第49回岸田國士戯曲賞選評(2005年)

受賞作品

『三月の5日間』岡田利規

『鈍獣』宮藤官九郎

 

二作を推す   井上ひさし
 舞台の上に、ほかの形式ではとても表現できないような特別な時空間を創り出すこと。その特別な時空間に貫禄負けしないような強靭で生き生きした言葉を紡ぎ出すこと。そして、この二つがうねりながら一つになって、ふだんでは、「見ていても見えず、聞いているのに聞こえない」人間の真実を観客の前に提示すること。しかもその観客は一人や二人ではなく何百何千にも及ぶので、よほど強力なプロット進行を仕掛けないと、それらの人たちは一匹の巨大で生きた観劇共同体にはならないだろうということ……劇を書くということは、以上の難問を乗り越えるための苦役にほかなりません。これが自分で作品を書くときも、ほかの作品を読むときも、評者が頭のどこかにおいている物差しです。
 『鈍獣』(宮藤官九郎)は、基本になる時「現在」へ、回想による「過去」がぐいぐいと接近してくるという時間の扱いに力感が溢れていました。対話の積み重ねに速度があって、ギャグにも切れ味があり、ここには疑いもなく一つの言語世界が成立していました。そしてその世界の中から、人間の哀れなほどのおかしさが吹き出し、それでいて人間という存在への無限の讃歌も浮かびあがってくるという、近ごろ出色の作品です。  『三月の5日間』(岡田利規)は、遠くの戦争と、近くの、目の前のラブアフェアとを、絶妙の言語的詐術で対比させることに成功しました。登場人物たちの話す内容が微妙にズレながら進む展開も、背筋がゾクゾクするほどおもしろく、一見平凡と見えるプロット進行の下に、遠くの虐殺よりも目の前の性行為の方が重要という人間の業のようなものが浮かび上がってくるところに凄味がありました。


岡田・宮藤、両氏を強く推す   岩松了
 岡田利規『三月の5日間』そこに描かれている世界はまさに青春のすべてではなかろうかと私は思ったのだ。ゆきずりの男女がラブホテルですごしたイラクへの米国の空爆開始の日をはさんだ五日間、さして自覚的とも思えないままデモ隊に加わった若者たちとその周辺、ライブハウスで会った男に声をかけ、その自分に激しく落ちこみ火星に行きたいと語る女等々……いずれもが過不足のない的確な言葉で語られる。そしてラスト。男女は五日目の朝、ホテルを出て、お金の精算をして渋谷駅まで一緒に歩き、別れ、女だけがもう一度五日間をすごしたラブホテルの方へ戻る。そこに用意されているのは、五日間外国のように見えた渋谷がいつもの渋谷に戻っているという、人間の内側で起こるドラマに加担した渋谷という街(世界)の無雑作にしてグロテスクな存在だ。渋谷は、克明にその生態を描かれた若者たちの目の前に横たわっている。その克明と結果描き出されるものとの連なりが見事だ。どんな美しい女の顔も具体的であるという意味でグロテスク、この作品はその域にある。
 宮藤官九郎『鈍獣』たえず裏側にまわりこまれ、当人の気づかぬ人間性をもって世間に押し出されてくる人物たち。キオスクのおばちゃんにはじまって、凸川に至るまで、その人間性たるや、彼らが自覚するよりも一歩だけ必ずはみ出している。そのはみ出しが逆に彼ら各々の魅力を与えている。きれいごとなど言ってる暇はないとばかりに、事情と欲望に動かされている。すべては作者の企みだ。そこにあるスピード感とすべてを笑いに転化させる作者の力量は、候補作の中でも出色であった。
 他に長塚圭史『はたらくおとこ』も推したが、例えばすっぱいリンゴを育てるために罵声を浴びせるというモチーフへの作者の思いが浅く、ひいては題材そのものへのこだわりの曖昧さを感じざるをえず、強く推すことは出来なかった。
 受賞の両氏にはさらなる期待をこめて、おめでとう!


