第58回岸田國士戯曲賞選評(2014年)

第58回受賞作品

『ブルーシート』飴屋法水

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「演劇」か「芝居」か  岩松 了
 「演劇」と言ったり、「芝居」と言ったりする。使い分けているつもりもないが、今回の授賞作品となった『ブルーシート』を読んだ時、これを私は「演劇」とは言うけれど、「芝居」とは言わないだろうと思った。優劣の問題ではない。「芝居」と言う時、なにかしら自分の中に想定しているものがあるのだろう、そのことを考えさせられたのである。大きくは、あの震災に対する被災地の高校生たちのリアクションになっているのだが、その実、歌うことにも似たアクションのみの演技をこの本は要求していると感じた。つまり、吐き出す演技。私自身は、吐き出せない、ということにドラマを見るし、それがなぜかというところに他人という者の存在を見てきてるわけで、対象が震災であれ、一人の人間であれ、それがあるゆえ、思うままに吐き出せないそのリアクションが人を迷路に誘い込むと思っている。そして、それを「芝居する」と見る私だから、この『ブルーシート』の中で、そこに「芝居」を見出せず、それこそ、さ迷ったのである。裏を返せば、そこに何らかの解放を感じたのも事実だ。ただ、その解放が「演劇」としての意味合いをもつものか、単に私個人にとってのものなのか、それがわからない。授賞に反対はしなかったが、諸手をあげて、というわけにはいかなかった。
 『効率の優先』を推した。人間を凝視するとこうだというその緻密さは候補作のなかで群を抜いていた。会社に生きる、いわば組織人間を扱っているのだが、その凝視してこその緻密さは、組織人間の病的なところなどという表現では追いつけないものを内包していると思った。おのずから不条理な人間社会を現出せしめるわけだが、昼休み時の喫茶店で、首からIDカードをさげているスーツ姿の人たちが楽しげに話しているのを見ると、あの人たちは、ここからあそこへ戻っていくのだ、と思ってしまうほどに劇世界に現実味があった。
 『彼らの敵』も推した。いっさいから切り離された人間の宙ぶらりんを描いている。週刊誌のカメラマンとして生きている男――学生時代に冒険に憧れ、それが国を巻き込むスキャンダルとなって週刊誌にたたかれたことがある――が、その矛盾に生きているわけだ。戯曲がその矛盾を扱いかねている点はあるが、随所に見るべきものがある。自然に(あるいは自然のなかの人工的なものに)感銘を受けたり、ベルリンの壁崩壊に立ち合った先輩に憧れを抱いたり、カヌーに勝負をかけたり……などの幼な心が今の男の状況を取り巻くから、そこに妙な虚無感を感じさせる。学生時代の冒険で誘拐され解放され徐々に世間に揉まれる流れ、解放を願うシーンから現在の立ち食い蕎麦屋への転換、殺されるとわかっていながら男を連行した少年が一晩で顔が変わる、などの視点は、簡潔なセリフとともに、評価すべきではないのかと思った。


