第51回岸田國士戯曲賞選評(2007年)

該当作品なし

 

ひとつの顔、ふたつの顔   岩松 了
 今回受賞作なしという結果になったけれど全体のレベルが低かったとは思わない。むしろにぎやかな作品群だったと言っていい。最終的には『さようなら僕の小さな名声』と『遭難、』が争うことになったが、この二作品もちがう顔をもつもので、それぞれに面白い。あつく観客をとりこもうとする本谷有希子氏の表情と冷ややかに観客と対峙しようとする前田司郎氏のそれは、演劇が宿命的にもつふたつの顔であると思われる。そのふたつはあたかも離反するかに見えるが、どこかで分かちがたく結びついていて、そこに演劇の力も宿っているのだろう。
 むろん作品の欠点をあげつらうことが選考会の本意ではないが、私個人の感想を言えば、両方の作品に見える油断のようなものが気になり、強く推すことにためらいがあった。読んでいる私が、或いは観ている観客が、どうも甘く見られているような気になってしまうのだ。本谷氏の進境著しさも、前田氏の筆力も認めはするけれどもだ。本谷氏には「そんなに現場を盛り上げようとしなくていいよ」と言いたいし、前田氏には「もっと他人を信用して」と言いたい。顔がひとつじゃものたりない。両氏とも、ここを乗り越えればという気持ちにさせられた。次作に大いに期待するしだいだ。
 はせひろいち氏『歪みたがる隊列』には不思議な感動がある。ただ、例えばボーガンの狂暴さ、言葉ではそう説明されているが、ではその実際は? と言いたくなる。意味を問い、解答を見つけてゆくというスタイルの中で、言葉からこぼれおちるものを演劇がすくっていくのでは?
 蓬莱竜太氏『ユタカの月』は、オープニングの“気配”とでも言うべきものから劇を起こそうとするその気配のとらえ方が絶妙。二場の、皆で食事をしているその空気のとらえ方も。よくできた人情劇風の劇の着地点が腑に落ちすぎて残念。皆が適度なところで矛先を収めている。
 他にも、赤堀雅秋『津田沼』や青木豪『獏のゆりかご』に注目したが、赤堀氏、場面ごとの面白さは抜群なのだが、構成があまりにも杜撰。青木氏、人物の出入りに焦点がありすぎて、各人物の思いが疎かになっている。その思いが強くなってはじめて動物園という場所設定の意味が出てくるのだと思う。


かなり高い水準だった   鴻上尚史
 本谷有希子『遭難、』、前田司郎『さようなら僕の小さな名声』、はせひろいち『歪みたがる隊列』の三作に絞り込んだ。
 『遭難、』は、その上演成果が素晴らしく、審査前には、授賞が順当だと考えていた。
 が、俳優の柄と戯曲上の書き込みの違いが、他の審査員にうまく伝わらなかったようだ。また、永井愛さんの強烈な疑問に対して、上演の時には気にならなかったことが、いろいろと浮かび、反論できなかった。
 上演成果は素晴らしかったのだが、それは、演出と俳優の力が大きく貢献したということだろう。
 『さようなら僕の小さな名声』は、愛すべき小品という作品で、これも授賞に相応しいと感じた。
 ただし、ラストが惜しい。あいまいな、さもなにか意味があるかのような終わり方ではなく、もっと作品に相応しい破天荒な放り投げ方があったのではないかと思う。
 リスの運転者など、発想にみるべきものが多い。筆力と才能を感じる作者である。
 『歪みたがる隊列』は、脳内パティオという発想や、隠れている多重人格者という仕掛けなど、ぞくぞくするほど魅力的だった。
 ただし、その素敵な発想が、解説のレベルに重心が置かれていることに、物足りなさを感じる。
 人格がひとつになる所など、説明ではなく、実際に行動として描かれていたら、よりスリリングだったと感じる。
 いずれにせよ、受賞作なしは、選考委員としては、非常に残念だった。
 長時間の議論がムダになったように感じ、虚しさが残った。
 全体の水準としては、決して悪くなく、特に三作は、筆力、構想ともにかなりの水準だっただけに、非常に惜しまれる。


