第59回岸田國士戯曲賞選評(2015年)

第59回受賞作品 

『トロワグロ』山内ケンジ


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山内ケンジ氏を推す  岩松 了
 まずは古川日出男『冬眠する熊に添い寝してごらん』に触れないわけにはいかないだろう。これほどほとばしるエネルギーに満ちた戯曲に遭遇するのは稀である。確かに書きたいことがあって、読むのにすら長時間を要するけれど、それでも劇の構造は決して粗雑ではない。粗雑というのは、劇全体の魅力が、その粗雑にあるのではないかとすら思うからである。主人公の一とその弟の婚約者ひばりによる爆笑ものの回転寿司のシーンにおいても、その回転寿司屋には設定の根拠がちゃんと用意され、自動車工場のベルトコンベアーへと話は展開してゆく。しかしながら、やはりと言うべきか、詰めすぎの感は否めない。ロシアと皇国日本の戦争に関する台詞も、作者が顔を出しすぎだろうと思わざるをえない。登場人物の台詞に昇華できれば、と思う。
 そして、この作品の対極にあるのが山内ケンジ『トロワグロ』。これでもかと言うほど微細に人の中に入ってゆく。そのことはどこに向かうのか? 人が“芝居する”必然である。防御のため、攻撃のため、人は、あたかも芝居してないかのように“芝居する”。あるいはわかりにくく“芝居する”と言えばいいか。なにしろバレちゃいけない。このことはどこに向かうのか? 現代口語演劇? いやいや、もっと役者のことを考えなきゃ! “芝居する”のは役者なんだから。思うに、人間に身体というものがあることが問題なのだ。だって身体があるからバレてしまうんだもの! それでもバレちゃいけない、と思うことの、身体とは別のところにありながらくっついてしまっている精神の二枚目ぶり! この身体と精神の解離を一体化させようとする人間のあがき。“芝居する”とはつまりそのこと。なにも難しいことを考える必要はない。人は正当化のぬかるみを歩いているにすぎない。山内ケンジはそのぬかるみを見ている。
 福原充則『つんざき行路、されるがまま』は、うまい! うますぎる、と言ってもいい。台詞を読み進めるたびに「なあに、この力の抜け方」とつぶやいたほどに。ただ読み終わったあとにどうしても「この口笛が」と思ってしまう。口笛の持つ意味合いが、あるいは口笛の意地悪さが、人物たちに返り来ぬことには、中心に位置できないのではないか、そう思った。次作を期待しています。
 山本卓卓『うまれてないからまだしねない』は、夫婦の描写はこれでいいのか、とずっと思いながら読んだ。生まれなかったミサという女との繋がりに面白味がない。生まれなかった子供なら幸せ三昧でいいのではないか、いやむしろ幸せであって欲しいのではないか、そう思った。生まれるから、こんな惨状に遭遇するのではないのかと。だから生まれてないのなら……。ラストの夫婦の語りで全部が説明されているのが辛い。
 桑原裕子『痕跡(あとあと)』のシーン数の多さは何? なぜこれほどまでに話を追って説明しなければならないのか。印象的なシーンがいくつもあるのにもったいない。田村孝裕『世界は嘘で出来ている』は、兄が弟の遺体を片付けるというシチュエーションに託すものにもっと演劇的な野心を持つべきではないのか、と思った。桑原、田村両氏とも前候補作品より、確実に面白くなっているとの意見で一致したがテレビドラマ的だとの評は、いわゆる“いい話”に着地させようとしているせいばかりでもないように思う。
 ペヤンヌ・マキ『男たらし』は、どこかに落とし穴があるはずだ、と思いながら読み進めたが、え? 落とし穴なし!? で読み終わった。男たちがみんないい人すぎて、これじゃ“たらし甲斐”もないぞ、と思った。
 角ひろみ『囁谷シルバー男性合唱団』は、かつての金の卵たちが故郷の囁谷に銀の卵として帰ってくる、団塊の世代に光をあてた作品。これはやはり金の卵として都会に出た彼らの都会での葛藤なり挫折なりが強く意識されないと今が活きない。その重責を担っているのが沢田という女性で、この人物に対する作者のふらつきが、そのまま作品の弱味になった。
 山内ケンジさん、おめでとうございます。
 この受賞に甘んじることなく自分の演劇をつづけてください。


古川日出男氏の戯曲がもたらす恵み  岡田利規
 わたしは今回選考会に参加できなかったが、授賞に値すると思っていたのは山内氏の『トロワグロ』と古川氏の『冬眠する熊に添い寝してごらん』だった。
