第53回岸田國士戯曲賞選評(2009年)

受賞作品

『まほろば』蓬莱竜太

『幸せ最高ありがとうマジで!』本谷有希子

 

おもしろい場面   井上ひさし
 劇作家の大切な仕事の一つに、〈おもしろい場面を背負って登場する人物を用意すること〉というのがあります。おもしろい場面という言い方に抵抗があるならば、感動的な場面でも痛切な場面でもなんでもいい、とにかく劇作家は、その芝居の質を決める取って置きの場面を登場人物のだれかに内蔵させておいて、それを最良の間合いで表に出して客席を圧倒する。
 蓬莱竜太氏の『まほろば』の登場人物はすべて女性ですが、作者は、登場するすべての女性に「おもしろくて、感動的で、痛切な場面」を背負わせていました。それらの場面の基になっているのは、妊娠する力です。作者は、過去に妊娠したことがある、いま妊娠している、そして近い将来に妊娠するであろう女性たちの心の動きとその言動を巧みに組み合わせてがっしりした深層構造をつくりました。そして表層は、華麗で滑稽で露骨な対話で飾り立て、自由で軽快な滑走感を生み出しました。決してよそ見をせずに、ただひたすら「妊娠したのか、しないのか」に焦点を絞っているのも清潔でいさぎよく、豪快にして巧緻、軽妙にして深い思想を秘めた傑作です。
 本谷有希子氏の『幸せ最高ありがとうマジで!』の人物たちもまた、おかしな場面を引き連れて登場します。自分が恵まれすぎていることになぜか我慢ができなくなった女性が、なんの関係もない他人の家庭へ闖入して、いきなり「わたしはこの家のご主人の愛人です」と宣言する。このメチャクチャな宣言に触発されて、一つの家庭の構成員全員が、それぞれが背負ってきたおもしろい場面を一挙に表へ押し出してくる。終息部分で少しばかり混乱したのは残念ですが、しかし、おもしろい場面が連続して表へ飛び出してくる前半から中盤にかけての、生き生きと躍動する展開に、作者の才能がまぎれもなくあらわれていました。この作品は、他人のいいところに目をつぶり、悪いところだけを指弾する、昨今の社会の歪んだ精神構造を痛烈に撃つファルスの傑作です。


言わせてください   岩松了
 松井周『家族の肖像』:劇全体を覆う薄気味悪さ。演劇が時代をうつし出すというなら、これほど“今”をうつし出している作品もなかろうと思う。人物を遠景として見ることによって、つまりは人物たちがどこに位置しているかを描こうとする姿勢を保つことによって、何も声高に叫びはしないが無数の人物たちの声が聞こえてくる劇をつくりあげている。それはあらゆることが起こりうるという“予感に充ちた”人物たちの蠢きでもある。弁当をまわし食いするという怠惰とも貧しいとも言える行ないの中に、それでもくすぶる性的な衝動。かつての先生と教え子が再会するが、それはそれだけのことだというあっけなさは、劇が人の感情を拾おうとすることから陥る誤謬に注意を払う姿勢に他ならない。“残酷”の一言で人の世を裁断することがはばかられるほどに“あっけない人生”を描いて傑作。私は何のためらいもなく、この作品を授賞作として推したが、選考会に出席できず、書面で伝えるにとどまった。他の選考委員の賛同を得られなかったのが残念である。
 長塚圭史『SISTERS』:人と人の対立を描くことに心血を注いでいて潔い。が結局、この大変な状況が私と何の関係もないと感じさせてしまうのは、人物の抱える病が普遍化されていないからだ。馨が妹と美鳥を重ね合わせるということを自ら口にしているが、むしろそれを否定するがゆえに深みにはまってゆくという視点が欲しい。その視点があってこそ人にとりつく病が私と関係のあるものになってゆくのであって、劇が病気発表大会になることもない。
 蓬莱竜太『まほろば』:この作者の力量、とりわけ場の空気を描く才能―それは的確なセリフを書けることにつながる―には、かねがね感心していたが、この作品が彼の他の作品に比べて特にすぐれているとは思えなかった。
 本谷有希子『幸せ最高ありがとうマジで!』:この作者の“しゃべりたい”という猛々しさ、エネルギーを私は捨てがたいものと感じる。それを体現しているのが明里という人物なのだが、声高に無差別テロなどと叫ぶけれど結局のところその幼さばかりを露呈させてこれは誕生日にヤケになった女の話か? と思わずにはいられない。あるいは物語に対する不信ゆえか、とも思うが、物語を構築しあぐねているだけかもと思ったりもする。それほどまでに明里という女に見事にドラマがないのである。にもかかわらずここまで劇をひっぱる、そのことを猛々しいと私は言っているのだが。
 受賞の二氏には、今後を期待の心持ち。


