特集/マルグリット・ユルスナール「詩の空間 物語の時間」吉田加南子

20世紀を代表する作家のひとりであり、また女性初のアカデミー・フランセーズ会員であったマルグリット・ユルスナールMarguerite Yourcenar(1903 - 1987)。彼女の自伝的三部作〈世界の迷路〉 Le Labyrinthe du monde の邦訳が完結した。(初出:雑誌『ふらんす』2011年6月号)

 

5歳の少女のまなざし 堀江敏幸

詩の空間 物語の空間 吉田加南子

〈世界の迷路〉へのいざない 小倉孝誠

マルグリット・ユルスナール 著作紹介 小倉孝誠

 

 ユルスナールには、一貫して詩への関心がある。詩集があり、古代ギリシアの詩人ピンダロスの翻訳がある。ギリシアにはつねに心を寄せていたが、同じギリシアの、20世紀初頭に活動した詩人のヴァフィも訳している。芭蕉にも関心を抱いている。
 彼女の代表作が『ハドリアヌス帝の回想』Mémoires d’Hadrienや『黒の過程』L’Œuvre au noirといった小説であること、エッセイも書いているが、作家活動の中心は小説であること―─これは今さら議論するまでもないことだと思うが、かつて『青の物語』Conte bleuを訳した時に気になったのは、詩と散文ということである。詩と散文のあいだ、なぜ、どのように、詩であり、散文であるのか…。
 『青の物語』 は、ユルスナール没後に刊行された若い頃の作品で、「青の物語」Conte bleu、「初めての夜」Le Premier soir、「呪い」Maléficeの三編から成る。そのうちの「青の物語」は、ヨーロッパの何人かの商人たちがサファイアを求めて旅をする物語だが、洞窟を進んで、いよいよサファイアのある湖に到達したというところ──
 「地下の中央部には、水のとても澄んだ湖があった。イタリアの商人が深さを測ろうと硬貨を投げると、その落ちてゆく音は聞こえず、水の表面に沸き立つような泡が立った。まるで不意に目覚めたセイレーンが、青い肺を満たしていた空気をすっかり吐き出したようだった」。
 セイレーンの青い肺、その空気、泡という表現に、何度読んでも魅了される。はっとする。澄んだ水の青さ、泡、眠っていたセイレーンの、不意の目覚め。音も吸い込まれるような静かさ…。読んでいて、わたしの時間は止まる。
 この直前では、洞窟の割れ目から「かけらのような空がのぞいている」と、語られる。そして、「青い肺」の数行あとでは、商人たちが連れてきた若い女が、「編んだ長い髪をほどいて水に浸した。サファイアは、髪が編む黒い網の、絹のようななめらかな目に引っかかるように捉えられた」。
 こうした前後の表現──それは物語の進行そのものでもあるのだが──と、からまりつつ、セイレーンや、その青い肺、また湖の青い泡は、止まったわたしの時間を満たし、その時間を、空間へと変化させる。そして、その空間がゆったり広がってゆく…。素晴らしい比喩だなと思う。そして次の頁をめくると、この国ではセイレーンが漁(すなど)られていたのだ、と書かれている。
 お伽話のような、寓話のような世界である。比喩と思われる表現が、物語のなかの事実と接している。あるいは、ほとんど事実や出来事そのものとなっている。切り取られた詩が並んでいるようである。しかし、時間を止めるものである詩の可能性、空間性は、物語の進行のなかで、そのひとつひとつが、必ずしも展開はされない。物語の全体が、進行してゆく時間を通して固有の空間を開く、その時間の流れのここかしこで、しかし、詩の「かけら」は、洞窟からのぞく「空のかけら」のように輝き、物語の時間を見守っている。
 『青の物語』中の別の短編「呪い」では、最後の、若い娘の変化、その変化と同時に起きる世界の変質と転位が、そして星で描かれたアルファベットが、わたしには、詩の性質のものと感じられる。隠されていた次元の突然の顕現が、明らかになった意味の、いわば啓示が、そしてそうしたことが瞬時に起きて、時空を、また、この娘自身をもつきぬけてしまう、ということが。星のアルファベットは、詩によって読みとられるのだ、闇のなかで。闇を超えて。
 『青の物語』 からは離れるが、一人称で語られる『アレクシスあるいは空しい戦いについて』Alexis ou le Traité du vaincombatについて、ユルスナール自身は、リルケの『マルテの手記』に影響を受けた、と語っている。
 「(…)アレクシスの慎重さ、細心さ、彼の宗教性、彼が生物や事物に注ぐ一種の優しさ、そういったものはすべて、リルケのほうがはるかに近いのです。あのころ私は彼をとても身近に感じていました」(岩崎力訳)  ここで彼女がアレクシスの特性として挙げているものは、性質というより、ひと言でいうなら魂の注意深さである。そして魂の注意深さとは、詩を感受する力であるのは論をまたない。
 古い家や古い家柄、また内面の成熟についての言葉など、ほとんど直接に『マルテ』 を感じさせるところもあるが、魂や肉体、また沈黙や音楽をめぐっての対話の声であるアレクシスは、すでに彼女のアレクシス以外の何者でもない。

 詩とは、不意に噴出するもの、噴き出して時間を一気に無化しようとするエネルギーだ。そしてそのマグマは魂の注意深さとして、人の内面の奥底に息づいている。
 詩を、内面の、魂の動きとして受けとめることによって、ユルスナールは、詩が吹き飛ばしたがる時間を、人間の成熟の時間、物語の時間に転化し、そのことによって小説という散文は厚さと深さを持った、とは言えないだろうか。詩の空間性をも、しみこませつつ。
 そういえば、『青の物語』 のもう一編「初めての夜」では、ホテルの窓から見えるレマン湖という空間が、主人公の男の現在と未来、そして過去の時間と重なるように広がっているのだった。

(よしだ・かなこ)

ジャンル

シリーズ

  • 教育機関のオンライン授業における教科書のご利用について
  • じんぶん堂
  • エクス・リブリス
  • ニューエクスプレスプラス
  • 地図から探す 語学書ラインナップ
  • webふらんす