 『トロワグロ』は現在の社会におけるわたしたちの日本語の用い方、その不全的に機能するさまを露わにする書かれ方をしている。この劇の日本語のやりとりをきくことは、日本語話者としての自分たちの恥部と向かい合うような経験になり得る。それはわたしたちにとって有意義なものに違いない。
 『冬眠する熊に添い寝してごらん』を読んでわたしは古川氏のことを、井上ひさし氏の仕事が持つ本質的なところをよりワイルドな仕方で継承する劇作家と言いたい! と思った。『冬眠する熊に〜』が、一言で言えば近代日本国家とはなんだったのかというイシュー、を省察する時間や契機をくれる劇だったからだ。
 上演をリアライズする者への無茶振りのようなト書きの数々も、戯曲の持つ、挑発という仕方で上演に貢献するというひとつのきわめてまっとうな効用である。なにより、その無茶振りに是が非でも応えてみせるとおもわせるだけの魅力を、この戯曲は備えているとわたしは判断している。
 古川氏のこの独自の跳躍力を持つイマジネーションが作り出す戯曲がもたらす恵み――そのひとつがたとえば、その劇が近代日本の辿った歴史およびそれがわたしたちの現在にどのように連なっているかということへとわたしたちが思いを馳せるのを促してくれることだ――に、演劇という形式が今後も預かり続けることができるよう、願ってやまない。
 岸田戯曲賞の選考をするとき、わたしはいつも、その権威をどのように用いたいかということを考える。今回は、この賞を古川氏に授賞することで古川氏に今後も戯曲を書き続けることを促したい、また演劇のプロデュースに携わる人びとに、古川氏の戯曲から上演をつくるプロジェクトをもっと構想してほしいと促したい、そうしたことにこの賞の権威を用いたいと、強く思った。


カラオケで例えるならば  ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 カラオケには滅多に行かないが、つきあいで出向かざるを得ないこともあり、その度に感心させられてしまうのは、自分が二十代、三十代の頃とは比較にならぬ程、音痴の人が減ったことだ。多くの若者の歌う歌が正確なリズムをもち、ピッチをもつ。福山雅治の歌を歌う者は、普段福山雅治を真剣に聴き込むことのない私には、まるで福山雅治が歌っているかのように聴こえる。「正確に」歌えることが、どうやらカラオケに行く者の大前提であるらしい。
 などという書き出しから大方お察しの通り、今回の候補作の中で、『痕跡』、『囁谷シルバー合唱団』、『世界は嘘で出来ている』の三作には、最近の若者の歌うカラオケのような感想を抱いた。「高い技術をもつ」「よく書けている」「うまい」、あるいは「多くの読者を感心させる」でもいい。そのこと自体は劇作家にとってなんらマイナスではないし、きっと、最もうまいと私が感じた『痕跡』などの上演が大多数の観客の賞賛を受けただろうことは想像にかたくない。だが、同時に、多くの観客は、ある種の「既視感」を覚えたのではないか。
 福山雅治本人の歌を聴いてすら「どこかで聴いたなぁ」と思ってしまう私だから、なんというか、こんなことはそもそも問題ではないのかもしれないという気もするのだけれど、受賞に値するとは思えなかった。
 引き合いに出してしまったから無理矢理カラオケで例えるならば、誰にも福山雅治の歌だとわからないような個性的なボーカル・アレンジで、しかも強烈な歌唱でもって歌ったのが『つんざき行路、されるがまま』。カラオケにのせて長々とポエトリー・リーディング、しかも聴くものが説教されているような気持になる詩を延々聴かせたのが『冬眠する熊に添い寝してごらん』。勢いで酷なことを書いてしまえば、昔懐かしい音痴が『男たらし』。決して上手くないし、リズムも悪く、ピッチもはずし気味なんだけど、なぜか聴き入ってしまう魅力をもっているのが『うまれてないからまだしねない』。そして文句のないオリジナル・ソングが『トロワグロ』ということになるだろうか。
 そんなわけで、私は受賞作『トロワグロ』を強く推し、同等に(非常に秀れたカヴァー・ソングとして)『つんざき行路、されるがまま』を推し、次点として『うまれてないからまだしねない』を推した。私自身は『うまれてないから〜』の作者、山本卓卓氏に近いところに在るように思えるから、山内ケンジ氏や福原充則氏のような、確固たるオリジナリティのみならず、揺るがないスキルを合わせもつ劇作家には、早くも畏敬の念すら抱く。抱いてちゃダメなんだが。