蓬莱さんのうまさと、本谷さんの言語感覚   鴻上尚史
 『まほろば』は、蓬莱竜太さんのうまさに唸った。宴会の準備のために箸を置きながら妊娠を告げ、さらには、共同体での序列の滑稽さを描くなど、じつにうまい。被爆のイメージが薄く挿入されているが、その部分は余計だと僕は感じた。
 それよりは、この手練の作家に感心する。タマエの意味のないアドバイスに見せかけるうっちゃりの手法や、母親ヒロコの現世的な嫌らしさなど、じつに見事だ。
 ただし、これは男性的感性の感想かとも思う。女性の視点からみれば、これは、誰に感情移入するどんな物語なのか、何人かの女性に聞いてみたいと思った。
 本谷有希子さんの『幸せ最高ありがとうマジで!』は、言語感覚に優れた作品だった。作品の構造としては、以前にノミネートされた作品の方に優れたものがあったと思うが、「明るい人格障害」やレイプされた相手に、「本格じゃないの」という言葉をあてはめたりする感覚が、じつに鋭い。
 謎の女の説得力のなさを、説得力に転化させようとする力技は、その努力を買う。理由はないように見えて、じつはある。だが、それは、柔らかな絶望の広がる日本ではなかなか言語化できないし、世界的に見れば「甘えた若者」として説得力を持たないだろう。けれど、僕たちは、そういう皮膚感覚の中で生きている。この感覚をすくい取る言語表現は見事だと思う。
 他には、長塚圭史さんの『SISTERS』の演劇的構造に面白みを感じた。問題は、近親相姦というテーマが、いかに、「あなたの物語」ではなく、「わたしの物語」となるか、ということだろう。
 もうひとつ、タニノクロウさんの『星影のジュニア』は、子供の意識として母親が父親に犬のように扱われ、実際に犬のように生活しはじめる、という点がじつにエキサイティングだった。問題は、男2の性格設定だろう。赤ウィンナーがじつに面白い存在だっただけに、少し中途半端で惜しい作品だった。


劇の言葉の迫真力   坂手洋二
 加藤一浩『黙読』は「普通の演劇ならこうはしないだろうが自分はあえてこうするのだ」という「外し」技の自意識が透けて見えすぎている。
 タニノクロウ『星影のジュニア』は、劇に含まれている寓意はあるのだろうが、残念ながら作者の意図するものを追いきれない。こちらの問題なのだろうか。
 長塚圭史『SISTERS』は近親相姦という題材に依存してしまい、劇としてはステレオタイプになってしまっている。創作衝動を作者自身の肉声に転化させる仕掛けを見つけてほしい。
 蓮見正幸『ステロイド』はつかこうへい氏の影響が明白だが、表面的である。つか作品は「語り口」よりも「論理」の強靱さこそが既存の常識を覆してきたのではないだろうか。
 前川知大『表と裏と、その向こう』は、根幹となるアイデアを生かしきれなかったことが残念である。言葉で説明するのではない手法による構築が必要だろう。
 松井周『家族の肖像』の登場人物には興味深い個性の持ち主もあるが、皆が揃って少しずつへんてこりんだと、全体としてはかえって際だったことをやっているように見えないという相対性の法則で損をしている。
 山岡徳貴子『着座するコブ』は、昨年の『静物たちの遊泳』ほどには、劇構造にシンプルさ、大胆さが見られない。劇的な実験が「趣向」に留まっているように思われる。
 本谷有希子『幸せ最高ありがとうマジで!』。ようやくの受賞はめでたいが、特殊なヒロインを造形しなければならないというカセから作者自身がそろそろ解放されてもいいのではないかという気がした。三年経ってしまったが『乱暴と待機』がバランスの取れた作品だったと思うので、素直な作者の「地」が出る新作を楽しみに待ちたい。
 蓬莱竜太『まほろば』は、上演を観たときよりも戯曲の力を感じた。被爆への言及などが曖昧で劇的なテコになっていないことや、「男たち」の存在がもう一つ具体的でないことを差し引いても、劇の言葉が活字として立ち上がってくる迫真力は他の候補作よりも段違いに抜きんでている。