エポック・メイキング  岡田利規
 私は今年の授賞作、飴屋法水氏の『ブルーシート』を、そんなに積極的に推すことはしなかった。
 作品の良し悪しが理由ではない。
 良し悪しで言うならこの作品は良い。三年前の震災の被災地である福島のいわきの高校生たちと作られた上演である『ブルーシート』は、死を突き放すように眺めることと、生に食いついていくこととの別け隔てをなくしてみるという体験を、観客にもたらすものであっただろうと、読んで感じることができた。そんな体験、なんて希有な体験だろう。
 テキストは、高校生が発することを想像するのがとても容易な、きどりのないカジュアルな言葉で書かれている。けれどもそれらの言葉に含まれている意味は、重たい。『ブルーシート』の言葉には、ざらっとした手触りがある。意味が残響のようにして、ずっしりと観客のなかにとどまるに違いない言葉。
 私が『ブルーシート』を推すことに積極的でなかったのは、このテキストを戯曲賞の名のもとに評価する意味がはたしてあるのか、よくわからなかったからだ。
 『ブルーシート』はすぐれてスペシフィックなテキストだ。いわきの高校の校庭で行なわれたという昨年一月の上演を想像することは、とても楽しかった。というか、ああ見たかったなあ、と悔しい気持ちになった。その一方で、この先このテキストを用いた上演が行なわれるという事態を想像することについて、私はそれをそんなに意味があると思わなかった。
 「戯曲」とは、この先の未来に生まれる上演における条件となりうるテキストのことだ、と私は考え、その考えに基づき岸田國士戯曲賞の選考にも臨んでいる。未来に生まれる上演のすぐれた条件となる力を潜在させている戯曲を顕彰するのでなければ、なんのために戯曲に顕彰するのか、私にはわからない。
 私は上演至上主義者なので、その意味で、戯曲それ自体というのは基本、どうでもいい。戯曲がどうでもよくないのは、その戯曲がこの先の未来においてすぐれた上演を成立させる条件となり得る力を潜在させていると思うことのできる場合である。
 その意味で私にとって『ブルーシート』は、戯曲というよりは、スペシフィックな上演のドキュメントとしてのテキストであり、これを戯曲として判断する必然性を感じなかった。
 ある演劇がすぐれているということがその上演に用いられたテキストからでもじゅうぶんに見て取れる、と感じることと、そのテキストに対してすぐれた戯曲であるという評価を与えることとは、別であっていい。あるべきだ。
 私は今回の選考会で、小里清氏の『国語の時間』を推した。日本の植民地だった時代の朝鮮・京城にある国民学校の教室を舞台に展開するリアリズム劇である。今回の八つの候補作の中でいちばん、未来に生まれ得る上演の条件となる力のある戯曲だと思った。形式は旧来的である。けれども私としては、『ブルーシート』よりもこちらを推すことのほうが筋が通っていた。先進的か旧来的かということよりも、戯曲賞として推すことに対して筋が通っていると感じられるかどうかのほうが、私には重要だった。『国語の時間』は、出版されてほしいと思った。出版されて、誰かがこの戯曲を用いた上演を企てる、ということが起こってほしい、と思ったのだ。
 今回『ブルーシート』に授賞したことは、岸田國士戯曲賞にとってたいへんにエポック・メイキングなことであると、私は思う。選考を終えたあと、私にふと、ある考えが浮かんだ。今の岸田國士戯曲賞というのは実は、「戯曲」の意義というものを失効させていくための装置として機能しているのかもしれない、というものだ。その自分の思いつきに、ぞくぞくっとした。
 岸田國士戯曲賞が先陣を切って「戯曲」の意義を失効させているのだとしたら。それも、良い作品に授賞しよう、という真摯な選考行為によって……。これは痛快なことである。いろんな意味で、すごくヤバいことである。
 私が『ブルーシート』を積極的に推さなかったが同時に授賞に対してまったく反対もしなかったのは、ひとつには、やっぱり『ブルーシート』が良い作品だったからだけれども、この作品に授賞することが「戯曲」の――そして、岸田國士戯曲賞の――意義の失効というヤバい事態を招くとしたら、それはそれでおもしろいことになるだろう、だからそんな事態の到来を阻むこともないや……と思ったからである。上演至上主義者なもので、そう思ったのである。戯曲賞の選考委員としてそう思ったわけでは、正直、ない。
 いやー、戯曲賞って、よくわかんないや。


