)に伴って移動の障壁がさらに取り除かれていくなかで、人々はどのように関係をつくっていくのか。大都市とともに多言語・多文化の出会いがとりわけ集中的に表れる国境地域からヨーロッパ統合の現場をみるべく、在外研究の機会を得て2012年夏から1年間、ドイツ・ポーランド国境のフランクフルト・アン・デア・オーダーと対岸のポーランド側のスウビツェの両方にキャンパスをもつヴィアドリナ・ヨーロッパ大学(1991年設立)の客員研究員として同地に滞在した。かつて滞在した1990年代半ばの頃に比べて国境は大きく変貌していた。検問所はなくなって人々は自由に行き来し、相手側の国に住む人も増え、ドイツ人とポーランド人による家庭もいくつも生まれている。
 相互交流の進展には言うまでもなく言語が必要である。共通語は多くの場合、ドイツ語だが、通訳も多く用いられる。しかしフランクフルトでは幼稚園から大学までポーランド語を選択することができるようになり、小売店員の職業研修でポーランド語が必修になるなど、成人教育も行なわれている。
 こうした動きは、この国境の戦後史を思うと、画期的で新しいことのようにみえる。しかし歴史をさらにふりかえると、第二次世界大戦以前の状況が思い浮かぶ。当時もっと東にあったドイツ人とポーランド人の境界は、両言語の混在する地域であった。相手の言語を学ぶことも日常的に行なわれていた。私の祖母は現在のポーランド西部のポズナニ(ドイツ語名ポーゼン)郊外のドイツ系家庭の出だが、子どもの頃、ポーランド語を覚えるために近隣のポーランド人家庭にホームステイに送られた。ドイツ人とポーランド人の区別はしばしばあいまいだったという。しかし両民族の混住状況が第一次世界大戦によるポーランド独立後、国境をめぐる新たな紛争をもたらし、ついにはヒトラーのポーランド侵攻という第二次世界大戦の発端になった。そのため戦後、多大な犠牲を払ってドイツ人とポーランド人を強制的に分離したのであった。それが、今や再び徐々に日常的な関係をつむぎつつあるようだ。
 しかし単純に以前のような状況に戻っているとはいえない。ヴィアドリナ大学のプロイガー学長は、「現在は隣国が脅威の対象ではなく興味の対象になっているのが以前と異なる」と述べていた。国境を再び移動させることなく低くすることで領土問題を克服したという安心感がその一つの背景だろう。今や幼稚園から高齢者まで、文化・スポーツなどの余暇活動から企業や役所、消防、警察まで、越境交流・協力がない分野はないほどである。ヨーロッパ統合は、単に過去にさかのぼるのでもなく、まったく新しい未来をめざすのでもなく、失われたものを新たな形で取り戻す実験といえるかもしれない。

(言語学者・上智大学教授)

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