外界から遠く離れて   永井愛
 大量殺戮だの、大量首切りだのの報道に日々接していると、最終候補作のほとんどが引きこもってゲームに興じているような、外界と切り結ぶ意思のないものに思えた。
 女性登場人物を男性との性的側面においてのみ描いた作品が目立ったのも今回の特色で、この古くさい女性像への回帰も、今を生きる女からの逃避ではないかと気になった。
 そんな中では、『家族の肖像』(松井周)に、男目線を克服した劇作家の目を感じた。特に、「母」と「万引き娘」の悲哀に満ちた愚かしさは、ちょっとだけ世界に向けてジャンプしていた。残念ながら、それは断片の面白さにとどまっている。整合性のある物語に収まりたくない気持ちはわかるが、構成はまだ模索中といったところだろうか。
 『まほろば』(蓬莱竜太)は、「うまい」と高い評価を集めたが、私は感心しなかった。作者は自ら設定した女たちの状況を、人物の色分けとしてしか活用していない。だから本当の関係が生まれない。父親の特定できない娘を産んだ次女と、それを20年も責め続ける母(ヒロコ)の関係はあれで済むのか。ヒロコは次女の今カレの子を「瓦場の子」と蔑んでまでいるのに。次女の娘は、いまだに自分を「父無し子」扱いし、人目から隠そうとするヒロコをなぜ恨まず、頼って戻ってくるのだろう。自分もまたヒロコの疎む「父無し子」を宿しているというのに。長女にしても、跡継ぎを産めと迫るヒロコの前に、なぜこのタイミングで現れるのか。「閉経」で産めなくなったと思いこんでいるのに。
 この作品は、娘を「産む機械」扱いし、「父無し子」「瓦場の子」差別を堂々開陳する母に対し、娘たちがそのアイデンティティーに見合った傷つき方も怒り方もしないことで成立している。だから、「閉経かと思ったら妊娠だった」というオチに向かって、一緒に他愛なく騒げるのだ。ヒロコはまるで、家父長制の権化だが、姑に「この家が途絶えても、誰もアナタを責めない」と言わせることで、それとの関連は否定される。こうしてこの作品は、すべてのやっかいな領域に踏み入ることなく、唐突な母性讃美に帰結する。それぞれの女の実存に迫らぬまま、母性でまとめ上げるのはあまりに安易ではないか。蓬莱さんの今後に期待して、あえて苦言を呈します。
 『幸せ最高ありがとうマジで!』(本谷有希子)には、言い訳しながら発砲しているような作者の迷いを感じたが、もう何度も最終候補になっている本谷さんの才気に、ここらへんで降参してしまいたい気持ちになった。どうぞ「悪意」の安売りをせず、本当のテキをつきとめてください。