〈テアトル〉を青ざめさせるもの   太田省吾
 岡田利規の『三月の5日間』は、〈アンチ・テアトル〉作品である。〈テアトル〉に対して、その機構あるいは構造そのものを問いただそうとしている。そしてそこから生み出されたこの作品には〈テアトル〉を青ざめさせるものが秘められている。
 この作品は、たとえばこんなことばで書かれている。「それで(映画)終わったあともなんか話しかけてくんだよね! っていうかなんか並んで映画館出ようとするんだよね『どうでした今のどう思いました』とか言って、や、なんかまあ普通に女の子の思春期みたいな、ワーみたいな、あっそうみたいな映画だったんじゃないですかねって言ったら『あ、はい、なんか〈あっそうみたいな〉ってのはすごいはい』とか(以下略)」
 渋谷の若者のあの、(私にはついていけない)あのことばで連綿としゃべられている。このしゃべりは、発話者自身でなく、ある男の行状をしゃべっている。
 この作品には〈役〉がない。七名の役者が登場するが、彼等はいわば舞台に登場し、ある男の行状を観客に向ってしゃべる(報告)者でしかなく、〈役〉を形成する氏素性はなにも与えられていない。役を演じる〈それらしさ〉なしに〈テアトル〉を成り立たせることが探られての構想だったにちがいない。
 〈役を演じる〉という〈テアトル〉の基本要素が消去されようとしている。したがって、ここでの〈せりふ〉は、ある〈役〉が語るものではなく、これまでのことば=主体という〈せりふ〉概念を壊したものである。
 ある男の行状が語られるわけだから、ここにはプロットは残されているといってよいのだろうが、ことば=主体=役=演技が構造を変えたところにおけるプロットであるから、これもずいぶん〈テアトル〉のプロットとは異なる。
 〈テアトル〉の三要素が疑われてこの作品は生み出されている。そして、この作品は、そうして生み出された故の、ある切実な希みが浮かびあがっている。「5日間」「ラブホ」にいつづけての朝、いつもの渋谷は〈世界〉あるいは〈この世の風景〉というあり方を得ているように感じられた。世界の新鮮さへのひっそりとした希いが、〈テアトル〉への〈アンチ〉によって語られようとしていた。


「談合」「下部組織」といった言葉が飛び交った   岡部耕大
 華やいだ雰囲気の選考会だった。それだけ粒が揃った作品が多かった。わたしは宮藤官九郎氏の『鈍獣』を推した。殺されても殺されても生き返るゾンビのような人間が主人公である。それも愚鈍なゾンビである。殺しを計画した側が恐怖に慄いていく。その構成力の凄さには舌を巻いた。書き手は予めラストシーンを設定して書く人が多いが、宮藤氏は直観的に構成をひっくり返す腕を持っている。人物設定もそれぞれが個性に満ち溢れていて魅力的である。地方都市の逃れることができない人間関係である。従うか従わせるか。愚か者を装って生きる人間関係は共犯者となる人間関係である。「村社会」は根強く生きているのかもしれない。読みながら感嘆した。舞台が観えるのである。ほとんど、映像といってもいい。多分、宮藤氏は書くのが楽しくてしかたがないのではないか。それほどにエネルギーに満ち溢れた作品である。明くんの悲惨な運命はどうだ。昨今のいろいろな事件を想起させながらドラマはスピーディーに走る。言葉も現代そのものの言葉である。否定し、相手の表情で瞬時に肯定する。「してません。いや、しました」。演じる側もさぞ楽しいだろう。「クドカン時代」が到来するのかもしれない。
 岡田利規氏の『三月の5日間』は絶賛された。しかし、わたしには妙な蟠りがあった。「忠臣蔵外伝」の女に溺れて討ち入りに遅れ「心中」をする赤穂浪士のエピソード。あるいは、男の一物を「軍国主義」と重ねた、二・二六を背景にした阿部定の話。あるいは、ベトナム戦争時代の新宿のヒッピーを描いた日活ロマンポルノの濡れた場面がダブったからである。しかし、凄い才能なのかもしれない。わたし一人の読み違いだったのか。長塚圭史氏の『はたらくおとこ』には東北のリンゴ園や言語に違和感を覚えた。土着の生活感といってもいい。とにかく、華やいだ才能の出現は心地好いものである。おめでとうございます。


