第48回岸田國士戯曲賞選評(2004年)

受賞作品

『ワンマン・ショー』倉持裕

 

いくつかの信条と付則   井上ひさし
 長く戯曲を書き続けている一人として、評者は以下の信条を信じている。
 第一に、戯曲はすべて、それぞれ固有の劇的プロットを持つ。第二に、よい劇的プロットは、容易に言語の壁を乗り越える。よい劇的プロットは、違う言語を持つ人たちの心をも動かす力を持つ。つまりよい劇的プロットには普遍性があり、それは人間の知恵の営みなのだ。第三に、よい劇的プロットを構成する分子の一つ一つは、その戯曲の時間軸に沿って、それこそのっぴきならない順序で並んでいる。ついでに言えば、その順序を崩した瞬間、それは平凡で下らない劇的プロットに堕落する。
 付則もあって、長く岸田國士戯曲賞の選考にたずさわってきた一人として、評者は、この賞は戯曲を対象とするものだと信じている。つまり、この賞は、舞台成果に対して与えられるものではない。
 以上の信条と付則は、もちろん評者一人の心覚えであって、だれに押しつけようとも思わない。ただ、評者は、この立場からしか戯曲の善し悪しが判定できないということをお断わりした上で、受賞作『ワンマン・ショー』(倉持裕)について書く。
 この作品は、モノゴトの発生順に展開しても充分に佳品だったのに、どうして劇的プロットを編み上げている各片をめちゃくちゃな順序に並べ換えてしまったのか。そんな月並みな技巧を弄してまで、なぜ、読者や観客を混乱させようとするのか。この衒気は買うべきかどうか。評者は買わない。いくら時間や空間をかきまぜたからといって、佳品が絶品に昇格したりしない。せっかくの佳品が駄品に成り下がるだけである。
 むしろ評者は、近景(私鉄の駅前の少し奇妙で、ささやかな事件群)と、遠景(爆弾犯事件)を、不思議な諧謔性とスマートな機知でみごとに結びつけた『ちゃんとした道』(小川未玲)を買う。あるいは、骨太でなかなか面白い構造を発明した『BRIDGE』(小里清)を買う。とりわけ、『ちゃんとした道』の、人間の関係を肌理こまかく舞台の言葉にした力量を買った。


白ける力   岩松了
 人はどんな言葉を吐こうが、真実を語ることは出来ない。例えば、それらしいことを言う主人公、そのバカさ加減、ここに思いを至らしめるところに、演劇の、あるいはその主人公の救いはあると思うのだが、思いそこに至らず、自分の劇世界に酔い、「どうだ、いい台詞だろう」と自慢顔している劇作家の姿を想像することは、いかにもつらい。
 小川未玲『ちゃんとした道』には、人物の言葉は絶えず相対化されるものだという視点がある。台詞に埋没してはいけないという警戒心を行間に感じるのだ。ただ、劇の構造に冗漫なものがあり、それが残念。それこそ、「ちゃんと」しなくていいから、もっと「思い」を走らせて欲しい。観客はついてゆくから。
 倉持裕『ワンマン・ショー』。
 この作品では、小川さんの作品に見た作家の警戒心をさらに先鋭化させたものを感じる。台詞は、作家の頭脳が産み出すものではなく、見られるさだめにある人間の肉体を通した作家の劇精神が発するのだということを感じさせてくれるのだ。だから不意に、人間がいる時間と空間に思いを馳せることが出来る。女のよだれから始まるという奇抜さにまず驚くのだが、その驚きが冷めやらぬうちに、次々と、人間たちがわけのわからぬものにつき動かされてゆく様を、太い線で描いてゆく手腕は、候補作品の中で出色だった。受賞作として私が推したのは言うまでもない。
 どんなに観客が笑おうと、泣こうと、その観客席の一番うしろの席に、いつも表情をかえずに舞台を観ている人間がいる。その人間を想像しつつ書くことが劇作家のつとめだと私は思っている。言うなれば“白ける力”これが劇を風化させないために必要だろう。この二作品を読んでそのことを感じた。
 今回は、他にも、小里清『BRIDGE』、大竹野正典『夜、ナク、鳥』に注目した。