 山内さん、受賞おめでとうございます。


「大したものだ」と唸りたい  野田秀樹
 受賞作品の山内ケンジ氏の『トロワグロ』。
 女性の「腕」と「白さ」だけで、これだけ面白いものを書ききってしまう、大した作家である。
 人間の妄想=「もしかしたら、こうなったかもしれない」世界が描かれている。現実から「大したこともない妄想」が、剝がれていく。その剝がれ方が実に微妙で巧妙だ。いわば、いつの間にか「平行世界」にでもはまり込んでしまったような、不思議な体験をさせてくれる。そんな世界を、なんでもない言葉で紡ぎだせる、大したもんだ。一人の男が、一人の女を遠くから見ている。そこから始まる。だがそれは見ているのではなくて、妄想しているのである。確かに、我々男女の対幻想という妄想の正体は、こんなものだ。そしてまるで、女性の「腕」にだけ惹かれたようなところに落ち着かせているが、実は、性的な「妄想」はそんなところにあるわけはないことも暗示している。いや、暗示じゃない、明示だ。川端康成の『片腕』を引っ張り出して、性的な「妄想」の正体を明示している。
 その「腕」の物語が、男性同士の「二の腕」の話として、最後、シャワールームで、仲睦まじい同性愛者として終わっていくところだけが、なんだか腑に落ちなかったのだけれども、ま、それも、現実から剝がれた「平行世界」から聞こえてくる声だ、と思えば、この稀有な作家の稀有な終わり方として、いいんじゃないか? と思うことにした。大したもんだ。
 福原充則氏の『つんざき行路、されるがまま』は、上手い。特に芝居の始まりは、唐十郎のロマンティシズムを、パロディ化しながらも継承できている、と思わせるくらいだ。「青梅街道の続いた先の吹き溜まり」など、唸らせるものがある。そして、「わたしは口笛だ」というのも、とぼけていて実にいい。ただ、その先がない。「口笛であることは」何なのだろう。勿体つけた理屈が欲しいわけではない。恐ろしく下らない方向に突き進んでもいい、ただ「口笛であること」が、いずれかの方向に向かって、深まって欲しかった。でなければ、終わりの三分の一くらいが、ただの暇つぶしだ。
 そしてもうひとつ古川日出男氏の『冬眠する熊に添い寝してごらん』――今、日本の演劇の世界が欲しているのは、この作家のような本だと思う。実に懐が深い。そして、紡ぎだされるコトバが面白く、コトバが、巨大な時間と空間を作り出してみせる。書きたいことが山ほどあり、紡ぎたいコトバが創作の海から溢れだしているのがわかる。本当はこれこそが大したものなのだが、この膨大な量の紡ぎ出された言葉の中に、「演劇の空間」にそぐわないものがあった。ありすぎた。主に、富山の薬売りの長い長いセリフがそれにあたる。それは「まあ、いい作品だから」といって無視できないほどの量で、おそらく小説として書かれれば、その説明は、必要なのかもしれないが、戯曲としては要らない。もしくは、もっと簡潔でよいはずだ。さらに、過去と現在において、猟銃が向けられる先は、はっきりとしているが、その猟銃を向ける人間の動機? 根拠が、あまりにも短絡的ではないか? この二点が、この作品をぎりぎりまで同時授賞作品にしてもいいと思いながら、最終的に私に手を挙げさせなかった理由だ。ただ、実は今は私は、少し後悔している。古川氏からすれば、こんなところで言われても仕方ないだろうが、これだけの大きい器の作家であるから、ぜひ再びまたスケール感のある「大したことのある妄想」を描いて「大したものだ」と唸らせてください。


笑いに特化した演劇のために  松尾スズキ
 ペヤンヌマキさん『男たらし』。というタイトルですが、どちらかというと、男にたらされる女の話なのでした。その裏切り方に意図もあまり感じられず、結果わりと平板な話になってしまったのが残念だという印象です。リアリズム演劇をていしながら、舞台上と舞台裏に流れる時間の整合性の見られないところがある。トシミの酔っぱらい方の唐突さ、ユズルが舞台裏で着替えてから出てくる時間の見通し方など、同様にリアリズムに徹した『トロワグロ』に見られる、時間を計算した人間の酔ッぱらい方に比べ、荒いし、全体的な作品の追い込みの甘さを感じずにはいられませんでした。
