第45回岸田國士戯曲賞選評(2001年)

受賞作品

『オケピ!』三谷幸喜

 

すばらしい作家的膂力   井上ひさし
 『オケピ!』については、いくつかの不満がないわけではない。なによりも、〈あるミュージカルに音楽をつけるオーケストラ〉という基本構造が、うまく作動していないのではないか。この作品の観客は、もっぱらオーケストラ・ピットでの人間関係の揺れやずれを見ることになるが(これをAとする)、当然のことながら、「上」では、あるミュージカル作品が進行している(これをBとする)わけで、ここまではステキな着想であるけれども、肝心のBの様子があまりよくわからない。もちろん、Aの人間模様をきちんと描くために、Bを薄手にしなければならないという事情は理解できるものの、Bの、この程度の音楽量では、Bがミュージカルである必要はまったくなく、そうするとオケピ(A)もまた不要になる。簡単に云えば、AとBとの照応(これこそがこの着想の核心)について不備があって、その意味では、じつに脆い構造の上にできた作品と云えるだろう。
 ついでに云えば、Aに挿入されるソング群の歌詞も同趣のものが多く、しかも日本語としても洗練されておらず、その結果、作品全体が内側に閉じてしまった。もう一つ、俗流心理学や月並み処世訓の多用にも抵抗がある。
 にもかかわらず、最後にこの作品に一票を投じたのは、こんな脆い構造のドラマを、とにかくおしまいまで書き切った、その破天荒な筆力に敬意を抱いたからだ。この旺盛な作家的膂力に大きな花束を贈りたい。
 勢いにのって云うならば、三谷さんは、これまでに二回か三回、岸田賞を受けてもよいような、すぐれた喜劇を発表してこられた。そこで作家賞として受けていただけるなら、こんなうれしいことはないと考えて票を投じたのである。これからもすばらしい劇的状況を発明して、演劇界を活気づけてください。


羊か狩人か   太田省吾
 観客をどう想定してその作品はつくられようとしているのか。観客はその想定では〈羊〉なのか〈狩人〉なのか、と考えてみる。
 〈羊〉とは、つくり手の定めた方角へ素直に従う者であり、観客はそれであるとすると心地よくそこへ誘導する技に長けた作品が優れた作品だということになる。そして〈狩人〉は、そう扱われることを快く思わず、そう扱おうとするつくり手の意図へ矢を向ける。
 むろん、これは観客の眼を二極に分けた比喩であり、わたしたちは二重性をもった眼で作品を見ていると言うべきだろう。
 今回、候補作品を読みながら、正直言って私は読者(観客)として〈羊〉を強いられる気持を強く味わった。言いかえれば、〈狩人〉の眼が意識されずに、いわばひたすら〈優れた羊飼い〉を目指す作品を多く読むことになった、そんな気持であった。
 〈優れた羊飼い〉たろうとする作品は、ストーリーのスムーズな進行に力をそそぐ。しかし、〈表現〉とは、ストーリー進行の技の発揮にとどまるものではないはずだ。これまでだれも語らなかったものを語ろうとする、いわば〈表現史〉としての試み、それによって〈狩人〉に向き会おうとすることでもあるのではないだろうか。
 このような観点から、私が今回の選考で一番に推したのは松本大洋氏の作品であり、二番に推したのは平田俊子氏の作品であった。
 松本作品は、自動車道路沿いのレストランとそこに集まるドライバーたちの生のありさまを〈現〉として見る視点に独特なものを感じた。つまり現実描写というより、夢あるいは他界へ身を引いて、そこから生のありさまを見ようとされ、そのことが演劇表現の歴史の方法の中を彷徨するような試みとして表現されようとしていた。そこにもう一歩の説得力が欲しかった。さまざまの演劇表現が、単なる便利で用いたのでないところとして示す力といったらいいだろうか。