受賞作を出せなくて残念だ   坂手洋二
 最初に、はせひろいちさんの『歪みたがる隊列』を推した。文体が内容にマッチしていた。描かれている脳内パティオとは、劇団であり、舞台空間そのものの喩えである。作者は、この世に生み出されてしまった固有の精神たちの消滅を見届けるこのレクイエムを、「書かねばならない」と思った。しかしその創作衝動そのものを、表現としては抑制しすぎてしまったため、かえって饒舌体に見えてしまい、文字だけを追ったとき受け手に届きにくいという、残念な結果になった。
 前田司郎さんの『さようなら僕の小さな名声』は一気に読むことのできる面白さだった。ただ、受賞作にすると岸田賞を二個あげなくてはならないので、次の機会にしていただきたい。
 赤堀雅秋さんの『津田沼』には、『蛇』『恋の片道切符』といった同年の作品に比べ、わかりやすさを放棄してでも描きたかったであろう、独特の「感触」がある。だが、作者にとってその時代と場所がどのように重要なものなのかについては、理解させてほしかった。
 本谷有希子さんの『遭難、』は、ある集中力で読む者を牽引するが、露悪的なコントとして都合良くまとめているともいえる。持ち札の十枚くらいをジョーカーと取り替えてゲームをしている感じだ。それはそれで何かかもしれないが、昨年の『乱暴と待機』のほうが、不器用ながら誠実であり、作者の持ち味が出ていたのではないかと思う。
 今回、審査には欠席された井上ひさしさんが、かなり長文のメッセージを下さり、おかげで私たち出席審査員が、かってに不在の井上さんの意見に翻弄されたことは、記しておかねばなるまい。
 ともかく、受賞作を出せなくて残念だ。


作品が作者に求めるもの   永井 愛
 最終候補作のそれぞれに、台詞や見せ方の巧さを感じた。だが、外観の整い方に対し、骨が欠落しているような構造のもろさも感じてしまい、ぜひにと推せる作品はなかった。迷った末、本谷さんと前田さんに投票し、最終的には前田さんに投票したが、「受賞作なし」の多数に同意した。
 『遭難、』(本谷有希子)の放つ負のエネルギーは凄まじい。私はその勢いに乗せられながらも、あちこちでつまずいた。なぜ里見は、学校で見つかったら困る手紙を学校で捨てたのか。しかも、拾った者が読める程度の破り方で。展開の発端だけに、この緩みは痛い。また、後半の要、ずっと昏睡状態にあった生徒が意識を回復したとたん、本人に電話をつなぐことを病院は許すのか。他にも気になる点は多い。学年主任は、校長が本人と話すこともなく変わることはないだろう。保護者が文句を言いにくるからと、担当教師を職員室から隔離するなど、かえって騒ぎを大きくする恐れがあり、学校の対応として想像しにくい。イジメとトラウマの連鎖という今日的な題材を扱いながら、それを生み出す現実の制度そのものへの無関心はなぜなのか。この作品の持つ異様さは、現実的な条件を乗り越えた上で初めて、超現実として成立する。作品が緻密さを要求するのだ。本谷さんならできるはずだ。
 かく言う私も『さようなら僕の小さな名声』(前田司郎)においては、なぜ同居人が蛇に半身飲まれているのか、なぜリスが運転手なのだなどとは問わない。そんなことはどうでもいいというのが、前田さんの劇世界が内包するルールだから。突拍子もない出来事をなぜとも問わず承認していく様は、正に私たちの生きる姿でもある。だが、後半に至って、終わらせ方の無理が見える。駄目押しのような世界観を示しての強引な着地は苦しげだ。ルーズな魅力は失われ、本当のルーズになる。ルールが目的にすり替わってしまうのはまずい。