 山本卓卓『うまれてないからまだしねない』は、擬音や登場人物、そして登場人物が喋るタイミングを文字で表す手法や、老人が天井に浮かぶイメージなど、おもしろいところはいっぱいありました。が、途中でたびたび入って来る漫画的でファンタジックなシークェンスを舞台上のものとして、どう想像してよいか悩みました。とくに、鉄とあいつにまつわるエピソードが自分にはよくわかりませんでした。途中まではすごくおもしろかったのに、登場人物が順番に死に始めてからは、話を終わらせるためだけに物語の力学が発生しているような印象を受け、それが最初のほうに感じたイメージの斬新さと嚙み合わないのでは、と思った次第です。
 田村孝裕『世界は嘘で出来ている』は、時間軸をずらして、話を進め、現代社会の問題をまぶしこんで、どことなく意味ありげに見えますが、話全体は松竹新喜劇的な人情話だな、と、既視感を感じました。「世界は嘘で出来ている」というタイトルもハードルを上げ過ぎた気がします。
 桑原裕子『痕跡』は、出だしのモンタージュ手法に緊迫感があり、この芝居がミステリーに向かおうとしているものであると、すぐに得心しました。このタイプの芝居であればそういった書き出しは親切で有効的だと思います。一人語りのセリフも魅力的なフレーズが多く、キャラクター造形も書き分けができており、前回も思いましたが、自分なら演じてみたい役柄というものもありました。エンディングも鮮やかだと思います。ただ、話の先が見えてからが、ちょっと長すぎる気がしました。中国人の「折出有樹」の出し方も、じゃっかんミステリーのためとはいえ都合がよすぎるとも思いました。
 角ひろみ『囁谷シルバー男性合唱団』は、「プラプラという」などといったト書きも含め、台詞も間延びした田舎言葉で、谷岡ヤスジの漫画を読むように全体的にすっとぼけた感があっておもしろかったです。出てくる登場人物が老人ばかりというのも、日本の現在的状況から考えると、しつらえとして有効だと思えます。ただ、これを今年の日本一に推すとどうしても、地味すぎるなという感想が生まれてとめどありません。
 福原充則『つんざき行路、されるがまま』は、リリシズムとくだらなさが反発しあわず融和し、不思議な世界観を作り出しています。それは自分にはできない表現であるので、敬意をもって読むことができました。出演者を笑わせるためにあるようなト書きも、ここでは有効であるように思える。ギャグも実際舞台で発せられれば、そこで、確実に笑いが起こるだろうと想像しうる、つまりはフリとオチが丁寧に計算された完成度を持っています。私は笑いにおいて特化する演劇が根を絶やさないためにこの審査員をやりに来たので、この作品を推します。
 古川日出男『冬眠する熊に添い寝してごらん』は、始めこそ、はったりとケレンの効いた展開におおっとなって読んでいたのです。繰り返される兄弟の屁理屈の応酬や、時折挟み込まれるおふざけ台詞。それが、ある種の哲学としてこの作品の根幹と必然的に響きあうものであれば耐えられるのですが、読み進めるうち、どうやら、それらは一過性のものであるような気がして、だとしたら、ふざけたりなぞせず、もっと堂々と物語を語ってくだされば、もっと早くこの芝居が終わるのにと思ったものです。「説明的な歌」のおもしろさや、祖父と熊猟師の時間が流れるように動くさまなど、ところどころはハッとするようなおもしろさを感じるのですが、全体の印象としては、昔のアングラ演劇を彷彿とさせる、それはたとえば、ばば友たちや、母親たちをイメージとしてシンクロさせるやり方など、唐十郎さんや清水邦夫さんへの憧れが強く出過ぎているように思うのです。詩的に過ぎるト書きも、俳優をのせる次元を超えています。それでも、おもしろければ問題ないのですが、だとしたら長すぎるのでは。とくに、延々13頁にわたる日本の黒歴史を説明する台詞の情報量に、ついて行ける客などいるのでしょうか。いろいろな工夫に感心して読みましたが、客が感じる劇的時間に対する不親切さが、どうしても気になってしまって推せませんでした。
 山内ケンジ『トロワグロ』は、他のすべての作品より、パンチラインが質的にも量的にも優れているので推しました。人間の卑小さと卑猥さしか謳っていない芝居ですが、逆に、いろんなことを謳い過ぎている作品に比べてみればむしろいさぎよく、「黒い三谷幸喜」のようなイメージで読みました。このような、いわゆる静かな演劇では、どの役にも魅力を感じないことが多いのですが、『トロワグロ』は、登場人物のすべてに、個性と滑稽さの種類が描き分けられており、円熟的でもあると思いました。岩松了さんの初期の作品に似ている部分が多々あるので、批判される可能性もある作品ですが、笑いの質の深さ、そして、実際、客を笑わせていただろうフリとオチのさばきの美しさは、見事だと思います。