ブラックよりブルーな、演劇の力。  ケラリーノ・サンドロヴィッチ
 私の側に問題があるような気もするが、圧倒されるような候補作はなかった、というのが本音である。
 最初に推したのは山内ケンジ『効率の優先』だった。どんな商売をしているのか判然としない会社のオフィスを舞台に、ドロドロな男女関係が浮き彫りになってゆく前半と、いさかいの最中にふとしたはずみで殺してしまった社員の死体(ふたつ)を前にして右往左往する彼らを描く後半。現代口語劇の体裁をとったブラックコメディで、徐々に不条理劇であることがわかる仕組みは魅力的に感じた。さまざまな組み合わせで本音と建前が交差してゆく前半は快調。ほぼ全員がひとつの事態に向き合うことになってからの後半は明らかに失速する。選考委員の中には、「仕事中に女子社員のオッパイを揉む会社はない」、「直截過ぎる下ネタが多くて不快感を感じた」などといった、私が別段気にならなかったことを指摘する声もあり、しまいには「コメディだとは思わなかった」という、思いもよらぬ発言も出たりで、読み方はさまざまだった。不条理劇への飛躍が鮮やかに決まれば、私ももう少し闘う気になれた。方法の実験はおおいに買いたい。今後に多大なる期待を抱いております。
 個人的に、受賞作と僅差に感じたのは、神里雄大『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』。幼女監禁事件への証言の羅列が延々続く。「悪意の連鎖」、「他者の不幸への想像力の無さ」といったことを、作者がどれだけ意図したのかはわからぬが、第三者である彼ら証言者が、当事者達を無責任に推測し、結果、事件に関することはほとんど語らず、個人的な愚痴や悩みをダラダラ語ることになっているというのは、単純に面白かった。長めの冒頭における、犯人らしき男のモノローグも、ポエティックな言葉選びが巧みでドキドキさせられた。とはいえ、これを一番に推すだけの決定的な魅力には欠けた。
 受賞作となった飴屋法水『ブルーシート』は、力強く、清々しく、気持ちのよい戯曲だ。「人は、見たものを、覚えていることが、できると思う。人は、見たものを、忘れることが、できると思う」。一貫して作品の通奏低音となるこの台詞の力強さは、多くの、とくに、現代を生きる日本人に、冷静な希望を与えてくれる。これぞ演劇の力だと思う。おめでとうございます。


トンビとの交信  野田秀樹
 飴屋法水氏の『ブルーシート』が群を抜いていた。久しぶりに積極的に推したい作品と出会った。
 いわきの高校生とのコラボレーションから生まれた作品である。大震災以降、多くの表現者が、多くの分野で、そうした試みをしてきたが、それがただ「被災者の皆さん、頑張って」というメッセージにしかならない。その文脈から離れて、作品として見事に結実したものは、どの分野にもなかなか生まれていないように思う。その中でこれは、見事に作品として昇華されており、実にたくさんの瑞々しいイメージで綾どられている。若い肉体を持った高校生が、たくさんの死体と出会った、その体験から「生きる力」へ向かっている。ブルーシートは、もちろん死体と直結するイメージなのだが、仮設住宅の大きさをブルーシートで暗示し、そこで暮らして見せたのは秀逸な舞台表現だ。あるいは、余震が来るたびに眠くなる少女。それは、「眠り」が「死の稽古」であることを暗示している。そのイメージは「生きることを死の稽古」と言い当てたソクラテスの言葉にさえ聞こえる。「大人になることは、人を殺す立場になること」「ウチ〔私〕は、お父さんと、お母さんという、2つの成分で、できあがってるわけじゃん?」など、ハッとする言葉が、お祭りのように目白押しである。そして、それらの豊かなイメージがやがて一つのイメージへと向かっていく。人は大きな不幸に出会った時=つまり、大量の死体と出会った時、それを「記憶」することと「忘却」することによって、その事件を超え生き延びようとするのだ。そこへ向かっている。そして大団円に用意されている、空を見上げた死体とその上空を舞う「とんび」との交信とでも言うべきイメージ、それは明るく虚無的である。
 まったく無駄のない、そして演劇にしかできない方法でつくられている作品、すなわち美しい作品である。
 他の作品は、いずれも、大きな瑕疵があった。その中では、西尾佳織氏の『カンロ』は、後半部分、「蟻」のイメージが出てきたあたりから言葉が弾んできた。同時に、役の関係性をずらすことで、演劇にしかできない面白さが見えて、私は油断して読んでいたが、なかなか曲者の作家だと思った。たぶん、作者もその演劇にしかできないことが、面白くなっている時期なのではないか? この方法がさらに確信的になった時に、この作家は開花するのではないだろうか?
 他にも、小里清氏の『国語の時間』、長田育恵氏の『地を渡る舟』も、よく資料を読み込んだ力作だが、いずれも、芝居の入り口と出口が遠いところにない。かといって、円環的なめまいを感じさせるわけでもない。つまり、「演劇にしかできない方法」で書かれていない。私にはそう思えた。