迷路めいた世界展開   太田省吾
 この数年の間に目に触れた外国の戯曲は、なにかこれまでの戯曲の基本としてきた様式を崩すような動きを見せている。
 サラ・ケイン、ベルナール・コルテス、ジャン・リュック=ラガルス、それに、最近私が演出したヨン・フォッセなどを見ると、氏素性の知れない者たちが、どことも指定されぬところで延々としゃべりつづけていたり、一方では詩の言葉のように、同じ言葉を反復しつづけたりしている。また、ト書で舞台での作者の予定イメージが説明することも少く、近代劇以降、アンチ・テアトルの時代でも継承されてきた戯曲の様式は御破算になっているように感じられる。また、その書き手が、たまたま現われた個的な存在ではなく、四人五人と現われているし、それらの作品の出現がベルリンの壁の崩壊と前後していることから、あの八九年以降の世界変化への演劇的(あるいは文学的)反応とも感じられる。
 このようなヨーロッパの現象から見ると、日本での演劇は平穏だ。あるいはその日本での現われが出かかっているのかもしれないが、〈戯曲賞〉候補のなかには現われない。
 平穏のなかでは、むろん私自身もふくめ、選考基準は、ほぼ〈うまくできているか否か〉ということになる。
 受賞作、倉持裕氏の『ワンマン・ショー』に私も投票した。さまざまな懸賞に応募するマニアが、応募に自らの名だけでは足りなく、あれこれの応募者名を捏造しているうちに、その想像(捏造)によって名づけられた者たちがそれぞれの生活を営む者たちとして生きはじめ、そして、その登場人物たちが作者の巧みな構成によって役割を入れかえられる。
 入れかわり可能な現代人の存在様態、それがつくり出す迷路めいた世界展開にスリルがあり、そこには演劇という表現(演じる)の構造意識も働かされていて、ただ〈物語〉を演じることを超える作者の表現にすぐれたものを感じた。


小劇場の時代   岡部耕大
 戯曲は小劇場が主の時代のようである。マニアックな戯曲の時代ともいえる。わたしは大竹野正典氏の『夜、ナク、鳥』と本谷有希子氏の『石川県伍参市』を推した。 『夜、ナク、鳥』は、不気味ともいえる戯曲である。ただし、これが実際にあった事件を参考にした戯曲であることも事実である。構成がしっかりしていて人物像も巧みである。現代の人間関係はこれほどに緊張しなければならないのかもしれない。カレーライスを食うのが怖くなる。病院に入院するのも怖くなる。ただ、欠陥があるとするならば都合がよすぎる人間関係であったというべきかもしれない。人物名もカタカナは損である。しかし、相当な書き手である。次の作品が待たれる。小川未玲氏の『ちゃんとした道』は、微笑ましい作品である。ただ、街と駅と人間がしっくりいっていない。ちゃんとした郊外の駅を設定して構成すればよかったのかもしれない。これは短編として書くべき作品だと感じた。テロリストもいらない。五百円硬貨だけで成立させればよかった。小里清氏の『BRIDGE』は、つぎはぎをした屏風のような作品だと感じた。だが、紐ひとつで国境にする凄さには舌を巻いた。若き日のコント55号のネタである。
 誘拐犯と誘拐された人との人間関係の逆転のコント、別役実かアラバールのようなピクニック。次は独創性のある作品を書いて欲しい。鐘下辰男氏の『アンコントロール』は、人間関係の古さを感じた。古さとは悪い意味ばかりではない。しかし、古さと構成とのちぐはぐさがあった。鐘下氏は確実に変わっている。次回作は期待大である。倉持裕氏の『ワンマン・ショー』は、わからない作品である。わたしにはわからなかった。しかし、選者の支持は絶大であった。従っていいと考えた。わからないのだから反対する積極的な理由もないわけである。わからないのはわかったが、倉持氏にはわかる戯曲を書いてもらいたい。とにかく、岸田戯曲賞らしい討論ではあった。心から祝福いたします。本谷有希子氏の『石川県伍参市』は、架空の市伍参市から東京への抗議と読んだ。伍参市の人と言葉は艶っぽい。この人間関係は濃密であり哀れである。タマちゃんぐらいは風呂に入れても問題はない。本谷氏は評価など気にせずにガンガン書き飛ばせばいい。女心と力技のミックスが似合う時代である。
 以上、すべて小劇場の戯曲であることが問題といえば問題である。