見えるものとイメージ  松田正隆
 『つんざき行路、されるがまま』では、「愛する」ということが、口笛という行為を通して、問題提起されていた。口笛を問い直すこと。人間が無根拠にこの世に存在すること(主人公が住居をいい加減に差配する不動産屋であること)の哀しさとともに口笛を吹く不可思議さ。それは、「私=個人」という輪郭の脆弱さからなんとか脱して、自分以外の人を求めようする無駄な身振りでもある。さらに、吹子が、「そうです、私、口笛なんです」と言ったときの、その身振りの無謀な登場人物化に、私は主人公と同様に魅了されてしまった。
 いや、それだけではない奇妙な雰囲気を湛えた戯曲だと思う。そのことをなんとか説明してみたいのだが。
 演劇の観客は、映像とは違い、肉眼で見えるものしか見ることはできない。その視覚の限界を見えているものから時間的にも空間的にも広げたり縮めたりずらしたり、いま・ここに見えてないものさえ見せる装置として戯曲があるのではないか。見るものの身体のおかれた視点から見える舞台上の出来事、これと同時に戯曲の差し出すイメージと見るものの記憶との関係によって生まれる豊穣な感覚を、客席で黙って動かずにいる観客は受け取るのである。戯曲自身のうちに観客から舞台への空間的な配置、つまり一つの視点から額縁の舞台を見るという構造を持たせたものより、この戯曲のように主人公の木枯日出男に観客の知覚が同化していくということのほうに面白さを感じた。複数の視点が散在しているのではない、俯瞰しているのでもない、馬鹿みたいに素朴な「日出男目線」に魅かれたのだ。同化といっても、完全に感情移入しているわけではなく、日出男の振る舞いや遭遇する出来事には距離をおきつつ寄り添う感じなのだ。私は、そんなことはありえない、けれども、これは起こっているのだから信じざるをえない、ということになって読んでしまった。「こと」の押し寄せるにまかせて場当たり的に対処し、「こと」を凌いでいる。そこで、見える「もの」(舞台上の身体や道具等)はあたふたと身の丈にあった運動をしているにすぎず、効果的な見せ物にはなっていない。それが最高によかった。起こっているらしい「こと」とそこで見える「もの」との見事(陳腐?)なバランス。
 上演とテキスト内の時空間が重なりあうのではなく、いくつものシーンを連ならせ舞台上に縦横無尽なスペクタクルを立ち上がらせるのでもない、中間領域があるということ。それが、どのようなレシピで出現するのかうまく言えないのだが、このあたりにこそ、戯曲の希望があると思いたい。


「達者」でない「逸脱」でもない、なにか。  宮沢章夫
 すぐれた筆致の作品が多い印象を受けた。そして、そのような戯曲はしばしば、「うまい」とか、「達者」といった安易な表現をされる。
 そうした言葉が意味するのは、器用に書かれた浅薄な作品のようで、けれど、たとえ「うまく」て「達者」であろうと、各作品への作者の意志をいくつかの候補作に読むこともできる。これまで、「うまいとしかいいようがない」と語る以外になかったそうした作品の傾向を、今回のような多くの「達者」な作品を続けて読むと、単純な言葉によって評価するのは充分ではないと感じる。もっと踏みこんだ読みはなかったか。それらの疑問も今回の候補作に促されて生まれた。具体的に示すなら、桑原裕子『痕跡』や、角ひろみ『囁谷シルバー男声合唱団』、あるいは、田村孝裕『世界は嘘で出来ている』、ペヤンヌマキ『男たらし』、そして、受賞作の山内ケンジ『トロワグロ』といった作品たちになる。もちろん戯曲賞の選考なので、受賞作を決めるのがなにより優先されるとはいえ、選考の過程で考えざるをえなかったのは、ごく簡単な言葉を使えば、現在の作家たちがそれぞれに持つ、「達者」さの意味だ。
 べつに、そんなことに拘ることもないようにも思うが、なにより考えたいのは、「達者」な作品の、その「達者」さが、新鮮な驚きを齎してくれなかったからだ。
 見事と言っていい巧みな筆致で描かれた、人物とそれをとりまく状況、ドラマの進行、クライマックスへの高揚、エンディングに向かう鮮やかさ、やがて穏やかな終焉がやって来る。いったい、こうした書き方をどこで学んだのか疑問に思う。だから、「書き方」とか、あるいは「劇作法」について、その訓練の方法を考えるのが候補作を読みながら次第に興味深く感じるようになった。