あてどなく、あどけなく   竹内銃一郎
 受賞作はともにわたしが強く推そうと思っていた作品で、他の委員からの批判をどのようにかわそうかと、あれこれ策を練って選考の場に臨んだのだったが、意外にも(!)二作に圧倒的な支持が集まった。こういうのを嬉しい誤算というのだろう。
 岡田氏の『三月の5日間』には、読む前に、最初の頁を目にした途端になにやら胸騒ぎを覚え、吉岡実の詩を初めて見た時の感触を思い出した。読み進めている間も、終始ザワザワとした胸騒ぎが途切れることはなかった。なかなか先行きが読めず、とにかくサスペンスフルなのだ。アメリカのイラク空爆という世界の〈大事〉をよそに渋谷で〈小事〉にかまける日本の若者、という物語の構図に、さほどの目新しさがあるわけではない。その〈小事〉を当人ではない近しい第三者たちが、伝聞=不確かな情報をもとに語り演じるところに、「演劇」に触れる感じがしたのだ。ト書きはいかにもぞんざいで、しかも、今時の若者口調のしまりのない台詞がダラダラととめどなく続き、それは一見、コースから外れてゴールを見失ったマラソンランナーの迷走を思わせるのだが、そのあてどなさこそ、作者が描きたかったところのモノなのであろう。なにより、物語ではなく言葉でなにごとかを語らんとするこの作者の姿勢が、快い。
 宮藤氏の『鈍獣』には、何度も声を出して笑ってしまった。鈍獣とは、ゾンビのように殺しても殺しても甦ってくる登場人物のひとりを指しているのであろうが、これまた格別目新しい形象ではない。けれども、例えば、明という実在するのかどうかさえも定かではない人物を狂言回しにして物語を進行させる手練手管は、演劇ならではのもので、凡手のなせる技ではなかろう。殺伐とした風景を描きながら、どこかあどけなく、血を感じさせないのも心憎い。クレーが描いた「哀しい天使」に似た味わいの作品、と言ったら誉めすぎだろうか。


《逆さ蟻地獄》と《ぎぇ〜!》   野田秀樹
 岡田利規氏の『三月の5日間』は、読み始めた瞬間から、え? え? え? と思いながら奇妙な路地に迷い込んだ。そして、にやにやしつつ、一気に読めた。読み終えたら、渋谷のラブホテルから出てきていた。そういう感じである。同じところを何度も繰り返しながら、微妙にずれて、先へ進む。進むというより、堕ちていく感じがある。しかも、下へ落ちるのではなくて、上へ落ちていくような気がした。いわば、《逆さ蟻地獄》に嵌った感じである。渋谷の町を、ラブホテルへ逆さに引き返して行く件、決めたわけでもなく五日間ラブホテルで過ごす破目になっていく過程、そして、その五日の閉塞された享楽のうちに、始まったばかりのイラク戦争が終わってはいないかと、ふと頭をよぎる瞬間、その一つ一つが、実に生々しい今の若い日本人である。それを見事に描ききった岡田氏は、出会ったことのない才能である。いよいよ出てきたというべき才能かもしれない。或いは、どこに隠れていたのよ、というべき才能。もしかしたら、買いかぶりすぎと呼ばれるかもしれない才能。そう言われないためにも、今後、どんどんいい作品を書いていただきたい。応援します。応援しますって言うのも、どうだろう。
 宮藤官九郎氏の『鈍獣』は、鈍感であるがゆえに《弱者》が、《強者》に変わっていくことを鮮やかに描ききった。天晴れである。前半部分は、ここ数十年、日本の漫画が若い日本人にもたらした、日本語の破壊を、無意識に体現している。それに限って言えば、宮藤氏に始まったことではない。ちょいと気の利いた若い奴等の会話には、漫画の噴出しの言葉と、漫画に教育された発想の数々が、飛び交っている。深夜のテレビを見れば、若い(と言っても三十代だが)お笑いタレントたちが、その突飛な発想を競い合っている。宮藤氏は、そういう危ういところとのボーダーにいる。立っている場所は危ういが、言葉の運びがまことに上手い。そして、この作品の成功は、むしろ後半部分にある。《弱者》が、繰り返し繰り返し生き返ることで、(まさしく、その生き返り方には、根拠がなくまことに漫画なのであるが)そのことで、《弱者》が、《強者》を脅かし、ついには、逆転していく。何故生き返るかといえば、その《弱者》が痛みに鈍感であるからだ。それは、今の日本の漫画の世界では、痛みが鈍感に描かれていることと無縁ではない。仮にそれが暴力的な漫画だとしても、いや、暴力的であればあるほど、「ぎぇ〜!」などという声は、鈍感な痛みの表現でしかない。宮藤氏は、そうした《鈍感な痛み》を共有する世代に生まれ育ち、それと戯れそれを描きながら、その鈍感な弱者を告発している。強者を告発するだけであれば、凡作に終わったであろうが、弱者を告発したところに、この作品の秀逸さがある。これまた、応援します。

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