岸田國士戯曲賞の意味について   岡部耕大
 白熱した議論には至らなかった。選考委員のだれもが「絶対にこれを」といった姿勢がなかったからである。個人的には蟷螂襲氏の『舟歌。霧の中を行くための』を推薦した。海の彼方と岸壁に懐かしさを感じたからである。戯曲としての言葉の力もあった。構成力に難があったが好感が持てた。贔屓の土田英生氏の『錦鯉』は残念ながら推薦しなかった。暴力団の抗争や跡目相続、人間関係に不満があったからである。人間関係の不満といえばマキノノゾミ氏の『高き彼物』もそうであった。無免許の交通事故についての警察の取り調べの甘さ、過去に苦い経験をしている父親が同じ過ちを繰り返すかもしれない事態に、家族の対応はあまりにも寛大過ぎる。父親にも卑屈さがない。その父親にプロポーズされる女性にも確固たる自立性が感じられない。かつて、夏休みにパンツ一枚で父親と寝ていたという少年にも罪の意識は感じられない。敏感なはずである少年が迂闊な行動を取るはずがない。それやこれやで、ついに『高き彼物』の意味がわからなかった。
 三谷幸喜氏の『オケピ!』だけにするか、もう一本を選ぶかの議論になった。『オケピ!』には乗り気になれなかった。すでに、功なし名を遂げた人であるし、岸田戯曲賞との過去の経緯が蟠りとなった。ただ、対抗馬になる戯曲を一本に絞るほどの力のある戯曲がなかった。選考委員会の流れは『オケピ!』であった。「岸田賞は無名でも勢いのある人がいいのではないか」「なんだか自民党的決着だな」。そんなことを考えていたら選考委員の太田省吾氏から「岡部さんは話を聞いていない」と怒られた。いまでも『オケピ!』には不満が残っている。スターは劇評を読まないのか、ごねるスターを説得するのは舞台監督の役割なのか、プロ意識のある人間は一人もいないのか。尤も、これらを指摘することは意味がないのかもしれない。とにかく、三谷幸喜氏が受賞された。岸田賞としてはめでたい事である。心よりお祝い申し上げます。


隣の芝生   佐藤信
 選考委員の言葉としてはいささか不謹慎かも知れないが、どうもぼくは三谷幸喜さんに嫉妬しているらしい。
 一九五〇年代から六〇年代にかけてのアメリカの娯楽映画にもっとも良く表現されていたような都会的な香りのあるエンターテイメントは、芝居の世界に足を踏み入れたころのぼくにとって、ひとつの理想だった。客観的なあらわれはどうであれ、主観的には、芝居の脚本を書き始めた頃のぼくにとって、フレッド・アステアの一連の主演作品やビリー・ワイルダー監督の洒落たコメディ、ビンセント・ミネリ監督のミュージカルなどがなによりものお手本だった。当時、誰もそんなふうに思ってくれなかったのは、ようするに、書き手としてのぼくの力不足以外にない。
 出来損ないの何本かを書いたあと、ぼくはすっぱりとあきらめた。ひとつには、自分でもよくわけがわからないような出来損ないそのものが、いつの間にか自分の脚本の文体として身についてしまって後戻りできなくなっていたからだが、もうひとつ、あんなに熱をあげていたエンターテイメントへの志向が、嘘のようにさめてしまったという理由もある。それ以来、ぼくは選んで、「プロを拒否する少数者の演劇」への道を歩み始めたのだと、いまにして思う。
 東京サンシャインボーイズを旗揚げした三谷さんが、才気あふれるシチュエーション・コメディで頭角をあらわしたのはそれから大分たってからだが、戯曲を読んだり、舞台を観に行って大いに楽しませてもらったにもかかわらず、ぼくが三谷さんの仕事にたいして、いつもちょっと斜めに構えたような気分でいたのには、たぶんそんな理由がある。
 審査会の席上で、野田秀樹さんから、「それって、つまり趣味の問題でしょ」とずばり指摘されてひと言もなかったが、プロの書き手としての三谷さんの力量に感嘆し、受賞を当然としながらも、ぼくにとっての三谷さんは、いまのところなんともうらやましい隣の世界の人だった。
 最終候補作の中では、詩人の平田俊子さんの『甘い傷』、漫画家の松本大洋さんの『メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス』と、演劇外の書き手による二作にこころひかれた。「大勢の人びとを楽しませる演劇」と「大勢の人びとに楽しまされる演劇」とのはざまで、いま、演劇であることの根拠をあらためて考えさせられた選考会だった。


異才に感服   竹内銃一郎
 受賞作となった三谷氏の『オケピ!』には、まず、他の候補作の二倍はあろうかと思われる、その分量に圧倒された。そして、物理的な重量感をあざ笑うかのような、その内容の軽さ。
 登場する人物の形象も、彼らが抱えるそれぞれの事情も、さほどの新味はない。他の委員からも指摘があったが、語られるエピソードの多くは、「オケピ」という特殊な場でなくとも成立しうるものであり、また、いたずらに右往左往するばかりのコンダクターといい、男たちを手玉に取る女性ハープ奏者といい、物語の主役としてはいささか魅力に欠けるのでは、とも思われた。
 けれども、「オケピ」というきわめて限定された場のなかで、決して読み手をあきさせることなく、多彩な登場人物たちそれぞれの見せ場・しどころを用意し、とにもかくにもこの分量を書ききってしまった手腕は、明らかに、旺盛なサービス精神などといった生易しい形容ではおさまらない、尋常ならざるものである。同業者として、いまさらながらこの異才に感服してしまったのだった。いかにもといったハートウォーミングな結末にも、鼻白む思いを抱かせないのは、そこに冷静な批評性が及んでいるからであろう。
 土田氏の『錦鯉』の登場人物は、いずれも寄る辺ない生を生きる、若者というにはいささかとうがたってしまった人々である。全編をおおう良質のユーモアもさることながら、そんな生きてあることの希薄さ、実感のなさを、ぶざまな日本語を駆使して描かんとする作者の姿勢に共感を覚えた。
 平田氏の『甘い傷』は、台詞にも、登場人物の形象それぞれにも、手彫りのよさともいうべき味わいがあり、物語られる場として、居間と川とを交互に配した構成は、不可解な奥行きと膨らみがあって、興味をひかれた。
 が、書くことの病にとりつかれたかのような受賞作を前にすると、ともに、いかにも小粒の感は免れがたい。