 少し話は逸れるが、あれは二〇〇三年のことで、日本劇作家協会を通じ、『はじめての戯曲 戯曲の書き方レッスン』(デヴィッド・カーター/松田弘子訳)を送っていただいたとき驚かされたのは、劇作家協会とはこのような「劇作の方法」を学ぶ場所だったのかという疑問であり、これが劇作家協会が「公式」とする戯曲の学び方なのかと不思議に思ったからだ。帯には、「欧米の演劇界で注目の指南書ついに翻訳!」とある。
 なにより、この最後に付された「!」が怪しい(だいたい、「欧米の」という煽りが怪しいわけだが)。
 まるで深夜の通販番組を見ている気分になった。この本は、他の健康器具と同様、ベッドの下にうまく収納できるのだろうか──というのは冗談にしても、これはきわめて合理的なテキストとして、戯曲の勉強をはじめる者にテクニックを丁寧に伝授してくれる、よくまとめられた入門書だ。その冒頭の「はじめに」という章には、「劇作家とは」という言葉がまずあり、いくつか劇作法についての概論的な解説のあと、とりあえずの「まとめ」としてこう記される。
 「戯曲が成功をおさめるには、基本的に何が必要なのか見ていく手はじめとして以上の四点を挙げた〔引用者註:物語を作り出す・登場人物を作り出す・ダイアローグをつくり出す・メディアに合わせて書く〕。まず、語られるストーリーは登場人物を通して語られるが、その登場人物は、出来事に反応していく必要があるし、その身の上に何が起こるか観客が気にかけるくらい、観客の心に迫る必要がある。そして、ストーリーを語るための約束事(どんな「リアルな」戯曲にも、約束事というものはあるものだ)は、よく理解し細かく想像力を働かせて使わなければならないし、選んだメディアの特長に合ったものでなければならない」(『はじめての劇作』より)
 基本項目のひとつに「メディアの特長に合ったもの」とあるように、『はじめての劇作』は、演劇だけではなく、映画やラジオ、テレビの脚本も「視野に入れ」て語られる。べつにそれが悪いとは思わない。なにも「ドラマ」にヒエラルキーを作り、演劇を上に置くつもりはない。ただ、演劇や映画にしろ、テレビやラジオのドラマにしろ、ある枠組みに囚われ過ぎればイメージする視野が狭窄になり、書き方も小さくなる。ほんとうに、戯曲や脚本は、「その身の上に何が起こるか観客が気にかけるくらい、観客の心に迫る必要がある」のだろうか。そうであってもいっこうに構わないが、そうでなくてもいいはずだ。デヴィッド・カーターが語る技術だけを上位に置くことにも疑いの念を抱く。なぜなら、そこに否定的な意味での「達者」が生まれる恐れを感じるからだ。
 だから、映画の話になるが、『シナリオ修業』という入門書の「いかに表現するか」という章で、新藤兼人は次のように書き、『はじめての劇作』とは異なったアプローチの方法を示してくれるのは、いま読んでも新鮮だ。
 「次に私たちは、作家としての自分をどう表現するか、という問題にぶつかる。すなわち、シナリオを書く技術である。ただ、技術というと、すぐ職人的な業ととられるおそれがあるが、これから話す技術は、単なるテクニックではなく作家としての自分をどうやって現すか、その方法の原則である」「単にシナリオや戯曲を機械的に読んだり、分析してみても、技術の習得にはならない。たとえば一つの戯曲を読むにしても、すぐれた作品は、生まれるべくして生まれた作家のぬきさしならぬ気持から、その結果として生み出されたものである」(新藤兼人『シナリオ修業』より)
 こうして新藤は、技術を重視しつつ、その背景にある作家が存在する姿に強くこだわる。つまり、「達者」とは無縁な、作家が内側に孕むよくわからない運動性を、技術として摑み出そうとする態度だ。『シナリオ修業』が刊行されたのは一九六二年である。まったく台詞のない野心的な作品、『裸の島』を新藤兼人が発表したのは六〇年であり、そう考えれば、新藤もまた、ヌーヴェルヴァーグの作家の一人と考えてもいいように感じるものの、ともあれ、『シナリオ修業』にあるのは、五〇年代末から六〇年代にかけて存在した、映画の変革期の問題意識であり、シナリオの方法もまた、問い直しがなされた時期に重なる。
 いま、こうして私が、「達者」な戯曲の書き方をことさら問題にするのは、つまり、それまでの戯曲が、「達者」ではなかったからだ。
