16. おす

 

 地上からは見えないけれど、雲のうえにはある。毎年見えないのは、年にいちどのだいじな逢瀬なのだから、口をあけて見あげている下界の人間になんてのぞかれたくない。
 夕方の喫茶店には、おおきな窓があって、雨はすこしまえにやんでいる。ひとの歩くはやさは、その町の鼓動。青山は、東京のなかでもはやいほう。けれど、ラッシュの駅のように、ひとかたまりはなっていない。ひとりひとり、ほどけてくつろぎ、そのひとを捨てずに歩いている。信号がかわって、似ているひとを見つける。あのひともあのひとも、もう天の川のほとりにいる。見えないけれど、あるところ。
 一年の峠で息がきれて、ただぼんやり雲を見て日がすぎる。
 ちょっとおなかが痛い。半月ほど続いている。のたうちまわるようならば、すぐに病院に行くけれど、どこが痛いか示せない。ここかと押してみると、ここじゃない。左からみぎに、鈍く逃げた。感じ方も一様ではない。へその緒をひっぱられるようにつれたり、薄墨一滴にじむようだったり、冷水がすっと走るようだったり。ちいさなお魚でもすみついたのか。そうだったら楽しいけれど。
 いずれにしても、このあいだ健康診断をしたばかりなので、たいしたことはないはずだった。畑も雨が続くと根ぐされする。からだにもそんなものがある。風邪もひいていたから、なにかの菌が入った。それで、様子をみている。
 よこになり、へそに両掌をのせて、目をとじて、痛みをきく。
 女の腹痛なら、ふたとおりの発生地を考える。潮の暦を知って、痛みというものに慣れもある。
 男のひとは、痛いとなったらすぐさま消化器の病気となるんだなあ。そっちのほうが、ずっとおっかない。子宮や卵巣が入っていないのに、おじさんたちのおなかがぽんと出っ張るのはどうしてなんだろう。
 それで、ふと、東北の真冬、猛吹雪の魚市場を思い出す。
 大荒れで、船の出ない日だった。きのう水揚げしたおおきな鱈がならんでいた。
 海の深さを見てきたからだたち。
 雄の値段は、雌の倍もする。白子が入っているから。
 白子というのは、精巣だったか。白い脳みそみたいな、あんなのがおなかに入っていたら、重たいなあ。人間のは、どんなかたちだったか、保健体育で習ったはずだけれど、かたちは浮かばない。
 ごうごうの風の音に、血潮の匂いがまざる。なに見てきたの。まだ澄んでいる目玉を、ひとつずつのぞきこむ。女は子宮で考えるというけれど、そんなら男のひとは精巣で、考えるのかしら。だから脳に似てるのかしら。
 女と名前がついてから、別の星の生物のように思って、日ごろは雌だなんて自覚しない。すっかり忘れて暮している。
 鱈は、全身ぬめぬめと光って、そのぬめぬめで敵から仲間から傷から、自力で守っていた。あんなおおきな魚がひしめきあっている海は、青山のひとよりせわしないかもしれない。耳のとなりに、水音がくぐもる。


 ぼこんぼこん、ごぽんごぽん。耳をふさぐ水圧。常磐ハワイアンセンター。あれはおそらく人生最初の旅だった。記念写真を見ると、まだ赤ん坊みたいな服を着ている。それでも滑り台にはのぼれた。
 はだかんぼうは、のぼる。眼下にはひろびろとお風呂だった。はだかのお母さん、知ってるおばさんたちもいた。
 そのまま、つーるるーとすべって、傾斜さなかにころがって、勢いのままどぼんと沈んだ。ぬるくて重い湯で、ぐるぐるとまわる。それは生まれるときに近い感じで、泡にひとつひとつ、お湯の色、浴槽の輪郭、なにもかもはっきり見えた。息がつまり、鼻がつんとする。ぐるんぐるんがとまらない。つかむものもない。もがいても、だれかの尻が遠くに見えるだけ。うすみどりの水中に、沈みながらころがって、風呂のふちがぶつかって、浮上した。
 生死の瀬戸際から帰ってきて、びっくりして声も出せずにいた。湯をかきわけ母にしがみつく。
 ……あら、どうしたの。
 母に抱きあげられ、箱みたいな黄金風呂につかった。
 道で死んだ犬を見たこと。たかっている緑の蝿が光ってきれいだった。おぼれかけたり、ジャングルジムから落ちたり、自転車で植えこみにつっこんだ。たくさんの虫や花をころし、ひとの子どもぶったり蹴ったりした。思えば、子どものまわりのほうが死に近い。死ぬか生きるか。大人は日々の雑用にからめとられているけれど、ちいさいひとたちは、食べること寝ること、たのしい遊びの時間でさえ、その勝負のうちにある。すくなくとも、おとなが思うよりずっと、瀬戸際に立っている。実感がイメージとならないくらい近くにいるから、すぐに生死いずれかの選択と追いつめられる。
 文楽の心中ものを見ていると、なんとあっさり。おばちゃんになるにつれ、ひきとめたくなるけれど、ほんとうは、もう失ってしまったそのあどけなさ、一途さに魅せられている。お人形は、あれよあれよと死にいそぐ。これまでの一切をうっちゃる。なにより来世を信じて疑わないのは、うらやましい。
 年をとれば、時計は死に近くなるけれど、むしろ実感は遠のいているのかもしれない。お年寄りむきの上手な死にかたの本がどんどん出ているのをみても、年をとっても死に方にとまどう。なにせ、生まれてはじめてのことなのだから。