陰のあたる場所   野田秀樹
 選考作品を読みながら私が取るメモを見ると、三谷氏の『オケピ!』は、「上手い」「巧い」のコトバで目白押しだ。
 『オケピ!』に限らず、三谷氏が持ち出してくる「場所」はいつでも「うまい所を思いついたなあ」と唸らされる。思いつきそうで、思いつかないところを持ってくるのが実にうまい。『オケピ!』に限っていえば、その場所はバックステージものでありながら、単純な楽屋裏でもなく舞台袖でもない。舞台と横並びにある場所ではない。舞台と上下関係にある舞台下である。しかもそれは、奈落でもない。舞台の裏ではないのだ。表にありながら下にあるという実に微妙な場所だ。こういう所を選んでくるのが心憎いくらい巧いのである。
 そして、三谷氏が選んだ場所は、彼の作品に流れる風や臭いを決定づける。『オケピ!』で言えば、その表でありながら下であるという「場所」は、明るいけれども陰のあるところとでも言えば良いのだろうか、「陽のあたる場所」ではなく「陰のあたる場所」だ。そこには人間の失意があるが、けしてそれは陰湿に挫けていくようなものではなく、人々はいつも上を向いて生きている。だが、どんなに頑張っても、その場所に当たるものは上にいる者の陰でしかない。うーん、実にいい場所を思いついたもんだ、ったく、唸っちまうぜえ、となったわけである。
 三谷氏の作品は、「花見」と呼んでよいかも知れない。その「場所」選びが成功のかなりのウェイトを占めている。ただ、花見の場所選びは暇とその暇を費やす愚かさがあれば誰でもできるが、芝居の方は、閃きと並はずれた観察力がなければ、三谷作品ほどの場所選びは出来るものではない。
 私が三谷氏の作品に「うまい」と唸るのは、なにも「場所選び」だけではない。その一つに過ぎない。セリフのことなども書き出したらきりがない。この選評のスペースに、三谷氏のうまさを語り尽くすだけの「場所」がない。それだけのことである。


アラベスクという手法   別役実
 私は今回、三谷幸喜作『オケピ!』を受賞作として推した。これは、或るミュージカルを上演中のオーケストラ・ピットという、特殊な空間を選びとり、そこでの人間模様とその推移を、上段で進行中のミュージカルにあわせて描いたものであるが、その手さばきの見事さに、ひとまず感心させられたと言っていいだろう。もちろん、人間模様の主題となっているのは、いわば他愛のない色恋沙汰と言っていいものであり、それ自体はことさら採りあげるほどのものではないにせよ、それらを縦糸にし、横糸にして織りあげた「アラベスク」が見るべきものになっているのであって、その意味ではむしろ、主題となっている色恋沙汰の他愛のなさが、「大人の感覚」と思えるのである。
 演劇には「アラベスク」という手法があると、私はかねてより考えていた。「ドラマ」ではなく「模様」なのであり、にもかかわらず造型作業なのである。最初にそれを感じさせてくれたのは、アラバールの『戦場のピクニック』であった。これは「戦場」という模様と、「ピクニック」という模様を、重ねあわせてみせてくれたものにほかならない。ただしこの場合は、「戦場」と「ピクニック」が、それぞれ主題を持ち、「ドラマ」として重ね合わせられているので、「アラベスク」としての側面は、見えにくくなっていると言っていいだろう。
 それぞれ、むしろそれ自体では主題を持たない模様と模様を重ね合わせるだけでも、或る演劇的造型作業は出来るであろうと考えていたのだが、この『オケピ!』という作品は、それを果たしていると言っていいだろう。上段で進行中のミュージカルの演奏者であり、同時に、そこで色恋沙汰をくり返す対人関係者でもあるのである。この「アラベスク」の、織り手の手さばきだけでも、受賞に値するであろうと私は考えた。

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