 いや、べつに多くの劇作家が「へただった」という意味ではもちろんない。歴史的にそうだった。映画と同じような問い直しのなかで、戯曲の書き方に変革が起こったのは言うまでもなく、やはりそれは六〇年代であり、どこで、どのように演劇が変わったかという系譜をたどることに、「達者」の意味を探る手がかりがあるだろう。つまり、六〇年代のある時期の演劇によって(それはしばしば、小劇場運動、アンダーグラウンド演劇と呼ばれたが)、劇作を取り巻く構造が変化したことが、むしろ、「非達者」ともいうべき概念を生み出したと想像できる。梅山いつきの『アングラ演劇論』は、その時代の演劇の潮流を多くの資料にあたって分析し、系譜的に論述した好著だが、アングラ演劇の「劇言語」へのアプローチについて興味深い記述をそこに読むことができる。たとえば、鈴木忠志の『劇的なるものをめぐって・Ⅱ』について、佐伯隆幸の言葉を、「この舞台ほど一九六〇年代後期以降の演劇の特徴を示している舞台はない」とまとめた上で、「書かれたものとしてのテクストと俳優の身体(当時は肉体といわれたが)との対抗性という関係で語られることの多かったあの時代の演劇を身体という方向へと徹底化することでその限域を示し、日本の近代化/近代演劇(すなわち、新劇)とは違う形態の演劇を例示しえた舞台のひとつ」(佐伯隆幸『現代演劇の起源──六〇年代演劇的精神史』より)と引用する。さらに山崎正和が七八年に『新劇』誌に書いた「近代劇と日本」の言葉を引いてまとめ、それを、「アングラ演劇は演技の即興性と自立性を目指した結果、戯曲軽視の反文学的な演劇に向かってしまった」とする。佐伯も山崎も、どちらも正しいことを語っているのだろうし、一見すると、単純に身体と言語を分ける二元論のようだが、それについて鈴木忠志が反駁し、「私が舞台行為において課題としたことは、言葉というもののあり方それじたいを対象化するということであった」(鈴木忠志『内角の和』より)と語るのも、ほぼ同じことを、べつの話法で語っているように読める。だから、アングラ演劇と同時代に起こった、世界的な前衛演劇が問うていた言語の課題について、その運動状態を渡辺守章は、「言葉は演戯者たちによってしか演劇の言葉にならないという単純だが本質的な事実の確認だった」と分析する。それを参照して語られる、梅山いつきの言葉にこそ、いまの目から見れば、しっくりくる感触がある。
 「アングラ演劇は生身の肉体をただ差し出す演劇ではなく、独自の方法で戯曲を編んでいた。にもかかわらず『言語の演劇』としての側面が浮き立って見えなかったのは、それまでの戯曲という枠からアングラ演劇の劇言語が逸脱していたためである」(前掲書)
 こうして、「逸脱」と「達者」という二つの時代性が浮かび上がってくる。言語の問いは、ドラマの問いでもあり、かつての演劇にあった「逸脱」は、まるで「達者」によって凌駕されているかのようだし、「逸脱」が「逸脱」であるためにあったはずの、「近代性/近代劇/新劇」の有効性が稀薄になればなるほど、「逸脱」もまた、有効性を失うのは当然だ。だが、そうだからといって、その対抗として「達者」がいまになって浮上したとは言い切れない。
 なぜなら、どう考えても「逸脱」に比べると、「達者」はつまらないからだ。
 古川日出男の『冬眠する熊に添い寝してごらん』は、けっして「達者」ではない。その圧倒的な筆力に驚かされ、きわめて面白く読めるものの、どこか技術的に問題を抱え、たとえば二人の人物による対話の場面が大半を占め、それ以上の人物による複層的な言葉のやりとりが書けない拙さを感じざるをえない。いやもちろん、だからこその暴力的なまでの「非達者」だ。それが読む者を魅惑するかもしれない。同時に、太田省吾が、木下順二の『子午線の祀り』について否定的に語ったような、「目明きの言葉」に多くの言葉が費やされているようにも読める。富山の薬売りと熊猟師の会話は、単純な書き方をすればひどく知的であり、半分、冗談で書かせてもらうなら、読んでいる私がこの戯曲を通じて多くのことを学んでしまう。学んでしまっていいのか、勉強になるなあという、ごく素朴な読後感はけっして演劇的ではない。まして、熊猟師や富山の薬売りがなぜそこまで知的なのかがよく理解できないが、「非達者」であることによって、いくら饒舌な能動性を持ち、支配的な言語になっていようと、古川の書く言葉は、奇妙な魅力を放つ。けれど、それでもなお、そこにある「知的さ」を異なる方法で戯曲化できなかったか。そのための劇作の方法は必ずあり、古川がやろうとすることを実現するためには、特別な逸脱の技術が必要とされる。だから、戯曲ではないが、映画『サード』(監督東陽一)のシナリオを担当した寺山修司は、およそシナリオらしからぬエクリチュールを使うことで、寺山らしく映画の文法から「逸脱」しようとした。シナリオの冒頭の言葉がどこかおかしい。