全体としては良かったが、熱弁をふるって推す作品に乏しかった   野田秀樹
 去年に続いて、前田司郎氏の作品が面白かった。自分を飲んでしまうウロボロスの蛇を、シンボルとした作品は、とにかく「とぼけている」。この「とぼけ」は、紛れもない才能である。ただ今年の作品は、終わらせ方に失敗している。なにもドラマチックにつくれとは言わない。ただ「面倒くさい」から終わらせるというのは、「とぼけ」とは違う。本当に惜しい。岸田賞を二つもらうという設定で作られたこの作品どおり、これからも他人の言葉に耳を貸すことなく、どんどん「とぼけた」作品を書いていただきたい。
 本谷有希子氏の『遭難、』も、とても面白く読めた。この人の「人間への悪意」は紛れもない才能である。けれども、これに関して言えば、どこかで見たことのある作品で、そこに新鮮味を感じることができなかった。そしてこれもまた、終わらせるために「トラウマ」が存在していて、この「トラウマ」が人格や犯罪を作るというのも、手垢のついた思いつきで、そこがいただけなかった。
 実は私はこの選考会では初め、はせひろいち氏の『歪みたがる隊列』と蓬莱竜太氏の『ユタカの月』を推した。はせ氏の作品は、多重人格者という手垢のついた素材ではあるが、その多重人格者を複数の役者で演じるという視点が演劇ならではの手法で面白く、また構成もスリリングで優れていた。『ユタカの月』は、大変良くできたメロドラマで、わたしは、こうした等身大と呼ばれる作品を本来あまり買わないのだけれども、これはまことに繊細に作られていた。そして、『歪みたがる隊列』同様に、芝居を終わらせることに成功している。ハリウッド映画のように、そこで終わるというのではなく、確かに状況は変わったけれども、きっと明日からもまた続いていく大変な世界がある。そうした終わりが、両者に共通していた。芝居を終わらせるために終わらせていないところがよい。ただこの二作品とも、他の選考委員の方の推薦が少なく選から漏れた。
 今年は他にも、赤堀雅秋氏の『津田沼』、青木豪氏の『獏のゆりかご』と面白く読めるものがあり、全体としては良かった。だが、これこそが、と熱弁をふるって推す作品に乏しかったように思う。それは他の選考委員の方々も同じだったようで、その結果として受賞者なしという形になった。


現在的か反動的か、またはそこから遠く隔たること   宮沢章夫
 注目すべき作品として読んだのは、はせひろいち氏の『歪みたがる隊列』だった。というのも、ほかの候補作が大きくわけて二つの種類の傾向にあり、そのことでややもすると、予定調和な「いまの様態」に陥いる危惧を感じたからだ。それはこの時代、この国の演劇における支配的な潮流を示しており、ひとつの傾向は、前田司郎氏の『さようなら僕の小さな名声』、本谷有希子氏の『遭難、』、赤堀雅秋氏の『津田沼』に読むことのできる、ある「現在性」とも呼ぶべき劇作に漂う感触だ。
 それとは異なり、ほかのいくつかの候補作に見られたのは、ひどく古典的な「前近代的なもの」と「近代的なもの」の対立というドラマツルギーで、そのドラマツルギーの古めかしさは単にそうであることによって劇の本質を古めかしくしているばかりではなく、劇言語そのものを支配し、劇作の方法をも支配して、過去の劇にひどく近接している。「テキ屋一家」と「スーパーマーケットの経営者一族」の対立、「海賊の末裔と呼ばれる土着の者ら」と「近代的な資本主義者」の対立、「植木屋職人」と「通販業者」の対立、という冗談なのかと思うほどよく似たドラマツルギーが続く。そしてそれが「前近代的なもの」の、きまりきった、あるいは当然の敗北によって、見事な結構を整えているのだとしたら、それはあらかじめ予定された劇作の「巧さ」としか言いようがない。この「巧さ」をどう評価するかは、この何年かの演劇の変容をどう評価するかになるし、また、それらの戯曲が教えてくれるのは、いま劇作がドラマツルギーについて無自覚であることによって、保守化というだけでは言葉が足らない状況についてだ。その多くが「口語演劇」といっていい書き方は、そうであることによって「技巧」だけが意識化された印象を受ける。それが反動になって、ほとんど六〇年代以降の演劇が乗りこえてきたものへと回帰している。しかも無自覚に。
 そして、前田、本谷、赤堀の三氏にある現在性を、それとして高く評価したいのは、きわめて軽薄な言葉で単純に書けば、そのほうが「かっこいい」からだ。けれど、それでもやはり現在的な潮流として、もう一歩、先に進んでいないのではないか。まだ先があるだろうし、きっと三人はもっと前方へ抜きんでることが可能だと想像する。
 そうした二つの傾向、あるいは現在的な潮流からもっとも距離を置いている作品として、はせ氏に注目するのは妥当だが、正直なところ、それを私は推すことができなかった。注目すべき作品でありながら技術的な問題を抱えていることが残念に思えてならない。正直なことを書けば、候補作を読み終えてすぐに、今年は受賞作がないのではないかと予想した。それは、はせ氏のように、現在的な潮流から距離を置いて存在する特別な作品が、評価されるべき水準に達していないからだろう。それは私を含め、多くの実作者の課題だ。
 「受賞作なし」という結果はこのような状況によって生まれた。だが、潮流や傾向から遠く隔たった場所から、また異なる種類の刺激的な作品がきっと登場する。それはおそらく「受賞作なし」にいたるまで選考委員を悩ませた議論など無化するような、そして凌駕するように、驚くべき姿をして出現するのにちがいない。

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