物語世界への導きになるなかれ  松田正隆
 私は、『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』と『ブルーシート』を推した。
 『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』という戯曲は、ある登場人物たちの置かれた状況が、その人物たちの言動や過去の出来事によって事件が起こり、違う状況に変容して行く――というドラマ形式をとっていない。核心となるような事件(監禁事件)は、ここでの人物たちの「語り」から距離がとられている。その「語り」手たちは、気まぐれで、分散しており、相互に干渉することもなく、ひしめき合っている。もはや会話が成立するような公共空間が喪失しているのだとしたら、私は、この語り手の群れのような言葉の羅列に戯曲の可能性を感じた。ここでかろうじて劇としてのまとまりを維持させているのは、得体の知れない憎しみを抱えながら誰かになにか気の利いた感じで語る語り口や、聞かれもしないのに証言者ぶって語ってみる「偽物感」という力である。虚構を成り立たせているのがそれぐらいのことしかないのがとても良かった。
 『ブルーシート』は、大勢の人々が死んでしまった出来事の後のことが書かれている。既存の価値観がなくなった世界において、身近な風景や事物を使って、生き残った若い世代の人たちが、その世界をなんとか再定義しようとする試みのような気がした。人間は、その人が誰なのかよりも何なのかという社会における有用性によって解釈されるが、この劇は、その人が「誰」なのかということを真剣に問うている。過去、そこで起こった出来事を再現もしくは表象するのではなく、独自の方法で言葉が発話される契機を生み出そうとしている。そのことに素直に感動した。
 いくらこの世界が醜悪で絶望的だからといって、戯曲を書くことがこの現実とは違うもう一つの世界、たとえば物語世界への導きになるようなことになってはならないのだと思う。この二つの戯曲は、もう一つの世界の物事の辻褄のようなものには頓着しなかった。そのかわり、この現状のもとで思考するにはどうすればよいのかということが提起されたのだ。