 はだかんぼうでおぼれていたころは、死ぬことにも生まれることにもおなじくらいのやわらかい無知でいられた。あのころ住んでいた家は、雨がふると屋根がばらばらと鳴ってうるさかった。寝かされていた部屋から縁側に出ると、くみとりのお便所があった。
 積み木を握っていた。雨降り、部屋は薄暗くてしめっている。床の間には、兄が飼っていたお蚕さんが、さんさんと桑の葉っぱを食んでいた。
 ここが山で、ここは川。
 ばらばら、さんさん。
 ここがおうち。
 畳には、人形もすわっていたのかもしれない。
 おうちといっても、ただ積み木を置いている。門も屋根も作れない。ただ配置として、木片を於いているときだった。
 ぞーさんぞーさんと歌えるようになったばかり、ぞーさんは見たこともなく、まだ文字も知らない子どもは、積み木を握ってふと納得した。
 こういうふうにできたんだな、この状態は。
 知らずに握らされた天地創造の実感は、そののちもときおり、小学校に入るころまであらわれた。
 砂場で穴を掘る。粘土をまるめる。すこしものを知って、それを作ったのが会ったこともない神さまなんだろうと思ったけれど、そのことはひとりきりの秘密とした。話しても、わかちあえないんだろう。おぼれたのに、だれも気づかなかったように。そう思っていた。じつはいまもすこしだけ、そう思っていて、きょうまでだまっていた。こういうのも信仰と思う。いくつかの長年の秘密は、ときおり扇子のようにぱたぱたとひらいて風をまぶしておく。ばらしてしまったら、ばちがあたるかなあ。神さまは、もうよそにいかれたかなあ。
 赤ん坊は、からだいっぱいに予感をつめて生まれてくるのだろうか。それなら、ことばは、覚えるというよりも、再会に近い。あのときのことは、こういえばいいんだ。ひとつひとつ、飲みこんで、声にしていく。へその緒のまわりの痛みは、のみこみすぎたことばの根ぐされみたいなものと思う。
 町に出て、喫茶店にはいるなんて、めったにない。びっくりして駆けこんだ。
 ビルのおおきなドアに、指をはさまれた。さきにでた女のひとが、うしろでに、予想外の力で、扉を押し返した。その速さ重さに力をこめたなにがしかの感情にのみこまれ、指をはさんだ。
 息がとまった。とっさに握りこぶしを作ってしゃがんだら、つぎにいた男のひとが、つんのめりながらも、大丈夫ですか。立つのを待って、ドアをあけてくれた。痛くてはずかしくて、わきにあったここに逃げこんだ。
 これより痛いのは、神宮で飯田のファウルボールにぶつかったぐらい。
 爪は割れていない。ひとさし指に小豆をならべたような血豆ができた。赤から紫、そしてみるみる黒くなるのを見ていたら、ひとさし指の爪は、あの懐かしいお蚕さんの顔とそっくりになった。
 この顔が消えるころには、もう正月の話なんてしている。


(2015年6月 撮影:石井孝典)

ジャンル

シリーズ

  • エクス・リブリス
  • ニューエクスプレス
  • ライ麦畑でつかまえて
  • キャッチャー・イン・ザ・ライ
  • 白水社創立百周年
  • 白水社2016売上トップ10