アウェイへ行って闘って来い!   野田秀樹
 今年は、九本の候補作があった。すべてが、「家族」「人間関係」「愛情」でくくられる作品だった。この傾向が、「今」を象徴しているのであれば、面白いことなのだが、寧ろ、何も象徴していないかのように思える。だから、読んでいてもわくわくしない。
 そこで書かれているものは、その作品に登場する人間たちの間だけの人間関係である。
 外側と言うものがない。世界というのは、内と外でできているものだろうに、書かれているのは、内側のことばかりである。外側が想像されることもない。崩壊しようとしている外側でもいい。幻想の外側でもいい。とにかく何も書かれていない。たまに書かれていてもありきたりで、関心がもたれていない。これは、人間関係という芝居の根幹のようなものを書いていながら、実は、その関係を作っている共同体と言うものに無関心であるからだ。無関心でない場合は、その共同体の造型がただの借り物であったりするからだ。
 「人間関係の危機」を描く以前に、「内側の人間関係」をしか書けなくなっていることが危機であろう。
 ホームで試合をしてばかりいるひ弱なサッカー選手のようである。アウェイへ行って闘って来い、と言いたくなる。昔なら、「偶には外へ出て走って来い!」の一言で片付いたのかもしれないが、今は作家が集団で「家」に引き籠っているような現状だ。
 その中で、今年は、蓬莱竜太氏の『まほろば』。これは、実によくできた昔のテレビのホームドラマのようであった。皮肉ではなく、なかなかこうも上手くは書けない。
 甘いけれども上手いのである。この上手さに舌を巻いたので推した。
 本谷有希子氏の『幸せ最高ありがとうマジで!』は、作品賞というよりも作家激励賞である。本谷氏の「人間の良心を笑う」悪意と「真実の暴言を吐く」作為は、紛れもない才能である。
 だがまだ三分咲きだ。というか、幹が見えない。これを契機に、その卓越した才能を更に開花させ、もっと素晴らしい大木を生み出して欲しい。


コドモ身体からひろがる世界へ   宮沢章夫
 あるダンス批評家が「コドモ身体」という言葉で肯定するのは、〈規律・訓練〉から解放された、いわば「非ダンス的、非演劇的」な身体が放つ特別な魅力だと理解できるけれど、タニノクロウ『星影のジュニア』に記されたト書きには、そのことが記されているようで印象に残った。『星影のジュニア』は「子供」が重要な役割で登場し、世界が「子供の視線」で描かれる。そして、戯曲に記される「演出上の注意」はこう指示する。
 「子供に対しては、次第に子供の自由度を増すように、演出することが望まれる」「たとえ子供が指示通り動かなかったとしても、修正しない方がよい」
 私がこの作品を推したのは、第一に、この「ト書き」が、戯曲によって示される身体論になっていると考えたからだ。けれど、子供はけっして「コドモ身体」ではない。それというのも、なにもしなくても子供は「コドモ」だからだ。
 「ただし、他の役者が、子供の予測不可能な、意外な行動に歩調を合わせてセリフや動きを変更する必要はない」
 子供を目の当たりにした「大人たち」が、劇から逸脱する子供の「意外な行動」に翻弄されても同調するなと指示されたとき、むしろ、「大人たち」のからだこそ「コドモ身体」になると想像する。「子供という異物」に自由を与えてしまった劇世界は、〈規律・訓練〉が支配するようなコードとは無縁であり、もっともらしく大人を演じるのは、いくらうまくできたところで、そもそもどこか歪んでいるにちがいない。
 それとよく似た感触なのは、松井周『家族の肖像』における冒頭にあるト書きの一部だ。
 「登場人物の出入りは便宜上書いてあるが、別に舞台の上にいたままでもいい」
 ここにある「舞台の上にいたまま」のからだはいったいどんな様子をしているのか。しかしその指示はない。むしろ、指示しないことが戯曲の性格を決定づけ、魅力になっている。両者に共通しているのは、決定不能性だと思う。中心をずらし、誰もほんとうのことを語らないから、たとえば、『星影のジュニア』の父親の職業は最後までわからない。そうした曖昧さ、非中心性を「コドモ身体」と身体論で考えてもいいけれど、戯曲として、そのからだから滲み出る言葉が読むに価するからこそ、『家族の肖像』の、かつて教師だった母は、嘘かもしれない長い話をする。あるいは、山岡徳貴子『着座するコブ』は、なにもかもがわからないのである。
 受賞作の、蓬莱竜太『まほろば』、本谷有希子『幸せ最高ありがとうマジで!』はそれぞれ作家の個性がストレートに表われた見事な戯曲だ。感服する。ただ、それとは異なる性格や意図を持った言葉もまた擁護されるべきだ。なぜなら、太い輪郭線で描かれた人物、ここですよと教えてくれる合図、想像しなくてもよくわかる劇の言葉だけが、世界を構成しているのではないからだ。

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