「奇跡」を普遍化するための戯曲  宮沢章夫
 さまざまな語り方で「あの日」のことが表現されてきた。
 おそらく飴屋法水の『ブルーシート』もまた二〇一一年の三月のその日を背景にしていると理解できるのは、あらかじめ戯曲の冒頭に、「いわき総合高校総合学科第10期生アトリエ公演 上演台本」という記述があるからだ。どうしたって福島のことを想起せざるを得ない。だがこれは、そこに寄りかかって作られたテキストではない。むしろ、そのことへ向けてどのようにアプローチするか、どう語ったらいいか、そのこと自体が書かれている。飴屋法水はさらにテキストのはじめに「離人症」について触れ、十人の高校生との共同作業について語る。共同作業の過程で、「ここと 少し離れたところを往復してみる」と言葉にするとき、「少し離れたところ」がどこかはっきりと書かれているわけではないが、戯曲を読み進めるうちにそれを次第に理解することができる──いや、それはまたあとで触れたいと思うが──。さらに言葉は続く。
 「この時間と 異なる時間を/この場所と 異なる場所を/この考えと 異なる考えを」
 こうして「あの日」について、凡庸にならない方法を探る過程そのものが描かれているとすれば、どうしたって言葉は抽象的にならざるをえない。なぜなら、人は多くのメディアを通じて具体的な震災の姿を見てしまったからだ。だからこれは、演劇でなければ描けない「あの日」のことだ。いや多くの演劇が、演劇でなければ表現できない「あの日」をさまざまな方法で試してきた。たとえば、オーストリアの作家イェリネクは『光のない。』で直接的に、東日本大震災と福島原発の事故をテーマにしたテキストを書いた。いや、もっと多くの表現があったと想像する。『ブルーシート』には、それらとはまた異なる鮮やかな言葉がある。美しい言葉がある。残酷な言葉がある。グロテスクな言葉がある。イロニックな言葉がある。奇跡的なるものをめぐって、その総体としての戯曲という形式が、見事な姿をして私たちの前に出現した。けれど、ではそれがどういう姿をしているか、うまく言葉にできないのは、『ブルーシート』というテキストが、ある特別な「時間」を背景にして奇跡のように生まれたと思えてならないからだ。
 奇跡のことを、演劇の持つ運動性と表現してもいいと私は考える。作品が出現するのが、〈いま/ここ〉という現在性とわかちがたく結びついているにちがいないからだ。そこに現役の高校生の生身の身体をいやでも感じる。それは一面で「演劇行為の記録としてのテキスト」という批判があっても仕方がないだろう。これは戯曲なのだろうか。
 たしかに成立の過程に高校生との共同作業はあったにちがいない。奇跡(=演劇の持つ運動性)によって、あるとき、ある特別な時間が出現し、見事な言葉たちが生まれた。高校生たちが、創作過程の時間内と、舞台になった高校のグラウンドに登場するとき、表現者としての特別な身体を存在させたのではなかったか。
 だからテキストとしては曖昧だ。これは戯曲なのだろうか。結論から書いてしまえば、だからといって、これは単なる記録ではない。ドキュメントではない。飴屋法水の創作物だ。奇跡という抽象性を普遍化する作家の意志がこめられている。
 それが「ブルーシート」だ。抽象性のなかで、ただひとつくっきりと姿を現わしているのは、まさに「ブルーシート」だ。「あの日」以降、「ブルーシート」は特別な意味を持つようになった。
 レイナという登場人物がいる。登場人物がほとんど舞台装置として用意された椅子に腰を下ろすのを拒否し、「レイナは着席せず、やや離れた地面に寝転がる」とある。さらにト書きは、「椅子に座った皆、転がったレイナの体を見ている。/どこからか、トンビの声が聞こえたような気がする」と続く。地面に横になっている「レイナを見ている」のではない。「レイナの体」を見ているのだし、トンビが上空を飛んでいることが示唆するのは、レイナが死者だという事実だ。
 演劇は、いまそこにあって、目の前で上演されるから、生きているはずの生身のカラダが観客のごく間近にあって表現される。すると死者もまた、生身のカラダによって表現することが許されることも意味するのは、能楽の例を持ち出すべくもない。
 飴屋法水は書く。「ここと 少し離れたところを往復してみる」と。その「離れた場所」について飴屋は、「少し」と書く。そして、「この時間と 異なる時間を/この場所と 異なる場所を/この考えと 異なる考えを」と続けるとき、読む者はそこに「死者のいる場所」を感じずにはいられないが、レイナがいま、そこにいるように、演劇によって表現できる「死者の場所」は、常に「少し離れた場所」だ。イェリネクは『光のない。』で、「わたしたちはもう横になろう。もはやなすべきことはない。すでに多くの者が横たわる。わたしたちは横になろう、わたしたちの音のそばに。」と書き、そしてさらに、「わたしたちが光。わたしをここから出してほしい、もしきみたちにできるなら! 奥深くにいる。わたしたちはここだ! ほら! ほら! わたしたちはなんだったのか、わたしたちはなにを言ったのか。」とテキストに言葉を刻んだ。
 レイナとはそのような存在だ。
 『ブルーシート』で、ヒッチーという登場人物はレイナに向かって、「それは、人のようにも、見えました。/それは動物のようにも見えました。それは生き物のようにも見えました。/それは、それ以前、のようにも見えました」と言う。具象的な表現をしないことによってなおさらレイナのことを言葉にして強い印象を残す。さらに書くなら、いとうせいこうの『想像ラジオ』の主人公DJアークとレイナを重ね合わせずにいられない。DJアークは被災者の一人だ。救出が困難な高い樹上で横たわったまま存在する死者だ。そしてラジオ放送を続ける。想像のラジオだ。多くの死者からリクエストが届く。東日本大震災をテーマにした多くの凡庸な創作物と同様の受け止め方をする著名な作家もいたが、ここには小説でしか描けない方法で「死」を表現しようとした意志がある。悼みと鎮魂の意志があった。
 レイナは劇の幕切れ近くに独白する。
 「あの時、もちろん、私は、死んでいたわけではないし、/死んでしまいたかったわけでもない。/ただ、誰もが時に、そうするように、/自分が、もう居ない世界のことを考えていた」
 この言葉にこそ飴屋法水が書こうとした、「この時間と 異なる時間を/この場所と 異なる場所を/この考えと 異なる考えを」という理念があると思えてならない。生者と死者の世界を往還することで世界を造形しようとする。鎮魂のために。それは演劇的な行為だったからだ。演劇のテキストだからできたことだ。これは戯曲だ。高校生たちが出現させた奇跡を、見事にテキストとして書きとめ、構成し、構造化することによって生まれた、飴屋法水が創作した戯曲である。

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