いまどきのえんげき   竹内銃一郎
 志向している演劇(のスタイル)は、それぞれまったくといってよいほど異なっているのにもかかわらず、最終候補の7作が描く世界は驚くほど似通っている。まるで申し合わせたように、いずれの作品も、穴のあいた部屋、車椅子、人形、聾唖者、闖入者、トラウマ、崩壊した家族 ― 家庭、夢と現実の混淆、コミュニケーション不全、等々といった「解離の時代」を解明するのにふさわしい(?)キーワードの中から二つ三つを組み合わせ、現実感覚の喪失、生の希薄さ、空虚さを語るのだ。作者諸氏の誠実さを認めつつも、これでは、したり顔で〈現代社会の問題〉をとくとくと説く社会学者や評論家の思うツボではないかと、些かの苛立ちを覚えもしたのだった。などという厭味な前置きはさておき。
 受賞作となった倉持氏の『ワンマン・ショー』。登場人物たちの名前に色が織り込まれているのは、おそらくP・オースターの「幽霊たち」からのイタダキであろう。「エレガントな前衛」とは、この小説の訳者である柴田元幸のP・オースター評だが、この形容がぴったりあてはまる快作。巧みに仕組まれたサスペンスフルな物語の構成といい、機知とユーモアにとんだ台詞といい、あるいは、よだれを流し続ける女、拡張する池、等々のひとを食ったような道具立てといい、芝居の勘どころをうまく捕まえている。
 小里氏の『BRIDGE』は、都会の空中に浮遊する歩道橋という場の設定に虚をつかれた。受賞作とは真逆の、あれもこれも語らんとする、エレガントさを欠いた前傾姿勢にも共感を覚えたが、文語調めいた台詞に違和感が残り、物語のキイになっている「最後の死刑囚」も、なぜ〈最後〉と設定されたのか、その論拠が薄弱なように思われた。次回作に期待したい。


文学を書かない人   野田秀樹
 今年は、例年と比べて、質の高い作品が多かった。その中で、私は、小里清氏の『BRIDGE』と、倉持裕氏の『ワンマン・ショー』を、特に面白く読んだ。
 『BRIDGE』は、ひとりの死刑囚を巡る話として、とてもよくできている。優れた劇作家のひとつの要素である、相対化する力というものを、この作家に感じた。人間関係がスリリングにつながるのも、魅力である。いくつかの歩道橋というシンプルなセッティングもいい。芝居の中へ持ち込んでくる道具の使い方もうまい。私は、この作品が受賞してもよいと思ったが、選考会では『ワンマン・ショー』を推す声の方が、圧倒的に優勢であった。私自身も、この二作品は優劣つけがたいと思っていたので、『ワンマン・ショー』受賞には、まったく異論はなかった。
 受賞作の『ワンマン・ショー』は、とても幾何学的な作品である。三つのカップルの相似関係が、微妙にずれていく。ずれていく面白さ、いわば不整合性の妙は、演劇ならではのもので、そこに大きな魅力を感じた。
 緻密に論理を、組み立ててはいるが、最後までそこに拘泥すると、面白さが消える。そのことを、この作家は知っている。どこで、突き詰めた論理を捨て去るか。そのタイミングが、わかっていると思う。いわば、この作家は、文学を書く人ではなく、演劇を書く人と言っていいだろう。つまり、文学を書かない人だ。なにやら近頃、こじんまりとまとまった、文学を目指しているような劇作が多い中で、この作家の書く不可解さは、楽しみである。
 受賞して有頂天になっているであろう若い人に水をさすのも、選考委員の仕事であるから、ひとつだけ感じた違和感を述べるならば、「どのキャラクターも、同じ人間の口から発せられているように聞こえる」という点である。その作中の人間たちを相対化させるという意味では、『BRIDGE』の方が優れているように感じた。もっとも、この『ワンマン・ショー』の場合、一人の引きこもりの青年の妄想という解釈なのであろうから、一人の人間の言葉でもいいのかもしれない。ただ、それが作家の意図であったかどうかについては、疑わしい。ともあれ、それはこの作品の不可解な面白さが、最終的に忘れさせてくれた。つまり、些細なことなのだろう。
 ますます、不可解な作品を書いてくれることを期待します。受賞おめでとう。

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