 「1 このシナリオは野球用語で書かれる」
 それだけではない。「5 凡打」というシークエンスがあり、ドラマが描かれるシナリオらしい書法の中、不意に、「野球上達法」という項が記される。
 〈たとえ、それが凡打だとわかっても、打者は全速力で一塁まで走らなければならない。しばしば、それが相手のエラーを誘うことになるからである〉
 こうして『冬眠する熊に添い寝してごらん』の否定的な部分を書くのは、逆にそうした拙さを帳消しにするような、得体の知れない過剰な言葉の奔流が、ほかの何本かの作品が持つ「達者」な劇作の筆致を凌駕していると感じるからだ。では、「達者」な作品たちは、どのように、「達者」だったのか。なにが、「逸脱」よりつまらなくさせているのか。
 たとえば、桑原裕子の『痕跡』は、どのように「達者」な作品だったかをあらためて確認すると次のようになるだろう。
 まず第一の巧みさに、ビデオカメラを構え事件を追っている木俣というジャーナリストの存在がある。登場人物たちは、あるときは木俣の手にしたカメラに向かって、またべつのときは、カメラがあるものとして、虚空に向かって独白する。こうして巧みに人々の証言が舞台上の言葉として語られ、事件が十年前、二〇〇四年の雨の夜に起ったことや、様々な者らのドラマが語られてゆく。主人公であろう折出聖子の、当時九歳の息子が、橋の上で車に轢かれた。けれど、遺体は見つからず、事故を起こした車の姿もなく、女はかすかな希望を持って、いまも子どもと、事件の当事者を探す。事故の一部始終を目撃していたのは橋の近くでバーを営業している黒沢だ。黒沢は、事故の直前、橋から身を投げようと欄干に立った男がいたと証言する。声をかけると男はあきらめ、欄干から降りて黒沢の店に寄った。そして男が帰った直後、その事故は起こった。細かい場面の連続によって描かれる戯曲は、映画やテレビドラマのシナリオのようで、だからだめというわけではないが、どこまでも巧みに書かれるのを読んでいると、では作者はなにを書きたかったのかがよくわからなくなる。あるいは、それが「親子」とか「絆」といったアナロジーになっているとするなら、というのも、死んだはずの息子は、十年前のあの日、事故にあって川を流されたが、欄干に立って死のうとした男、吉川に助けられ、吉川によって育てられ十九歳になっていたからだ。そして真の親子、折出聖子と息子はどこかでいずれすれちがうだろう。うまい。見事な構成だ。だが、「達者さ」だけが際立ち、そして丁寧に書かれた戯曲は見事な結構によってラストまでほとんど破綻がない。私は丁寧に書かれた戯曲を高く評価する。言葉をないがしろにせず、積み上げるように書かれる台詞が舞台の奥行きを深める。
 もちろん笑いはあるものの、「逸脱」は薄いし、もっぱら「達者」さが際立っている。見事な律し方だ。破綻のなさだ。
 つまり、古川日出男にしろ、『つんざき行路、されるがまま』の福原充則にしろ、『うまれてないからまだしねない』の山本卓卓にしろ、どこかいかれているのである。いかれているから見事に「逸脱」することができ、「達者」さによって書かれた作品は、絶妙なコントロールでストライクを狙う。戯曲を否定し戯曲を読んでしまえば舞台を観る必要がないと言った寺山は、だから、映画『サード』の脚本のなかに、「凡打」というシークエンスを作った。〈たとえ、それが凡打だとわかっても、打者は全速力で一塁まで走らなければならない……〉と。
 梅山いつきが指摘した、「それまでの戯曲という枠からアングラ演劇の劇言語が逸脱していた」はすでに有効性を失ったのだろうか。それを流行りとか、演劇の潮流として簡単にまとめることはできない。「逸脱」が見失っていたことがあったのだろう。「達者」が忘れている演劇のアクティビティがあるだろう。最初に私は、「すぐれた筆致の作品が多い印象を受けた」と書いた。だからといって評価できたわけではない。異なる質を持った戯曲がきっとまた出現する。「逸脱」でもない、「達者」でもない、なにかである。

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